艦隊これくしょん 残響のアイ   作:SAMICO

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第16話 四国連合艦隊、アイアンボトムサウンドへ

 高梨未来が遺した言葉は、艦娘本部の作戦室に重く沈んでいた。

 

 全ての原因はアイアンボトムサウンド。

 

 鉄底海峡。

 ソロモン諸島、ガダルカナル島北方。

 かつて無数の艦が沈み、名の通り海底に鉄の残骸を抱え込んだ海。

 

 艦娘にとって、その名はただの地名ではなかった。

 記憶であり、傷であり、深海棲艦という現象の底に触れるかもしれない場所だった。

 

 だからこそ、各務原裕二陸将補は、すぐに作戦を出さなかった。

 

「偵察が先だ」

 

 艦娘本部の会議室で、裕二は短く言った。

 

「海域情報、深海霊子濃度、通信障害、補給可能地点、退避路、航空支援、潜水脅威、現地天候。何も足りん」

 

 高梨湊一等海佐も同じ意見だった。

 

「未来が最後に残した言葉です。罠の可能性も、誘導の可能性も、真実である可能性もあります。どれであっても、準備なしに突っ込む理由にはなりません」

 

 彼女の声は穏やかだった。

 だが、会議室にいる者の多くは、その穏やかさの下にある疲労と怒りを感じ取っていた。

 

 市ヶ谷。

 大貫悟の死。

 名古屋壊滅。

 第二次東京湾海戦。

 未来の死。

 

 どれもまだ乾いていない傷だった。

 

 だから、焦る者が出ることも、裕二と湊は分かっていた。

 

 分かっていたからこそ、正式な命令を出さなかった。

 命令が出ない限り、大規模出撃はできない。

 

 少なくとも、普通ならそうだった。

 

 浜松鎮守府では、結有がアイアンボトムサウンドの資料を睨んでいた。

 

「鉄底海峡……」

 

 アイが横に座る。

 

「呼んでいる」

 

「聞こえるの?」

 

「遠い。海の底。たくさん沈んでいる」

 

 神通が窓際に立っていた。

 

 その表情は硬い。

 

 彼女にとっても、ソロモンの名は軽くない。

 艦娘は艦の記憶を持つ。

 それは正確な歴史書ではなく、感覚であり、夢であり、時に痛みとして残る。

 

 暁は机の上の地図を見て、少し不安そうに言った。

 

「遠いわね」

 

「うん」

 

 結有は頷く。

 

「遠い。だから、行くならちゃんと準備しないと」

 

 その言葉に、神通がわずかに頷いた。

 

「結有さんがそう言えるようになったのは、良いことです」

 

「僕だって成長しますよ」

 

「飛び蹴りで出撃しないだけでも大きな進歩です」

 

「そこ基準なんですか」

 

 アイが真顔で言う。

 

「結有は、ボートから飛ぶ」

 

「昔の話!」

 

 暁が即座に突っ込む。

 

「そんなに昔じゃないわよ!」

 

 重い空気の中、少しだけ笑いが生まれた。

 

 だが、その笑いは長く続かなかった。

 

 最上が通信室から駆け込んできた。

 

「神通さん、結有。緊急」

 

 その声で、全員が表情を変えた。

 

「四国方面から大規模艦隊が出ています」

 

 神通の目が細くなる。

 

「命令は」

 

「本部からは出ていません」

 

 結有は立ち上がった。

 

「独断?」

 

 最上は苦い顔で頷いた。

 

「四国連合艦隊。徳島、高松、松山、高知の各鎮守府混成。行き先は、推定アイアンボトムサウンド」

 

 暁が息を飲んだ。

 

「そんな、まだ準備も」

 

 アイが地図を見つめた。

 

「食われる」

 

 その一言は、部屋を凍らせた。

 

 艦娘本部からの通信は、すぐに各鎮守府へ飛んだ。

 

 帰投命令。

 作戦停止命令。

 補給線未確保による危険警告。

 深海霊子異常濃度海域への無許可進入禁止。

 

 だが、四国連合艦隊の司令部は応答を渋った。

 

『本部は東京湾と静岡を優先しすぎている』

『今叩かなければ、次の名古屋が出る』

『深海側中枢を撃てば戦争は終わる』

『犠牲を恐れていては勝てない』

『四国は四国で日本を守る』

 

 それらの通信を聞いた湊は、富士田子の浦鎮守府の作戦室で、静かに目を伏せた。

 

「願望を、作戦と呼んでいますね」

 

 鷹取修平は言葉を失っていた。

 

 かつて自分も、アイを囮にした逆侵攻作戦を提案し、湊に論破された。

 あの時の自分が、別の形で海へ出ている。

 

 そう感じて、背中が冷えた。

 

 裕二は本部から通信に出た。

 

「四国連合艦隊司令部、即時反転せよ。これは命令だ」

 

 返答は遅れた。

 

 やがて、指揮艦から声が返る。

 

『各務原陸将補。現場には現場の判断があります』

 

「その現場判断に、補給線はあるのか」

 

『……』

 

「退避路は」

 

『……』

 

「敵戦力の確定情報は」

 

『未来が示した海域です。敵中枢である可能性は高い』

 

「可能性だけで艦娘を送るな」

 

 裕二の声は低かった。

 

『我々は、戦争を終わらせるために行くのです』

 

 その言葉に、湊が通信へ割り込んだ。

 

「戦争を終わらせる作戦には、帰還計画が必要です」

 

『高梨一佐。あなたは名古屋を見捨てた』

 

 作戦室が静まった。

 

 鷹取の顔色が変わる。

 

 湊は表情を変えなかった。

 

『我々は見捨てません。敵の本丸を叩く』

 

「名古屋の件については、私の責任です」

 

 湊は淡々と言った。

 

「ですが、責任を負うことと、準備不足の出撃を認めることは別です。反転してください」

 

『あなた方は、いつも止めるだけだ』

 

 通信はそこで切れた。

 

 鷹取が拳を握りしめた。

 

「高梨一佐」

 

「追跡を続けてください。通信妨害に入る前に、何度でも帰投命令を送ります」

 

「はい」

 

 湊は地図を見つめた。

 

 その目は、泣いていなかった。

 

 泣く時間ではなかった。

 

 四国連合艦隊は進んだ。

 

 最初の二日は、順調に見えた。

 

 深海棲艦との小規模接触。

 撃退。

 損害軽微。

 

 指揮艦からは、勝ち誇ったような報告が入った。

 

『敵は予想より弱い』

『このまま進撃する』

『本部は悲観的すぎる』

 

 湊はその報告を見て、静かに言った。

 

「浅瀬です」

 

 鷹取が聞き返す。

 

「浅瀬?」

 

「罠の入り口です。敵が本当に中枢を持っているなら、外縁で全力を出す必要はありません。奥へ誘います」

 

 その通りになった。

 

 三日目の夜。

 

 四国連合艦隊は、通信状態が急激に悪化した。

 

 霊子濃度、異常上昇。

 電波障害。

 妖精さんの視認混乱。

 艤装同期不良。

 

 そして、アイアンボトムサウンド周辺海域で、深海棲艦の反応が一気に増えた。

 

 ただ増えたのではない。

 

 海が立ち上がるように。

 

 沈んだものが、沈んだまま手を伸ばすように。

 

 通信記録に、断片的な声が残っている。

 

『敵、前方だけじゃない』

『下から来る』

『後方にも反応』

『補給艦、応答なし』

『羅針盤が』

『妖精さんが泣いてる』

『撤退路、見えません』

『司令部、指示を』

『司令部、指示を!』

 

 指揮艦は後方にいた。

 

 安全な位置ではない。

 だが、前衛よりは遠い。

 

 そして、そこから見えたのは、海域そのものが艦隊を閉じ込める光景だった。

 

 深海棲艦が包囲したのではない。

 海が包囲した。

 

 鉄底海峡に沈んだ記憶が、深海の霊子と混ざり、帰還という概念を切断していた。

 

 前に進めば沈む。

 後ろに下がっても沈む。

 横へ逃げても、そこに沈んだ何かがいる。

 

 艦娘たちは戦った。

 

 それは記録からも分かる。

 

 最後まで砲撃音が残っている。

 最後まで救難信号が出ている。

 最後まで、誰かが誰かに「帰れ」と叫んでいる。

 

 だが、帰る道がなかった。

 

 作っていなかった。

 

 浜松鎮守府の通信室で、結有はその断片を聞いていた。

 

 神通が横に立っている。

 暁は唇を噛んでいる。

 アイは目を閉じて、震えていた。

 

「アイ」

 

 結有が声をかける。

 

 アイは小さく言った。

 

「海が、食べてる」

 

「見えるの?」

 

「見える。たくさん。帰れない。帰りたい。帰れない」

 

 結有はアイの手を握った。

 

 握ることしかできなかった。

 

 出撃命令は出ていない。

 助けに行ける距離ではない。

 行けば、同じ海に呑まれる。

 

 それが分かる程度には、結有ももう無鉄砲ではなかった。

 

 分かるから、苦しかった。

 

「神通さん」

 

「はい」

 

「僕、今すぐ行きたいです」

 

「分かっています」

 

「でも、行っちゃ駄目ですね」

 

「はい」

 

 神通の声も、わずかに震えていた。

 

「帰る道のない場所へ、救助の名で入ってはいけません」

 

 結有は歯を食いしばった。

 

「くそ……っ」

 

 その夜、四国連合艦隊は壊滅した。

 

 全滅ではない。

 

 公式には、そう書かれた。

 

 損害率九十五パーセント。

 帰還、ほぼゼロ。

 指揮艦一隻のみ、重損状態で生還。

 

 後方で指揮していた一等海佐が乗る艦だった。

 

 その艦が母港に戻った時、甲板に立てる者はほとんどいなかった。

 艦娘の名簿には、未帰還の赤い印が並んだ。

 護衛艦艇の乗員にも、多数の死者と行方不明者が出た。

 

 指揮官は生きていた。

 

 生きてしまった、と言った方が近かった。

 

 彼は搬送される時、同じ言葉を繰り返していたという。

 

「撤退を命じた」

「聞こえなかった」

「通信が」

「前衛が」

「私は、後方で全体を」

 

 誰も答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

 艦娘本部の会議室で、報告を受けた裕二は、しばらく無言だった。

 

 やがて、机に置かれた帰還者名簿を見た。

 

「処分は後だ」

 

 声は低かった。

 

「まず、行方不明者の確認。遺族対応。生還者の治療。海域情報の解析。指揮官の聴取は医師の許可後に行う」

 

 誰かが言った。

 

「責任追及は」

 

「逃がさん」

 

 裕二は短く答えた。

 

「だが、今すぐ吊るしても、沈んだ者は戻らん。必要な順番でやる」

 

 湊はその横で、目を伏せていた。

 

 鷹取は彼女の手が震えていることに気づいた。

 

 だが、湊は崩れなかった。

 

「高梨一佐」

 

 裕二が呼ぶ。

 

「はい」

 

「アイアンボトムサウンド攻略案、白紙から組み直せ」

 

「承知しました」

 

「前提は」

 

 湊は顔を上げた。

 

「準備なき突入者を食う海域です。偵察、遠隔観測、霊子防護、通信冗長化、退避路の確保、段階的前進、後方補給拠点の構築。最低でも三倍、可能なら四倍の戦力。さらに、撤退判断を現場の名誉より上位に置く指揮規則が必要です」

 

「やれ」

 

「はい」

 

 その声は静かだった。

 

 だが、鷹取には分かった。

 

 湊は怒っている。

 

 未来にではない。

 深海にだけでもない。

 独断で艦娘を連れて行った者に。

 願望を作戦と呼んだ者に。

 帰り道を作らず、勇気という言葉で部下を海へ沈めた者に。

 

 そして、止めきれなかった自分にも。

 

 浜松鎮守府では、その夜、誰も大きな声を出さなかった。

 

 結有は執務室で、四国連合艦隊の未帰還者名簿を見ていた。

 

 知らない名前がほとんどだった。

 

 それでも、名前だった。

 

 数字ではなかった。

 

 アイが隣に座る。

 

「結有」

 

「うん」

 

「行く時は、帰り道を作る」

 

「うん」

 

「帰れないなら、行かない」

 

「うん」

 

「でも、行く」

 

 結有はアイを見た。

 

 アイの黒い目は、遠い海を見ていた。

 

「私は、呼ばれている。でも、食われに行くのではない」

 

 結有はゆっくり頷いた。

 

「僕たちは、帰るために行く」

 

 神通が静かにお茶を置いた。

 

「そのために、学びます。今回の失敗も、痛みも、全部」

 

 暁が涙を拭きながら言った。

 

「失敗って言葉で済ませたくないわ」

 

「済ませません」

 

 神通は答えた。

 

「だから、記録します」

 

 その日の浜松鎮守府非公式日誌には、最上の筆跡で短く残された。

 

『四国連合艦隊、アイアンボトムサウンドへ独断出撃。損害率九十五パーセント。帰還ほぼゼロ。指揮艦のみ生還。浜松、出撃せず。出撃できず。結有、初めて「行きたい」と「行ってはいけない」を同時に飲み込む。アイ、海が食べたと言う。神通、記録せよと命じる。暁、泣く。』

 

 その下に、結有の字で一文。

 

『僕たちは、絶対に帰る道を作る。』

 

 さらにその下に、アイの字。

 

『鉄底海峡は、敵。海でもある。墓でもある。口でもある。』

 

 最後に、神通の美しい字で締められていた。

 

『願望を作戦と呼ばないこと。勇気を退路の代わりにしないこと。』

 

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