佐野誠一の退職代行事件は、解決金の支払いと労基署の立ち入りで一区切りついた。
一区切りついた。
ついたはずだった。
「高梨さん」
浜松鎮守府の執務室で、鷹取修平が青い顔をしてスマートフォンを差し出した。
湊は紅茶を飲みながら、穏やかに首を傾げた。
「どうしました、鷹取さん」
「佐野さんの元同僚の方から、相談が来ています」
「退職希望ですか?」
「はい」
「未払い賃金も?」
「はい」
「何件ですか?」
鷹取は少しだけ目を逸らした。
「現時点で、十一件です」
湊の手が止まった。
結有は椅子から半分立ち上がった。
「十一!?」
暁が叫ぶ。
「それもう会社じゃなくて収容所じゃない!」
アイがぽつりと言った。
「深海より人を沈める」
「アイ、それ前回も言ったけど、だいぶ合ってるのが嫌なのよ!」
最上が別の端末を見ながら苦笑した。
「あ、増えた。十三件」
「増えるな!」
結有が頭を抱えた。
神通は静かに湊を見た。
「高梨さん」
「はい」
「全部受けるつもりではありませんね」
湊はにこりと笑った。
「もちろんです」
神通の目が細くなる。
「その笑顔は、全部受ける人の笑顔です」
「いえ、今回は受けません。正確には、初期整理だけして、適切な法律事務所へつなぎます」
鷹取が明らかにほっとした顔をした。
結有が首を傾げる。
「湊さんがやらないんですか?」
「私が全件受ければ、富士田子の浦鎮守府が止まります」
「それは困ります」
「私も困ります」
湊はファイルを閉じた。
「佐野さんの件は、提督適性者保護と退職妨害が重なったので、艦娘本部案件として直接関与しました。ただ、元同僚の皆さん全員について、私が代理人になるのは職務上も時間的にも無理があります」
アイが言った。
「湊、過労になる」
「なりません」
神通が静かに言った。
「なりかけています」
「神通ちゃん?」
「ちゃん付けしても駄目です」
湊は少しだけ目を逸らした。
暁が腰に手を当てる。
「人に『六百働くな』って書いた人が、自分で六百働いたら怒るわよ!」
結有も頷く。
「そうですよ。湊さんが倒れたら、鷹取さんが泣きます」
鷹取が咳き込んだ。
「なっ、各務原提督」
「泣かないんですか?」
「……状況によります」
アイが真顔で言った。
「泣く」
「断定しないでください」
湊は小さく笑った。
それから、端末を取り出した。
「ですので、今回は斡旋します」
「斡旋?」
「司法修習でお世話になった先生がいます。岡野弁護士です」
結有が瞬きをした。
「司法修習でお世話になった弁護士さん」
「はい。アトム法律事務所を紹介します。退職代行、労務相談、未払い賃金請求の初期対応について、まとめて相談できるよう調整します」
最上が感心したように言った。
「外部リソース投入だ」
「兵站です」
湊が即答する。
暁が頭を抱えた。
「また兵站って言った!」
湊は穏やかに続けた。
「戦場でも法務でも、全部を自分で抱える人は早く潰れます。救える人を増やすには、適切な専門家へ適切につなぐことも戦略です」
神通はようやく頷いた。
「よろしいと思います」
結有が感心している横で、アイがぽつりと言った。
「高梨法律鎮守府」
執務室が止まった。
暁が吹き出した。
「ちょっと、何それ!」
最上が笑いながら机に伏せる。
「富士田子の浦鎮守府、法務部門強すぎ問題」
鷹取が真面目な顔でメモを取りかけ、湊に止められた。
「鷹取さん、記録しなくていいです」
「失礼しました」
結有は腹を抱えて笑った。
「高梨法律鎮守府! 相談料は補給物資ですか?」
「初回相談、しらす丼一杯」
最上が乗る。
「成功報酬、未払い残業代の二割と桜えび」
「やめてください」
湊は笑顔だったが、目だけが少し怖かった。
神通が静かに言った。
「皆さん」
笑いが止まった。
「高梨さんを本当に退職代行窓口にしないように」
「はい」
全員が返事をした。
その日の午後、湊はアトム法律事務所へ連絡を入れた。
端末の向こうで、岡野弁護士は最初こそ軽い調子だった。
『高梨さん? 久しぶりですね。今度は何を沈めたんですか』
「沈めていません。未払い残業代を回収しただけです」
『その言い方、だいたい相手方が半壊している時の言い方ですよ』
「今回は半壊では済まないかもしれません」
『えっ』
湊は資料を送った。
勤務実態。
退職妨害。
未払い賃金。
社宅を使った囲い込み。
複数社員からの相談。
証拠の保存状況。
しばらく沈黙があった。
『……高梨さん』
「はい」
『これ、会社ごと燃えますよ』
「燃やすのではありません。適正に処理します」
『高梨さんがそう言う時、だいたい適正な火力が出ます』
「先生」
『はいはい。分かりました。労務チームにつなぎます。初回相談の導線を作りましょう。相談者が多いなら、まとめて案内文を作ったほうがいい』
「助かります」
『ただし、高梨さん』
「はい」
『あなたが全部抱えないこと。司法修習の時も、できるからって全部背負いに行く癖がありました』
湊は少し黙った。
鷹取が横で小さく頷いた。
神通も無言で見ている。
湊は苦笑した。
「周囲から同じことを言われています」
『でしょうね。いい仲間です』
「はい」
『では、こちらで受けます。艦娘本部絡みで特殊な事情がある人だけ、高梨さん側で一次整理してください。それ以外は法律事務所へ』
「承知しました」
通話が終わると、湊は息を吐いた。
結有がじっと見ていた。
「湊さん」
「はい」
「湊さんにも、湊さんを止める人がいるんですね」
「いますよ」
湊は微笑んだ。
「神通ちゃんとか、鷹取さんとか、岡野先生とか」
神通が静かに言った。
「ちゃん付けは不要です」
「では神通さん」
「よろしい」
アイが湊を見上げる。
「湊も、寝る?」
「今日は寝ます」
暁がすかさず指差した。
「言質取ったわよ!」
最上がメモを掲げる。
「記録済み」
鷹取が真面目に頷く。
「二十二時以降の業務停止を提案します」
「鷹取さんまで」
「副官兼恋人として」
鷹取は言ってから固まった。
執務室の空気が変わった。
結有の目が輝く。
暁が口を押さえる。
アイが学習した単語を検索する顔になる。
神通が目を閉じた。
湊は、にっこり笑った。
「鷹取さん」
「はい」
「反省文です」
「なぜですか」
「公私混同を自白しました」
「先ほど高梨一佐も」
「私はいいんです」
「理不尽です」
「恋人なので」
暁が顔を真っ赤にして叫んだ。
「堂々と言った!」
結有が机を叩いて笑う。
アイが納得したように頷く。
「これが、嫁」
「違うわよ!」
その後、遠州中央流通株式会社の社員向けに、正式な案内が作られた。
退職を希望する場合。
未払い賃金を相談したい場合。
会社から脅しを受けた場合。
私物や書類を返してもらえない場合。
社宅や寮を理由に拘束されている場合。
まず体調を優先すること。
証拠を捨てないこと。
会社と一人で直接交渉しないこと。
必要に応じて外部弁護士へ相談すること。
末尾には、湊の名ではなく、アトム法律事務所の相談窓口が記されていた。
湊はその文面を確認し、少しだけ安心したように頷いた。
「これで、少なくとも私一人に集中することはありません」
結有が言った。
「でも、佐野さんがきっかけになったんですね」
「ええ」
「一人が逃げられるって分かると、他の人も逃げられる」
「その通りです」
湊は静かに言った。
「ブラック企業が一番恐れているのは、社員が辞めることではありません。社員が『辞めてもいい』と知ることです」
神通が頷いた。
「深海棲艦の包囲を破るのと似ていますね」
「ええ。退路が見えると、人は沈まずに済みます」
アイが言った。
「帰り道」
湊は微笑んだ。
「そうです。これも帰り道です」
その夜、浜松鎮守府の非公式日誌には、暁の字でこう書かれた。
『佐野さんの会社から退職相談がたくさん来た。湊さんが全部やろうとしそうで怖かったけど、アトム法律事務所にちゃんとつないだ。偉い。大人でも、抱えすぎは駄目。』
その下に、アイの字。
『高梨法律鎮守府は未設立』
さらに結有の字。
『でも名前は強い。』
神通の字。
『設立しません。』
最後に、鷹取修平の硬い字で追記があった。
『高梨一佐、二十二時に業務終了。確認済み。』
そのさらに下に、湊の美しい字で一文。
『鷹取さん、反省文三枚。』