艦娘本部長、大貫悟空将は、長く自衛隊にいる。
深海棲艦の出現も見た。
艦娘という存在が現れた日も覚えている。
各国海軍が海から叩き出され、人類の物流が壊れ、世界がじわじわと死に近づいていく気配も知っている。
だから大抵のことでは驚かない。
驚かない、はずだった。
「……各務原候補生が、近隣鎮守府の不正摘発に関与。該当鎮守府提督を二発殴打。拳銃を抜こうとしたため腕関節を制圧。未確認個体アイも同行。現場艦娘および女性隊員を保護、か」
大貫は報告書を机に置いた。
執務室には、重い沈黙が落ちている。
対面の椅子には、一人の男が座っていた。
陸上自衛隊一等陸佐、各務原裕二。
通称、鬼の各務原。
体格は大きい。
顔つきは厳つい。
制服は正しく着ているのに、なぜかその場だけ営内班の説教部屋のような圧が出る。
大貫は深く息を吐いた。
「各務原一佐」
「はい」
「君の娘さんだが」
「はい」
「初日から深海棲艦に飛び蹴りをした」
「聞いております」
「そして今回は、近隣鎮守府に殴り込みに近い行動を取った」
「聞いております」
「候補生だぞ」
「はい」
「提督候補生だ」
「承知しております」
大貫は眼鏡を外し、眉間を押さえた。
「君は、どう思う」
各務原裕二は、しばらく黙っていた。
その沈黙に、大貫は少し期待した。
父親として反省の弁が出るかもしれない。
娘の無茶を叱る言葉が出るかもしれない。
あるいは、現場の判断として擁護するにしても、何かしら常識の範囲に収まる発言があるかもしれない。
裕二は重々しく口を開いた。
「なぜ股間を潰さなかった」
大貫は、頭を抱えた。
「そこではない」
「女の敵でしょう」
「そこではないと言っている」
「腹一発、顔一発、腕関節。手ぬるい」
「手ぬるいの問題ではない」
「相手は拳銃を抜こうとした。ならば無力化は当然です」
「無力化の範囲を話している」
「股間は有効部位です」
「作戦報告書で聞きたくない単語だ」
大貫は深く椅子にもたれた。
この男を呼んだのは失敗だったかもしれない。
いや、呼ばなければならなかった。
結有の保護者であり、陸自側でも影響力のある男だ。しかも娘の行動様式の一部について、明らかに責任がある。
大貫は報告書の別紙をめくった。
「それと、一佐。以前から確認したかったことがある」
「何でしょう」
「君には、妙な噂がある」
「噂ですか」
「若い頃、反社会的組織の事務所を襲撃し、代紋バッジを持ち帰って集めていたという」
裕二は無言だった。
大貫は目を細めた。
「否定しないのか」
「若気の至りです」
「真実なのか」
「誇張があります」
「どの部分が」
「趣味ではありません」
大貫は再び頭を抱えた。
「そこか」
「訓練の一環でした」
「何の訓練だ」
「閉所突入、制圧、複数対象対処、精神負荷下での判断」
「やる場所が違う」
「今は反省しております」
「今は、か」
「はい。今はやっておりません」
「当たり前だ」
裕二は真顔だった。
反省していないわけではない。
しているのだろう。
ただし、反省の方向が大貫の望むものと少しずれている。
「君の娘さんは、君に似たな」
「恐縮です」
「褒めていない」
「失礼しました」
大貫は報告書へ視線を戻した。
「だが、今回の件そのものは重い。該当鎮守府提督の不正は事実だった。艦娘への圧力、資材横流し、脅迫、女性隊員への不適切行為。浜松が証拠を押さえたことで、こちらも即時処分に動ける」
「ならば結有の判断は正しかった」
「正しさと手続きは別だ」
「承知しております」
「本当に承知しているのか、君の家系は不安になる」
「父として指導します」
「どう指導する」
「次に同様の事案があった場合、まず証拠を押さえ、退路を塞ぎ、関係者の安全を確保した上で」
「その上で?」
「股間を」
「やめろ」
大貫の声が少しだけ大きくなった。
執務室の外にいた副官が、びくりと肩を震わせた。
裕二は黙った。
大貫は深く息を吐く。
「君に家庭教育を期待した私が甘かった」
「妻にはよく言われました」
その一言で、大貫の表情が少しだけ変わった。
妻。
時雨。
艦娘であり、母であり、一年前のハワイ攻防戦で失われた存在。
重い沈黙が落ちた。
裕二の顔から、わずかに硬さが抜ける。
「あいつなら」
裕二は低く言った。
「たぶん、結有を叱ったでしょう」
「そうだろうな」
「でも、その後で、よく助けたねと言ったと思います」
大貫は黙って報告書を見た。
浜松鎮守府からの追加所見。
神通の報告は簡潔で、感情を抑えている。だが、行間には結有とアイを守ろうとする意志があった。
『各務原候補生の行動には重大な規律違反の疑いがある一方、保護対象の救出および証拠確保には実効性があった。今後は行動制御訓練を強化し、単独判断を抑制する必要がある』
大貫は小さくうなずいた。
「処分は訓告。反省文。監督強化。正式記録上はそうする」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。私は頭が痛い」
「申し訳ありません」
「アイについては?」
裕二の目がわずかに鋭くなる。
「例の白い子ですか」
「艦娘と深海棲艦の両方の反応を持つ。結有と行動を共にし始めている」
「危険ですな」
「そうだ」
「だが、結有は放っておかないでしょう」
「だろうな」
「あの子は、拾ったものを捨てられません。時雨に似ました」
大貫は、今度は頭を抱えなかった。
ただ静かに、窓の外を見た。
艦娘本部の庁舎からは、遠くに海が見える。
十五年前から、人類に牙を剥き続けている海。
「各務原一佐」
「はい」
「娘さんに伝えてくれ」
「何と」
「殴る前に報告しろ」
「承知しました」
「それと」
「はい」
「股間はやめろ」
裕二は少し考えた。
「状況によります」
「やめろと言っている」
「努力します」
「努力では困る」
大貫は三度目のため息をついた。
その日の本部日誌には、こう記された。
『各務原結有候補生の行動について、保護者である各務原裕二一等陸佐と面談。家庭内指導を要請』
非公式メモには、別の一文が残った。
『父親もだめだった』