結有が海に立った翌日、世界はそれを知らなかった。
浜松鎮守府の岸壁で起きた小さな奇跡は、正式には「高霊子適性者による限定的海面干渉現象」と記録された。
明石は「人間提督海上機動化第一例」と書きたがったが、神通に赤ペンで消された。
結有は「なんか僕が改造されたみたいで嫌だ」と言い、アイは「結有、浮く脳筋」と評価した。
暁は「評価しないで!」と怒った。
だが、その裏で、艦娘本部は動いていた。
四国連合艦隊壊滅。
帰還ほぼゼロ。
損害率九十五パーセント。
そして、未来の最期の言葉。
全ての原因はアイアンボトムサウンド。
もう、日本だけで抱えられる段階ではなかった。
市ヶ谷の地下深く。
大貫悟が使っていた艦娘本部作戦会議室は、各務原裕二陸将補の指揮下で再整備されていた。
壁一面に世界地図。
中央には太平洋の立体海域図。
南太平洋、ソロモン諸島、ガダルカナル、そしてアイアンボトムサウンド。
そこに、各国の代表が集まっていた。
日本艦娘本部。
米国艦娘司令部。
英国海峡鎮守府。
豪州南太平洋艦娘戦隊。
欧州共同護衛艦娘群。
インド洋方面艦娘連絡部。
国連艦娘多国籍艦隊司令部。
人間の将官、外交官、作戦参謀。
そして、艦娘たち。
大和。
神通。
川内。
那珂。
暁。
扶桑。
山城。
最上。
米国代表の空母艦娘。
英国代表の戦艦艦娘。
豪州方面の軽巡艦娘。
それぞれが、それぞれの国の海を背負っていた。
結有は、会議室の端で少し緊張していた。
正式提督とはいえ、十八歳。
しかも周囲は各国代表。
普段の浜松鎮守府なら「脳筋提督」で済むが、ここで飛び蹴りの話など出たら国際問題である。
アイは隣に立っている。
白い髪。
無表情。
どの国の艦娘でもない。
深海でもあり、艦娘でもあり、時雨の残響を宿す存在。
各国代表の視線は、何度もアイへ向かった。
警戒。
興味。
恐怖。
期待。
アイはそれらを見返して、短く言った。
「見るな」
結有が慌てて小声で言う。
「アイ、国際会議だから」
「見世物ではない」
「それはそう」
神通が静かに二人の前に立った。
視線のいくつかが外れる。
神通は何も言わなかった。
ただ立つだけで、かなりの国際的圧があった。
やがて、会議室前方に裕二が立った。
「艦娘本部長、各務原裕二だ」
短い自己紹介だった。
「本日の議題は、アイアンボトムサウンドに対する合同反攻作戦である」
会議室が静まる。
「まず前提を共有する。深海提督・高梨未来は、第二次東京湾海戦で撃破される直前、『全ての原因はアイアンボトムサウンド』と言い残した。四国連合艦隊は、中央命令を待たず独断出撃し、壊滅した」
裕二はそこで一度、言葉を切った。
「この二つを混同してはならん。鉄底海峡に原因がある可能性は高い。だが、準備なしに突入すれば死ぬことも、同時に証明された」
米国代表の将官が腕を組んだ。
「では、日本本部は反攻を遅らせるつもりか」
裕二は即答した。
「違う。勝つために準備する」
湊がその横に立った。
高梨湊一等海佐。
柔らかな雰囲気。
穏やかな声。
だが、会議室の誰も、彼女をただの若い女性とは見ていなかった。
東京湾を救った女。
名古屋を切った女。
未来を腕の中で看取った女。
そして、戦略・兵站・法務・統治を一つの机で扱う女。
湊は静かに頭を下げた。
「高梨湊です。本作戦案を説明します」
画面が切り替わる。
作戦名。
『国連艦娘多国籍艦隊合同反攻作戦』
『作戦符号:リターン・ライン』
結有はその名前を見て、小さく息を飲んだ。
帰還線。
湊らしい名前だった。
「本作戦の目的は三段階です」
湊は指示棒を動かした。
「第一。アイアンボトムサウンド周辺の深海霊子中枢構造を確認すること」
海域図に、偵察線が表示される。
「第二。可能であれば中枢へ打撃を加え、深海棲艦の広域指揮能力を低下させること」
次に、補給拠点と通信中継線。
「第三。失敗した場合でも、艦娘と人員を帰還させ、次の作戦に繋がる情報を持ち帰ること」
英国代表の戦艦艦娘が眉を上げた。
「成功条件に撤退を含めるのか」
「はい」
湊は微笑んだ。
「帰還できない偵察は、情報ではなく遺言になります」
会議室の空気が少し変わった。
厳しい言葉だった。
だが、四国連合艦隊の直後だからこそ、誰も軽く扱えなかった。
湊は続ける。
「作戦は四段階です」
第一段階。
遠隔偵察。
無人観測ブイ、妖精さん搭載霊子観測機、潜水艦娘による外縁偵察。
ただし、一定濃度以上の深海霊子を検知した場合は即時撤退。
名誉による継続は禁止。
第二段階。
前進補給拠点構築。
豪州北東、ソロモン外縁、複数の浮体補給基地。
米国、豪州、日本、英国が分担。
補給艦娘と妖精さん工廠を前進配置するが、単独孤立させない。
第三段階。
霊子通信中継線設置。
深海霊子による通信断絶を防ぐため、艦娘の霊子波長に合わせた中継艦を配置。
この任務には高練度の軽巡、駆逐、通信妖精隊を組み合わせる。
第四段階。
主力接触および中枢打撃。
大和を中心とする主力艦娘隊。
米英空母艦娘による航空霊子支援。
川内、神通、那珂を含む夜戦・近接戦群。
そして、結有とアイによる中枢接触班。
そこまで説明した時、会議室の視線が結有に集まった。
結有は背筋を伸ばした。
逃げたくはなかった。
だが、正直に言えば怖かった。
湊は言った。
「各務原結有提督は、時雨由来の霊子融合により、限定的に海上行動が可能となりました。アイさんは深海・艦娘双方の霊子構造を持ちます。この二名は、アイアンボトムサウンド中枢に対する接触可能性が最も高い」
米国代表が鋭い声で聞いた。
「つまり、十八歳の提督と正体不明個体を中枢へ送ると?」
裕二の目がわずかに鋭くなった。
だが、湊が先に答えた。
「送るのではありません。二人が行く以外に、中枢が応答しない可能性が高いと判断しています」
「危険すぎる」
「危険です」
湊は否定しなかった。
「だから、多国籍艦隊全体で帰還線を作ります。彼女たちを英雄として投げる作戦ではありません。彼女たちが接触し、情報を掴み、必要な打撃を行い、帰還するために、世界中の艦娘で道を作る作戦です」
会議室が沈黙した。
アイが小さく言った。
「私は行く」
結有も続けた。
「僕も行きます」
神通が後ろでわずかに息を止めた。
結有は続けた。
「でも、勝手には行きません。帰る道がないなら行かない。帰る道を作るために、みんなの力を借ります」
暁が隣で小さく頷いた。
結有の声は震えていなかった。
「四国連合艦隊の人たちを、無駄だったとは言いたくありません。でも、同じことをしたら、本当に無駄にしてしまう。だから僕は、帰るために行きます」
大和が静かに目を伏せた。
米国の空母艦娘が、少しだけ表情を和らげた。
英国の戦艦艦娘が言った。
「帰還を成功条件に含める反攻作戦。悪くない」
豪州代表が頷く。
「前進補給拠点はこちらが主導できる。南太平洋は我々の庭でもある」
米国代表はまだ渋い顔だったが、資料に目を戻した。
「航空支援と広域索敵は出せる。ただし、多国籍指揮系統は誰が握る」
その問いに、裕二が答えた。
「国連艦娘多国籍艦隊総指揮官代行を置く」
会議室がざわついた。
裕二は湊を見た。
「高梨湊一等海佐を任じる」
結有は思わず湊を見た。
湊は、驚いていなかった。
事前に知っていたのだろう。
だが、その表情は少しだけ重かった。
米国代表が言う。
「日本の一佐が、多国籍艦隊の総指揮官代行?」
裕二は頷いた。
「不満はあるだろう。だが、東京湾で未来の狙いを読み、名古屋を切ってでも中枢崩壊を防いだ。鉄底海峡への無謀突入を最も嫌う。兵站、撤退、戦力集中を同時に見られる。適任だ」
湊が一歩前に出た。
「私からも条件があります」
会議室が静まる。
「第一に、撤退判断は現地指揮官の名誉より上位とします。撤退命令を拒否した部隊は、以後の作戦指揮権を剥奪します」
誰も笑わなかった。
「第二に、独断突入を禁止します。国籍、階級、艦種を問わず、帰還線を外れた進撃は作戦違反です」
湊の声は静かだった。
「第三に、結有さんとアイさんを特攻戦力として扱うことを禁じます。二人は中枢接触班であり、消耗品ではありません」
アイが湊を見た。
結有も見た。
湊は振り返らなかった。
でも、その背中ははっきりと言っていた。
私は、あなたたちを投げない。
裕二が続けた。
「俺は本部に残る」
結有が顔を上げた。
「父さん?」
「国内防衛、補給、政治調整、各国との後方連絡、万一の指揮系統維持。誰かが後ろに残らねばならん」
「でも」
「結有」
裕二の声は低いが、穏やかだった。
「お前は前に行く。俺は帰る場所を残す」
結有は言葉を失った。
「大貫さんが残した本部を、空にするわけにはいかん。湊が前を束ねる。俺は後ろを潰させない」
湊が静かに頭を下げた。
「本部長残留、了解しました」
結有は拳を握った。
父が一緒に来ないことが、少し怖かった。
けれど、父が後ろにいることが、同じくらい心強かった。
アイが言った。
「裕二は帰る場所」
裕二は少しだけ眉を動かした。
「そうだ」
神通が静かに頷いた。
「必要な役割です」
会議は続いた。
各国艦娘の配置。
補給担当。
退避線。
負傷者搬送。
霊子汚染対策。
妖精さんの保護。
深海側の幻聴、記憶干渉、通信偽装への対応。
四国連合艦隊の失敗記録の共有。
湊は一つずつ潰した。
勇ましい演説はしなかった。
奇跡を約束しなかった。
必勝とも言わなかった。
ただ、勝つために必要なものを積み上げた。
戦力。
補給。
撤退。
通信。
医療。
予備。
代替案。
失敗時の手順。
会議が終わる頃には、各国代表の顔から軽い反発は消えていた。
代わりに、重い納得があった。
これは殴り込みではない。
世界が初めて、深海棲艦の根へ手を伸ばす作戦だった。
会議後、結有は廊下で湊に追いついた。
「湊さん」
「はい」
「総指揮官代行って、すごく重くないですか」
「重いです」
湊はあっさり答えた。
「怖くないんですか」
「怖いですよ」
「湊さんでも?」
「私でも」
湊は窓の外を見た。
市ヶ谷の空は、まだ少し傷ついているように見えた。
「でも、怖いから準備します。怒っているから手順を作ります。悲しいから、帰還線を引きます」
結有は黙って聞いた。
「未来は、最後に答えの場所を残しました。四国連合艦隊は、準備なしにそこへ行き、戻れなかった。なら、私たちはその全部を持って行きます。未来の言葉も、四国の失敗も、名古屋も、東京湾も、大貫さんも」
湊は結有を見る。
「そして、帰ります」
結有は頷いた。
「はい」
アイが結有の隣に立った。
「湊」
「はい」
「私は結有を帰す」
「お願いします」
「湊も帰る」
湊は少し驚いた顔をした。
それから、柔らかく笑った。
「はい。帰ります」
そこへ鷹取がやって来た。
「高梨一佐、各国代表との個別調整が」
湊がため息をつく。
「始まりましたね」
「はい。あと、米国代表から航空支援枠の再協議。英国代表から指揮権境界の確認。豪州代表から補給拠点候補地の現地気象資料。大和さんから主力艦隊編成案。川内さんから夜戦枠拡大要求」
「川内さんは後で」
「了解しました」
結有が小声で言った。
「鷹取さん、完全に副官ですね」
「副官です」
アイが言う。
「彼氏」
鷹取が固まった。
湊はにこりと笑った。
「反省文は作戦後にしましょう」
「作戦前でなくてよかったです」
暁が後ろから走ってきて叫んだ。
「アイ! 国際会議の廊下でそういうこと言わない!」
少しだけ笑いが起きた。
ほんの少しだけ。
けれど、その笑いは必要だった。
世界がアイアンボトムサウンドへ向かう前に、人間が人間でいるために。
その日の艦娘本部公式記録には、こう記された。
『国連艦娘多国籍艦隊合同反攻作戦、基本方針承認。作戦符号リターン・ライン。総指揮官代行、高梨湊一等海佐。艦娘本部長、各務原裕二陸将補は本部残留。中枢接触班、各務原結有提督およびアイ。作戦目的、深海中枢確認および可能な打撃。最優先条件、帰還線維持。』
浜松鎮守府の非公式日誌には、最上の筆跡でこう残った。
『世界会議。湊さん、国連艦娘多国籍艦隊総指揮官代行になる。裕二陸将補は本部長として残留。結有とアイは中枢接触班。作戦名リターン・ライン。四国の失敗を繰り返さないため、撤退命令は名誉より上。川内さん、夜戦枠を増やそうとして後回し。鷹取さん、完全に副官。アイ、国際会議廊下で彼氏発言。暁、今日も常識担当として過労。』
その下に、結有の字。
『僕たちは、世界に道を作ってもらって海へ行く。だから、絶対に帰る。』
さらにアイの字。
『帰還線。いい言葉。』
最後に、神通の美しい字で締められていた。
『勇気ではなく、帰還線を持って鉄底海峡へ向かうこと。』