四国連合艦隊壊滅の報は、浜松鎮守府から音を奪った。
廊下を歩く足音が小さくなる。
食堂の会話が途切れる。
工廠の工具音まで、どこか遠慮がちになる。
損害率九十五パーセント。
帰還ほぼゼロ。
指揮艦のみ生還。
数字は冷たい。
だが、名簿は冷たくなかった。
そこには名前があった。
艦娘の名。
自衛官の名。
妖精さんの見える整備員。
補給担当。
通信員。
まだ正式な提督ではなかった候補者。
結有はその名簿を、最後まで見た。
知らない名前ばかりだった。
それでも、知らないまま沈めていい名前など、一つもなかった。
「……僕だったかもしれない」
執務室で、結有はぽつりと言った。
アイが隣に座っている。
神通は窓際に立っている。
暁は書類を抱えたまま、何も言えずにいた。
「もし、僕が前のままだったら。アイアンボトムサウンドって聞いて、母さんのことも、アイのことも、全部あるって知って。飛び出してたかもしれない」
神通は否定しなかった。
否定できなかった。
結有は無茶をする。
飛び蹴りで出撃する。
深海棲艦を殴る。
軽巡イ級を刺身にしたこともある。
けれど、今の結有は違った。
行きたい、と思いながら、行ってはいけないと分かっている。
その苦しさを飲み込めるようになっていた。
成長とは、いつも気持ちのよいものではない。
「帰り道を作らないといけない」
結有は名簿を閉じた。
「でも、帰り道を作るには、僕はまだ海に立てない」
アイが結有を見る。
「結有は、泳ぐ?」
「泳ぐんじゃ駄目なんだよ」
結有は苦笑した。
「僕は提督だ。艦娘じゃない。海の上で、みんなと同じ速度では動けない。ボートがなきゃ出られない。ボートから飛び蹴りはできるけど」
「それは禁止」
神通が即座に言った。
「分かってます」
結有は両手を上げた。
少しだけ笑いが生まれた。
けれど、すぐに消えた。
アイアンボトムサウンドは、遠い。
そして、ただ遠いだけではない。
艦隊を食う海。
帰還を拒む海。
沈んだものの記憶が、深海棲艦の霊子と混ざった場所。
そこへ行くなら、結有は浜松鎮守府の執務室で命令だけを出すわけにはいかない。
そう思ってしまう自分がいた。
夜。
結有は眠れなかった。
布団に入っても、目の裏に名簿が浮かぶ。
四国連合艦隊の通信断片が耳に残る。
アイの「海が食べてる」という声が、何度も戻ってくる。
それでも、いつの間にか意識は落ちた。
夢を見た。
海だった。
暗い海ではない。
静かな海だった。
波は低く、空は薄い灰色。
水平線は遠く、世界の端が曖昧に溶けている。
結有は裸足で立っていた。
砂浜ではない。
海の上だった。
「……え」
足元を見る。
水面がある。
沈まない。
足の裏に、冷たい感触だけがある。
まるで海が、結有の重さを知っていて、それでも受け止めているようだった。
「やっと来たね」
声がした。
結有は顔を上げた。
少し離れた海面に、一人の艦娘が立っていた。
時雨。
写真で見た姿。
神通が語った姿。
父が、あまり語らなかった姿。
結有の中に、母としてではなく、遠い残響としてあった姿。
時雨は穏やかに微笑んでいた。
「母さん……?」
声が震えた。
時雨は首を傾げる。
「母さん、でいいよ。けれど、僕はそれだけじゃない」
その一人称に、結有の胸が詰まった。
僕。
自分と同じ。
「君が覚えていない母で、神通が見た最後の僕で、裕二さんが愛した時雨で、ハワイの海で砕けた霊子で、アイの中に残った残響で、君の中に最初からあった小さな波」
時雨は静かに言った。
「全部、本当で。全部、少しずつ違う」
結有は一歩踏み出した。
水面が揺れる。
沈まない。
「僕、母さんに会いたかった」
「うん」
「ずっと、会いたかった」
「うん」
「でも、何を言えばいいか分からない」
時雨は笑った。
「それでいいよ。親子って、たぶん最初からうまく話せるものじゃない」
「母さんは、僕を知ってるの?」
「知ってる。知らないこともある」
「どっち」
「君が生まれた時の重さは覚えている。けれど、君が初めて自分で立った日は知らない。君の泣き声は覚えている。けれど、高校でどんな顔をしていたかは知らない」
結有の喉が熱くなった。
「ひどいよ」
「うん」
「母さん、いないんだもん」
「うん」
「僕が提督になったのも、アイに会ったのも、父さんが陸将補になったのも、梶本先生が死んだのも、全部、母さんはいなかった」
「うん」
時雨は否定しない。
言い訳もしない。
「ごめんね」
その一言で、結有の目から涙が落ちた。
「謝らないでよ」
「謝るよ。僕は君を置いていった」
「守るためでしょ」
「そう。でも、置いていったことは変わらない」
時雨の声は穏やかだった。
その穏やかさが、余計に痛かった。
「ハワイで、何があったの」
結有は聞いた。
聞くのが怖かった。
けれど、聞かなければならなかった。
時雨は遠くを見る。
海の色が変わった。
静かな灰色の海に、炎が混ざる。
砲声が響く。
艤装が軋む。
深海棲艦の叫びが、空を裂く。
結有の前に、別の海が広がった。
ハワイ攻防戦。
時雨の艤装が、白く燃えていた。
霊子が高まりすぎ、制御限界を越えている。
リミッタが悲鳴を上げ、妖精さんが必死に止めようとしている。
神通が叫んでいる。
時雨、駄目です。
出力を落として。
戻ってください。
時雨は振り返らない。
深海側の中枢らしきものが、海の奥にいた。
それは形を持っているようで、持っていなかった。
艦でもあり、穴でもあり、口でもあった。
時雨はそこへ向かった。
圧縮された燃料。
弾薬。
艤装の限界出力。
そして、霊子。
全部を抱えたまま。
「あと任せた」
夢の中で、時雨が言った。
次の瞬間、光が海を白く塗り潰した。
結有は息を飲んで目を閉じた。
再び開いた時、静かな海に戻っていた。
時雨は、少し寂しそうに笑っていた。
「僕は、暴走した」
「違う。母さんは守ったんだ」
「守るために、暴走を選んだ」
時雨は言った。
「その違いは、大事だよ」
結有は何も言えなかった。
「高い霊子は力になる。けれど、意志が強すぎると、艤装も体も置いていかれる。守りたい、帰したい、沈めたい、終わらせたい。強い願いは、時に自分を燃料にしてしまう」
時雨は結有を見た。
「君にも、それがある」
結有は拳を握った。
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるつもり」
「つもり、ならまだいい」
時雨は小さく笑った。
「分かりきったと思うより、ずっといい」
結有は時雨に近づいた。
水面が揺れる。
足元から、何かが体に上がってくる。
霊子。
それが自分のものなのか、時雨のものなのか、海のものなのか、分からない。
「母さん」
「うん」
「僕、海に立ちたい」
時雨は静かに結有を見た。
「艦娘になりたいの?」
「違う」
結有は首を振った。
「母さんの代わりになりたいんじゃない。時雨になりたいんじゃない。僕は各務原結有でいたい」
「うん」
「でも、アイの隣に立ちたい。神通さんたちを後ろから見送るだけじゃなくて、帰り道を作るために、海の上で動きたい」
結有は涙を拭った。
「四国連合艦隊の人たちは、帰り道がなかった。僕たちが行く時は、絶対に作る。でも、そのために、僕は海を知らなきゃいけない。机の上の地図だけじゃなくて、足の裏で海を知らなきゃいけない」
時雨は黙って聞いていた。
「だから」
結有は、時雨へ手を伸ばした。
「母さんの霊子を、僕にください」
海が静まり返った。
「危ないよ」
時雨は言った。
「知ってる」
「僕はそれで砕けた」
「知ってる」
「神通は、君を見るたびにあの光を思い出す」
「……知ってる」
「裕二さんは、また失うかもしれないと思う」
「分かってる」
「アイは、君を止めないかもしれない。だから君が自分で止まらなきゃいけない」
「分かってる」
時雨は目を細めた。
「それでも?」
「それでも」
結有は言った。
「僕は、母さんを燃料にしない。母さんの代わりにもならない。母さんを、僕の中で帰る場所にする」
時雨の表情が揺れた。
「帰る場所」
「うん」
「僕は帰れなかったのに?」
「だからだよ」
結有はまっすぐ時雨を見た。
「母さんが帰れなかったから、僕は帰る。アイも帰す。神通さんも、暁も、みんなも。帰るために、母さんの力がほしい」
長い沈黙。
やがて時雨は、少し困ったように笑った。
「君は、裕二さんにも似てるね」
「よく言われる」
「でも、僕にも似てる」
「それは、うれしい」
時雨は結有の手を取った。
冷たくはなかった。
温かくもない。
海の温度だった。
「じゃあ、約束して」
「何を?」
「出力を憎しみに預けないこと。怒りを作戦にしないこと。帰るために殴ること。誰かを帰すために、自分だけ帰らない選択を簡単にしないこと」
結有は頷いた。
「約束する」
「神通の言うことを聞くこと」
「……はい」
「そこ、少し間があったね」
「聞きます」
「アイと相談すること」
「うん」
「裕二さんに、ちゃんと説明すること」
「それは怖い」
「怖くても」
「……説明する」
時雨は満足そうに頷いた。
「なら、いいよ」
次の瞬間、時雨の体が光になった。
爆発ではない。
ハワイで見た白い破滅の光ではない。
静かな、雨のような光だった。
霊子が、結有の手から腕へ、胸へ、背中へ流れ込む。
痛みはなかった。
ただ、重かった。
誰かを守りたかった重さ。
帰れなかった重さ。
それでも最後まで前を向いた重さ。
時雨という艦娘が持っていた、優しさと覚悟の重さ。
結有は膝をつきそうになった。
けれど、海面は沈まない。
時雨の声が聞こえた。
「結有」
「母さん」
「君は僕じゃない」
「うん」
「君は君だ」
「うん」
「だから、僕よりうまく帰って」
結有は泣きながら笑った。
「任せて」
目が覚めた。
夜明け前だった。
結有は布団の上で、荒く息をしていた。
体が熱い。
胸の奥で、何かが波打っている。
隣で丸くなっていたアイが、ぱちりと目を開けた。
「結有」
「アイ」
「時雨の匂いがする」
結有は少し笑った。
「夢を見た」
「知ってる。海が部屋に来た」
「えっ」
見ると、床に薄く水が広がっていた。
窓は閉まっている。
雨も降っていない。
水は結有の足元から広がっていた。
アイはそれを指で触れた。
「霊子水」
「何それ」
「たぶん」
「たぶんで新物質を出さないで」
その時、扉が開いた。
神通だった。
彼女は部屋に入った瞬間、動きを止めた。
結有を見る。
足元の水を見る。
そして、結有の胸の奥にある霊子の揺らぎを見たのだろう。
顔色が変わった。
「結有さん」
「神通さん」
「何を、しましたか」
結有は布団から出た。
裸足で床に立つ。
「母さんに会いました」
神通の目が揺れた。
「時雨に」
「はい」
「……そうですか」
「僕、母さんの霊子を受け入れました」
神通の指が震えた。
それは本当に一瞬だった。
だが、結有には見えた。
神通はハワイの光を見ている。
時雨がリミッタを吹き飛ばし、圧縮された燃料と弾薬ごと、白く砕けた瞬間を。
「神通さん」
結有は静かに言った。
「僕、母さんにはなりません」
神通は目を閉じた。
「……はい」
「母さんみたいに爆発もしません」
「それは、絶対に守ってください」
「はい」
「絶対です」
「はい」
神通は一歩近づいた。
そして、結有の額に手を当てた。
熱を測るように。
霊子の流れを確かめるように。
時雨と結有を、見間違えないように。
「あなたは、結有さんです」
「はい」
「時雨ではありません」
「はい」
「私の前で、二度と同じ光にならないでください」
その声は、静かだった。
静かすぎて、痛かった。
結有は深く頷いた。
「約束します」
朝。
浜松鎮守府の岸壁に、主要メンバーが集まった。
神通。
暁。
最上。
扶桑。
山城。
明石。
アイ。
そして、通信越しに各務原裕二と高梨湊。
結有は岸壁の端に立っていた。
足元には海。
いつもなら、そこから先は艦娘とアイの領域だった。
結有はボートに乗るか、桟橋で見送るしかない。
今日は違った。
神通が言う。
「無理を感じたら、即座に戻ってください」
「はい」
明石が目を輝かせる。
「霊子計測器、回してます!」
「明石さん、爆発とか言ったら怒ります」
「言いません! 今回は!」
「今回は?」
暁が睨む。
アイが海面に立って、結有へ手を伸ばした。
「来て」
結有は息を吸った。
時雨の霊子が胸の奥で揺れる。
守りたい。
帰したい。
でも、燃え尽きない。
帰るために。
結有は一歩、海へ踏み出した。
水面が足を受け止めた。
沈まなかった。
浜松鎮守府の全員が息を飲んだ。
二歩目。
揺れる。
だが、立てる。
三歩目。
結有は海の上にいた。
アイの隣に。
「……立てた」
結有の声が震える。
アイが手を握った。
「結有、海」
「うん」
「脳筋、進化」
「もう少し感動的な言い方ない?」
暁が岸壁で叫んだ。
「すごいわ! すごいけど、調子に乗ったら駄目よ!」
「分かってる!」
明石が計測器を見ながら興奮している。
「すごいです! 艦娘化ではなく、人間の霊子による限定海面干渉! これは新理論が」
神通が静かに言った。
「明石さん」
「はい」
「リミッタを最優先で」
「はい!」
通信の向こうで、裕二はしばらく無言だった。
結有は緊張した。
「父さん」
『結有』
「うん」
『帰ってこい』
それだけだった。
結有は泣きそうになった。
「うん。帰る」
湊の声も通信に入る。
『結有さん。おめでとうございます。ただし、これは戦力増強である前に、管理すべき危険です』
「はい」
『あなたが海に立てることと、海があなたを許したことは違います』
「分かります」
『では、訓練計画を作りましょう。三倍、四倍とは言いませんが、監視は多めにします』
「湊さん、それ見張りですよね」
『はい』
アイが結有の手を握ったまま言った。
「私も見る」
神通が岸壁から続ける。
「私も見ます」
暁が手を挙げた。
「私も!」
最上も笑った。
「僕も記録するよ」
結有は海の上で、みんなを見た。
時雨の霊子が胸の奥にある。
けれど、結有は時雨ではない。
各務原結有。
十八歳。
提督。
脳筋。
刺身提督。
母を失い、師を失い、それでも帰る道を作ろうとする者。
そして今、海に立つ者。
結有はアイと並んで、朝の海を見た。
遠い南の海に、鉄底海峡がある。
そこは墓であり、口であり、敵であり、答えの入口だ。
けれど、今の結有は前より少しだけ違う。
見送るだけではない。
飛び出すだけでもない。
帰るために、海へ出る。
その日の浜松鎮守府非公式日誌には、最上の筆跡でこう残された。
『結有、時雨の夢を見る。時雨の霊子を自ら望んで受け入れ、限定的に海面へ立つ能力を得る。艦娘化ではなく、人間としての霊子干渉らしい。神通さん、怖い顔。明石さん、嬉しい顔。裕二陸将補、通信越しに「帰ってこい」。アイ、結有の手を離さず。暁、泣きながら怒る。』
その下に、結有の字で一文。
『僕は母さんじゃない。でも、母さんと一緒に帰る。』
さらにその下に、アイの字。
『結有は海に立った。嫁、強い。』
最後に、神通の美しい字で追記があった。
『リミッタ管理を最優先。時雨を繰り返させない。絶対に。』