艦隊これくしょん 残響のアイ   作:SAMICO

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第17話 結有の見る時雨の夢、結有が願った時雨の霊子との融合と海に浮く能力

 四国連合艦隊壊滅の報は、浜松鎮守府から音を奪った。

 

 廊下を歩く足音が小さくなる。

 食堂の会話が途切れる。

 工廠の工具音まで、どこか遠慮がちになる。

 

 損害率九十五パーセント。

 帰還ほぼゼロ。

 指揮艦のみ生還。

 

 数字は冷たい。

 

 だが、名簿は冷たくなかった。

 

 そこには名前があった。

 艦娘の名。

 自衛官の名。

 妖精さんの見える整備員。

 補給担当。

 通信員。

 まだ正式な提督ではなかった候補者。

 

 結有はその名簿を、最後まで見た。

 

 知らない名前ばかりだった。

 

 それでも、知らないまま沈めていい名前など、一つもなかった。

 

「……僕だったかもしれない」

 

 執務室で、結有はぽつりと言った。

 

 アイが隣に座っている。

 神通は窓際に立っている。

 暁は書類を抱えたまま、何も言えずにいた。

 

「もし、僕が前のままだったら。アイアンボトムサウンドって聞いて、母さんのことも、アイのことも、全部あるって知って。飛び出してたかもしれない」

 

 神通は否定しなかった。

 

 否定できなかった。

 

 結有は無茶をする。

 飛び蹴りで出撃する。

 深海棲艦を殴る。

 軽巡イ級を刺身にしたこともある。

 

 けれど、今の結有は違った。

 

 行きたい、と思いながら、行ってはいけないと分かっている。

 その苦しさを飲み込めるようになっていた。

 

 成長とは、いつも気持ちのよいものではない。

 

「帰り道を作らないといけない」

 

 結有は名簿を閉じた。

 

「でも、帰り道を作るには、僕はまだ海に立てない」

 

 アイが結有を見る。

 

「結有は、泳ぐ?」

 

「泳ぐんじゃ駄目なんだよ」

 

 結有は苦笑した。

 

「僕は提督だ。艦娘じゃない。海の上で、みんなと同じ速度では動けない。ボートがなきゃ出られない。ボートから飛び蹴りはできるけど」

 

「それは禁止」

 

 神通が即座に言った。

 

「分かってます」

 

 結有は両手を上げた。

 

 少しだけ笑いが生まれた。

 

 けれど、すぐに消えた。

 

 アイアンボトムサウンドは、遠い。

 そして、ただ遠いだけではない。

 

 艦隊を食う海。

 帰還を拒む海。

 沈んだものの記憶が、深海棲艦の霊子と混ざった場所。

 

 そこへ行くなら、結有は浜松鎮守府の執務室で命令だけを出すわけにはいかない。

 

 そう思ってしまう自分がいた。

 

 夜。

 

 結有は眠れなかった。

 

 布団に入っても、目の裏に名簿が浮かぶ。

 四国連合艦隊の通信断片が耳に残る。

 アイの「海が食べてる」という声が、何度も戻ってくる。

 

 それでも、いつの間にか意識は落ちた。

 

 夢を見た。

 

 海だった。

 

 暗い海ではない。

 静かな海だった。

 

 波は低く、空は薄い灰色。

 水平線は遠く、世界の端が曖昧に溶けている。

 

 結有は裸足で立っていた。

 

 砂浜ではない。

 

 海の上だった。

 

「……え」

 

 足元を見る。

 

 水面がある。

 沈まない。

 足の裏に、冷たい感触だけがある。

 

 まるで海が、結有の重さを知っていて、それでも受け止めているようだった。

 

「やっと来たね」

 

 声がした。

 

 結有は顔を上げた。

 

 少し離れた海面に、一人の艦娘が立っていた。

 

 時雨。

 

 写真で見た姿。

 神通が語った姿。

 父が、あまり語らなかった姿。

 結有の中に、母としてではなく、遠い残響としてあった姿。

 

 時雨は穏やかに微笑んでいた。

 

「母さん……?」

 

 声が震えた。

 

 時雨は首を傾げる。

 

「母さん、でいいよ。けれど、僕はそれだけじゃない」

 

 その一人称に、結有の胸が詰まった。

 

 僕。

 

 自分と同じ。

 

「君が覚えていない母で、神通が見た最後の僕で、裕二さんが愛した時雨で、ハワイの海で砕けた霊子で、アイの中に残った残響で、君の中に最初からあった小さな波」

 

 時雨は静かに言った。

 

「全部、本当で。全部、少しずつ違う」

 

 結有は一歩踏み出した。

 

 水面が揺れる。

 沈まない。

 

「僕、母さんに会いたかった」

 

「うん」

 

「ずっと、会いたかった」

 

「うん」

 

「でも、何を言えばいいか分からない」

 

 時雨は笑った。

 

「それでいいよ。親子って、たぶん最初からうまく話せるものじゃない」

 

「母さんは、僕を知ってるの?」

 

「知ってる。知らないこともある」

 

「どっち」

 

「君が生まれた時の重さは覚えている。けれど、君が初めて自分で立った日は知らない。君の泣き声は覚えている。けれど、高校でどんな顔をしていたかは知らない」

 

 結有の喉が熱くなった。

 

「ひどいよ」

 

「うん」

 

「母さん、いないんだもん」

 

「うん」

 

「僕が提督になったのも、アイに会ったのも、父さんが陸将補になったのも、梶本先生が死んだのも、全部、母さんはいなかった」

 

「うん」

 

 時雨は否定しない。

 

 言い訳もしない。

 

「ごめんね」

 

 その一言で、結有の目から涙が落ちた。

 

「謝らないでよ」

 

「謝るよ。僕は君を置いていった」

 

「守るためでしょ」

 

「そう。でも、置いていったことは変わらない」

 

 時雨の声は穏やかだった。

 

 その穏やかさが、余計に痛かった。

 

「ハワイで、何があったの」

 

 結有は聞いた。

 

 聞くのが怖かった。

 けれど、聞かなければならなかった。

 

 時雨は遠くを見る。

 

 海の色が変わった。

 

 静かな灰色の海に、炎が混ざる。

 砲声が響く。

 艤装が軋む。

 深海棲艦の叫びが、空を裂く。

 

 結有の前に、別の海が広がった。

 

 ハワイ攻防戦。

 

 時雨の艤装が、白く燃えていた。

 霊子が高まりすぎ、制御限界を越えている。

 リミッタが悲鳴を上げ、妖精さんが必死に止めようとしている。

 

 神通が叫んでいる。

 

 時雨、駄目です。

 出力を落として。

 戻ってください。

 

 時雨は振り返らない。

 

 深海側の中枢らしきものが、海の奥にいた。

 それは形を持っているようで、持っていなかった。

 艦でもあり、穴でもあり、口でもあった。

 

 時雨はそこへ向かった。

 

 圧縮された燃料。

 弾薬。

 艤装の限界出力。

 そして、霊子。

 

 全部を抱えたまま。

 

「あと任せた」

 

 夢の中で、時雨が言った。

 

 次の瞬間、光が海を白く塗り潰した。

 

 結有は息を飲んで目を閉じた。

 

 再び開いた時、静かな海に戻っていた。

 

 時雨は、少し寂しそうに笑っていた。

 

「僕は、暴走した」

 

「違う。母さんは守ったんだ」

 

「守るために、暴走を選んだ」

 

 時雨は言った。

 

「その違いは、大事だよ」

 

 結有は何も言えなかった。

 

「高い霊子は力になる。けれど、意志が強すぎると、艤装も体も置いていかれる。守りたい、帰したい、沈めたい、終わらせたい。強い願いは、時に自分を燃料にしてしまう」

 

 時雨は結有を見た。

 

「君にも、それがある」

 

 結有は拳を握った。

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「分かってるつもり」

 

「つもり、ならまだいい」

 

 時雨は小さく笑った。

 

「分かりきったと思うより、ずっといい」

 

 結有は時雨に近づいた。

 

 水面が揺れる。

 足元から、何かが体に上がってくる。

 

 霊子。

 

 それが自分のものなのか、時雨のものなのか、海のものなのか、分からない。

 

「母さん」

 

「うん」

 

「僕、海に立ちたい」

 

 時雨は静かに結有を見た。

 

「艦娘になりたいの?」

 

「違う」

 

 結有は首を振った。

 

「母さんの代わりになりたいんじゃない。時雨になりたいんじゃない。僕は各務原結有でいたい」

 

「うん」

 

「でも、アイの隣に立ちたい。神通さんたちを後ろから見送るだけじゃなくて、帰り道を作るために、海の上で動きたい」

 

 結有は涙を拭った。

 

「四国連合艦隊の人たちは、帰り道がなかった。僕たちが行く時は、絶対に作る。でも、そのために、僕は海を知らなきゃいけない。机の上の地図だけじゃなくて、足の裏で海を知らなきゃいけない」

 

 時雨は黙って聞いていた。

 

「だから」

 

 結有は、時雨へ手を伸ばした。

 

「母さんの霊子を、僕にください」

 

 海が静まり返った。

 

「危ないよ」

 

 時雨は言った。

 

「知ってる」

 

「僕はそれで砕けた」

 

「知ってる」

 

「神通は、君を見るたびにあの光を思い出す」

 

「……知ってる」

 

「裕二さんは、また失うかもしれないと思う」

 

「分かってる」

 

「アイは、君を止めないかもしれない。だから君が自分で止まらなきゃいけない」

 

「分かってる」

 

 時雨は目を細めた。

 

「それでも?」

 

「それでも」

 

 結有は言った。

 

「僕は、母さんを燃料にしない。母さんの代わりにもならない。母さんを、僕の中で帰る場所にする」

 

 時雨の表情が揺れた。

 

「帰る場所」

 

「うん」

 

「僕は帰れなかったのに?」

 

「だからだよ」

 

 結有はまっすぐ時雨を見た。

 

「母さんが帰れなかったから、僕は帰る。アイも帰す。神通さんも、暁も、みんなも。帰るために、母さんの力がほしい」

 

 長い沈黙。

 

 やがて時雨は、少し困ったように笑った。

 

「君は、裕二さんにも似てるね」

 

「よく言われる」

 

「でも、僕にも似てる」

 

「それは、うれしい」

 

 時雨は結有の手を取った。

 

 冷たくはなかった。

 

 温かくもない。

 

 海の温度だった。

 

「じゃあ、約束して」

 

「何を?」

 

「出力を憎しみに預けないこと。怒りを作戦にしないこと。帰るために殴ること。誰かを帰すために、自分だけ帰らない選択を簡単にしないこと」

 

 結有は頷いた。

 

「約束する」

 

「神通の言うことを聞くこと」

 

「……はい」

 

「そこ、少し間があったね」

 

「聞きます」

 

「アイと相談すること」

 

「うん」

 

「裕二さんに、ちゃんと説明すること」

 

「それは怖い」

 

「怖くても」

 

「……説明する」

 

 時雨は満足そうに頷いた。

 

「なら、いいよ」

 

 次の瞬間、時雨の体が光になった。

 

 爆発ではない。

 

 ハワイで見た白い破滅の光ではない。

 

 静かな、雨のような光だった。

 

 霊子が、結有の手から腕へ、胸へ、背中へ流れ込む。

 

 痛みはなかった。

 

 ただ、重かった。

 

 誰かを守りたかった重さ。

 帰れなかった重さ。

 それでも最後まで前を向いた重さ。

 時雨という艦娘が持っていた、優しさと覚悟の重さ。

 

 結有は膝をつきそうになった。

 

 けれど、海面は沈まない。

 

 時雨の声が聞こえた。

 

「結有」

 

「母さん」

 

「君は僕じゃない」

 

「うん」

 

「君は君だ」

 

「うん」

 

「だから、僕よりうまく帰って」

 

 結有は泣きながら笑った。

 

「任せて」

 

 目が覚めた。

 

 夜明け前だった。

 

 結有は布団の上で、荒く息をしていた。

 

 体が熱い。

 胸の奥で、何かが波打っている。

 

 隣で丸くなっていたアイが、ぱちりと目を開けた。

 

「結有」

 

「アイ」

 

「時雨の匂いがする」

 

 結有は少し笑った。

 

「夢を見た」

 

「知ってる。海が部屋に来た」

 

「えっ」

 

 見ると、床に薄く水が広がっていた。

 

 窓は閉まっている。

 雨も降っていない。

 

 水は結有の足元から広がっていた。

 

 アイはそれを指で触れた。

 

「霊子水」

 

「何それ」

 

「たぶん」

 

「たぶんで新物質を出さないで」

 

 その時、扉が開いた。

 

 神通だった。

 

 彼女は部屋に入った瞬間、動きを止めた。

 

 結有を見る。

 足元の水を見る。

 そして、結有の胸の奥にある霊子の揺らぎを見たのだろう。

 

 顔色が変わった。

 

「結有さん」

 

「神通さん」

 

「何を、しましたか」

 

 結有は布団から出た。

 

 裸足で床に立つ。

 

「母さんに会いました」

 

 神通の目が揺れた。

 

「時雨に」

 

「はい」

 

「……そうですか」

 

「僕、母さんの霊子を受け入れました」

 

 神通の指が震えた。

 

 それは本当に一瞬だった。

 

 だが、結有には見えた。

 

 神通はハワイの光を見ている。

 時雨がリミッタを吹き飛ばし、圧縮された燃料と弾薬ごと、白く砕けた瞬間を。

 

「神通さん」

 

 結有は静かに言った。

 

「僕、母さんにはなりません」

 

 神通は目を閉じた。

 

「……はい」

 

「母さんみたいに爆発もしません」

 

「それは、絶対に守ってください」

 

「はい」

 

「絶対です」

 

「はい」

 

 神通は一歩近づいた。

 

 そして、結有の額に手を当てた。

 

 熱を測るように。

 霊子の流れを確かめるように。

 時雨と結有を、見間違えないように。

 

「あなたは、結有さんです」

 

「はい」

 

「時雨ではありません」

 

「はい」

 

「私の前で、二度と同じ光にならないでください」

 

 その声は、静かだった。

 

 静かすぎて、痛かった。

 

 結有は深く頷いた。

 

「約束します」

 

 朝。

 

 浜松鎮守府の岸壁に、主要メンバーが集まった。

 

 神通。

 暁。

 最上。

 扶桑。

 山城。

 明石。

 アイ。

 そして、通信越しに各務原裕二と高梨湊。

 

 結有は岸壁の端に立っていた。

 

 足元には海。

 

 いつもなら、そこから先は艦娘とアイの領域だった。

 結有はボートに乗るか、桟橋で見送るしかない。

 

 今日は違った。

 

 神通が言う。

 

「無理を感じたら、即座に戻ってください」

 

「はい」

 

 明石が目を輝かせる。

 

「霊子計測器、回してます!」

 

「明石さん、爆発とか言ったら怒ります」

 

「言いません! 今回は!」

 

「今回は?」

 

 暁が睨む。

 

 アイが海面に立って、結有へ手を伸ばした。

 

「来て」

 

 結有は息を吸った。

 

 時雨の霊子が胸の奥で揺れる。

 

 守りたい。

 帰したい。

 でも、燃え尽きない。

 

 帰るために。

 

 結有は一歩、海へ踏み出した。

 

 水面が足を受け止めた。

 

 沈まなかった。

 

 浜松鎮守府の全員が息を飲んだ。

 

 二歩目。

 

 揺れる。

 だが、立てる。

 

 三歩目。

 

 結有は海の上にいた。

 

 アイの隣に。

 

「……立てた」

 

 結有の声が震える。

 

 アイが手を握った。

 

「結有、海」

 

「うん」

 

「脳筋、進化」

 

「もう少し感動的な言い方ない?」

 

 暁が岸壁で叫んだ。

 

「すごいわ! すごいけど、調子に乗ったら駄目よ!」

 

「分かってる!」

 

 明石が計測器を見ながら興奮している。

 

「すごいです! 艦娘化ではなく、人間の霊子による限定海面干渉! これは新理論が」

 

 神通が静かに言った。

 

「明石さん」

 

「はい」

 

「リミッタを最優先で」

 

「はい!」

 

 通信の向こうで、裕二はしばらく無言だった。

 

 結有は緊張した。

 

「父さん」

 

『結有』

 

「うん」

 

『帰ってこい』

 

 それだけだった。

 

 結有は泣きそうになった。

 

「うん。帰る」

 

 湊の声も通信に入る。

 

『結有さん。おめでとうございます。ただし、これは戦力増強である前に、管理すべき危険です』

 

「はい」

 

『あなたが海に立てることと、海があなたを許したことは違います』

 

「分かります」

 

『では、訓練計画を作りましょう。三倍、四倍とは言いませんが、監視は多めにします』

 

「湊さん、それ見張りですよね」

 

『はい』

 

 アイが結有の手を握ったまま言った。

 

「私も見る」

 

 神通が岸壁から続ける。

 

「私も見ます」

 

 暁が手を挙げた。

 

「私も!」

 

 最上も笑った。

 

「僕も記録するよ」

 

 結有は海の上で、みんなを見た。

 

 時雨の霊子が胸の奥にある。

 

 けれど、結有は時雨ではない。

 

 各務原結有。

 

 十八歳。

 提督。

 脳筋。

 刺身提督。

 母を失い、師を失い、それでも帰る道を作ろうとする者。

 

 そして今、海に立つ者。

 

 結有はアイと並んで、朝の海を見た。

 

 遠い南の海に、鉄底海峡がある。

 

 そこは墓であり、口であり、敵であり、答えの入口だ。

 

 けれど、今の結有は前より少しだけ違う。

 

 見送るだけではない。

 飛び出すだけでもない。

 

 帰るために、海へ出る。

 

 その日の浜松鎮守府非公式日誌には、最上の筆跡でこう残された。

 

『結有、時雨の夢を見る。時雨の霊子を自ら望んで受け入れ、限定的に海面へ立つ能力を得る。艦娘化ではなく、人間としての霊子干渉らしい。神通さん、怖い顔。明石さん、嬉しい顔。裕二陸将補、通信越しに「帰ってこい」。アイ、結有の手を離さず。暁、泣きながら怒る。』

 

 その下に、結有の字で一文。

 

『僕は母さんじゃない。でも、母さんと一緒に帰る。』

 

 さらにその下に、アイの字。

 

『結有は海に立った。嫁、強い。』

 

 最後に、神通の美しい字で追記があった。

 

『リミッタ管理を最優先。時雨を繰り返させない。絶対に。』

 

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