艦隊これくしょん 残響のアイ   作:SAMICO

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第6話 正式な提督就任試験

 各務原結有は、提督候補生である。

 

 この肩書きは便利だった。

 失敗すれば「まだ候補生だから」と言われる。

 無茶をすれば「候補生のくせに」と怒られる。

 戦果を出せば「候補生なのに」と驚かれる。

 

 つまり、何をしても面倒な肩書きだった。

 

「正式な提督就任試験?」

 

 浜松鎮守府の食堂で、結有は味噌汁の椀を持ったまま聞き返した。

 

 正面に座る神通は、いつも通り静かにうなずく。

 

「はい。艦娘本部から通達がありました。各務原候補生には、正式な提督任官試験を受けていただきます」

 

「僕、まだ反省文の未提出分が残ってるんですが」

 

「それも含めて評価対象です」

 

「だめじゃないですか」

 

「かなり不利です」

 

 神通は否定しなかった。

 

 横で暁が胸を張った。

 

「でも大丈夫よ。結有さんには私たちがいるんだから。一人前のレディとして、試験対策くらい手伝ってあげるわ」

 

「ありがとう、暁」

 

「まず、試験中に飛ばないこと」

 

「そこから?」

 

「そこからよ!」

 

 アイは結有の隣で焼き魚を食べていた。

 最近は小骨を取るのが上達している。醤油の量も、暁の指導で人類の範囲に収まるようになった。

 

「試験」

 

 アイが言った。

 

「うん。正式な提督になれるかどうかの試験」

 

「脳筋でも?」

 

「脳筋でも」

 

「すごい制度」

 

「どういう意味?」

 

「懐が広い」

 

「褒めてる?」

 

「半分」

 

 結有は味噌汁をすすった。

 

 神通は端末を開き、試験概要を読み上げた。

 

「試験内容は三部構成です。筆記、指揮演習、面接。指揮演習では、複数の提督候補生による合同シミュレーションを行います」

 

「他の候補も来るんですか」

 

「はい。自衛隊から推薦された候補者も複数名参加します」

 

 その言葉に、結有は少しだけ眉を動かした。

 

 自衛隊推薦候補。

 

 艦娘本部の提督には、大きく二種類の経路がある。

 艦娘や妖精さんとの適性が確認され、民間や各機関から志願する者。

 そして、自衛隊内部から選抜される者。

 

 どちらが上というわけではない。

 ない、はずだった。

 

 だが、現場では時々揉める。

 

 自衛隊出身者からすれば、軍事教育を受けていない民間上がりの提督候補は危なっかしい。

 民間上がりからすれば、艦娘を通常部隊の延長として扱おうとする自衛隊候補は融通が利かない。

 

 結有は一応、民間志願者枠だった。

 

 父は陸自の一等陸佐だが、結有本人は高校を卒業したばかりで、自衛官ではない。

 そのうえ、着任初日に救助用モーターボートから飛び蹴りをしている。

 

 自衛隊候補から見れば、だいぶ不愉快な存在だろう。

 

「揉めそう」

 

 結有が言った。

 

 神通は静かに答えた。

 

「揉めないようにしてください」

 

「はい」

 

「各務原候補生」

 

「はい」

 

「今の返事は信用できません」

 

「ひどい」

 

「実績があります」

 

 暁が大きくうなずいた。

 

「そうよ。結有さんは、揉めごとの匂いがすると前に出るもの」

 

「そんなことない」

 

「ブラック鎮守府」

 

「あれは出るでしょ」

 

「海水浴」

 

「あれも出るでしょ」

 

「砲弾」

 

「あれは蹴るでしょ」

 

「蹴らないの!」

 

 アイが結有を見た。

 

「試験でも蹴る?」

 

「何を?」

 

「人」

 

「蹴らない」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

 神通の視線が鋭くなった。

 

「蹴りません」

 

 結有は言い直した。

 

 神通はうなずいた。

 

「よろしいです」

 

 その日の午後から、結有の試験対策が始まった。

 

 筆記は惨憺たるものだった。

 

 艦娘運用規則。

 補給管理。

 鎮守府間連携。

 深海棲艦種別判定。

 交戦規定。

 非戦闘員保護。

 妖精さんとの協同手順。

 

 結有は問題用紙を前にして、しばらく黙った。

 

「神通さん」

 

「はい」

 

「深海棲艦の弱点部位を書く欄に、『顔面』って書いてもいいですか」

 

「だめです」

 

「でも効きます」

 

「試験では不適切です」

 

「じゃあ『装甲の継ぎ目』」

 

「それは正解に近いです」

 

「父なら『関節』って書きます」

 

「あなたはお父様ではありません」

 

「はい」

 

 暁は横で参考書を開き、結有のノートを覗き込んだ。

 

「結有さん、ここ。提督の役割は?」

 

「艦娘を指揮して、全員生きて帰す」

 

「いいじゃない」

 

「あと必要なら殴る」

 

「余計!」

 

 アイはさらに横で、試験問題を見ていた。

 

「この問題、おかしい」

 

「どれ?」

 

「問三。深海棲艦との交戦時、提督が取るべき行動」

 

「選択肢があるね」

 

「一、後方で指揮。二、艦娘と連携。三、撤退判断。四、自ら突撃」

 

「四は罠だね」

 

「結有は四」

 

「僕もそれは罠だとわかる」

 

「でも選ぶ」

 

「選ばない」

 

「体が?」

 

「体が先に選ぶ可能性はある」

 

「だめじゃない!」

 

 暁がまた叫んだ。

 

 試験前夜、神通は結有に短く言った。

 

「明日は、自衛隊からの候補も多数います」

 

「はい」

 

「彼らは訓練を受けています。規律、指揮、組織運用については、あなたより上でしょう」

 

「はい」

 

「ですが、あなたにはあなたの見方があります。艦娘を駒としてではなく、隣で戦う相手として見る。それは欠点ではありません」

 

 結有は神通を見た。

 

「神通さん」

 

「はい」

 

「褒めてます?」

 

「評価しています」

 

「神通さんの評価、褒めより嬉しいかもしれない」

 

「明日、問題を起こさなければ褒めます」

 

「急に難易度が上がった」

 

「上げていません」

 

 アイが横から言った。

 

「問題が来たら?」

 

「避けます」

 

 神通が答える。

 

「避けられなかったら?」

 

「報告します」

 

「報告して間に合わなかったら?」

 

 神通は少しだけ黙った。

 

「その時は、最低限にしてください」

 

「最低限」

 

 アイは結有を見た。

 

「聞いた?」

 

「聞いた」

 

「最低限ならいい」

 

「よくない方向に理解しないでください」

 

 神通の声が静かになった。

 

 結有とアイは同時に背筋を伸ばした。

 

      *

 

 翌朝。

 

 艦娘本部東海試験センター。

 

 そこは浜松鎮守府から車両で移動できる距離にある、提督候補生の訓練・試験施設だった。

 敷地内には講義棟、演習室、シミュレーター棟、簡易泊地、艤装整備施設が並んでいる。

 

 結有は支給制服に身を包み、神通、暁、アイとともに受付へ向かった。

 

 アイは正式な同行者ではない。

 監視対象であり、浜松鎮守府預かりの未確認個体であるため、神通の申請により特別見学扱いとなっていた。

 

 もっとも、アイ本人は見学する気があるのかないのか、無表情で結有の隣を歩いている。

 

「緊張してる?」

 

 暁が聞いた。

 

「少し」

 

 結有は答えた。

 

「珍しいわね」

 

「筆記があるから」

 

「そこなの?」

 

「乱闘ならまだ対応できる」

 

「対応しないで!」

 

 その言葉を、近くにいた自衛隊制服の青年が聞いていた。

 

 年は二十代前半。

 肩幅があり、姿勢がよく、目つきも鋭い。

 階級章から見るに、三等海尉。海自推薦の提督候補らしい。

 

 彼は結有を見て、鼻で笑った。

 

「君が、例の各務原か」

 

 結有は振り向いた。

 

「はい。各務原結有です」

 

「噂は聞いている。ボートで突撃した候補生。深海棲艦を刺身にした民間人。ブラック鎮守府に押し入って提督を殴った問題児」

 

 暁の眉がつり上がった。

 

「言い方!」

 

 青年は暁を一瞥し、さらに続けた。

 

「艦娘本部も甘くなったものだ。軍事教育も受けていない高校上がりを、時雨の娘というだけで試験に通すつもりか」

 

 空気が冷えた。

 

 時雨の娘。

 

 その言葉だけなら、結有は慣れている。

 だが、その言い方は違った。

 

 結有の表情が、少し消えた。

 

 神通が一歩前に出ようとした。

 だが、結有は手で制した。

 

「名前を聞いても?」

 

「海上自衛隊三等海尉、鷹取修平。今回の試験で正式任官する予定だ」

 

「予定」

 

「当然だ。こちらは正規の訓練を受けている」

 

「そうですか」

 

 結有はうなずいた。

 

「よろしくお願いします、鷹取候補」

 

 鷹取は少し不快そうに眉を寄せた。

 

「ずいぶん余裕だな」

 

「揉めると神通さんに怒られるので」

 

「怒られなければ揉めるのか」

 

「たぶん」

 

 暁が結有の袖を引っ張った。

 

「結有さん」

 

「ごめん」

 

 アイは鷹取をじっと見ていた。

 

 鷹取はそこで初めて、アイを正面から見た。

 白髪。

 黒い目。

 青白い肌。

 深海とも艦娘ともつかない気配。

 

 彼の顔に、あからさまな嫌悪が浮かんだ。

 

「それが例の深海混じりか」

 

 結有の肩がぴくりと動いた。

 

 神通の目も細くなる。

 

 鷹取は続けた。

 

「よく連れて歩けるな。敵性個体かもしれないものを」

 

 アイは無表情だった。

 

「敵かもしれない」

 

「自覚はあるらしい」

 

「あなたも、敵かもしれない」

 

 鷹取の顔色が変わった。

 

「何だと?」

 

「結有に嫌な言い方をした。私には敵寄り」

 

「未確認個体が、人間の候補に口を利くな」

 

 その瞬間、結有が一歩前に出た。

 

 暁が反射的に袖を掴む。

 

「結有さん!」

 

「大丈夫。まだ殴らない」

 

「まだって言った!」

 

 神通が静かに言った。

 

「鷹取候補。アイさんは浜松鎮守府の保護対象です。敵性と断定する権限は、あなたにはありません」

 

「神通さんほどの艦娘が、なぜこんな候補生と深海混じりの肩を持つんです」

 

「肩を持っているのではありません。事実を述べています」

 

 鷹取は舌打ちした。

 

「まあいい。演習でわかる。感情で突っ込むだけの候補に、提督は務まらない」

 

 彼はそう言って去っていった。

 

 結有はその背中を見送った。

 

 アイが言う。

 

「殴らないの」

 

「試験前だから」

 

「えらい」

 

「もっと褒めて」

 

「三点」

 

「百点満点?」

 

「十点」

 

「微妙」

 

 暁は胸を撫で下ろした。

 

「本当に心臓に悪いわ……」

 

 神通は結有を見た。

 

「よく我慢しました」

 

「褒められた」

 

「ただし、演習中に感情的にならないように」

 

「はい」

 

 結有はうなずいた。

 

 その時は、本気でそう思っていた。

 

      *

 

 筆記試験は、思ったより何とかなった。

 

 暁の予想問題がかなり当たったからだ。

 結有は「暁先生」と呼び、暁は「当然よ」と言いながら照れていた。

 

 問題は、午後の指揮演習だった。

 

 大型シミュレーター室。

 複数の候補生が同時に艦娘部隊を指揮し、仮想海域で深海棲艦の侵攻を防ぐ。

 実際の艦娘が演習補助として参加し、候補生の指示を評価する形式である。

 

 結有の班には、神通と暁。

 見学者としてアイ。

 そして、別班の指揮官として鷹取がいた。

 

 演習開始前、鷹取は結有に近づいた。

 

「足を引っ張るなよ」

 

「そちらも」

 

「民間上がりが」

 

「海自候補って、全員そんな感じなんですか」

 

「少なくとも、君よりは規律を知っている」

 

「規律って、嫌味を言うことも含まれるんですか」

 

 鷹取の眉が動いた。

 

 神通が静かに結有を見る。

 

 結有は口を閉じた。

 

 演習が始まった。

 

 仮想海域は遠州灘沖。

 敵は駆逐級、軽巡級、重巡級の混成部隊。

 さらに途中で輸送船団防衛と被害艦の救助が発生する複合課題だった。

 

 序盤、鷹取の指揮は確かだった。

 

 部隊配置は堅実。

 火力配分も正確。

 通信も短く、無駄がない。

 さすがに正規訓練を受けているだけはある。

 

 一方、結有の指揮は少し妙だった。

 

「神通さん、右の軽巡級は撃つ前に一拍待ってください」

 

『理由は?』

 

「後ろに隠れてるやつがいる気がします」

 

『気がする』

 

「はい」

 

 暁が通信で叫んだ。

 

『結有さん、試験で直感指揮は危ないわよ!』

 

「でも来る」

 

 次の瞬間、仮想海面の右奥から駆逐級が二体、飛び出した。

 

 神通の砲撃が、その進路に置かれていた。

 

 命中。

 

 管制席の試験官が、少し驚いた顔をした。

 

 鷹取も横目で見た。

 

 結有は続けた。

 

「暁、左の輸送船に近づいて。敵じゃなくて船を見る」

 

『敵を見ないの?』

 

「敵は神通さんが見る。暁は人を守って」

 

『了解!』

 

 暁の動きは素直だった。

 結有の指示は荒いが、意図はわかる。

 神通はそこを補い、暁は人命保護に動く。

 

 班としては悪くなかった。

 

 だが、中盤で状況が変わった。

 

 演習シナリオにない未確認反応が発生した。

 

 試験官席がざわつく。

 

「システムエラーか?」

 

「いや、外部入力ではない。霊子干渉?」

 

 アイが立ち上がった。

 

 結有も気づく。

 

 胸の奥が熱い。

 これは仮想ではない。

 シミュレーターに、何かが混じっている。

 

 仮想海域の画面に、白黒のノイズが走った。

 

 深海棲艦の影。

 だが、完全な深海ではない。

 

 アイの顔がこわばる。

 

「呼んでる」

 

「深海が?」

 

「違う。もっと薄い」

 

 結有はすぐに神通へ通信した。

 

「神通さん、演習停止を」

 

 だが、その前に鷹取が声を上げた。

 

「続行すべきです。戦場で異常事態は当然起こる。候補生の対応力を見る好機でしょう」

 

 試験官が迷う。

 

 結有は鷹取を見た。

 

「見学者に干渉が出てる。止めるべきです」

 

「見学者? その深海混じりのことか」

 

「鷹取候補」

 

「危険個体なら、むしろここで反応を見るべきだ。君は私情で試験を止めようとしている」

 

 アイの呼吸が乱れ始めた。

 

 黒い目が、画面のノイズに吸い寄せられている。

 白い指が震える。

 

 結有の中で、何かが軋んだ。

 

「アイ」

 

「戻れって」

 

「戻らなくていい」

 

「でも、声が」

 

「僕を見る」

 

 アイが結有を見た。

 

 その瞬間、鷹取が言った。

 

「まるで飼い犬だな」

 

 結有は、静かに立ち上がった。

 

 暁が叫んだ。

 

『結有さん! だめ!』

 

 神通の声も飛ぶ。

 

『各務原候補生、抑えてください』

 

 結有は歩いた。

 

 鷹取の前まで。

 

「取り消してください」

 

「何を」

 

「今の言葉」

 

「事実だろう。深海の声に揺らぐような個体を、隣に置く方がおかしい」

 

「取り消してください」

 

「嫌だと言ったら?」

 

 結有は一度、息を吸った。

 

 そして、拳を握らなかった。

 

 自分でも驚いた。

 

「試験官」

 

 結有は言った。

 

「演習停止を要請します。アイに深海系霊子干渉が発生。見学者保護と施設安全を優先してください」

 

 試験官がうなずきかけた。

 

 その時、鷹取が結有の肩を押した。

 

「逃げるのか」

 

 強い力ではない。

 だが、十分だった。

 

 結有の体が一瞬止まる。

 

 神通が立ち上がる。

 

 暁が通信の向こうで悲鳴を上げる。

 

 アイが、低く言った。

 

「触るな」

 

 鷹取はアイを見た。

 

「未確認個体は黙っていろ」

 

 次の瞬間、アイの影が揺れた。

 

 深海の気配が、演習室の床に滲む。

 黒い霊子が、足元を這う。

 

 試験官たちが慌てる。

 

「全員離れろ!」

 

「演習停止!」

 

「霊子抑制を!」

 

 鷹取は反射的に腰の訓練用警棒へ手を伸ばした。

 

 結有はそれを見た。

 

 考えるより先に動く。

 

 手首を取る。

 捻る。

 警棒を落とす。

 

 鷹取も訓練を受けている。

 すぐに体勢を立て直し、結有の腕を払った。

 

 そこからは早かった。

 

 殴り合いではない。

 最初は制圧の応酬だった。

 

 鷹取は自衛隊式の逮捕術で結有を押さえようとする。

 結有は骨法と梶本真太直伝の体捌きで、それを外す。

 足払い。

 肘。

 肩。

 組み手。

 床を踏む音。

 

 周囲が叫ぶ。

 

「やめろ!」

 

「候補生同士の乱闘だ!」

 

「止めろ!」

 

 結有は殴らなかった。

 殴れば終わる。

 たぶん、鷹取の顔面を砕く力で殴れてしまう。

 

 だから、組んだ。

 押さえようとした。

 

 だが、鷹取も意地になっていた。

 

「この、民間上がりが!」

 

「その民間上がりに押されてるよ」

 

「黙れ!」

 

 鷹取の膝が結有の腹に入った。

 

 鈍い痛み。

 

 結有の目が一瞬だけ赤くなる。

 

 殴りたい。

 

 それでも、止まった。

 

 その代わり、結有は鷹取の襟を掴み、重心を崩して床へ投げた。

 

 どん、と音がした。

 

 鷹取の背中が床に叩きつけられる。

 

 結有はその腕を極めた。

 

「終わり」

 

「まだ」

 

「終わりだって言ってる」

 

 鷹取が暴れる。

 

 その時、アイが一歩近づいた。

 

 黒い霊子がまだ足元に揺れている。

 

 結有はアイを見た。

 

「アイ」

 

 アイは止まった。

 

「こっちを見る」

 

「……うん」

 

「僕は大丈夫」

 

「嘘」

 

「ちょっと痛い」

 

「殺す?」

 

「殺さない」

 

「潰す?」

 

「それ父さんの発想だから」

 

 場違いな会話だった。

 

 だが、そのおかげでアイの影が少し薄くなった。

 

 神通が到着した。

 

 一瞬だった。

 彼女は鷹取の反対側に膝をつき、結有と同時に制圧姿勢を取る。

 

「そこまでです」

 

 声は静かだった。

 

 しかし、演習室の全員が止まった。

 

 暁も駆け込んできた。

 

「結有さん! アイ! もう、何してるのよ!」

 

「揉めました」

 

「見ればわかるわ!」

 

 試験官たちがシミュレーターを完全停止する。

 ノイズは消えた。

 深海の気配も薄れていく。

 

 アイは結有の近くに来て、袖を掴んだ。

 

「脳筋」

 

「はい」

 

「殴らなかった」

 

「うん」

 

「えらい」

 

「何点?」

 

「八点」

 

「上がった」

 

「膝をもらったからマイナス」

 

「厳しい」

 

 鷹取は床に押さえられたまま、荒い息をしていた。

 

 神通が彼に言う。

 

「鷹取候補。あなたにも事情聴取があります」

 

「自分だけが悪いと?」

 

「いいえ。ですが、保護対象への侮辱、演習停止要請の妨害、候補生への接触、訓練用警棒への不適切な接触。いずれも確認されています」

 

 鷹取は黙った。

 

 結有も立ち上がる。

 

「僕も処分ですね」

 

「はい」

 

 神通は即答した。

 

「乱闘に応じたことは事実です」

 

「はい」

 

「ただし」

 

 神通は少しだけ結有を見た。

 

「殴らなかったことは、評価します」

 

 結有は目を丸くした。

 

「褒めました?」

 

「褒めました」

 

「やった」

 

 暁が叫んだ。

 

「褒められてる場合じゃないの!」

 

      *

 

 面接は、最悪の空気で行われた。

 

 試験官三名。

 神通は同席せず、外で待機。

 暁とアイも別室待機。

 

 結有は椅子に座り、腹の痛みをこらえながら、試験官たちの質問を受けた。

 

「各務原候補生。あなたはなぜ演習停止を要請したのですか」

 

「アイに異常反応が出たからです。あのまま続ければ、施設と参加者に危険がありました」

 

「鷹取候補の発言に怒ったのでは」

 

「怒りました」

 

「認めるのですね」

 

「はい。でも、怒ったから止めようとしたわけではありません。危険だったから止めようとしました」

 

「その後、乱闘になった」

 

「はい」

 

「避けられなかったのですか」

 

 結有は少し黙った。

 

「たぶん、もっと上手い人なら避けられました」

 

「あなたは?」

 

「僕は、まだ下手です」

 

 試験官の一人が眉を上げた。

 

「下手、とは」

 

「怒った時に、全部を言葉で済ませるのが下手です。でも、今回は殴らなかった。殺さなかった。壊さなかった。そこは、前より少し進みました」

 

「提督に必要なのは、自制です」

 

「はい」

 

「あなたには、それが不足している」

 

「はい」

 

「それでも、提督になりたいと?」

 

 結有はまっすぐ試験官を見た。

 

「なりたいです」

 

「なぜ」

 

「艦娘を駒にしないためです」

 

 部屋が静かになった。

 

「僕は、指揮が上手いわけじゃありません。規則もまだ全部覚えてません。筆記もたぶんギリギリです。でも、艦娘を物として扱う人間を見た時、黙っていられませんでした」

 

 ブラック鎮守府。

 初霜。

 アイ。

 神通。

 暁。

 時雨。

 

 結有の中で、全部がつながる。

 

「艦娘は兵器じゃない、なんてきれいごとだけじゃ戦えないのはわかってます。艤装を持って、海に出て、敵を沈める。それは兵器の役目に近い。でも、戦っているのは人です。怖がるし、怒るし、傷つくし、笑う。だったら、提督はそれを忘れちゃいけないと思います」

 

 試験官は黙って聞いていた。

 

「僕は前に出ます。たぶん、また神通さんに怒られます。暁に叫ばれます。アイに脳筋と言われます。でも、前に出る時は、隣を見ます。誰かを置いていかないために」

 

「それが、あなたの提督像ですか」

 

「はい」

 

 結有は答えた。

 

「生きて帰すために、隣で戦う提督です」

 

      *

 

 結果発表は夕方だった。

 

 結有は廊下のベンチに座っていた。

 隣にアイ。

 少し離れて暁。

 神通は壁際に立っている。

 

 鷹取の姿はない。

 彼は別室で事情聴取を受けているらしい。

 

 暁は落ち着きなく足を動かしていた。

 

「もう、何で正式試験で乱闘になるのよ……」

 

「相手が押した」

 

「押されても乱闘しないの!」

 

「殴らなかった」

 

「そこは偉いけど!」

 

 アイが言う。

 

「八点」

 

「何の点数?」

 

「脳筋自制点」

 

「なぜアイが採点してるの……」

 

 神通は静かに言った。

 

「殴らなかったことは、大きな進歩です」

 

「神通さんまで」

 

「ただし乱闘は乱闘です」

 

「ですよね」

 

 試験官が廊下に現れた。

 

「各務原結有候補生」

 

「はい」

 

 結有は立ち上がった。

 

「結果を伝えます」

 

 廊下の空気が張りつめる。

 

「筆記、基準点ぎりぎりで合格」

 

 暁が小さくガッツポーズをした。

 

「指揮演習、異常事態発生により再評価。ただし初動判断と被害回避を評価」

 

 神通がわずかにうなずく。

 

「面接、合格」

 

 結有は息を止めた。

 

 試験官は続けた。

 

「総合判定。条件付き合格」

 

「条件付き」

 

「正式な提督任官を認めます。ただし、当面は浜松鎮守府所属、神通の監督下での限定任官とします。単独作戦権限は保留。問題行動が続く場合、任官停止もあり得ます」

 

 結有は深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

 暁が飛び跳ねた。

 

「やったじゃない!」

 

 アイは結有を見た。

 

「提督?」

 

「うん。条件付きだけど」

 

「条件付き脳筋提督」

 

「肩書きがひどい」

 

 神通が近づいた。

 

「各務原結有提督」

 

 その呼び方に、結有は少し固まった。

 

 候補生ではない。

 提督。

 

 まだ条件付き。

 まだ未熟。

 まだ反省文も残っている。

 

 それでも、提督。

 

「はい」

 

 神通は静かに言った。

 

「これからも、厳しく見ます」

 

「はい」

 

「前に出るなら、生きて帰ること」

 

「はい」

 

「そして、報告を先に」

 

「努力します」

 

「努力では困ります」

 

「報告します」

 

「よろしい」

 

 暁が結有の前に立ち、胸を張った。

 

「司令官。これからも、私がしっかり支えてあげるわ」

 

「よろしく、暁」

 

「一人前のレディとして当然よ」

 

 アイは結有の袖をつまんだ。

 

「結有」

 

「何?」

 

「提督になったら、変わる?」

 

「たぶん、あんまり」

 

「脳筋のまま?」

 

「たぶん」

 

「なら、いい」

 

 結有は笑った。

 

 その日の艦娘本部公式記録には、こう記された。

 

『各務原結有候補生、正式提督任官試験に条件付き合格。浜松鎮守府所属提督として限定任官』

 

 非公式記録には、もっと短く残った。

 

『各務原結有、提督になる』

『なお試験中に乱闘』

『ただし殴らなかった』

『神通、そこは評価』

『暁、胃痛継続』

『アイ、条件付き脳筋提督と命名』

 

 帰りの車内で、結有は窓の外を見ていた。

 

 夕暮れの海が見える。

 十五年前に世界を壊した海。

 一年前に母が消えた海。

 アイが流れ着いた海。

 

 その海に、これから自分は提督として向き合う。

 

 結有は小さく息を吐いた。

 

「母さん」

 

 返事はない。

 

 でも、隣でアイが袖を引いた。

 

「結有」

 

「何?」

 

「お腹、痛い?」

 

「少し」

 

「嘘」

 

「結構」

 

「帰ったら冷やす」

 

「ありがとう」

 

「あと、反省文」

 

「忘れてた」

 

「提督でも書く?」

 

「たぶん書く」

 

 前の席で神通が静かに言った。

 

「書きます」

 

 結有は背筋を伸ばした。

 

「はい」

 

 暁が笑い、アイが袖を離さず、神通が前を向く。

 

 浜松鎮守府へ戻る道は、夕焼け色に染まっていた。

 

 各務原結有は、正式な提督になった。

 

 条件付きで。

 乱闘沙汰込みで。

 反省文付きで。

 

 それでも、確かに。

 

 彼女は、その日から提督だった。

 

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