各務原結有は、浜松鎮守府で一つ学んだ。
神通は、怒ると静かになる。
もう一つ学んだ。
神通は、褒められても静かになる。
「横須賀の鬼兄妹?」
結有がそう言った瞬間、食堂の空気が少し止まった。
昼食時だった。
結有、アイ、暁、神通、最上、夕立が同じ卓にいた。アイは焼き魚の小骨を無表情で取り除いている。暁はそれを見て「そこは上手なのね」と変な感心をしていた。
神通は味噌汁の椀を持ったまま、動きを止めた。
「どこで、その名を?」
「父から」
結有は平然と答えた。
「昨日、電話で言ってた。『神通には逆らうな。あいつは俺と組んで深海棲艦を狩っていた頃、横須賀の鬼兄妹と呼ばれていた』って」
暁が目を丸くした。
「鬼兄妹?」
夕立が身を乗り出す。
「何それ、強そうっぽい!」
最上は「あー」と、何か知っているような知らないような顔をした。
アイは神通を見た。
「鬼?」
「違います」
神通は即答した。
「人間?」
「艦娘です」
「鬼艦娘」
「違います」
神通の声はいつも通り穏やかだった。
だが、結有は気づいた。
これは照れている。
たぶん。
「神通さん、父と知り合いだったんですか」
「戦争初期に、少し」
「少し?」
結有が聞き返す。
最上が苦笑した。
「戦争初期の“少し”って、だいたい濃いんだよね」
「最上さん」
「ごめんごめん。でも、僕も聞きたいかな。横須賀の鬼兄妹って、噂だけは聞いたことある」
暁が興味津々で言った。
「私も聞きたいわ。一人前のレディとして、先輩艦娘の武勇伝は知っておくべきだもの」
アイも短く言う。
「聞く」
神通はしばらく黙っていた。
食堂のざわめきが遠くなる。
彼女の目が、窓の外の海へ向いた。
浜松の穏やかな昼の海ではない。
もっと煙たく、もっと赤く、もっと混乱した海を見ている目だった。
「武勇伝ではありません」
神通は静かに言った。
「ただ、生き残るために戦っていた頃の話です」
*
2011年。
深海棲艦が現れてから、世界はあまりにも早く壊れた。
大きな戦争には、開戦の儀式がある。宣戦布告、国会承認、軍の動員、世論の変化。人間同士の戦争なら、どれほど乱暴でも、そこに人間の手続きがあった。
だが、深海棲艦にはそれがなかった。
ある日、海が敵になった。
横須賀は最前線の一つだった。
港には沈みかけた艦艇が運び込まれ、岸壁には煤けた制服の自衛官たちが走り回っていた。補給は滞り、情報は錯綜し、何が正しくて何が間違いなのか、誰にもわからなかった。
その頃の神通は、まだ現在ほど落ち着いてはいなかった。
艦娘として現れ、戦えることはわかっていた。
だが、どう戦うべきかは誰も知らない。艤装の扱いも、霊子の出力制御も、提督との連携も、すべてが手探りだった。
そして、深海棲艦は待ってくれなかった。
ある夜、横須賀近郊の海岸線に、深海棲艦が上陸した。
数は少ない。
小型数体。中型一体。
それでも、当時の人類にとっては十分な災厄だった。
海から砲撃し、崩れた防波堤を越え、港湾施設へ向かう。自衛隊の火器は効果が不安定。艦船からの攻撃は逸れる。陸上火器なら当たることもあるが、決定打にはなりにくい。
その夜、現場へ最初に突っ込んだ陸自の小隊に、若い二等陸尉がいた。
各務原裕二。
まだ鬼と呼ばれる前の男である。
いや、正確には、その頃からすでに少し呼ばれていた。
彼は海岸線の瓦礫の陰で、部下に低く言った。
「撃っても効きが悪い。なら近づく」
部下の一人が耳を疑った。
「近づく、ですか」
「そうだ」
「相手は深海棲艦です」
「見ればわかる」
「殴るんですか」
「刺す」
裕二はナイフを抜いた。
普通のナイフではなかった。
急造の霊子処理を施した近接戦闘用刃物。効果は保証されていない。そもそも、深海棲艦相手に人間が陸上で近接戦闘を挑むという発想自体が、まともな作戦書には存在しなかった。
だが、各務原裕二はまともな作戦書だけで動く男ではなかった。
彼は瓦礫を蹴って飛び出した。
深海棲艦の小型個体が砲口を向ける。
裕二は低く沈み込んだ。
骨法の歩法。直線ではなく、相手の意識の隙間へ滑り込むような動き。砲撃が背後のコンクリートを砕く。破片が頬を切ったが、止まらない。
懐へ入る。
装甲の継ぎ目へ、ナイフを突き込む。
深海棲艦が、獣のような声を上げた。
「効くな」
裕二は笑った。
そして、もう一撃。
その時、海側から砲声が響いた。
神通だった。
彼女は海面を走り、敵の中型個体へ単独で突っ込んでいた。通常出力では押し切れない。そう判断した神通は、艤装の出力を瞬間的に引き上げた。
安全域を越える。
現在なら、絶対に許可されない操作だった。
艤装の妖精さんたちが悲鳴のような光を散らす。砲身が赤熱し、神通の髪が風で暴れる。
だが、彼女の照準は揺れなかった。
砲撃。
一射目で敵の脚を止める。
二射目で装甲を割る。
三射目で核に当てる。
中型深海棲艦が崩れた。
爆ぜた黒い液体が、雨のように神通へ降りかかる。
彼女は拭わなかった。
そのまま、次の敵へ向かった。
後に、ある整備員が言った。
あの頃の神通は、海から帰ってくるたびに返り血を浴びていた、と。
深海棲艦の黒い血。
鉄と潮と、説明できない冷たさの混ざった匂い。
それでも彼女は、いつも静かだった。
静かに戦い、静かに戻り、静かに艤装を点検に出した。
誰かが「怖くないのか」と聞いた時、彼女は短く答えた。
「怖がるのは、終わってからにします」
その夜、裕二と神通は初めて同じ戦場で戦った。
裕二は陸で狩る。
神通は水際で沈める。
深海棲艦が海から上がろうとすれば、神通が出力を跳ね上げて叩き返す。
すでに上陸した個体は、裕二が骨法とナイフで関節部、継ぎ目、感覚器官を潰して止める。
人間と艦娘。
当時はまだ、どう協力すればいいのか誰も知らなかった。
だが、その二人だけは妙に噛み合った。
言葉は少ない。
「右」
「承知」
「でかいのが来る」
「沈めます」
「一体抜けた」
「任せます」
「任された」
それだけで十分だった。
戦闘後、裕二は防波堤に腰を下ろし、血と油で汚れたナイフを拭いていた。
神通は海から戻ってきた。
制服は破れ、頬には黒い液体がついている。艤装は軋み、妖精さんたちは疲れ切った顔で甲板の隅に座っていた。
裕二は神通を見上げた。
「お前、無茶をするな」
神通は彼を見た。
「あなたに言われたくありません」
「俺は人間だ」
「なお悪いです」
裕二は少し笑った。
「名前は」
「神通です」
「俺は各務原裕二。陸自だ」
「存じています。先ほど、深海棲艦にナイフで斬りかかっていましたから」
「効いたぞ」
「効いたからよい、という話ではありません」
「お前も出力を上げすぎだ」
「沈みました」
「沈んだからよい、という話ではない」
二人はしばらく黙った。
それから、裕二が言った。
「似た者同士か」
「不本意です」
「俺もだ」
その翌週から、横須賀の水際では妙な噂が流れ始めた。
陸に上がった深海棲艦は、鬼のような二尉がナイフで仕留める。
海から来る大物は、返り血を浴びた軽巡が単独で沈める。
誰が言い出したのかはわからない。
横須賀の鬼兄妹。
裕二は「悪くない」と言った。
神通は「訂正してください」と言った。
訂正はされなかった。
*
戦争初期の混乱は、深海棲艦だけを連れてきたわけではなかった。
海運が止まり、物流が壊れ、港湾都市の秩序が薄くなると、人間の中にも海を荒らす者が出た。
海賊。
最初は、そう呼ぶには小さな犯罪だった。
漂流貨物の略奪。放棄船舶からの物資盗難。難民船への恐喝。
だが、戦争が長引くにつれて、彼らは武装し始めた。
深海棲艦の襲撃を逃れた小型船を狙う。
救援物資を横流しする。
避難民を乗せた船から燃料や食料を奪う。
深海棲艦は人類の敵だった。
だが、人間が人間を食い物にする姿は、神通に別の種類の嫌悪を覚えさせた。
ある晩、横須賀沖で救援物資を運ぶ小型輸送船が襲われた。
犯人は人間だった。
武装した小型艇が三隻。
船上には女性や子供もいる。
銃を持った男たちが、物資を渡せと叫んでいた。
神通は出撃を命じられた。
ただし、相手は深海棲艦ではない。
人間だ。
砲撃すれば簡単に沈む。
だが、それはできない。
神通は海面を走りながら、初めて深海棲艦以外の敵を前にした。
その時、陸側から通信が入った。
『神通、聞こえるか』
「各務原二尉?」
『船を沈めるな。男どもだけ止めろ』
「簡単に言いますね」
『お前ならできる』
「あなたは?」
『一隻目に乗る』
直後、海賊艇の一つで悲鳴が上がった。
裕二が乗り込んでいた。
どうやって接近したのか、神通には一瞬わからなかった。後に聞けば、小型ゴムボートで暗闇に紛れて近づき、船縁に飛び移ったらしい。正気ではない。
裕二は銃を持つ男の腕を折り、二人目の顎を打ち抜き、三人目を甲板に押し倒した。ナイフは抜いているが、刃は使わない。相手は人間だからだ。
神通は残る二隻の進路を塞いだ。
「こちらは横須賀鎮守府所属、軽巡神通です。武器を捨て、機関を停止してください」
返答は銃声だった。
弾丸が海面を跳ねる。神通には当たらない。
彼女は砲を向けなかった。
代わりに、艤装の出力を一点に絞った。
水柱を上げる。
海賊艇の前方で海が爆ぜ、小型艇が大きく揺れた。男たちが転倒する。神通はその隙に接近し、艤装の副砲で船の機関部だけを撃ち抜いた。
沈めない。
動けなくする。
それを、二隻分。
裕二が一隻目を制圧し終える頃には、残りの二隻も漂流状態になっていた。
救援物資船の甲板で、子供が泣いていた。
神通はその声を聞いて、自分の手が震えていることに気づいた。
深海棲艦を沈める時は、震えなかった。
人間を相手にすると、違った。
裕二が隣に来た。
「よくやった」
「褒められることではありません」
「船を守った」
「人間を撃つところでした」
「撃たなかった」
「撃てたかもしれません」
「撃たなかった」
裕二は短く言った。
「そこが大事だ」
神通は、海賊艇の甲板でうずくまる男たちを見た。
彼らは怯えていた。深海棲艦ではない。人間だった。
「深海棲艦の方が、楽です」
「そうだな」
裕二は否定しなかった。
「人間相手は面倒だ。言い訳をする。命乞いをする。泣く。嘘をつく。なのに、撃てばこっちの手も汚れる」
「では、なぜ戦うのですか」
「守る相手も人間だからだ」
神通は答えなかった。
その夜から、横須賀の鬼兄妹の噂には続きが増えた。
深海棲艦だけではない。
海賊も、彼らの前では逃げられない。
ただし、その噂を聞いた神通は、いつも嫌そうな顔をした。
彼女は鬼になりたかったわけではない。
ただ、守るために戦うと決めただけだった。
*
食堂で、神通はそこまで話して口を閉じた。
結有は黙っていた。
父の若い頃の話は、いくつか聞いたことがある。
だが、それはたいてい「骨が折れた」「上官に怒られた」「時雨に怒られた」「なぜか生き残った」という雑な話ばかりだった。
神通の口から聞くと、同じ男の話なのに重さが違った。
「父、昔から無茶だったんですね」
「今もです」
「否定できない」
暁は少し青い顔をしていた。
「神通さん、戦艦棲姫までなら単独で沈めたって本当?」
神通は静かに答えた。
「条件が整えば、です。いつでも可能という意味ではありません」
「それでもすごいわ」
「すごいことではありません。出力を瞬間的に上げすぎれば、艤装にも身体にも負担がかかります。真似してはいけません」
神通の視線が結有に向いた。
「特に、各務原候補生」
「はい」
「あなたは今、少し真似できるか考えましたね」
「少し」
「考えないでください」
「はい」
アイが神通を見た。
「神通は、鬼?」
神通は少し困ったように目を伏せた。
「そう呼ばれたことはあります。でも、私は鬼ではありません」
「じゃあ何」
「艦娘です」
アイはしばらく考えた。
「返り血の艦娘」
「その呼び方もやめてください」
最上が肩を震わせている。
「アイ、命名が直球すぎる」
夕立が言った。
「でも、神通さんが強いのは知ってたっぽい。優しいけど、強い」
神通は夕立を見た。
「優しいかは、わかりません」
「優しいっぽい」
夕立は迷わず言った。
「怖いけど」
「そこは言うのですね」
「ぽい」
結有は神通を見た。
今まで、神通は自分の無茶を止める人だった。
静かに怒り、反省文を命じ、救助用モーターボートの鍵を管理する人。
でも、それだけではなかった。
戦争初期、誰も戦い方を知らなかった頃。
父と一緒に水際で深海棲艦を狩り、人間の海賊も止め、返り血を浴びて帰ってきた艦娘。
怖がるのは、終わってから。
その言葉が、結有の胸に残った。
「神通さん」
「はい」
「父は、神通さんのことを何て言ってました?」
「各務原二尉が、ですか」
「はい」
神通は少しだけ遠い目をした。
「よく怒られました」
「父が?」
「はい。『出力を上げすぎるな』『単独で突っ込むな』『沈めば終わりだ』と」
結有は思わず笑った。
「父にだけは言われたくないやつだ」
「私もそう言いました」
「言ったんですか」
「言いました」
神通の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「すると各務原二尉は、『俺は人間だから沈まない』と言いました」
「最低の屁理屈だ」
「はい」
神通は静かにうなずいた。
「時雨さんも、同じことを言っていました」
時雨。
その名で、結有の表情が少し変わった。
神通は続ける。
「時雨さんは、各務原二尉と私をよく叱っていました。二人とも無茶をしすぎる、と」
「母さんが」
「はい」
「母さん、父のこと何て呼んでました?」
神通は少し考えた。
「裕二さん、と」
結有は目を丸くした。
「うわ」
「どうしました」
「家だと父さん、母さんに名前呼ばれるとだいたい姿勢がよくなってた」
暁が小さく笑った。
「鬼の各務原一佐にも、弱点があるのね」
「母さんは強かったから」
結有はそう言ってから、少しだけ黙った。
アイが隣で結有を見る。
「痛い?」
「いや」
「嘘」
「少し」
アイは何も言わず、結有の袖をつまんだ。
神通はそれを見ていた。
「各務原候補生」
「はい」
「あなたのお父様も、時雨さんも、完全な人ではありませんでした。私もそうです」
「はい」
「強い人ほど、間違えます。強いから、多少の無茶が通ってしまう。通ってしまうから、自分が正しいと錯覚することがある」
結有は、ブラック鎮守府で男を殴った時の感触を思い出した。
腹。顔。
本当はもっと殴りたかった。
止まれたのは、神通が来たからだ。アイが隣にいたからだ。暁が叫んでいたからだ。
「強さは、理由になりません」
神通は静かに言った。
「誰かを守るための力でなければ、ただの暴力です」
アイが小さく言う。
「守るためなら?」
「それでも、考え続ける必要があります」
「面倒」
「はい。面倒です」
神通は否定しなかった。
「ですが、その面倒から逃げた人間が、誰かを物のように扱います」
アイは黙った。
結有は深く息を吸った。
「神通さん」
「はい」
「僕、たぶんまた前に出ます」
「でしょうね」
「そこは否定してほしかった」
「事実ですから」
「でも、ちゃんと考えます。殴る前に」
「まず報告してください」
「はい」
「それから判断してください」
「はい」
「その上で必要なら」
神通は少し間を置いた。
「生きて帰る形で、前へ出なさい」
結有は背筋を伸ばした。
「はい」
暁が満足そうにうなずいた。
「そうよ。司令官候補なんだから、ちゃんと生きて帰るのが一番大事なの」
「暁、いいこと言う」
「当然よ。一人前のレディだもの」
アイが暁を見る。
「赤いレディも、いいこと言う」
「暁よ! でも今のは許すわ!」
夕立が笑った。
「なんだか、いい話っぽい」
最上もうなずく。
「だね。横須賀の鬼兄妹の話から、よくここまで落ち着いたよ」
神通は咳払いした。
「その呼び名は、あまり広めないでください」
その数時間後。
浜松鎮守府の非公式通信欄に、こう書かれた。
『神通さん、昔は横須賀の鬼妹だったらしい』
投稿者は不明。
神通はそれを見て、しばらく黙った。
その日の午後、結有の座学時間は一時間延びた。
理由は「情報管理教育」。
結有は何も投稿していなかったが、なぜか巻き込まれた。
アイは隣で言った。
「鬼妹、怒った」
「言わない方がいいよ」
「なぜ」
「座学が増える」
アイは少し考えた。
「神通は鬼」
その瞬間、背後から静かな声がした。
「アイさん」
アイは振り向いた。
神通が立っていた。
静かだった。
とても静かだった。
「情報管理教育に、あなたも参加しましょう」
「……脳筋のせい」
「僕!?」
暁は廊下の向こうで笑いをこらえていた。
横須賀の鬼兄妹。
その名は、戦争初期の混乱と血と煙の中で生まれた。
今ではもう、公式記録のどこにも残っていない。残すべきではない名だったのかもしれない。
けれど結有は、少しだけ思った。
父がいて、神通がいて、時雨がいた。
誰もが間違えながら、それでも守るために戦っていた。
その先に、自分がいる。
なら、自分も間違えないようにしなければならない。
たぶん、間違える。
きっと、また飛ぶ。
神通に怒られる。暁に叫ばれる。アイに脳筋と言われる。
それでも。
前に出るなら、隣を見る。
自分の拳が、何のためにあるのかを忘れない。
結有は、そう決めた。
その横で、アイが小さくつぶやいた。
「鬼兄妹」
「アイ」
「何」
「それ、神通さんの前で言わない方がいい」
「もう遅い」
廊下の向こうで、神通が静かに振り返った。
その日の反省文は、二人で十枚ずつだった。