深海女王の前で、海は声になっていた。
『帰レナイ』
『沈ンダ』
『忘レラレタ』
『奪ワレタ』
『ナラバ、全テ沈メ』
その声は、敵の咆哮ではなかった。
祈りが腐ったものだった。
帰りたいという願いが、帰る者への憎しみに反転したものだった。
助けてほしかった声が、誰も助からない世界を望む声に変わったものだった。
アイアンボトムサウンド。
鉄底海峡。
そこは、ただの海ではなかった。
墓であり、傷であり、口であり、記憶の底だった。
結有は、その前に立っていた。
海面を踏みしめる足は震えている。
胸の奥で、時雨の霊子が熱を持っている。
隣にはアイがいる。
背後には、世界中の艦娘が作った帰還線がある。
大和が砲撃で中央を支えている。
米国空母艦娘が空を守っている。
英国戦艦艦娘が左翼を押さえている。
豪州軽巡隊が補給線を守っている。
川内、神通、那珂が夜の裂け目を縫っている。
暁が通信艇で帰還符を握りしめている。
湊が全体を見ている。
裕二が本部で帰る場所を残している。
それでも、深海女王は大きかった。
ただ強いのではない。
深かった。
砲撃で削っても、深海女王の背後から別の声が湧く。
レーザーで裂いても、その奥から沈んだ記憶が染み出す。
レールキャノンで装甲を砕いても、鉄底海峡そのものが女王を支え直す。
アイのがうがうが吠えた。
HEIAP弾が深海の腕を裂く。
ろングが青白い光を吐き、王座の一部を吹き飛ばす。
ぴかが照準を合わせ、霊子の結び目を焼く。
結有は海面を蹴った。
拳が、深海女王の胸部装甲へ叩き込まれる。
痛みが返ってきた。
結有の拳にではない。
胸の奥に。
深海女王が見せたのは、戦場だった。
沈む船。
燃える海。
叫ぶ乗員。
助けを求める手。
間に合わなかった救助。
帰ってこなかった艦娘。
名前を呼ばれなくなった者たち。
そして、時雨。
ハワイの白い光。
「……っ」
結有の足が止まる。
深海女王が囁く。
『同ジダ』
『オ前モ』
『燃エレバ、救エル』
『砕ケレバ、道ガ開ク』
『母ノヨウニ』
時雨の霊子が、結有の中で震えた。
違う、と言いたかった。
けれど、深海女王の言葉には、甘いほどの説得力があった。
自分を燃やせば届く。
自分を捨てれば守れる。
自分が帰らなければ、誰かが帰れる。
それは英雄の形をしていた。
責任の形をしていた。
愛の形さえしていた。
だからこそ、危険だった。
通信に湊の声が割り込む。
『結有さん、出力上昇。リミッタが危険域です。下がってください』
神通の声も重なる。
『結有さん!』
暁が叫ぶ。
『結有! 駄目よ!』
結有は聞いていた。
聞こえていた。
それでも、目の前にある中枢の裂け目が見えた。
深海女王の胸の奥。
そこに、霊子の核がある。
沈んだものの声が絡まり、帰れなかった意志が固まり、深海棲艦を生み続ける場所。
今なら届く。
自分の霊子を全部燃やせば。
時雨の霊子も、自分の意志も、艤装も体も、全部。
ハワイで時雨がそうしたように。
結有は、笑ってしまった。
「母さん」
時雨の声がした気がした。
君は僕じゃない。
分かってる。
でも、届くんだ。
届いてしまうんだ。
結有は拳を握った。
霊子が白く燃え上がる。
リミッタが悲鳴を上げる。
アイが振り向く。
「結有」
結有はアイを見た。
白い髪。
黒い目。
深海でも艦娘でもない、アイ。
自分のパートナー。
嫁、と本人が言い張る存在。
海で出会い、浜松で一緒に食べ、怒られ、笑い、戦ってきた少女。
結有は、少しだけ困ったように笑った。
「アイ」
「何」
「ごめん」
アイの顔が変わった。
その一言だけで、何を言おうとしているのか分かったのだ。
結有は続けた。
「あと任せ――」
バシッ。
乾いた音が、深海女王の前に響いた。
アイが、結有の頬を叩いていた。
結有の顔が横を向く。
通信の向こうで、暁が息を飲んだ。
神通が言葉を失った。
湊が一瞬だけ命令を止めた。
アイは怒っていた。
無表情ではない。
静かでもない。
深海の冷たさでも、艦娘の凛々しさでもない。
ただ、アイとして怒っていた。
「ふざけるな」
結有は叩かれた頬を押さえた。
「アイ……」
「愛する貴方を失って、私が生きていけるとでも思ってるの?」
その声は震えていた。
アイが震えることなど、ほとんどなかった。
「時雨は言った。あと任せた。未来も残した。大貫も残した。梶本も残した。みんな、何かを残していった」
アイは結有の胸ぐらを掴んだ。
「でも、私は嫌だ」
深海女王の声が一瞬、遠のいた。
「私は、貴方に任されたくない。貴方を失って、貴方の願いだけ持って帰りたくない。そんなの、帰還じゃない」
結有の胸の奥で、時雨の霊子が揺れた。
アイの言葉は、深海女王より強く結有に届いた。
「私は、結有と帰る。結有を背負って帰るのではなく、結有と歩いて帰る。結有の遺言なんていらない。結有の拳も、声も、馬鹿な飛び蹴りも、全部いる」
「馬鹿な飛び蹴りは今言わなくても」
「いる!」
アイは叫んだ。
「結有がいる!」
結有は、言葉を失った。
アイの目から、涙が落ちていた。
深海棲艦でも艦娘でもない少女が、人間のように、いや、アイとして泣いていた。
「あと任せた、は嫌い」
アイは言った。
「私は拒絶する」
結有の中で、何かが切れた。
暴走ではない。
逆だった。
白く燃え上がっていた霊子が、静かに沈む。
リミッタの悲鳴が止まる。
時雨の霊子が、結有の霊子と重なり、燃料ではなく支えに変わる。
夢の中の時雨の声がした。
君は僕よりうまく帰って。
結有は、息を吐いた。
「……ごめん」
「謝罪は後」
「うん」
「帰る」
「うん」
結有はアイの手を握った。
「二人で」
「二人で」
その瞬間、通信が回復した。
湊の声が飛ぶ。
『結有さん、アイさん。リターン・ライン接続可能です。単独爆発は禁止。二人の霊子を帰還線へ繋いでください』
結有は思わず笑った。
「湊さん、聞いてたんですか」
『全部聞こえていました。あとで説教です』
「今じゃなくてよかった」
神通の声が続く。
『結有さん』
「はい」
『生きて帰ったら、反省文です』
「枚数は?」
『時雨の分も含めて、多めに』
「母さんの分まで!?」
暁が泣きながら叫ぶ。
『反省文でも何でも書けばいいから、帰ってきなさい!』
アイが短く言う。
「帰る」
結有は頷いた。
「帰ります」
深海女王が吼えた。
『帰ルナ』
『沈メ』
『残レ』
『我ラヲ置イテ行クナ』
結有は女王を見た。
怖くなかったわけではない。
けれど、もう引っ張られなかった。
「置いていかない」
結有は言った。
「でも、一緒に全部沈むこともしない」
アイが続ける。
「還す」
「そう」
結有は拳を開いた。
「沈めるんじゃなくて、還す」
深海女王の背後で、無数の声が揺れた。
帰れなかった声。
忘れられた声。
憎んでいた声。
泣いていた声。
その一つ一つに、リターン・ラインが触れていく。
世界中の艦娘が繋いだ帰還線。
妖精さんの通信中継。
補給艦隊の灯。
大和の砲撃。
米国空母艦娘の航空支援。
英国戦艦艦娘の砲列。
豪州軽巡隊の護衛。
神通たちの夜戦線。
暁が握る帰還符。
湊の指揮。
裕二の残した本部。
全部が一本の線になった。
結有とアイは、その先端に立っていた。
「アイ」
「結有」
「合わせるよ」
「うん」
アイの深海霊子と艦娘霊子が広がる。
結有の人間の意志と時雨の霊子が重なる。
それは砲撃ではなかった。
特攻でもなかった。
爆発でもなかった。
二人で、手を伸ばすことだった。
深海女王の核へ。
結有の拳が触れる。
アイの手が重なる。
深海女王が叫ぶ。
『帰レナイ』
結有は答えた。
「帰れなかったんだね」
『忘レラレタ』
アイが答えた。
「忘れない」
『沈ンダ』
「沈んだことを、なかったことにはしない」
『奪ワレタ』
「奪われたものは戻らない。でも、奪われたまま世界を沈めさせない」
核が震えた。
その奥に、未来の声があった。
『全ての原因はアイアンボトムサウンド』
大貫の声があった。
『諦める理由にはならん』
梶本の声があった。
『前に立て』
時雨の声があった。
『あと任せた』
結有は、その声に向かって首を振った。
「母さん」
白い光が、今度は爆発ではなく、雨のように降った。
「任せられたよ。でも、僕は死なない」
アイが結有の手を強く握る。
「任せ合う」
「うん」
「帰る」
「うん」
二人の霊子が、深海女王の核へ流れ込んだ。
深海女王の体が崩れ始める。
だが、それは破壊ではなかった。
錆びた鉄が海へ解ける。
黒い霊子が光にほどける。
怒号が波音に戻る。
帰れないと叫んでいた声が、一つずつ名前を取り戻す。
深海女王の顔が変わった。
無数の顔ではなく、一瞬だけ、ひどく疲れた女の顔になった。
『帰レルノカ』
結有は答えた。
「還れる」
アイも言った。
「海へ。記憶へ。名前へ」
『我ラハ』
「忘れない」
深海女王は、目を閉じた。
『ナラバ』
声が消える。
『任セタ』
結有の胸が痛んだ。
だが、今度は違った。
結有は笑った。
「任された。でも、帰る」
深海女王の核が砕けた。
アイアンボトムサウンド全域を覆っていた黒い霊子が、空へ立ち上る。
海が白く光る。
深海棲艦の群れが、次々に形を失っていく。
完全に消えるもの。
海へ沈み直すもの。
艦娘のような影を一瞬だけ見せるもの。
人の声で名前を呼ぶもの。
第二次ソロモン海戦の戦場全体が、巨大な鎮魂の場になった。
だが、同時に危険でもあった。
深海女王の崩壊により、海域の霊子圧が乱れ、リターン・ラインが激しく揺れる。
湊の声が叫ぶ。
『全艦隊、撤退開始! 中枢接触班を回収! 帰還線を切らせないで!』
大和が応じる。
『大和、中央線を維持します!』
神通の声。
『結有さん、アイさん、こちらへ!』
暁が泣き叫ぶ。
『帰ってきなさい! 約束したでしょ!』
結有はアイの手を握ったまま、振り返った。
帰還線が見える。
細い。
遠い。
けれど、ある。
「走れる?」
結有が聞く。
アイは頷いた。
「走る」
「よし」
二人は走った。
崩れる深海女王の王座を背に。
ほどけていく鉄底海峡を背に。
帰れなかった声が海へ還る中を。
深海の腕が伸びる。
結有が殴る。
アイが撃つ。
だが、もう憎しみではなかった。
帰るために払う。
そのための拳。
そのための砲。
途中、結有の足が沈みかけた。
霊子が尽きかけている。
アイが引いた。
「結有!」
「大丈夫!」
「大丈夫じゃない」
「ちょっとだけ」
「ちょっとも駄目」
アイは結有の腕を自分の肩に回した。
「言った。私は結有を帰す」
「僕もアイを帰すって言った」
「なら走れ」
「はい!」
結有は笑った。
苦しいのに、笑えた。
遠くに神通が見えた。
川内が叫んでいる。
那珂が手を振っている。
暁が通信艇から身を乗り出して、最上に押さえられている。
大和の砲撃が、最後の壁を砕いた。
湊の声。
『今です!』
結有とアイは、帰還線へ飛び込んだ。
光が弾けた。
だが、それは時雨の最期の光ではなかった。
帰還の光だった。
気がつくと、結有は甲板の上に倒れていた。
全身が痛い。
息が苦しい。
霊子が空っぽに近い。
でも、生きていた。
隣で、アイが倒れている。
「アイ」
声がかすれた。
アイが目を開ける。
「結有」
「生きてる?」
「生きてる」
「帰った?」
「帰った」
結有は笑った。
アイも、ほんの少し笑った。
次の瞬間、暁が二人に飛びついた。
「馬鹿! 馬鹿馬鹿馬鹿! 本当に心配したんだから!」
「暁、痛い」
「痛いくらい我慢しなさい!」
神通が近づいてきた。
顔は静かだった。
だが、目が赤かった。
「結有さん」
「はい」
「反省文です」
「やっぱり」
「ただし」
神通は一瞬だけ言葉を止めた。
「よく帰りました」
結有は泣きそうになった。
「はい」
アイが神通を見る。
「叩いた」
「見ていました」
「悪い?」
「いいえ」
神通は静かに言った。
「必要でした」
通信が繋がる。
湊の声がした。
『中枢接触班、生還確認。深海女王反応、消失。広域深海霊子濃度、急速低下。全艦隊、撤退を継続。勝利宣言は帰還完了後です』
鷹取の声が後ろで聞こえた。
『高梨一佐、各国代表が既に歓声を』
『帰還完了後です』
『了解しました』
結有は笑った。
「湊さんらしい」
裕二からの通信も入った。
『結有』
「父さん」
『帰ったな』
「うん」
『よし』
それだけだった。
けれど、十分だった。
アイが通信へ顔を近づける。
「裕二」
『何だ』
「結有を叩いた」
『よくやった』
「父さん!?」
周囲に、少しだけ笑いが起きた。
深海女王は消えた。
その日を境に、世界中の深海棲艦の活動は急速に低下した。
完全に消えたわけではない。
海はすぐに優しくなったわけではない。
沈んだものが戻るわけでもない。
けれど、海は少しずつ道を返し始めた。
シーレーンはすぐには戻らない。
港の復旧も、補給網の再建も、遺族への説明も、終わらない仕事ばかりだった。
戦争は、勝った瞬間に終わるのではない。
帰った者たちが、壊れた世界を直し始めた時に、ようやく終わりへ向かう。
浜松鎮守府へ戻った結有とアイは、三日眠った。
四日目、結有は神通から反省文の束を渡された。
表紙には、こう書いてあった。
『自己犠牲未遂に関する反省文』
枚数、五十枚。
「多い!」
結有が叫ぶ。
神通は静かに言った。
「時雨の分も含めて、と言いました」
「母さんの分まで本当に入ってる!」
アイは横で頷いた。
「書け」
「アイまで!」
「あと任せた禁止」
「はい……」
暁は腕を組んで言った。
「当然よ。一人前のレディを泣かせた罰なんだから」
最上が笑いながら日誌を開く。
「じゃあ、今日の非公式日誌、書くね」
アイが結有の隣に座った。
結有はペンを持つ。
一行目に、何を書けばいいか少し迷った。
そして、こう書いた。
『僕は、あと任せたと言いかけました。』
隣でアイが見ている。
結有は続けた。
『アイに叩かれました。正しかったです。』
アイが満足そうに頷いた。
結有は少し笑って、さらに書く。
『僕は母さんの霊子を継いだけれど、母さんと同じ終わり方をするために継いだのではありません。アイと、みんなと、帰るために継ぎました。』
窓の外には、浜松の海があった。
もう深海の黒だけではない。
朝の光を受けた、普通の海だった。
普通。
それが、こんなにも尊いものだと、結有は知らなかった。
アイが肩にもたれかかる。
「結有」
「何?」
「愛してる」
結有のペンが止まった。
暁が部屋の向こうで真っ赤になる。
「ア、アイ! そういうのは場所を!」
神通が目を閉じる。
最上がにやにやする。
結有は少しだけ顔を赤くして、それでも逃げなかった。
「僕も」
アイが見る。
「何」
「愛してる」
アイは、ほんの少し笑った。
その顔を見て、結有は思った。
帰ってきた。
本当に。
公式記録には、こう記された。
『国連艦娘多国籍艦隊合同反攻作戦リターン・ライン、完了。第二次ソロモン海戦において、深海中枢存在、深海女王の消失を確認。中枢接触班、各務原結有提督およびアイ、生還。広域深海棲艦活動、急速低下。各国艦娘戦力、順次帰投。』
浜松鎮守府非公式日誌には、最上の筆跡で、最後にこう残された。
『最終決戦、終了。結有、あと任せと言いかけてアイに叩かれる。アイ、愛する貴方を失って私が生きていけるとでも思ってるの、と叫ぶ。深海女王、還る。結有とアイ、二人で帰る。湊さん、勝利宣言は帰還完了後と言い張る。裕二陸将補、よし、だけ言う。神通さん、泣いていないふり。暁、泣く。大和さん、静かに笑う。川内さん、夜戦勝利を主張。那珂ちゃん、歌う。』
その下に、結有の字。
『あと任せた、じゃなくて。』
さらにアイの字。
『一緒に帰る。』
最後に、神通の美しい字で締められていた。
『時雨。結有さんは帰りました。アイさんと一緒に。』