牡丹は花火になりたい   作:ズンドロ

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異能自衛隊特別異能尉 葭江 躯を最強の異能者として認定する。
────世界連合による発表


建て前はとても大切

2052年1月12日 天守島異能力学校 

 

 「はやぶさ」から降りた生徒たちは、巨大な可動橋を渡りながら校舎へ向かっていた。頭上では無人ドローンが飛び交い、埠頭には黒い装甲車が並んでいる。武装警備員たちが無表情に周囲を警戒していた。以前まではいなかった警備員たちに生徒達は困惑しながらも学生寮に進んでいく。

 

「七條、警戒レベル”黄色”ってなんだ」

「知らないわよ、この異能力学校ができてから初めて変わったから」

 

 七條は端末を操作しながら答えた。生徒会権限で閲覧できる情報を確認しているのだろうが、眉間の皺は深くなるばかりだった。

 

「閲覧制限だらけね……。教職員権限以上じゃないと詳細が出ない」

「嫌な予感しかしない」

「安心して神藤くん」

 

 八谷がにこやかに言う。

 

「大丈夫そうな時に警戒レベルなんて上げないから」

「安心材料ゼロじゃねえか!?」

 

 神藤が即座に突っ込む。

 

 その横を、黒井が静かに歩いていた。周囲の警備体制を自然に観察している。装甲車の配置間隔。狙撃塔の位置。巡回ドローンの飛行ルート。

 

「……対爆仕様だな」

「何が?」

「外壁だ」

 

 黒井は遠くの防壁を見ながら続ける。

 

「増設部分だけ素材が違う。旧式複合装甲じゃない。対異能衝撃吸収材が混ざっている」

「なんで分かるんだよ」

「見れば分かる」

「分かんねぇよ普通」

 

 神藤はげんなりした。一方、牡丹は少し後ろを歩いている。手には途中で自販機から買った缶コーヒー。

 

 ブォンッ。

 

 頭上を飛んでいた警備ドローンの一機が、不自然に高度を落とした。生徒たちのすぐ近くまで降下し、赤いセンサー光を照射する。

 

『識別確認』

 

「うわっ」

 

 神藤が思わず身を引く。ドローンは神藤、七條、八谷、黒井の順にスキャンし、最後に牡丹で停止した。

 

『……確認完了』

 

 途端に、ドローンの挙動が妙に丁寧になった。高度を上げ、まるで逃げるように離れていく。

 

「……?」

 

 八谷が首を傾げる。

 

「今なんか反応違わなかった?」

「気のせいじゃない?」

 

 七條はそう言ったが、視線は牡丹へ向いていた。牡丹本人は缶コーヒーを飲んでいるだけである。

 

「……平和」

「どこがですか」

 

 神藤のツッコミが即座に飛ぶ。すると前方で、寮へ向かう生徒の一団が突然ざわついた。

 

「え?」

「なんで……」

「マジ?」

 

 視線の先。学生寮の入り口横に、巨大な金属製シャッターが増設されていた。厚さ数十センチはありそうな重装甲。どう見ても防空壕か軍事施設である。

 

「いやいやいや」

 

 神藤が引きつった顔になる。

 

「学生寮だよな?」

「そうね」

「なんで防爆扉みたいなの付いてんの?」

「異能力学校だから」

「もうその返しすんな!!」

 

 神藤が叫ぶ横で、黒井が小さく呟いた。

 

「内側からも閉鎖できる構造か」

「なんでそういう発想になるんだ」

「籠城戦を想定しているなら当然だろう」

「学校は基地じゃねえよ」

 

 だが、七條だけは笑っていなかった。

 

 端末に表示された文章。


警戒レベル“黄色”

生徒の単独行動を制限

夜間巡回の強化

一部区画を封鎖

必要に応じ、“白”へ移行する


「……白?」

 

 七條が小さく呟く。

 

「黄色の上があるのかよ……」

 

 神藤が嫌そうな顔をした。冬の風が吹き抜ける。遠くで警報灯がゆっくり回転していた。その光景を見ながら、黒井だけが静かに目を細める。

 

(……間に合わなかったか?)

 

「…………あしえ、太平洋の”海洋迷宮”。」

 

 牡丹がぽつりと呟いた。その瞬間。黒井の視線が僅かに動く。ほんの数ミリ。だが、それだけで空気が変わった。

 

「先生?」

 

 八谷が首を傾げる。牡丹は海の方を見ていた。灰色の冬空。その下に広がる鈍色の海面。そこに巨大な霧の山があった。

 

「ああ、そうか、なるほど。菅原先生、挨拶に行くぞ」

「…………お土産あるかな」

「遠足じゃないんですけど!?」

 

 神藤が即座に突っ込む。だが黒井は既に歩き出していた。学生寮とは逆方向。海側の防波区画へ向かっている。牡丹も当然のようについていく。

 

「ちょ、待ってください先生!?」

 

 八谷が慌てて呼び止めるが、牡丹は振り返らない。

 

「……大丈夫。たぶん」

「たぶんが不安なんですよ!」

 

 一方、七條は海を見ながら目を細めていた。

 

「……霧?」

 

 確かに異様だった。沖合数キロ先。そこだけ海霧が壁のように積み上がっている。普通の自然現象には見えない。しかも、周囲の警備ドローンが一斉に海側へ向きを変えている。埠頭の警備員たちも慌ただしく通信を始めていた。

 

『司令部へ! 太平洋監視領域に超常反応発生!』

『識別信号照合中!』

『待て、攻撃準備はするな! まだ撃つな!!』

 

 現場が一瞬で緊迫する。だが黒井だけは淡々としていた。

 

「警備隊に伝達しろ。『敵性なし』だ」

「は?」

 

 近くにいた警備主任らしき男が振り返る。だが黒井の顔を見た瞬間、表情が凍った。

 

「……黒井、灰?」

「形式上はそうなっている」

 

 その瞬間、警備主任が青ざめた。

 

「し、失礼しました!! 全警備班、第一種警戒維持! 発砲許可保留!!」

「えっ」

 

 神藤が困惑する。

 

(なんでこの転校生、警備隊に通じてんだよ……)

 

 その間にも霧は近づいてくる。そして、牡丹と黒井を包むと、二人の姿が消える。

 

「菅原先生がいない!」

「えっ、ちょ、黒井くんも消えた!?」

 

 八谷が声を上げる。可動橋の上が一気に騒然となった。武装警備員たちが即座に隊列を組み、ドローンが低空を旋回し始める。

 

 一方、牡丹と黒井は霧の内側に立っていた。外の喧騒が嘘のように静かだった。風が止んでいる。波の音も遠い。灰色の霧だけが周囲を満たし、その中央――荒れ狂う海面の上に、女が座っていた。長い銀髪に黒い外套の年齢不詳の女は、まるで椅子に腰掛けるように波頭へ座っている。数メートル級の荒波が彼女の周囲だけ不自然に静まり返っていた。

 

「久しいな、“花火”に“無機器官”」

「……久しぶり”海洋迷宮”。また異能伸びた?」

 

 牡丹が答える。

 

「ああ」

 

 短い返答。数秒、沈黙。女はぽつりと言った。

 

「近くにいたんでな挨拶に来た」

「お前の近くは信用ならん」

 

 女は静かな海面へ視線を向けたまま続けた。

 

「本当だ、父島に鯨を見に来ただけだ」

「そうかなら帰れ」

 

 女は黒井を見た。銀色の髪が霧の中で揺れる。

 

「相変わらず辛辣だな、“無機器官”」

「お前が来ると海保と防衛監督省の胃に穴が開く」

「今回は静かだ」

「お前が出現した時点で静かではない」

 

 即答だった。女は小さく肩をすくめる。

 

「人類は騒ぎすぎる」

「お前基準で語るな」

 

 牡丹が二人を交互に見た。

 

「……二人は仲良し」

 

「違う」

「そうだ」

 

 黒井は否定し”海洋迷宮”は肯定した、数秒の沈黙。女は海面を軽く叩いた。すると霧の向こうで、低く長い鳴き声が響く。

 

 ォォォォォォ……

 

 巨大な影が海中を横切った。天守島の外壁よりなお大きい。神話の怪物めいた質量が海中をゆっくり通り過ぎていく。牡丹が少し目を見開く。

 

「……いた」

「親子だ。今朝からずっと近くにいる」

「でかいな……」

 

 珍しく黒井が小さく呟いた。女はどこか満足そうだった。

 

「だから言っただろう。本当に鯨を見に来ただけだ」

「お前の場合、その“ついで”で国家が一つ滅ぶ可能性がある」

「偏見だな」

「実績だ。フィリピンの件を忘れたのか」

 

 霧の外から警報音が微かに聞こえる。おそらく天守島側が対異能警戒態勢を引き上げたのだろう。女はそれを聞きながらため息を吐いた。

 

「騒がしいな」

「お前のせいだ」

「理不尽だな」

 

 牡丹は海を見つめていた。

 

「……鯨、跳ぶ?」

「ああ、見てみろ」

 

 その瞬間、海面が大きく盛り上がった。轟音。灰色の海から、巨大なザトウクジラが空へ躍り出る。冬空を背景にした巨体は、一瞬だけ空を飛んでいるようだった。海面へ落下した瞬間、凄まじい飛沫が上がる。牡丹がわずかに目を細める。

 

「……すごい」

「ああ、いいものだろう」

 

 女の声音は少し柔らかかった。黒井は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえる。

 

「観光を満喫したなら帰れ警備隊が限界だ」

「そう急かすな」

 

 実際、霧の外では大騒ぎになっている気配がある。女は立ち上がった。荒れる海面へ足を乗せる。

 

「では帰る。また近くへ来たら寄る」

「来なくていい」

 

 女は初めて薄く笑う。彼女に取って2年ぶりの人とのコミュニケーションだった。

 

「その前にトイレを貸してくれ」

「……お前、今なんと言った?」

「トイレだ」

 

 ”海洋迷宮”は当然のように言った。

 

「人類圏へ入る際は最低限の礼節を守るべきだろう」

「お前が礼節を語るな」

「偏見だな」

「……校舎の三階、今清掃終わってるから綺麗」

「助かる」

 

 即答だった。

 

「案内してくれ“無機器官”」

「嫌だ。なぜ異性にトイレを案内しなければならないのだ」

 

 海洋迷宮は数秒沈黙したあと、牡丹を見る。

 

「“花火”。この男、私を異性とみているぞ」

「……欲情?」

 

 牡丹が首を傾げる。確かに以前の葭江ならば、「そこですればいい」と言って海へ投げ捨てていた可能性すらある。黒井の眉間に皺が寄った。

 

「以前のお前は異能災害扱いだったが、今は公的には生物学的にはヒトのメスだろう」

 

 ”海洋迷宮”は数秒、完全に沈黙した。荒れていた海が少し穏やかになり、霧も薄くなる。

 

「そうかお前も私を人間と扱ってくれるのか」

その声は、これまでになく静かだった。

 

 黒井は一瞬だけ言葉に詰まる。

 

「……戸籍上はな」

「随分限定的だな」

「お前を全面的に普通の人類扱いできる奴がいたら、そいつは現実を見ていないか、馬鹿だ」

 

 即答だった。だが海洋迷宮は気を悪くした様子もなく、むしろ少しだけ目を細めた。

 

「それでも十分だ」

 

 灰色の霧がわずかに揺らぐ。先ほどまで張り詰めていた圧力が、ほんの少しだけ和らいだ。牡丹がぼんやりと呟く。

 

「……機嫌よくなった」

「ああ」

 

 黒井は小さくため息を吐く。

 

「お前、そういうところ妙に面倒だな。二年前、お前は私を“歩く海難災害”としか認識していなかった」

「今も半分くらいそうだ」

「半分は人間になれたわけか」

「奇跡的にな」

 

 海洋迷宮は静かに海面へ視線を落とした。

 

「……悪くないな」

 

 その瞬間。沖合の荒波が、一斉に静まった。数百メートル先まで続いていた高波が嘘みたいに収まり、海面が鏡のようになる。冬空の灰色が静かな水面へ映り込んだ。牡丹が少し目を見開く。

 

「……喜んでる」

「感情表現の規模を抑えろ」

「これでも抑えている」

 

 黒井は頭を抱えた。

 

「頼むから嬉しいから海を鎮めるみたいなことを自然にやるな。外の警備隊が状況判断できなくなる」

「難しいな、人類社会」

「お前が難しくしてるんだ」

 

 そして海洋迷宮がぽつりと言った。

 

「では遠慮なくトイレを借りるとしよう」

 

 そうして”海洋迷宮”は天守島に上陸した、その瞬間。

 

『――――総員、落ち着け!! 撃つな!! 撃つなよ絶対に!!』

 

 外の通信網が悲鳴みたいな騒がしさになった。霧が晴れ、可動橋へ戻った牡丹たちの横を、銀髪の女が当然のような顔で歩き始める。黒い外套が冬風になびくたび、周囲の空気がわずかに湿った。警備員たちが硬直する。誰も引き金を引けない、というより、引いた瞬間に自分たちがどうなるか理解していた。その存在が放つ圧力によって縫い留められている。

 

「止まれ!! ……いや待て止めるな!! どうすればいいんだ!?」

 

 現場指揮官が半ば錯乱していた。神藤は完全に顔が引きつっている。

 

「なんの目的で来たんだよ!?」

「トイレを借りるためだ」

「理由が平和すぎるだろ!!」

 

 ”海洋迷宮”は神藤を見た。神藤は自分と同じくらいの背丈の女に巨大な生物の影を見た。

 

(シャチ?鯨?か今のは)

 

「誰だこの騒がしいのは」

「……生徒」

「なるほど。元気だな」

 

 妙に年寄り臭い感想だった。八谷が恐る恐る牡丹へ近づく。

 

「せ、先生……この人、誰なんです?」

「……”海洋迷宮”」

「説明が雑!!」

 

 七條は端末を高速で操作していたが、途中で手が止まった。

 

「……検索権限が弾かれる」

「え?」

「国家機密扱い。名前入力した瞬間に監査ログ飛んだんだけど」

 

 神藤の顔色がさらに悪くなる。

 

「嫌なんだけどそういうの!」

 

 一方その頃、向こうから白橋が全力で走ってきていた。シャツは乱れ、ネクタイは曲がり、髭まで伸びている。完全に修羅場明けの顔だった。

 

「菅原先生ぇぇぇぇぇ!!何をしてるんですかあなたは!! 太平洋監視網が全面警戒に入ったんですよ!? 防衛監督省から通信107件! 海保から23件! 米側からも問い合わせ来てるんですよ!!」

 

「……鯨見てた」

「聞いてません!!」

 

 白橋はその場で膝に手をついた。過労で倒れそうである。そして恐る恐る、”海洋迷宮”を見る。

 

「……お久しぶりです」

「ああ、白橋か。まだ生きていたか」

「縁起でもないこと言わないでください」

 

 どうやら面識はあるらしい。その瞬間、周囲の生徒たちがざわついた。

 

「え、校長知り合い?」

「マジ?」

「あの人誰……?」

 

 海洋迷宮は周囲を見回した。

 

「ここは随分増えたな、人間」

「学校ですから」

 

 短いやり取り。だが海洋迷宮は少しだけ目を細めた。

 

「学校か悪くないな」

 

 牡丹がぽつりと言う。

 

「……機嫌いい」

「鯨が見れたからな」

「観光客かよ……」

 

 神藤はもうツッコむ気力すら薄れていた。すると”海洋迷宮”が不意に立ち止まる。

 

「む」

 

 全員が緊張した。警備員たちの体が強張る。だが彼女は真顔で言った。

 

「どっちだ」

「何がですか」

「トイレ」

 

 一瞬の沈黙。そのあと。

 

「案内します!!」

 

 白橋が即答した。国家規模の危機管理責任者として、これ以上問題を増やしたくなかったのである。”海洋迷宮”は満足そうに頷いた。

 

「うむ。話が早いな」

 

 “海洋迷宮”は満足そうに頷いた。その瞬間、周囲の警備員たちが一斉に通信を飛ばす。

 

『対象、移動開始!』

『進行方向、中央校舎!』

『繰り返す、中央校舎へ移動!』

『トイレ使用目的とのことです!!』

 

「最後いるかその報告!?」

 

 神藤が思わず叫ぶ。だが現場はそれどころではなかった。

 

『第三・第四隔壁閉鎖!』

『生徒を廊下から退避!』

『水道系統の圧力監視を上げろ!』

『海水流入を警戒しろ!!』

 

「トイレ行くだけだよな!?」

「ちゃんと見て」

 

 七條が真顔で返した。

 

 実際、“海洋迷宮”が歩くたび、周囲の空気が微妙に湿っていく。可動橋の金属表面には薄く水滴が浮かび、海側では波が不自然に静まり返っていた。

 

 黒井が低く呟く。

 

「無意識漏出か。今日は比較的安定してるな」

「比較的でこれなの!?」

 

 神藤はもう限界だった。安寧の地だった天守島が、たった一人の来訪者で国家級警戒態勢へ移行している。しかも本人はトイレを探しているだけである。校舎へ入った瞬間、館内放送が鳴った。

 

『生徒の皆さんは落ち着いて避難してください。繰り返します、落ち着いて――』

 

 そこで放送が一瞬途切れた。

 

 ザザッ――

 

『……えー、現在、特別来訪者対応中です。一般生徒は第三校舎への移動をお願いします。繰り返します、特別来訪者対応中です』

 

「言い換えた!?」

 

 神藤が叫ぶ。廊下の奥では教師たちが血相を変えて走り回っていた。

 

「海水遮断弁閉鎖確認!」

「排水路逆流なし!」

「対異能隔壁、出力七十維持!」

「保健室に非常用除湿機を追加搬入しろ!」

 

「学校で飛び交う単語じゃないね」

 

 八谷もついにツッコミへ回った。一方、“海洋迷宮”本人は静かなものだった。廊下の掲示板を見ていた。

 

『歓迎! 三学期スタート!』

 

 手書きのポスター、雪だるまのイラスト、生徒たちの寄せ書き。“海洋迷宮”はしばらく黙ってそれを見つめていた。そしてなにも言わずに前に進んだ。だが、その背中を見ながら牡丹がぽつりと呟く。

 

「……珍しい」

「何がです?」

 

 八谷が小声で聞く。

 

「……興味持ってる」

 

 神藤は思わず“海洋迷宮”を見る。銀髪の女は相変わらず無表情だった。だが先ほどまで校舎全体を軋ませていたような圧迫感が、ほんの少しだけ薄れている気がする。

 

「…………異能制御が下手だからすぐわかる」

 

牡丹がぼそりと言った。その瞬間、廊下の空気がぴたりと止まる。白橋が目を逸らした。警備員たちの通信も一瞬沈黙する。神藤はゆっくり振り返った。

 

「……え?」

「今なんて?」

「制御が下手」

 

 牡丹は淡々と繰り返した。”海洋迷宮”は少し困った顔をしていった。

 

「以前よりかはマシにはなったよ」

 

 その声音は、巨大災害の化身とは思えないほど普通だった。だが周囲の反応は普通ではない。白橋は遠い目をした。

 

「……ええ、比較にならないほど改善されています」

「本当かよ」

 

 神藤が半信半疑で聞く。黒井が即答した。

 

「本当だ。昔は止まっていたホテルの部屋にゴキブリが発生し、それに驚いて水害を起こした。それでフィリピンは壊滅的な被害が起きた」

 

 黒井が淡々と言った。数秒間、廊下が沈黙する。

 

「……………………は?」

 

 神藤の口から、心の底からの声が漏れた。八谷も完全に固まっている。

 

「え、待ってくださいゴキブリで?水害?フィリピンのあの水害はそれが原因?」

 

 七條が額を押さえた。

 

「因果関係が最悪なんだけど……」

 

 白橋は乾いた笑いを漏らす。

 

「当時、各国は異能兵器説や地殻変動説を疑っていましたね。まあ真実はこれなのですが」

「真実の方が嫌だよ!!」

 

 神藤が叫ぶ。“海洋迷宮”本人は少し不満そうだった。

 

「あれは不可抗力だ。人類の宿泊施設にあの生物を放つ方が悪い。目の前を飛ばれたんだぞ」

「そのせいで海から離れなくなったんだ、こいつは」

 

 黒井が疲れ切った声で言った。“海洋迷宮”は腕を組んだまま静かに頷く。

 

「あれ以来、陸地は信用していない」

「トラウマ重すぎるだろ」

 

 神藤が真顔になる。八谷が恐る恐る聞いた。

 

「えっと……つまり普段は海に?まさか衛星監視記録に時々映る移動性超大型低気圧って」

「私だな。一様、国家機密だ」

 

あまりにも軽い調子で、“海洋迷宮”は言った。その瞬間。

 

「「「は?」」」

 

 神藤、八谷、七條の声が綺麗に重なった。白橋はもう訂正する気力すらない。完全に諦めた顔で額を押さえている。

 

「……機密を本人がバラすんですか」

「君たちはもう監視対象だよ。今さら一つ増えても変わんないよ」

「嫌すぎるんだけどその理論!」

 

 神藤が叫ぶ。黒井は淡々としていた。

 

「安心しろ。口外しても大半は都市伝説扱いされる」

「安心材料が一個もねぇよ!」

 

 “海洋迷宮”は少し考えるように視線を上げた。

 

「昔、漁船に手を振られたので振り返したら、台風扱いされたこともある」

「規模を考えろ規模を!!」

 

 廊下の窓ガラスへ、ぱたぱたと水滴が当たる。窓の外は晴天と灰色の海だけだが、その周囲だけ細かな雨が降り始めていた。七條が青ざめる。

 

「ちょっと待って。感情に天候が連動してない?」

「比較的穏やかな状態だな」

「比較的で局地豪雨起こすな!!」

 

 神藤のツッコミが止まらない。しかしそれも終わりを迎える、どうやら女子トイレへ到着したらしい。三階廊下の端。清掃直後らしく床は妙に綺麗で、洗剤の匂いが微かに残っていた。入口前では、設備班らしき職員が数人、顔面蒼白で待機している。

 

「……本当にここでよろしいでしょうか」

「構わん」

 

 “海洋迷宮”は静かに頷いた。だが職員たちの緊張は限界だった。そもそも国家機密級存在を校内トイレへ案内するという状況自体が前例ゼロである。

 

「水圧制御班、待機!」

「排水路負荷監視開始!」

「非常隔壁、閉鎖可能状態を維持しろ!」

 

「なんでトイレで軍事作戦みたいになってんだよ……」

 

 神藤が乾いた声を漏らす。白橋は死んだ目で答えた。

 

「万が一、緊張や驚愕で出力が漏れた場合、この校舎の配管網が海になります」

「意味が分かんねぇよ」

 

 一方、“海洋迷宮”本人は入口前でふと立ち止まった。

 

「……?」

 

 牡丹が首を傾げる。

 

「どうした」

「こういう時、人類はなんと言うのが正しい?」

 

 数秒、沈黙。八谷が恐る恐る口を開いた。

 

「えっと……「お借りします」とかです」

「なるほど」

 

 “海洋迷宮”は真面目な顔で頷いた。そして女子トイレへ向き直る。

 

「……お借りする」

 

 瞬間。

 

 ゴォォォォォォ……!!

 

 校舎全体の配管が低く唸った。

 

『警告! 校内貯水量急増!』

『上層タンク水位異常上昇!』

『なぜ増える!? 供給止めろ!!』

 

「挨拶で水圧上げるな!!」

 

 神藤が絶叫する。海洋迷宮は少し困った顔をした。

 

「礼儀は難しいな」

「絶対ちがう…………」

 

神藤は壁にもたれかかるように呟いた。もはやツッコミにも力がない。女子トイレ前は完全に災害対策本部になっていた。

 

『配管圧力、通常値の三倍!』

『排水系統まだ耐えています!』

『海水成分検出!? なんで!?』

「落ち着け、まだ塩分濃度は低い!」

 

 設備班主任が怒鳴る。

 

「「まだ」って何!?」

 

 八谷が半泣きで突っ込んだ。白橋は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえている。

 

「大丈夫です……以前より遥かにマシですから……」

「比較対象が怖いんですけど!?」

 

 七條が即答した。その時。女子トイレの自動ドアが、す……っと開く。牡丹と黒井を除く全員の体が硬直した。だが中から出てきたのは、“海洋迷宮”本人だった。手までちゃんと洗っている。妙なところだけ常識的である。

 

「借りた。感謝する」

「お、おう……」

 

 神藤は反射で返事してしまった。”海洋迷宮”は少し考えてから付け加える。

 

「人類の設備は合理的だな」

「そこに感心するんだ……」

 

 牡丹がぽつりと聞く。

 

「……どうだった?」

「静かで良かった。海の底に少し似ている」

「女子トイレを深海と同列に語るな」

 

 黒井が即座に訂正した。すると、”海洋迷宮”は不思議そうに首を傾げる。窓の向こうの海面が傾く。

 

「だが個室は落ち着くだろう」

「分からなくもないのが嫌だな……」

 

 神藤は遠い目をした。ピコン、と七條の端末が鳴る。彼女は画面を見て、真顔になった。

 

「……あ」

「今度はなんだよ」

 

 七條はゆっくり顔を上げた。

 

「太平洋監視網、“海洋迷宮”消失で警戒解除始めてる」

「よかったじゃねぇか……」

 

 神藤が力なく言う。

 

 だが七條は続きを読んでいた。

 

「“現在、天守島内部に出現した可能性あり”って更新された」

「当たり前だろいるんだから!!」

 

 神藤の叫びと同時に、校内非常警報が鳴り響いた。

 

『緊急通達。校舎内へ超常存在侵入の可能性――』

「侵入じゃない。招かれた客だ」

「余計悪いわ!!」

 

 神藤はついにその場へしゃがみ込んだ。もう限界だった。 その横で、黒井が無言で廊下の窓を開ける。冷たい潮風が吹き込んだ。

 

「……?」

「よし、帰れ」

 

 “海洋迷宮”が振り返った瞬間。黒井はその銀髪の頭を無造作に海に投げた。

 

どぼんッ!!

 

 数秒、廊下が完全に沈黙した。

 

「「「…………」」」

 

 神藤はゆっくり顔を上げる。

 

「投げた……」

「投げましたね……」

 

 八谷も呆然としている。白橋だけは頭を抱えていた。

 

「ああもう始末書が増える……」

 

 だが次の瞬間。

 

 ゴォォォォォ……

 

窓の外の海が盛り上がりそこに”海洋迷宮”が座っていた。

 

「ではまたな」

 

 “海洋迷宮”は海面へ座ったまま、静かに言った。背後では灰色の霧がゆっくり渦を巻いている。巨大なクジラの影が海中を横切り、そのたびに海面が低く唸った。神藤は引きつった顔のまま叫ぶ。

 

「来ないでください」

 

 海洋迷宮は少し考えた。

 

「善処しよう」

「絶対でお願いします」

 

 黒井は窓を閉めながら深いため息を吐いた。

 

「……帰ったな」

「毎回こんななんですか?」

「今回はかなり平和な部類だ」

 

 八谷の問いへ、黒井が即答する。全員の顔色が悪くなった。白橋は壁へ寄りかかったまま、魂の抜けた声を出した。

 

「防衛監督省へ……報告……」

「なんて書くんです?」

「“対象、トイレ使用後に帰還”でしょうか……」

 

 七條が真顔で言う。

 

「絶対監査で止まりますよそれ」

 

 その時、窓の外から、低い鳴き声が響いた。

 

 ォォォォォ……

 

 海洋迷宮の背後で、巨大なザトウクジラが海面から跳ね上がる。冬空を背景にした巨体は、一瞬だけ本当に空を飛んでいるようだった。牡丹が少し目を細める。

 

「……綺麗」

 

 海洋迷宮はそして最後に校舎を見上げる。

 

 歓迎ポスター、騒がしい生徒たち、慌てる教師、必死な警備隊。その全てを見て、彼女はぽつりと言った。

 

「……人類も悪くないな」

 

 直後、海霧が一気に広がる。轟音と共に波が持ち上がり、海そのものが彼女を飲み込むように閉じていった。次の瞬間には、もう誰もいない。残ったのは静かな冬の海だけだった。

 

『超常反応、完全消失しました』

 

 校内放送が流れる。神藤は疲労のあまりその場へ崩れ落ちた。

 

「終わった……」

 

 しかしまだ始業式すら始まっていない。

 

「…………あしえ。()()()()()()。”海洋迷宮”にまぎれて。2人」

「そうか、今の俺は碌に探知できんからな。報告は俺がしておく」

「…………分かった」




人物紹介

菅原 牡丹  (21 女)
本作の主人公。天守島異能力学校2-B担任。”海洋迷宮”は3年ぶりくらいに会った。

神藤 悠馬 (17 男)
精神干渉系の異能者。天守島異能力学校2-B。新聞部。このあと過労で倒れた。

七條 葵   (17 女)
紅い電気のようなものとなり、また操ることができる異能者。天守島異能力学校2-B。生徒会会長。このあと情報漏洩対策に駆り出された。

八谷 涼音  (17 女)
モノを清潔にすることができる異能者。天守島異能力学校2-B。生徒会会計。倒れた神藤の介護をする。

黒井 灰(17 男)
その正体は異能自衛隊特異異能尉、葭江 躯。天守島異能力学校に潜入任務として入る。”海洋迷宮”の後処理を行っていた。

”海洋迷宮”(不明 女)
最高位の異能者。基本的には太平洋に生息。虫が苦手
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