深海女王が還った日を、人類は終戦の日とは呼ばなかった。
呼べなかった、という方が正しい。
深海棲艦は消えなかった。
世界中の海から組織的な大攻勢は消えた。
シーレーンを完全に寸断する黒い艦隊も、都市を狙う深海提督も、国家中枢を潰すための大規模侵攻も、急速に影を潜めた。
だが、海は元通りにはならなかった。
台風が来るように。
地震が起きるように。
津波が、誰の悪意でもなく沿岸を襲うように。
残存深海棲艦は、海の災害として現れるようになった。
小規模な群れ。
沈船周辺での霊子異常。
港湾での突発的襲撃。
海難事故に紛れる深海反応。
消えきらなかった記憶が、時折、黒い艦影を取る。
だから艦娘は不要にならなかった。
ただ、戦争の主役ではなくなった。
海を守る者。
災害に備える者。
帰れなくなった船を迎えに行く者。
残った深海の声を、必要なら沈め、可能なら還す者。
鎮守府は縮小され、再編された。
艦娘本部もまた、戦時組織から平時の危機管理組織へ姿を変えていく。
各務原裕二陸将補は、その転換を見届けた後、艦娘本部長を退任した。
退任式で、彼は長い演説をしなかった。
「海はまだ人類のものではない。だが、諦める理由でもなくなった」
それだけ言って、敬礼した。
その後、彼は陸上幕僚長へ転出、昇進した。
各務原結有はその知らせを聞いて、しばらく黙っていた。
「父さん、陸幕長かあ」
アイが隣で言った。
「偉い?」
「かなり偉い」
「バッジコレクターなのに」
「それは言わないであげて」
裕二本人は、給与明細を見てまた二度見したという。
艦娘本部の次を担ったのは、高梨湊だった。
彼女は将補へ昇進し、縮小再編された統合幕僚監部艦娘本部長に就任した。
戦時の本部長ではない。
平時へ戻るための本部長。
艦娘を軍事資源だけで終わらせず、災害対応、海上保安、国際協力、退役後支援まで含めた制度へ組み直す役割だった。
湊は就任会見で、いつもの柔らかな声で言った。
「勝った後に人を使い潰す組織は、勝った意味を失います。艦娘も、提督も、妖精さんが見える人も、戦後を生きる人です。そこから制度を作ります」
記者の一人が聞いた。
「鷹取湊将補、とお呼びすべきでしょうか」
会見場が少しざわついた。
湊はにこりと笑った。
「職務上は高梨でも鷹取でも構いません。ただ、家庭では鷹取です」
その瞬間、後方で控えていた鷹取修平が真っ赤になった。
後日、浜松鎮守府跡の面々はその映像を何度も見た。
暁は顔を赤くして「大人ってすごいわね」と言い、アイは「嫁の上位互換」と言い、神通に訂正された。
結有とアイは、艦娘本部を退職した。
結有には、特別功労金が支給された。
アイにも、身分と功績を認める特別措置が取られた。
金額を見た結有は、給与明細の時より長く固まった。
「……これ、使い切れる?」
アイが桁を数えた。
「肉をたくさん食べられる」
「肉だけじゃ無理だと思う」
神通が静かに言った。
「計画的に使ってください」
湊からは、会社設立の資料が届いた。
最上からは事業計画の叩き台。
明石からは警備装備の案。
暁からは「ちゃんとした名前にしなさいよ!」という手紙。
そして、結有とアイは民間警備会社を立ち上げた。
浜松警備保障。
業務内容は、港湾警備、残存深海災害対応、要人警護、妖精さん視認者の保護、元艦娘や元提督候補者の再就職支援。
最初の採用面接で、アイは応募者にこう聞いた。
「寝る?」
応募者は困惑した。
結有が補足した。
「うちは、妖精さんが『寝ろ』って言う前に寝てもらいます」
佐野誠一は、その会社の労務担当になった。
彼は勤務表を見張る目だけは、どの警備員より鋭かった。
会社の休憩室には、今も貼り紙がある。
『三十一日は七百四十四時間しかない』
『六百働くな』
『睡眠は補給』
『補給を怠る者に、長期戦は任せられません』
最後の一文は、神通の字だった。
結有とアイは、正式にパートナー認定を受けた。
手続きの日、アイは窓口で真顔のまま言った。
「嫁」
担当者は少し迷ってから、書類に「パートナー」と記載した。
結有は笑った。
「まあ、だいたい合ってる」
「合ってる」
「うん」
二人は浜松の海沿いに、小さな事務所兼住居を構えた。
朝は警備計画。
昼は訓練。
夜は港を見回る。
時々、深海反応が出る。
その時は、結有が海に立ち、アイが隣に並ぶ。
もう、世界を救うためではない。
一隻の船を帰すため。
一つの港を守るため。
誰かの明日を、普通に続けるため。
沼津鎮守府の笹川源三郎提督は、戦後も変わらず焼肉会を開いた。
「金は墓まで持っていけん」
彼はそう言って、若い提督や艦娘たちに肉を食わせた。
数年後、笹川は天寿を全うした。
葬儀には、多くの艦娘と提督が集まった。
焼肉会に呼ばれた者。
一括支給の給与明細を見せ合った者。
戦争の初期から、善意と気合で鎮守府を回してきた時代を知る者。
結有とアイも参列した。
棺の前で、結有は深く頭を下げた。
「笹川さん。肉、美味しかったです」
アイも続けた。
「肉の提督。還った」
その後、沼津鎮守府の有志は、毎年小さな焼肉会を続けた。
泣くためではなく。
忘れないために。
そして、生きている者に肉を食わせるために。
浜松の海は、今日も光っている。
完全に安全ではない。
完全に優しくもない。
それでも、かつて終わりの象徴だった海は、少しずつ暮らしの場所へ戻っていた。
ある日の夕方。
浜松警備保障の事務所前で、結有とアイは並んで海を見ていた。
「アイ」
「何」
「僕たち、帰ってきたね」
「うん」
「それで、まだ続いてるね」
「うん」
「戦争が終わっても、仕事がある」
「警備会社だから」
「現実的」
アイは少しだけ結有の手を握った。
「でも、いい」
「うん」
「あと任せた、じゃない」
結有は笑った。
「一緒にやる」
アイが頷く。
「一緒に帰る」
夕陽が海に落ちる。
遠くで、妖精さんの小さな影が港の灯を点検している。
浜松警備保障の看板が、風に揺れる。
その下に、小さな文字が刻まれていた。
『帰る道を守ります』
結有はアイの手を握り返した。
「明日も仕事だね」
「寝る?」
「寝る」
「よろしい」
「アイ、神通さんみたいになってきた」
「強いから」
「確かに」
二人は笑った。
海は、もう黒いだけではなかった。
光を返す海だった。
そして、その海の前で、二人は生きていた。
任せて死ぬのではなく。
任せ合って、生きるために。
物語はそこで終わらない。
けれど、この戦争の話は、ここで終わる。
浜松の海に、夜の灯がともった。
Codex 協業のお話これにて完結です。
設定とプロットは私 執筆はCodexにてお送りしました。
高梨湊シリーズであって高梨湊シリーズではないお話、これにて終幕。