艦隊これくしょん 残響のアイ   作:SAMICO

7 / 52
第5話 横須賀の鬼兄妹

 各務原結有は、浜松鎮守府で一つ学んだ。

 

 神通は、怒ると静かになる。

 

 もう一つ学んだ。

 

 神通は、褒められても静かになる。

 

「横須賀の鬼兄妹?」

 

 結有がそう言った瞬間、食堂の空気が少し止まった。

 

 昼食時だった。

 結有、アイ、暁、神通、最上、夕立が同じ卓にいた。アイは焼き魚の小骨を無表情で取り除いている。暁はそれを見て「そこは上手なのね」と変な感心をしていた。

 

 神通は味噌汁の椀を持ったまま、動きを止めた。

 

「どこで、その名を?」

 

「父から」

 

 結有は平然と答えた。

 

「昨日、電話で言ってた。『神通には逆らうな。あいつは俺と組んで深海棲艦を狩っていた頃、横須賀の鬼兄妹と呼ばれていた』って」

 

 暁が目を丸くした。

 

「鬼兄妹?」

 

 夕立が身を乗り出す。

 

「何それ、強そうっぽい!」

 

 最上は「あー」と、何か知っているような知らないような顔をした。

 

 アイは神通を見た。

 

「鬼?」

 

「違います」

 

 神通は即答した。

 

「人間?」

 

「艦娘です」

 

「鬼艦娘」

 

「違います」

 

 神通の声はいつも通り穏やかだった。

 だが、結有は気づいた。

 

 これは照れている。

 

 たぶん。

 

「神通さん、父と知り合いだったんですか」

 

「戦争初期に、少し」

 

「少し?」

 

 結有が聞き返す。

 

 最上が苦笑した。

 

「戦争初期の“少し”って、だいたい濃いんだよね」

 

「最上さん」

 

「ごめんごめん。でも、僕も聞きたいかな。横須賀の鬼兄妹って、噂だけは聞いたことある」

 

 暁が興味津々で言った。

 

「私も聞きたいわ。一人前のレディとして、先輩艦娘の武勇伝は知っておくべきだもの」

 

 アイも短く言う。

 

「聞く」

 

 神通はしばらく黙っていた。

 

 食堂のざわめきが遠くなる。

 彼女の目が、窓の外の海へ向いた。

 

 浜松の穏やかな昼の海ではない。

 もっと煙たく、もっと赤く、もっと混乱した海を見ている目だった。

 

「武勇伝ではありません」

 

 神通は静かに言った。

 

「ただ、生き残るために戦っていた頃の話です」

 

      *

 

 2011年。

 

 深海棲艦が現れてから、世界はあまりにも早く壊れた。

 

 大きな戦争には、開戦の儀式がある。宣戦布告、国会承認、軍の動員、世論の変化。人間同士の戦争なら、どれほど乱暴でも、そこに人間の手続きがあった。

 

 だが、深海棲艦にはそれがなかった。

 

 ある日、海が敵になった。

 

 横須賀は最前線の一つだった。

 

 港には沈みかけた艦艇が運び込まれ、岸壁には煤けた制服の自衛官たちが走り回っていた。補給は滞り、情報は錯綜し、何が正しくて何が間違いなのか、誰にもわからなかった。

 

 その頃の神通は、まだ現在ほど落ち着いてはいなかった。

 

 艦娘として現れ、戦えることはわかっていた。

 だが、どう戦うべきかは誰も知らない。艤装の扱いも、霊子の出力制御も、提督との連携も、すべてが手探りだった。

 

 そして、深海棲艦は待ってくれなかった。

 

 ある夜、横須賀近郊の海岸線に、深海棲艦が上陸した。

 

 数は少ない。

 小型数体。中型一体。

 

 それでも、当時の人類にとっては十分な災厄だった。

 

 海から砲撃し、崩れた防波堤を越え、港湾施設へ向かう。自衛隊の火器は効果が不安定。艦船からの攻撃は逸れる。陸上火器なら当たることもあるが、決定打にはなりにくい。

 

 その夜、現場へ最初に突っ込んだ陸自の小隊に、若い二等陸尉がいた。

 

 各務原裕二。

 

 まだ鬼と呼ばれる前の男である。

 

 いや、正確には、その頃からすでに少し呼ばれていた。

 

 彼は海岸線の瓦礫の陰で、部下に低く言った。

 

「撃っても効きが悪い。なら近づく」

 

 部下の一人が耳を疑った。

 

「近づく、ですか」

 

「そうだ」

 

「相手は深海棲艦です」

 

「見ればわかる」

 

「殴るんですか」

 

「刺す」

 

 裕二はナイフを抜いた。

 

 普通のナイフではなかった。

 急造の霊子処理を施した近接戦闘用刃物。効果は保証されていない。そもそも、深海棲艦相手に人間が陸上で近接戦闘を挑むという発想自体が、まともな作戦書には存在しなかった。

 

 だが、各務原裕二はまともな作戦書だけで動く男ではなかった。

 

 彼は瓦礫を蹴って飛び出した。

 

 深海棲艦の小型個体が砲口を向ける。

 

 裕二は低く沈み込んだ。

 骨法の歩法。直線ではなく、相手の意識の隙間へ滑り込むような動き。砲撃が背後のコンクリートを砕く。破片が頬を切ったが、止まらない。

 

 懐へ入る。

 

 装甲の継ぎ目へ、ナイフを突き込む。

 

 深海棲艦が、獣のような声を上げた。

 

「効くな」

 

 裕二は笑った。

 

 そして、もう一撃。

 

 その時、海側から砲声が響いた。

 

 神通だった。

 

 彼女は海面を走り、敵の中型個体へ単独で突っ込んでいた。通常出力では押し切れない。そう判断した神通は、艤装の出力を瞬間的に引き上げた。

 

 安全域を越える。

 

 現在なら、絶対に許可されない操作だった。

 艤装の妖精さんたちが悲鳴のような光を散らす。砲身が赤熱し、神通の髪が風で暴れる。

 

 だが、彼女の照準は揺れなかった。

 

 砲撃。

 

 一射目で敵の脚を止める。

 二射目で装甲を割る。

 三射目で核に当てる。

 

 中型深海棲艦が崩れた。

 

 爆ぜた黒い液体が、雨のように神通へ降りかかる。

 

 彼女は拭わなかった。

 

 そのまま、次の敵へ向かった。

 

 後に、ある整備員が言った。

 

 あの頃の神通は、海から帰ってくるたびに返り血を浴びていた、と。

 

 深海棲艦の黒い血。

 鉄と潮と、説明できない冷たさの混ざった匂い。

 

 それでも彼女は、いつも静かだった。

 

 静かに戦い、静かに戻り、静かに艤装を点検に出した。

 誰かが「怖くないのか」と聞いた時、彼女は短く答えた。

 

「怖がるのは、終わってからにします」

 

 その夜、裕二と神通は初めて同じ戦場で戦った。

 

 裕二は陸で狩る。

 神通は水際で沈める。

 

 深海棲艦が海から上がろうとすれば、神通が出力を跳ね上げて叩き返す。

 すでに上陸した個体は、裕二が骨法とナイフで関節部、継ぎ目、感覚器官を潰して止める。

 

 人間と艦娘。

 

 当時はまだ、どう協力すればいいのか誰も知らなかった。

 だが、その二人だけは妙に噛み合った。

 

 言葉は少ない。

 

「右」

 

「承知」

 

「でかいのが来る」

 

「沈めます」

 

「一体抜けた」

 

「任せます」

 

「任された」

 

 それだけで十分だった。

 

 戦闘後、裕二は防波堤に腰を下ろし、血と油で汚れたナイフを拭いていた。

 

 神通は海から戻ってきた。

 制服は破れ、頬には黒い液体がついている。艤装は軋み、妖精さんたちは疲れ切った顔で甲板の隅に座っていた。

 

 裕二は神通を見上げた。

 

「お前、無茶をするな」

 

 神通は彼を見た。

 

「あなたに言われたくありません」

 

「俺は人間だ」

 

「なお悪いです」

 

 裕二は少し笑った。

 

「名前は」

 

「神通です」

 

「俺は各務原裕二。陸自だ」

 

「存じています。先ほど、深海棲艦にナイフで斬りかかっていましたから」

 

「効いたぞ」

 

「効いたからよい、という話ではありません」

 

「お前も出力を上げすぎだ」

 

「沈みました」

 

「沈んだからよい、という話ではない」

 

 二人はしばらく黙った。

 

 それから、裕二が言った。

 

「似た者同士か」

 

「不本意です」

 

「俺もだ」

 

 その翌週から、横須賀の水際では妙な噂が流れ始めた。

 

 陸に上がった深海棲艦は、鬼のような二尉がナイフで仕留める。

 海から来る大物は、返り血を浴びた軽巡が単独で沈める。

 

 誰が言い出したのかはわからない。

 

 横須賀の鬼兄妹。

 

 裕二は「悪くない」と言った。

 神通は「訂正してください」と言った。

 

 訂正はされなかった。

 

      *

 

 戦争初期の混乱は、深海棲艦だけを連れてきたわけではなかった。

 

 海運が止まり、物流が壊れ、港湾都市の秩序が薄くなると、人間の中にも海を荒らす者が出た。

 

 海賊。

 

 最初は、そう呼ぶには小さな犯罪だった。

 漂流貨物の略奪。放棄船舶からの物資盗難。難民船への恐喝。

 

 だが、戦争が長引くにつれて、彼らは武装し始めた。

 

 深海棲艦の襲撃を逃れた小型船を狙う。

 救援物資を横流しする。

 避難民を乗せた船から燃料や食料を奪う。

 

 深海棲艦は人類の敵だった。

 

 だが、人間が人間を食い物にする姿は、神通に別の種類の嫌悪を覚えさせた。

 

 ある晩、横須賀沖で救援物資を運ぶ小型輸送船が襲われた。

 

 犯人は人間だった。

 

 武装した小型艇が三隻。

 船上には女性や子供もいる。

 銃を持った男たちが、物資を渡せと叫んでいた。

 

 神通は出撃を命じられた。

 

 ただし、相手は深海棲艦ではない。

 人間だ。

 

 砲撃すれば簡単に沈む。

 だが、それはできない。

 

 神通は海面を走りながら、初めて深海棲艦以外の敵を前にした。

 

 その時、陸側から通信が入った。

 

『神通、聞こえるか』

 

「各務原二尉?」

 

『船を沈めるな。男どもだけ止めろ』

 

「簡単に言いますね」

 

『お前ならできる』

 

「あなたは?」

 

『一隻目に乗る』

 

 直後、海賊艇の一つで悲鳴が上がった。

 

 裕二が乗り込んでいた。

 

 どうやって接近したのか、神通には一瞬わからなかった。後に聞けば、小型ゴムボートで暗闇に紛れて近づき、船縁に飛び移ったらしい。正気ではない。

 

 裕二は銃を持つ男の腕を折り、二人目の顎を打ち抜き、三人目を甲板に押し倒した。ナイフは抜いているが、刃は使わない。相手は人間だからだ。

 

 神通は残る二隻の進路を塞いだ。

 

「こちらは横須賀鎮守府所属、軽巡神通です。武器を捨て、機関を停止してください」

 

 返答は銃声だった。

 

 弾丸が海面を跳ねる。神通には当たらない。

 彼女は砲を向けなかった。

 

 代わりに、艤装の出力を一点に絞った。

 

 水柱を上げる。

 

 海賊艇の前方で海が爆ぜ、小型艇が大きく揺れた。男たちが転倒する。神通はその隙に接近し、艤装の副砲で船の機関部だけを撃ち抜いた。

 

 沈めない。

 動けなくする。

 

 それを、二隻分。

 

 裕二が一隻目を制圧し終える頃には、残りの二隻も漂流状態になっていた。

 

 救援物資船の甲板で、子供が泣いていた。

 

 神通はその声を聞いて、自分の手が震えていることに気づいた。

 

 深海棲艦を沈める時は、震えなかった。

 人間を相手にすると、違った。

 

 裕二が隣に来た。

 

「よくやった」

 

「褒められることではありません」

 

「船を守った」

 

「人間を撃つところでした」

 

「撃たなかった」

 

「撃てたかもしれません」

 

「撃たなかった」

 

 裕二は短く言った。

 

「そこが大事だ」

 

 神通は、海賊艇の甲板でうずくまる男たちを見た。

 彼らは怯えていた。深海棲艦ではない。人間だった。

 

「深海棲艦の方が、楽です」

 

「そうだな」

 

 裕二は否定しなかった。

 

「人間相手は面倒だ。言い訳をする。命乞いをする。泣く。嘘をつく。なのに、撃てばこっちの手も汚れる」

 

「では、なぜ戦うのですか」

 

「守る相手も人間だからだ」

 

 神通は答えなかった。

 

 その夜から、横須賀の鬼兄妹の噂には続きが増えた。

 

 深海棲艦だけではない。

 海賊も、彼らの前では逃げられない。

 

 ただし、その噂を聞いた神通は、いつも嫌そうな顔をした。

 

 彼女は鬼になりたかったわけではない。

 

 ただ、守るために戦うと決めただけだった。

 

      *

 

 食堂で、神通はそこまで話して口を閉じた。

 

 結有は黙っていた。

 

 父の若い頃の話は、いくつか聞いたことがある。

 だが、それはたいてい「骨が折れた」「上官に怒られた」「時雨に怒られた」「なぜか生き残った」という雑な話ばかりだった。

 

 神通の口から聞くと、同じ男の話なのに重さが違った。

 

「父、昔から無茶だったんですね」

 

「今もです」

 

「否定できない」

 

 暁は少し青い顔をしていた。

 

「神通さん、戦艦棲姫までなら単独で沈めたって本当?」

 

 神通は静かに答えた。

 

「条件が整えば、です。いつでも可能という意味ではありません」

 

「それでもすごいわ」

 

「すごいことではありません。出力を瞬間的に上げすぎれば、艤装にも身体にも負担がかかります。真似してはいけません」

 

 神通の視線が結有に向いた。

 

「特に、各務原候補生」

 

「はい」

 

「あなたは今、少し真似できるか考えましたね」

 

「少し」

 

「考えないでください」

 

「はい」

 

 アイが神通を見た。

 

「神通は、鬼?」

 

 神通は少し困ったように目を伏せた。

 

「そう呼ばれたことはあります。でも、私は鬼ではありません」

 

「じゃあ何」

 

「艦娘です」

 

 アイはしばらく考えた。

 

「返り血の艦娘」

 

「その呼び方もやめてください」

 

 最上が肩を震わせている。

 

「アイ、命名が直球すぎる」

 

 夕立が言った。

 

「でも、神通さんが強いのは知ってたっぽい。優しいけど、強い」

 

 神通は夕立を見た。

 

「優しいかは、わかりません」

 

「優しいっぽい」

 

 夕立は迷わず言った。

 

「怖いけど」

 

「そこは言うのですね」

 

「ぽい」

 

 結有は神通を見た。

 

 今まで、神通は自分の無茶を止める人だった。

 静かに怒り、反省文を命じ、救助用モーターボートの鍵を管理する人。

 

 でも、それだけではなかった。

 

 戦争初期、誰も戦い方を知らなかった頃。

 父と一緒に水際で深海棲艦を狩り、人間の海賊も止め、返り血を浴びて帰ってきた艦娘。

 

 怖がるのは、終わってから。

 

 その言葉が、結有の胸に残った。

 

「神通さん」

 

「はい」

 

「父は、神通さんのことを何て言ってました?」

 

「各務原二尉が、ですか」

 

「はい」

 

 神通は少しだけ遠い目をした。

 

「よく怒られました」

 

「父が?」

 

「はい。『出力を上げすぎるな』『単独で突っ込むな』『沈めば終わりだ』と」

 

 結有は思わず笑った。

 

「父にだけは言われたくないやつだ」

 

「私もそう言いました」

 

「言ったんですか」

 

「言いました」

 

 神通の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

「すると各務原二尉は、『俺は人間だから沈まない』と言いました」

 

「最低の屁理屈だ」

 

「はい」

 

 神通は静かにうなずいた。

 

「時雨さんも、同じことを言っていました」

 

 時雨。

 

 その名で、結有の表情が少し変わった。

 

 神通は続ける。

 

「時雨さんは、各務原二尉と私をよく叱っていました。二人とも無茶をしすぎる、と」

 

「母さんが」

 

「はい」

 

「母さん、父のこと何て呼んでました?」

 

 神通は少し考えた。

 

「裕二さん、と」

 

 結有は目を丸くした。

 

「うわ」

 

「どうしました」

 

「家だと父さん、母さんに名前呼ばれるとだいたい姿勢がよくなってた」

 

 暁が小さく笑った。

 

「鬼の各務原一佐にも、弱点があるのね」

 

「母さんは強かったから」

 

 結有はそう言ってから、少しだけ黙った。

 

 アイが隣で結有を見る。

 

「痛い?」

 

「いや」

 

「嘘」

 

「少し」

 

 アイは何も言わず、結有の袖をつまんだ。

 

 神通はそれを見ていた。

 

「各務原候補生」

 

「はい」

 

「あなたのお父様も、時雨さんも、完全な人ではありませんでした。私もそうです」

 

「はい」

 

「強い人ほど、間違えます。強いから、多少の無茶が通ってしまう。通ってしまうから、自分が正しいと錯覚することがある」

 

 結有は、ブラック鎮守府で男を殴った時の感触を思い出した。

 

 腹。顔。

 本当はもっと殴りたかった。

 

 止まれたのは、神通が来たからだ。アイが隣にいたからだ。暁が叫んでいたからだ。

 

「強さは、理由になりません」

 

 神通は静かに言った。

 

「誰かを守るための力でなければ、ただの暴力です」

 

 アイが小さく言う。

 

「守るためなら?」

 

「それでも、考え続ける必要があります」

 

「面倒」

 

「はい。面倒です」

 

 神通は否定しなかった。

 

「ですが、その面倒から逃げた人間が、誰かを物のように扱います」

 

 アイは黙った。

 

 結有は深く息を吸った。

 

「神通さん」

 

「はい」

 

「僕、たぶんまた前に出ます」

 

「でしょうね」

 

「そこは否定してほしかった」

 

「事実ですから」

 

「でも、ちゃんと考えます。殴る前に」

 

「まず報告してください」

 

「はい」

 

「それから判断してください」

 

「はい」

 

「その上で必要なら」

 

 神通は少し間を置いた。

 

「生きて帰る形で、前へ出なさい」

 

 結有は背筋を伸ばした。

 

「はい」

 

 暁が満足そうにうなずいた。

 

「そうよ。司令官候補なんだから、ちゃんと生きて帰るのが一番大事なの」

 

「暁、いいこと言う」

 

「当然よ。一人前のレディだもの」

 

 アイが暁を見る。

 

「赤いレディも、いいこと言う」

 

「暁よ! でも今のは許すわ!」

 

 夕立が笑った。

 

「なんだか、いい話っぽい」

 

 最上もうなずく。

 

「だね。横須賀の鬼兄妹の話から、よくここまで落ち着いたよ」

 

 神通は咳払いした。

 

「その呼び名は、あまり広めないでください」

 

 その数時間後。

 

 浜松鎮守府の非公式通信欄に、こう書かれた。

 

『神通さん、昔は横須賀の鬼妹だったらしい』

 

 投稿者は不明。

 

 神通はそれを見て、しばらく黙った。

 

 その日の午後、結有の座学時間は一時間延びた。

 

 理由は「情報管理教育」。

 

 結有は何も投稿していなかったが、なぜか巻き込まれた。

 

 アイは隣で言った。

 

「鬼妹、怒った」

 

「言わない方がいいよ」

 

「なぜ」

 

「座学が増える」

 

 アイは少し考えた。

 

「神通は鬼」

 

 その瞬間、背後から静かな声がした。

 

「アイさん」

 

 アイは振り向いた。

 

 神通が立っていた。

 

 静かだった。

 

 とても静かだった。

 

「情報管理教育に、あなたも参加しましょう」

 

「……脳筋のせい」

 

「僕!?」

 

 暁は廊下の向こうで笑いをこらえていた。

 

 横須賀の鬼兄妹。

 

 その名は、戦争初期の混乱と血と煙の中で生まれた。

 今ではもう、公式記録のどこにも残っていない。残すべきではない名だったのかもしれない。

 

 けれど結有は、少しだけ思った。

 

 父がいて、神通がいて、時雨がいた。

 誰もが間違えながら、それでも守るために戦っていた。

 

 その先に、自分がいる。

 

 なら、自分も間違えないようにしなければならない。

 

 たぶん、間違える。

 きっと、また飛ぶ。

 神通に怒られる。暁に叫ばれる。アイに脳筋と言われる。

 

 それでも。

 

 前に出るなら、隣を見る。

 

 自分の拳が、何のためにあるのかを忘れない。

 

 結有は、そう決めた。

 

 その横で、アイが小さくつぶやいた。

 

「鬼兄妹」

 

「アイ」

 

「何」

 

「それ、神通さんの前で言わない方がいい」

 

「もう遅い」

 

 廊下の向こうで、神通が静かに振り返った。

 

 その日の反省文は、二人で十枚ずつだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。