浜松鎮守府には、戦いがある。
深海棲艦との戦い。
補給物資を巡る戦い。
訓練後の風呂の順番を巡る戦い。
そして、休日の談話室におけるリモコン争奪戦である。
その日、リモコンを制したのは暁だった。
「今日は私が選ぶ番よ。一人前のレディにふさわしい、情緒豊かな作品を見るの」
暁は胸を張り、録画リストを開いた。
談話室には結有、アイ、暁、夕立、最上がいた。神通は執務室で書類仕事。扶桑と山城は遠征帰りで入渠中だった。
結有はソファに座り、アイはその隣に無言で座っている。
最近のアイは、気づくと結有の近くにいる。本人いわく「監視」。暁いわく「それはもう懐いてるのでは」。アイいわく「赤いレディはうるさい」。
「何を見るの?」
結有が聞く。
「百合アニメよ」
暁がきっぱり言った。
アイが首を傾げた。
「百合」
「女の子同士の、友情とか、憧れとか、特別な絆とか、そういうものを描いた作品よ」
「戦争?」
「戦争じゃないわ」
「殴る?」
「たぶん殴らないわ」
「つまらない」
「始まる前に判断しないで!」
夕立がポップコーンの袋を開けた。
「百合って、ぽいぽいするやつ?」
「たぶん違うかな」
最上が苦笑する。
再生が始まった。
画面には、桜並木を歩く二人の少女。
片方は明るく、片方は無口。
朝の光の中で、二人が手を取り合う。
アイはじっと見ていた。
瞬きが少ない。
結有は横から小声で聞く。
「面白い?」
「情報量が多い」
「そう?」
「手を繋いだ」
「うん」
「なぜ」
「仲がいいからじゃない?」
「手を繋ぐと仲がいい」
「まあ、そういう表現もある」
アイは自分の手を見た。
それから結有の手を見た。
結有は嫌な予感がした。
「アイ?」
アイは無言で結有の手を握った。
暁が振り向いた。
「ちょっと!」
「仲がいい表現」
「実践が早い!」
結有は笑った。
「まあ、手くらいならいいけど」
アイは画面を見たまま、結有の手を握り続けた。
五分後。
作中の無口な少女が、明るい少女へ向かって言った。
『あなたは、私の光』
アイの黒い目が少し開いた。
「光」
結有が言った。
「そういう比喩だね」
「結有は光?」
「僕?」
「うるさい。すぐ飛ぶ。殴る。光?」
「それはたぶん光じゃない」
最上が笑いをこらえた。
「勢いはあるよね」
夕立がうなずく。
「爆発っぽい」
「光から遠ざかってるな」
アイは少し考えた。
「結有は、爆発」
「僕の扱い」
画面では、二人の少女が夕暮れの教室で向き合っていた。
『私、あなたのことをもっと知りたい』
アイが結有を見る。
「もっと知りたい」
「え?」
「好きな食べ物」
「急だな。カレーかな」
「嫌いなもの」
「座学」
「弱点」
「神通さんの沈黙」
「急所」
「教えない」
暁が慌てて割り込んだ。
「アイ、アニメをそのまま尋問に使わないの!」
「知りたいと言っていた」
「そういう意味じゃないの!」
アイはまた画面に戻った。
十五分後。
事件が起きた。
作中で、明るい少女が無口な少女を壁際に追い詰め、片手を壁についた。
いわゆる壁ドンである。
アイの目が、明らかに変わった。
「今の」
結有が身構えた。
「アイ、待て」
「壁」
「待て」
「ドン」
「待てって」
アイは立ち上がった。
結有も立ち上がろうとしたが、アイの方が早かった。
次の瞬間、結有は談話室の壁際に追い込まれていた。
白い手が、結有の顔の横で壁を叩く。
ドン。
談話室が静まり返った。
夕立がポップコーンを口に入れる手を止めた。
最上は完全に笑いをこらえている。
暁は真っ赤になっている。
アイは結有を見上げた。
無表情。
ただし、目は真剣。
「結有」
「はい」
「あなたは、私の爆発」
「今?」
「言う場面」
「たぶん違う」
「違う?」
「かなり違う」
暁が叫んだ。
「アイ! それは相手をドキッとさせる場面であって、爆発認定する場面じゃないわ!」
「ドキッとした?」
アイが結有に聞く。
「びっくりはした」
「成功」
「成功なのかな」
そこへ、談話室の扉が開いた。
神通が入ってきた。
そして、壁際でアイに壁ドンされている結有を見た。
沈黙。
結有の背中に冷たい汗が流れた。
「各務原候補生」
「はい」
「これは何ですか」
「百合アニメの影響です」
神通は暁を見た。
暁は背筋を伸ばした。
「情緒教育の一環です!」
「そうですか」
神通はアイを見た。
「アイさん」
「何」
「人に壁際で圧をかける行為は、相手の同意と状況を考える必要があります」
「同意」
「はい」
アイは結有を見る。
「同意?」
「次から先に聞いて」
「わかった」
アイは一歩下がった。
神通は静かにうなずく。
「続けてよろしいですが、実践はほどほどに」
「はい」
暁が小さく返事をした。
神通は去っていった。
扉が閉まる。
最上がついに吹き出した。
「結有、あなたは私の爆発、は新しいね」
「忘れてほしい」
「無理っぽい」
夕立がにこにこしている。
アイはソファに戻り、また結有の隣に座った。
今度は距離が近い。
結有は少し横を見る。
「近くない?」
「特別な絆」
「覚えた言葉をすぐ使う」
「悪い?」
「悪くはない」
アイは画面を見ながら言った。
「結有は、嫌?」
その声はいつも通り平坦だった。
でも、ほんの少しだけ違った。
答えを待っている声だった。
結有は少し考えた。
アイは深海でもあり、艦娘でもある。
まだ自分のことをよく知らない。
だから誰かとの距離の取り方も、たぶん学んでいる途中なのだ。
結有は手を差し出した。
「嫌じゃないよ。でも、わからない時は聞いて」
アイは結有の手を見た。
そして、そっと握った。
「聞く」
「うん」
「手、いい?」
「いいよ」
アイは小さくうなずいた。
暁はその様子を見て、なぜか満足げに腕を組んだ。
「ふふん。これが情緒教育の成果ね」
「壁ドン騒動は?」
「必要な過程よ」
最上が笑いながら言った。
「神通に報告しておこうかな」
「やめて!」
アニメは終盤に入っていた。
画面の中の二人は、夜の海辺で向き合っている。
片方がもう片方に言う。
『私、あなたの隣にいたい』
アイは、じっと画面を見ていた。
結有も、何となく黙った。
隣。
その言葉は、二人にとって少しだけ重かった。
戦場で隣にいること。
鎮守府で隣に座ること。
深海の声に呼ばれても、戻らずに隣を選ぶこと。
アイがぽつりと言った。
「隣」
「うん」
「私は、結有の隣にいる」
暁が顔を赤くした。
「そ、そういう台詞は急に言うと破壊力が」
結有はアイを見た。
白髪。
黒い目。
無表情。
でも、握った手は離さない。
「じゃあ僕も、アイの隣にいる」
アイはしばらく黙った。
それから、ほんの少しだけ結有の肩に寄りかかった。
「なら、いい」
談話室が静かになった。
夕立も、最上も、暁も、その瞬間だけは茶化さなかった。
画面の中では、エンディングが流れ始める。
穏やかな歌。
桜の花びら。
手を繋いだ二人の後ろ姿。
アイは最後まで真剣に見ていた。
そして、エンディングが終わった瞬間に言った。
「次も見る」
暁がぱっと顔を輝かせた。
「わかる!? よさがわかったのね!」
「勉強になる」
「そう、情緒の勉強よ!」
「次は、結有をもっと正しく壁に追い詰める」
「そこじゃない!」
結有は天井を見上げた。
「神通さんに怒られる未来が見える」
アイは結有の手を握ったまま言った。
「怒られたら、共犯」
「便利な言葉になってきたな、共犯」
「特別な絆」
「それも便利に使ってる」
その日の浜松鎮守府非公式日誌には、こう記された。
『未確認個体アイ、百合アニメを視聴』
『手繋ぎ、壁ドン、特別な絆などの概念を誤学習』
『各務原候補生、爆発認定』
『暁、情緒教育に自信』
『神通、実践はほどほどにと指導』
翌日から、アイは結有のことを時々こう呼ぶようになった。
「私の爆発」
結有はそのたびに頭を抱えた。
そして暁は、なぜか誇らしげだった。