高梨未来が遺した言葉は、艦娘本部の作戦室に重く沈んでいた。
全ての原因はアイアンボトムサウンド。
鉄底海峡。
ソロモン諸島、ガダルカナル島北方。
かつて無数の艦が沈み、名の通り海底に鉄の残骸を抱え込んだ海。
艦娘にとって、その名はただの地名ではなかった。
記憶であり、傷であり、深海棲艦という現象の底に触れるかもしれない場所だった。
だからこそ、各務原裕二陸将補は、すぐに作戦を出さなかった。
「偵察が先だ」
艦娘本部の会議室で、裕二は短く言った。
「海域情報、深海霊子濃度、通信障害、補給可能地点、退避路、航空支援、潜水脅威、現地天候。何も足りん」
高梨湊一等海佐も同じ意見だった。
「未来が最後に残した言葉です。罠の可能性も、誘導の可能性も、真実である可能性もあります。どれであっても、準備なしに突っ込む理由にはなりません」
彼女の声は穏やかだった。
だが、会議室にいる者の多くは、その穏やかさの下にある疲労と怒りを感じ取っていた。
市ヶ谷。
大貫悟の死。
名古屋壊滅。
第二次東京湾海戦。
未来の死。
どれもまだ乾いていない傷だった。
だから、焦る者が出ることも、裕二と湊は分かっていた。
分かっていたからこそ、正式な命令を出さなかった。
命令が出ない限り、大規模出撃はできない。
少なくとも、普通ならそうだった。
浜松鎮守府では、結有がアイアンボトムサウンドの資料を睨んでいた。
「鉄底海峡……」
アイが横に座る。
「呼んでいる」
「聞こえるの?」
「遠い。海の底。たくさん沈んでいる」
神通が窓際に立っていた。
その表情は硬い。
彼女にとっても、ソロモンの名は軽くない。
艦娘は艦の記憶を持つ。
それは正確な歴史書ではなく、感覚であり、夢であり、時に痛みとして残る。
暁は机の上の地図を見て、少し不安そうに言った。
「遠いわね」
「うん」
結有は頷く。
「遠い。だから、行くならちゃんと準備しないと」
その言葉に、神通がわずかに頷いた。
「結有さんがそう言えるようになったのは、良いことです」
「僕だって成長しますよ」
「飛び蹴りで出撃しないだけでも大きな進歩です」
「そこ基準なんですか」
アイが真顔で言う。
「結有は、ボートから飛ぶ」
「昔の話!」
暁が即座に突っ込む。
「そんなに昔じゃないわよ!」
重い空気の中、少しだけ笑いが生まれた。
だが、その笑いは長く続かなかった。
最上が通信室から駆け込んできた。
「神通さん、結有。緊急」
その声で、全員が表情を変えた。
「四国方面から大規模艦隊が出ています」
神通の目が細くなる。
「命令は」
「本部からは出ていません」
結有は立ち上がった。
「独断?」
最上は苦い顔で頷いた。
「四国連合艦隊。徳島、高松、松山、高知の各鎮守府混成。行き先は、推定アイアンボトムサウンド」
暁が息を飲んだ。
「そんな、まだ準備も」
アイが地図を見つめた。
「食われる」
その一言は、部屋を凍らせた。
艦娘本部からの通信は、すぐに各鎮守府へ飛んだ。
帰投命令。
作戦停止命令。
補給線未確保による危険警告。
深海霊子異常濃度海域への無許可進入禁止。
だが、四国連合艦隊の司令部は応答を渋った。
『本部は東京湾と静岡を優先しすぎている』
『今叩かなければ、次の名古屋が出る』
『深海側中枢を撃てば戦争は終わる』
『犠牲を恐れていては勝てない』
『四国は四国で日本を守る』
それらの通信を聞いた湊は、富士田子の浦鎮守府の作戦室で、静かに目を伏せた。
「願望を、作戦と呼んでいますね」
鷹取修平は言葉を失っていた。
かつて自分も、アイを囮にした逆侵攻作戦を提案し、湊に論破された。
あの時の自分が、別の形で海へ出ている。
そう感じて、背中が冷えた。
裕二は本部から通信に出た。
「四国連合艦隊司令部、即時反転せよ。これは命令だ」
返答は遅れた。
やがて、指揮艦から声が返る。
『各務原陸将補。現場には現場の判断があります』
「その現場判断に、補給線はあるのか」
『……』
「退避路は」
『……』
「敵戦力の確定情報は」
『未来が示した海域です。敵中枢である可能性は高い』
「可能性だけで艦娘を送るな」
裕二の声は低かった。
『我々は、戦争を終わらせるために行くのです』
その言葉に、湊が通信へ割り込んだ。
「戦争を終わらせる作戦には、帰還計画が必要です」
『高梨一佐。あなたは名古屋を見捨てた』
作戦室が静まった。
鷹取の顔色が変わる。
湊は表情を変えなかった。
『我々は見捨てません。敵の本丸を叩く』
「名古屋の件については、私の責任です」
湊は淡々と言った。
「ですが、責任を負うことと、準備不足の出撃を認めることは別です。反転してください」
『あなた方は、いつも止めるだけだ』
通信はそこで切れた。
鷹取が拳を握りしめた。
「高梨一佐」
「追跡を続けてください。通信妨害に入る前に、何度でも帰投命令を送ります」
「はい」
湊は地図を見つめた。
その目は、泣いていなかった。
泣く時間ではなかった。
四国連合艦隊は進んだ。
最初の二日は、順調に見えた。
深海棲艦との小規模接触。
撃退。
損害軽微。
指揮艦からは、勝ち誇ったような報告が入った。
『敵は予想より弱い』
『このまま進撃する』
『本部は悲観的すぎる』
湊はその報告を見て、静かに言った。
「浅瀬です」
鷹取が聞き返す。
「浅瀬?」
「罠の入り口です。敵が本当に中枢を持っているなら、外縁で全力を出す必要はありません。奥へ誘います」
その通りになった。
三日目の夜。
四国連合艦隊は、通信状態が急激に悪化した。
霊子濃度、異常上昇。
電波障害。
妖精さんの視認混乱。
艤装同期不良。
そして、アイアンボトムサウンド周辺海域で、深海棲艦の反応が一気に増えた。
ただ増えたのではない。
海が立ち上がるように。
沈んだものが、沈んだまま手を伸ばすように。
通信記録に、断片的な声が残っている。
『敵、前方だけじゃない』
『下から来る』
『後方にも反応』
『補給艦、応答なし』
『羅針盤が』
『妖精さんが泣いてる』
『撤退路、見えません』
『司令部、指示を』
『司令部、指示を!』
指揮艦は後方にいた。
安全な位置ではない。
だが、前衛よりは遠い。
そして、そこから見えたのは、海域そのものが艦隊を閉じ込める光景だった。
深海棲艦が包囲したのではない。
海が包囲した。
鉄底海峡に沈んだ記憶が、深海の霊子と混ざり、帰還という概念を切断していた。
前に進めば沈む。
後ろに下がっても沈む。
横へ逃げても、そこに沈んだ何かがいる。
艦娘たちは戦った。
それは記録からも分かる。
最後まで砲撃音が残っている。
最後まで救難信号が出ている。
最後まで、誰かが誰かに「帰れ」と叫んでいる。
だが、帰る道がなかった。
作っていなかった。
浜松鎮守府の通信室で、結有はその断片を聞いていた。
神通が横に立っている。
暁は唇を噛んでいる。
アイは目を閉じて、震えていた。
「アイ」
結有が声をかける。
アイは小さく言った。
「海が、食べてる」
「見えるの?」
「見える。たくさん。帰れない。帰りたい。帰れない」
結有はアイの手を握った。
握ることしかできなかった。
出撃命令は出ていない。
助けに行ける距離ではない。
行けば、同じ海に呑まれる。
それが分かる程度には、結有ももう無鉄砲ではなかった。
分かるから、苦しかった。
「神通さん」
「はい」
「僕、今すぐ行きたいです」
「分かっています」
「でも、行っちゃ駄目ですね」
「はい」
神通の声も、わずかに震えていた。
「帰る道のない場所へ、救助の名で入ってはいけません」
結有は歯を食いしばった。
「くそ……っ」
その夜、四国連合艦隊は壊滅した。
全滅ではない。
公式には、そう書かれた。
損害率九十五パーセント。
帰還、ほぼゼロ。
指揮艦一隻のみ、重損状態で生還。
後方で指揮していた一等海佐が乗る艦だった。
その艦が母港に戻った時、甲板に立てる者はほとんどいなかった。
艦娘の名簿には、未帰還の赤い印が並んだ。
護衛艦艇の乗員にも、多数の死者と行方不明者が出た。
指揮官は生きていた。
生きてしまった、と言った方が近かった。
彼は搬送される時、同じ言葉を繰り返していたという。
「撤退を命じた」
「聞こえなかった」
「通信が」
「前衛が」
「私は、後方で全体を」
誰も答えなかった。
答えられなかった。
艦娘本部の会議室で、報告を受けた裕二は、しばらく無言だった。
やがて、机に置かれた帰還者名簿を見た。
「処分は後だ」
声は低かった。
「まず、行方不明者の確認。遺族対応。生還者の治療。海域情報の解析。指揮官の聴取は医師の許可後に行う」
誰かが言った。
「責任追及は」
「逃がさん」
裕二は短く答えた。
「だが、今すぐ吊るしても、沈んだ者は戻らん。必要な順番でやる」
湊はその横で、目を伏せていた。
鷹取は彼女の手が震えていることに気づいた。
だが、湊は崩れなかった。
「高梨一佐」
裕二が呼ぶ。
「はい」
「アイアンボトムサウンド攻略案、白紙から組み直せ」
「承知しました」
「前提は」
湊は顔を上げた。
「準備なき突入者を食う海域です。偵察、遠隔観測、霊子防護、通信冗長化、退避路の確保、段階的前進、後方補給拠点の構築。最低でも三倍、可能なら四倍の戦力。さらに、撤退判断を現場の名誉より上位に置く指揮規則が必要です」
「やれ」
「はい」
その声は静かだった。
だが、鷹取には分かった。
湊は怒っている。
未来にではない。
深海にだけでもない。
独断で艦娘を連れて行った者に。
願望を作戦と呼んだ者に。
帰り道を作らず、勇気という言葉で部下を海へ沈めた者に。
そして、止めきれなかった自分にも。
浜松鎮守府では、その夜、誰も大きな声を出さなかった。
結有は執務室で、四国連合艦隊の未帰還者名簿を見ていた。
知らない名前がほとんどだった。
それでも、名前だった。
数字ではなかった。
アイが隣に座る。
「結有」
「うん」
「行く時は、帰り道を作る」
「うん」
「帰れないなら、行かない」
「うん」
「でも、行く」
結有はアイを見た。
アイの黒い目は、遠い海を見ていた。
「私は、呼ばれている。でも、食われに行くのではない」
結有はゆっくり頷いた。
「僕たちは、帰るために行く」
神通が静かにお茶を置いた。
「そのために、学びます。今回の失敗も、痛みも、全部」
暁が涙を拭きながら言った。
「失敗って言葉で済ませたくないわ」
「済ませません」
神通は答えた。
「だから、記録します」
その日の浜松鎮守府非公式日誌には、最上の筆跡で短く残された。
『四国連合艦隊、アイアンボトムサウンドへ独断出撃。損害率九十五パーセント。帰還ほぼゼロ。指揮艦のみ生還。浜松、出撃せず。出撃できず。結有、初めて「行きたい」と「行ってはいけない」を同時に飲み込む。アイ、海が食べたと言う。神通、記録せよと命じる。暁、泣く。』
その下に、結有の字で一文。
『僕たちは、絶対に帰る道を作る。』
さらにその下に、アイの字。
『鉄底海峡は、敵。海でもある。墓でもある。口でもある。』
最後に、神通の美しい字で締められていた。
『願望を作戦と呼ばないこと。勇気を退路の代わりにしないこと。』