浜松鎮守府にも、夏は来る。
深海棲艦は季節を選ばない。
哨戒任務も訓練も補給も、当然のように続く。
それでも、非番の艦娘と隊員たちが交代で海水浴に出る日くらいはあった。
場所は、鎮守府の管理区域内にある小さな砂浜。
一般客は入れない。
監視員あり。
哨戒網あり。
有事には三分で戦闘配置に戻れる。
つまり、たいへん物々しい海水浴場である。
「これ、海水浴っていうより、上陸作戦前の休憩じゃない?」
結有が言った。
暁は浮き輪を抱えて胸を張った。
「安全管理が行き届いていると言いなさい。一人前のレディは、遊ぶ時も備えを忘れないものよ」
「暁、その浮き輪かわいいね」
「べ、別にかわいさで選んだわけじゃないわ! 機能性よ、機能性!」
最上が笑い、夕立が砂浜を駆けていく。扶桑は日傘の下で穏やかに微笑み、山城は「日差しが不幸だわ」と言いながらも、姉の隣から動かない。
神通は水着の上に薄いパーカーを羽織り、監視役のような顔で全体を見ていた。
そしてアイは。
白いラッシュガードに、黒いショートパンツ。
白髪は結有が結んだ。
肌が青白いので、日焼け止めを三重に塗られている。
本人は無表情だった。
「べたべたする」
「日焼けしたら大変だから」
「焼けない」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんは怖い」
結有はさらに日焼け止めのチューブを構えた。
アイは一歩下がる。
「脳筋、しつこい」
「健康管理」
「攻撃に近い」
「塗るだけだって」
暁が横から入った。
「結有さん、アイが嫌がってるわ。そういう時は一度聞くの。一人前のレディの作法よ」
「アイ、塗っていい?」
「もう塗った」
「追加は?」
「拒否」
「了解」
結有はチューブをしまった。
アイは少しだけ意外そうに結有を見た。
「聞いた」
「暁先生の教育の成果」
「赤いレディ、有能」
「暁よ! でも今のは悪くないわ!」
そんな平和な時間は、三十分ほど続いた。
問題は、隣接する一般海岸から迷い込んだ若い男たちだった。
管理区域の境界には表示もロープもある。普通は入らない。
だが、夏の海には、文字が読めなくなる人間が一定数いる。
その三人組は、最初は夕立や最上に声をかけようとして、夕立の「訓練中なら沈めるっぽい?」という無邪気な返答と、最上の笑顔の圧で撤退した。
次に、彼らはアイを見つけた。
白髪。黒い目。幼い外見。
ひとりで波打ち際に立っている。
結有は少し離れた場所で、暁とビーチボールをしていた。神通は扶桑に飲み物を渡している。
男の一人が、にやつきながらアイに近づいた。
「ねえ、君ひとり?」
アイは男を見た。
「ひとりじゃない」
「友達と来てるの? かわいいね。何歳?」
「知らない」
「知らないって何? 面白いね」
別の男が笑った。
「こっちで一緒に遊ぼうよ。お兄さんたちがジュース買ってあげるからさ」
アイは無表情で言った。
「不要」
「そんなこと言わないでさ。白い髪、すごいね。地毛?」
「触るな」
「まだ触ってないじゃん」
男が手を伸ばした。
その瞬間。
砂浜の温度が下がった。
「その手」
神通の声がした。
「そこで止めてください」
男の手が空中で止まる。
神通が立っていた。
笑っていない。
怒鳴ってもいない。
ただ、とても静かだった。
結有も来ていた。
片手にビーチボールを持ったまま、目だけが全然笑っていない。
「アイ、大丈夫?」
「うるさいのが来た」
「そう」
結有は男たちを見た。
「管理区域への無断立ち入り。未成年に見える子へのしつこい声かけ。さらに髪に触ろうとした。満貫だね」
「は? 何だよ、お前」
男の一人が不機嫌そうに言った。
「友達? 別にナンパくらいいいだろ」
結有の眉が動いた。
「今、ナンパって言った?」
「だから何だよ」
神通の声がさらに静かになった。
「対象の年齢確認もせず、拒否を無視し、身体に触れようとした行為を、あなたはナンパと呼ぶのですか」
「いや、だから冗談じゃん」
「冗談」
結有がビーチボールを握りつぶした。
ぱん、と乾いた音がした。
暁が叫んだ。
「ああっ、私のビーチボール!」
だが結有は聞いていなかった。
「この」
神通と結有が、同時に一歩前へ出た。
「○リコンが!」
声が完全に重なった。
男たちが後ずさった。
神通の背後に、うっすら艤装の気配が見えた。
結有の足元では、砂が霊子でわずかに弾けている。
アイは二人を見て、少し首を傾げた。
「成敗?」
「成敗」
結有が即答した。
「各務原候補生」
神通が言った。
「はい」
「相手は民間人です」
「わかっています」
「ですので、殺傷は不可です」
「了解です」
「制圧は」
「必要最小限」
「よろしい」
暁が真っ青になった。
「よろしくない! 神通さんまで何を冷静に制圧手順を確認してるの!」
最上が慌てて走ってくる。
「待って待って、二人とも! ここ海水浴回だから!」
夕立も続く。
「ぽいぽい落ち着くっぽい!」
扶桑が日傘を置いて立ち上がる。
「神通さん、結有さん、ここは警備隊に」
山城は男たちを見て低く言った。
「でも一発くらいなら不幸な事故で」
「山城!」
扶桑がたしなめる。
男たちはようやく状況の異常さに気づいた。
目の前には、静かに怒る軽巡神通。
隣には、深海棲艦に飛び蹴りすることで有名な脳筋提督候補。
後ろには、白い謎の少女。
さらに周囲の艦娘たち全員が、まったく味方ではない顔をしている。
「い、いや、ちょっと声かけただけで」
「拒否された時点で終わりです」
神通が言った。
「立ち去ってください」
男の一人が舌打ちした。
「何だよ、調子乗って」
その言葉が、最後だった。
結有が一歩踏み込む。
最上と暁が同時に結有の腰へしがみついた。
「結有さん、だめ!」
「待って待って、まだ殴ってないから! まだ!」
神通も動こうとした。
夕立と扶桑が両側から止める。
「神通さん、艤装出力上げないっぽい!」
「落ち着いてください、ね?」
山城は止める側に回るか迷って、結局男たちに向かって言った。
「早く逃げなさい。姉様が止めているうちに」
男たちは逃げた。
全力で逃げた。
砂に足を取られ、ひとりが転び、もうひとりがそれにつまずき、最後は三人まとめて一般海岸側へ転がるように消えていった。
警備隊が後を追う。
砂浜に、妙な静寂が戻った。
結有はまだ最上と暁に押さえられている。
「もう逃げた?」
暁が言った。
「逃げたわ」
「じゃあ離して」
「追いかけない?」
「追いかけない」
「本当に?」
「半分」
「離せない!」
神通は扶桑と夕立に止められたまま、静かに息を吐いた。
「申し訳ありません。少し冷静さを欠きました」
最上が苦笑する。
「少し?」
「少しです」
夕立が小声で言った。
「神通さんの少し、怖いっぽい」
アイは波打ち際から、神通と結有を見ていた。
「二人とも怒った」
「怒るわよ!」
暁が言った。
「アイが嫌がってたんだから!」
「私は平気」
アイは無表情だった。
だが、結有は気づいた。
アイの手が、少しだけラッシュガードの裾を握っている。
結有は暁たちに解放されると、アイの前にしゃがんだ。
「平気でも、嫌だったら嫌って言っていい」
「言った」
「うん。言えてた」
「でも来た」
「じゃあ、次はもっと大きく言う。それでも来たら、僕らを呼ぶ」
アイは結有を見る。
「呼べば来る?」
「来る」
神通も近づいて言った。
「必ず」
アイは少し考えた。
「成敗する?」
「必要に応じて」
神通が真顔で答えた。
暁が頭を抱える。
「そこは通報って言って!」
結有は笑った。
「通報してから成敗」
「順番!」
「順番は大事」
アイが言った。
暁はアイを見た。
「あなた、変なところだけ結有さんに染まってるわよ!」
「百合アニメにも染まった」
「それは今関係ない!」
最上が吹き出した。
夕立も笑い、扶桑はほっとしたように微笑んだ。山城はまだ男たちが逃げた方向を睨んでいた。
その後、海水浴は再開された。
ただし、結有と神通はしばらく監視対象になった。
暁が笛を持ち、最上が見張り、夕立が「危なくなったらぽいって止める係」を名乗り出た。神通は不本意そうだったが、否定しなかった。
アイは結有の隣に座って、波を見ていた。
「結有」
「何?」
「私、かわいい?」
結有は一瞬固まった。
周囲の耳が、明らかにこちらを向いた。
「えっと」
「さっき言われた」
「ああ」
結有は少し考えた。
「かわいいと思うよ。でも、嫌な言われ方だったなら、受け取らなくていい」
「嫌な言われ方」
「うん。言葉って、誰がどういうつもりで言うかで変わるから」
「結有が言うなら?」
「僕が?」
「うん」
結有は少し照れた。
「かわいいよ。あと、かっこいい」
アイは結有を見た。
「両方?」
「両方」
「欲張り」
「いいじゃん」
アイは、ほんの少しだけ結有の肩に寄った。
「なら、受け取る」
暁が遠くで真っ赤になった。
「こ、これは情緒教育の成果……!」
最上が言った。
「暁、あれはもう君の手を離れてると思うよ」
夕方。
浜松鎮守府の非公式日誌には、こう記された。
『夏季慰安海水浴、実施』
『一般男性三名が管理区域へ迷入、警備隊により確保』
『神通および各務原候補生、一時的に過剰制圧の構え』
『暁、最上、夕立、扶桑が阻止』
『山城、阻止側に回るか迷う』
『アイ、かわいいとかっこいいを受領』
そして最後に、誰かの手で一文が足された。
『この○リコンが、は二名同時発声だった』
神通はその日誌を見て、静かに削除申請を出した。
結有は反省文を十枚書いた。
題名は、また神通が決めた。
『民間人に対する成敗という表現の不適切性について』
アイは横で見ていた。
「成敗はだめ?」
「場合による」
「また言ったら怒られる」
「たぶん」
「なら、通報してから成敗」
「アイ、それも反省文増えるやつ」
廊下の向こうから、神通の静かな声がした。
「増やしますか?」
二人は同時に背筋を伸ばした。