バッドルーザー球磨川 イフナッシングイズバッドノンフィクション 作:忘旗かんばせ
0
後から振り返ってみたときに、この一連の最悪において最も致命的だった一点を挙げるなら、それはやはり木之下かばねによる認識の齟齬が挙げられるだろう。
彼女は——大人を頼れる存在のように、子供を悪意から守る存在であるかのように語っていたけれど——しかし実際のところ。
大人はそう都合のいい存在ではない。
子供を守るばかりが大人ではないし、子供に頼られるばかりが大人ではない。
悪意を持つ大人もいるし、害意を持つ大人もいる。
子供を平然と傷付けられる大人もいれば、子供を平然と踏み躙れる大人もいる。
もちろん、子供を平然と利用できる大人だって。
平然と養分にして、搾取してしまえる大人だって。
非常にありふれた、一般的な存在だった。
「——というわけで、生徒たちからの信任を得て、代表して相談に来ました」
まず最初に誰に相談するかは、木之下かばねに委ねられた。それはノリや勢いなんて不確かなそれによるものではなく、純粋に放課後交流委員会の創始者としての、
その場所に。
学園内に今年から新設された——カウンセリングルームに。
「放課後交流委員会による……いささか過保護すぎる締め付けから、生徒たちが行き場を無くしたフラストレーションを解放する場として裏放課後交流委員会なるサイトが作られてしまっていて——これが加速度的に巨大化し、問題になっているんです。その、私たちでは対応できないくらいに」
緊張しながら、木之下かばねは説明していく。
それを、
まるで水を吸い上げる木のように、じっと。
埋まる死体から栄養を吸い上げるように、じっと。
じっと、じっと、聞いていた。
「——そういうわけで、ただ場所を破壊したいわけではなくて……ここを利用していた生徒に罰則がいくような着地はしたくないんです。根本的な、生徒と保護者、そして教師の、パワーバランスのズレを是正しつつ、こういう場所がそもそも生まれなくて済む学園づくりをしたくて——」
資料から目をあげて。
木之下かばねは問いかける。
眼前の彼に向けて——甘えた声で。
「
1
おめかししてくる。
夕暮れの校舎裏。焼けた色の雲が遠く空の裾野より流れ来る頃、そう言って、安心院なじみは一時球磨川禊と別れた。
なにせ、宇治蓮華御初として、安心院なじみとは別人として、装って学校に来ていたのだ。どうせデートをするなら、宇治蓮華某ではなく、安心院なじみとしてがいい。だから、姿形を整えるため、彼女は化粧室を探して学舎に入り直した。
それにしても——と。
先ほどまでの会話を思い出す。
「『安心院さんも——変わったよね』」
なんて、一番見違えるように変わった男の子からそう言われて、安心院なじみは首を傾げた。
「『だってそうだろう。昔のきみなら——あの時、僕が蛸薬師八々子の心を折ろうとした時、助けになんて来なかっただろう?』」
平等なだけの人外は。
誰かに肩入れなんてしなかった。
そう、かつてには——安心院なじみは。
平等なだけの人外は。
あまりにも——何もかもが出来すぎる、出来ないことがない人外は。
あまりにも都合の良すぎるこの世界を——現実だとは思えなかった。
世界の全てが、漫画のように見えていた。
世界も全てを、漫画であると確信していた。
世界は漫画で、始まりがあって終わりがあって、誰もがその登場人物の一人に過ぎなくて——自分自身さえそうなのだろうと。
そんな風に思っていて。
だからこの世の何にも関心が持てなかった。
現実じゃない世界で——安心院なじみは生きる理由を見出せなかった。
でも。
「『きみは優しくなった』」
球磨川禊は言った。
「『きっと、めだかちゃんみたいに』」
「そうかな」
思わず苦笑する。
彼女のようなお人よしと比べられてしまえば、それこそ形無しだろうけれど、しかしやっぱり、安心院なじみが変わったとするのなら、彼女のお陰なのだろう。
安心院なじみの自殺を止めてくれた、彼女のおかげなのだろう。
安心院なじみに出来ないことその一——自殺。
それが今はとても誇らしくて、だから。
それを誰かに分けてあげたい気持ちにも、なったのだろう。
「あるいはめだかちゃんみたいにではなくとも……きみみたいには優しくなれたのかもね」
安心院なじみはそう言って、球磨川禊に微笑んだ。
自分のために——全ての手を尽くして。
安心院なじみが絶望してしまわないために頑張り尽くしてくれていた、一人の少年へ向けて。
最終的に安心院なじみを救ったのは黒神めだかであっても——彼女との勝負に至るまで、安心院なじみが絶望しきらずにいられたのは、目の前の純粋な少年のおかげだった。
だから——
「ありがとう、球磨川くん」
珍しく。
安心院なじみはなんの含みもなく純粋に、球磨川禊に感謝をつげた。
それに対して。
頬を朱に染める彼が微笑ましくて——
ふと。
安心院なじみは気付く。
お色直し……の、ために。
校舎の中に入り込んで——しばらく。
しばらく、だ。
たっぷりと、回想をする時間まであって、それだけ経って。
それだけ歩いて——
違和感。
違和感、が、際立って——
見回す。
しん、と。
死んだような静寂が——空間を満たしていた。
見知ったはずの箱庭学園の校舎。その内側の、けれどどこでもない場所に、いつのまにか、安心院なじみは踏み込んでいた。
踏み込まされて——いた。
なんだ——これは?
スキルによる影響——ではない。
それであったら、すぐに気がつく。
そういうことではない。
そういう——反則技ではない。
ただ、純粋に。
純真に。
純正に——狂っている。
狂っている。
空間が。
世界が。
捻じ曲げられて。
作り上げられて。
存在しないはずの場所に——閉じ込められている。
廊下。
端のない。
どこまで行っても同じ景色が続き続ける、終わりのない廊下。
そこに。
安心院なじみは誘い込まれていて——
「よう——安心院なじみ」
凛と。
低い声が——響いた。
振り返る。
振り向く。
いつのまにか。
通り過ぎた覚えもないのに——背後。
廊下の中腹に——一人の男が立っている。
眼鏡。
かけたままの、眼鏡、の。
レンズ越しに、映る。
レンズ越しにしか映らないんじゃないか、なんて願いたくなるほどに、映る。
世界に落とされた——インクの染みのように。
際立つ、異彩を放つ、鳥肌が立つような——その男。
壁に寄りかかって。
本を読みながら——
一人の男が——立っている。
「初めまして——だな」
整った顔立ちの男だった。
年齢は壮年。若くはない。決して。いや、三兆年を生きる安心院なじみからすれば、人間など誰も彼も赤子同然の若人なのだけれど、そういう意味ではなく、一般論として。
それなりに、年嵩の男だ。
けれど、その重ねた年を感じさせないほどに若々しく。
涼やかに。
死装束のような、真っ白い着流しを、見事に着こなしていて——
(なんだ——こいつ——?)
奇妙、だった。
無論、学校という場所に着流しの男がいるのは奇妙なことなんだけれども——
そういう次元ではなく。
奇妙。
奇怪。
奇天烈。
奇しくて——おかしい。
犯しい。
存在そのものが——奇妙、なのだ。
その男は。
奇妙。その言葉が本当に正しいのかはわからない。ただ、そう。漠然と、『違う』、と思う。
違う。
何が違うのかはわからないけれど——違う。
この世の誰とも——似ていない。
それはそう。
まるで。
「きみが——僕をここに引き摺り込んだのかい?」
乾いた唇を、無理やりに動かして。
震える喉で、問いかける。
思ったよりもか細い声が出て、情けなかったけれど。
男は。
着流しの男は、薄らと微笑んだ。
「『きみが——僕をここに引き摺り込んだのかい?』、ふん。つまらない問いかけだな、安心院なじみ。お前をここに招待したのが俺であろうがそうでなかろうが、そんなことはどちらでも同じことだ。大切なのは——俺とお前が出会ったこと、それそのものだろう」
男は。
言って——ぺらりと。
本のページを——めくる。
めくる。
揺れる。
ページが、捲られる。
漫画本——だ。
小さい。
そう。
ちょうど、ジャンプコミックスくらいの小ささ。
手のひらに収まるような——漫画本。
影になっている。
よく見えない。
タイトルが——わからない。
男は。
ページをめくる。
めくって。
その動作に。
指の動きに。
手の動きに——微かに。
本そのものが揺れて。
動いて。
揺れ動いて。
光が。
窓から差し込む光が。
影を。
影を、照らして——
「あ」
酷く。
間抜けな声が——喉からこぼれ落ちた。
「う——え?」
目が回った。
いや、回ったのは世界そのものかも知れなかった。
混乱する。困惑する。昏倒する。目が眩む。気絶しそう。気絶したい。頭が痛い。ここはどこ? 私は誰? わかりきってる。逃避したい。逃避したい。逃避したい。意識をシャットアウト——出来ない。出来ない。出来ない出来ない出来ない出来ない出来ない。なんで、私は、安心院なじみは、限りなく全能に近い、出来ないことをわざわざ探さなきゃいけないような、そんな
「ひぃ——ぁあ」
悲鳴が。
悲鳴が喉から——迫り上がる。
唇が震える。
手が震える。
足が震える。
腰が抜けそうだ。
だって——ああ。
だって。
だって。
だってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだって——ああ!
男が握っている——
「ひぃ——ぁあ——ぅぁああああああああああ!」
反射的に、指を突きつける。その身に宿す一京二八五八兆五一九億六七六三万三八六七個のスキルの本の一端を解放し——眼前の男を打破するがために。その『本』を跡形もなく消し去るために。この世から消失させるために——
スキルを行使する。
スキルを行使する。
スキルを行使する。
出鱈目に、乱雑に、手当たり次第に。
思いつく限りに片っ端から——投げつけるように。
待ち構えていたことにするスキル『
無数のスキルを、スキルというスキルを、男へ向けて叩きつける。叩きつけ、叩きつけ、叩きつけ、叩きつけ————
「——やめとけよ」
一言。
ただの一言に——打ち砕かれる。
全てのスキルは砕け散る。
そんなものは。
ただの幻想でしかないとばかりに。
遍く全てが——効果を失う。
失活する——
「初版なんだ。汚したくない」
男は言った。言って——漫画本の。
手に持つ漫画本の——カバーを払う。
払う。
汚れどころか、埃一つついてないだろうそのカバーを、払って——
指の、向こう。
節榑立つ指の、その向こう。
そこには。
そこには——
「
描かれていた。描かれていた。
克明に、この上なく、確かにそうだと分かる形で、確かにそうだと認めざるを得ない形で! 絶対的に、確実に、克明に! それは、描かれて、描かれて、描かれていて——
タイトルは、『
その十一巻を——男は大事そうに、読んでいた。
「あ、はぁ——ひぃ————!」
呼吸が——ままならない。
息が、うまく、吸えない。
やはり。
ここは。
「落ち着けよ——安心院なじみ」
言って。
男は腰を抜かし、倒れ伏す安心院なじみに、片手を差し出した。
漫画本からは、手を離さぬまま。
片手だけを。
片手だけを傲慢にも差し出して——
男は。
「
格好悪いぜ——と。
まるでなんでもないことであるかのように。
男は安心院なじみに致命的な現実を突きつけて、笑った。
「あ——ひぃ——ぃや——————」
舌が——もつれる。
言葉がうまく——紡げない。
体を震わす。
痙攣する。
目が回って、胃の底がひりつく。
吐きそうで、倒れそうで、狂いそうで——
そんななじみをつまらなさそうに見下して——男は言う。
「どうも、姿形のせいか、弱いものいじめをしている気分になっていかんな。……一応言っておくが、今日は別に、お前を追い詰めに来たってわけじゃあない。俺は——」
——
「か——勧誘?」
言葉に。
なじみは意味をとらえきれず、鸚鵡返しの返事をする。
「そうだ」
それを大した無礼ともとらえず、男は簡潔に頷いた。
頷いて、そして。
「俺の名前は——
——という」
そんな風に。
男は——名乗った。
「西東——天」
「そう。人類最悪の遊び人なんて呼ばれることもあるがね——」
いや、あれは自称したんだったか——なんて。
薄ら笑いと共に言いつつも、男は話を進める。
話を。
言葉を。
一方的な通告を。
続ける。
「安心院なじみ——『合い』たかったぜ、お前とは」
その頬を。
我が物のように撫で回しながら、男は言った。
「どうも……黒神めだか、と言ったか。ふん、『元』主役のガードが硬すぎたもんでな。苦労したぜ。俺の手足も、ほとんどが向こうにかかりっきりだ。おかげで少々時間がかかったが……会えて嬉しいよ、安心院なじみ」
安心院なじみ——と。
当たり前のように。
まるでその名前が、その名前が意味するものが自分のものであるかのように、自然に。
男はなじみの名前を呼んで——
「
言う。
一方的な。
ぶっきらぼうな。
なんの説明もない。
一言限りの——だというのに冗談のような引力を持つ誘い。
そんな誘いに——けれど安心院なじみは反射的に首を振る。
「い——いやだ」
ふるふると。
怯えるように、首を振る。
男は笑った。
「どうして?」
「この世界は——漫画なんだろ」
安心院なじみは、そう呟いて——
「だったらもう、僕はいやだ。これ以上——生きてたくない」
これ以上——絶望したくない。
この世界を——嫌いになりたくない。
言って。
震える手でピストルの形を作り。
それを——自分のこめかみに突きつける。
「自殺か」
男は言う。つまらなさそうに。なんの面白みもないとばかりに。
「ちっとばかし期待はずれだな、安心院なじみ……どうも、馬鹿ばかりじゃ格好がつかねぇからインテリ要員を連れてこようと思ったんだが……お前もそっちの口か?」
彼は言って、後ろ頭を掻く。
言っている——意味がわからなかった。
首を傾げる安心院なじみに、男は言う。
「自殺。いいな。したとしよう。それでお前——その後どうする?」
「え?」
その——後?
「考えてみろよ安心院なじみ。まずもって——お前なんで生きてんだ?」
安心院なじみ。
彼女はかつて——一度死んだ。
旧英雄、獅子目言彦に殺されて——死に絶えた。
「あ——ひぃ——」
「やっと気付いたか。そう。お前——死ねないんだよ」
正確には——死んでいられない、と言った方がいいか。
男は語る。
「お前は、お前という存在は、いささか全能にすぎる。
お前は——死ねない。
人類最悪は、そう突きつけた。
「あ、あ、あぁ——!」
「今回だって、もう少し休んでても良かったが、面白そうな気配がしたから起きてきた——ってとこだろう? ふん、そうなるように、串中とノイズを差し向けたんだがな……いずれにせよ、お前は死ねない。死んでもいずれは蘇る。この世界で——お前の大嫌いな漫画の世界で」
くく——と男は笑う。
「漫画の世界で生きてみたい、なんて全人類の夢だろうがね——しかし、お前を贅沢だとは言わないぜ安心院なじみ。お前の気持ちはよく分かるとも。だってそうだろう——
男は言う。男は言う。男は言う。
致命的な現実を——突きつける。
めだかボックス。
漫画。
この世界は——
すでに、完結している。
「全二十二巻……ま、
だからだぜ、と男は言った。
「
みんなが主役になれる世界——そんなものはありはしない。
男は言う。
「誰もが主役になってしまえば——それは主役という役割が陳腐化するだけだ」
主役という役割が——陳腐化しただけだ。
物語が——終わったから。
世界が主役で満たされれば、主役という概念はその主役性を失う。
世界が悪意で満たされれば、悪意という概念がその悪意性を失うように。
全ては当たり前に、陳腐化してゆく。
そしてこの先。
その動きは加速するだろう、と男は言う。
「この世界は——劇的につまらなくなっていく」
まるでエントロピーの増大に伴って、宇宙が冷たく冷え切っていくように。
物語を回すために面白かったキャラクターは普通になる。
魅力的なキャラクターは魅力を失う。
スキルなんて消えて無くなる。
動物にすら避けられてた女の子は——そこらの犬にすら舐められるようになる。
すべては普通になって——その普通すらも崩れて陳腐化する。
堕落と呼ぶのも烏滸がましい緩い堕落が世界を満たす。
腐敗と呼ぶのも飽き飽きするありふれた腐敗が世界を満たす。
無意味と呼ぶのも嫌気がさすつまらない無意味が世界を満たす。
そこに物語はない。
命は理不尽に生まれて意味不明に死ぬ。
友情は冷めた人付き合い。
努力したって実らない。
正義は勝たない。
悪は倒されない。
人は互いに互いを踏みつけ合い、相互理解に至らぬまま死に絶える。
劇的なことなど、何も起きない。
消しゴムとすら区別がつかない、無味無臭の人間が溢れて——飽和する。
まるでそれは、
まるでそれは、
まるでそれは——
「さて、改めて問おうか、安心院なじみ——そんな世界で、そんなつまらない世界で、そんな朽ち果てた世界で、そんな終わった後の物語の中で——
いつまで。
いつまで。
いつまで——?
Q.安心院なじみはいつまで生きるでしょう?
A.永遠に。
だって。
安心院なじみは、死ねないんだから。
「
安心院なじみは頭を掻きむしる。髪が抜けるのも気にせず、頭皮が裂けるのも気にせず、血まみれになりながら——
「あぁ——ひぃ——」
喘ぐように呼吸をして。
安心院なじみはうずくまる。
「こ——殺して……」
そして——懇願する。
「殺してください——お願いします……」
「出来ない」
男は残酷に答える。
「やり方すらもわからない。この漫画の世界とお前と言う存在はあまりにも強く結びつき過ぎている。どうすればお前の因果を解いて殺してやれるかなんて俺には全くわからない。だが——」
お前を殺すことはできなくても。
「お前を死なせてやることはできる」
「……え?」
「結果的に、だがね」
くくく——と。
喉を鳴らすように、男は笑う。
「俺と来い——安心院なじみ。俺と一緒に——
男は。
今一度安心院なじみに手を差し伸べた。
「『
視線を空に彷徨わせながら、男は語る。
「『
全ての世界を、終わらせるために。
全ての物語の終わりを——見るために。
「『鍵』がある。中心となる『メインキャラクター』……『物語』の象徴にして、次元すらをも超え、『現実』にまで越境できる『キラーキャラクター』……それとの『縁』を繋ぎ合わせるために努力中なんだが……これがなかなか難しくてな……。『手足』も、相応のが入り用になった」
だから。
「俺と来いよ、安心院なじみ。退屈なんて、させないさ。全ての世界が終わった暁には——お前もまた、絶頂の中で閉じ消えることになる。それは最高の上がりじゃないか?」
男は楽しそうに問いかける。
楽しそうに。
可笑しそうに。
犯しそうに——笑って。
さあ、来いよ、安心院なじみ。
「俺と来たら——気持ちいぜ」
その言葉に。
今度こそ安心院なじみは——その手を取った。
神に縋るように。
悪魔に縋るように。
救いを求めて——手を取って。
そして二人は、消えていく。
闇の向こうへ。
深淵へ。
待ち人を残して、ただ二人。
2
空の裾野の焼けた雲は、今や空を覆う灰色の天蓋だった。
ざあざあと、血みたいに生暖かい雨が降っていた。
夕暮れは、終わり。
もう、夜が来る時間。
そんな時間にも、まだ。
校舎裏にて一人——人影。
暗く、昏い。
夜よりもなお闇らしい、一人の少年が——待ち惚けていた。
待ち人は来らず。
少年は。
球磨川禊は——一人だった。
約束が反故にされた、くらいの話なのなら、構わない。
ちょっとくらいはショックだけれど、球磨川禊の心が傷付く、ただそれだけで済む。
球磨川禊は待っていた。
雨の日も風の日も。
日照りの日も曇りの日も。
暑い日も寒い日も。
来る日も、来る日も。
毎日のように——球磨川禊は待っていた。
安心院なじみは。
あの日に別れて以降。
二度と戻っては——来なかった。
「————また勝てなかった」
一人——呟く。
括弧もつけられぬままに。
格好もつけられぬままに。
しとどに濡れて——体の芯までが冷え切って。
そうして——球磨川禊は歩き出す。
闇の奥へと。
深淵へと。
一人、奪われた愛しい人を取り戻すがために——絶望的な戦いへと身を投じる。
球磨川禊。
混沌よりも這い寄る
誰の思い通りにもならず——何も思い通りにできない男。
彼の戦いは、だから今この時から始まる。
絶望的なまでの負け戦が、また一つ。
——バッドルーザー球磨川
イフナッシングイズバッドノンフィクション
序幕
C〝LOSE〟D……
これにて完結となります。
ご愛読、ありがとうございました!
感想、評価、推薦、お気に入り登録、ここすきなどなど、して頂けると嬉しいです!
それではまた、いつか、どこかで。