十一話
お慶び申し上げます。令息でございますよ。
穏やかに、優しく言われ、戦星の名を冠する女はただ頷いた。細い手が女の髪を優しく梳いてくれた。ひょいと杖を振り、彼女の血と汗で濡れた衣を替えてくれ、もう一度振れば、清潔な寝台まで、そうっと運んでくれた。
結い上げられた金色の髪が、黄昏にきらきらと輝いている。衣は地味だが、立ち居振る舞いは優雅。艶やかというよりは――ただ、ぬくもりを感じさせる。
――なるほど
「夫」が好くのもわかる、と彼女は納得した。ロドルファス・レストレンジ。淡い金の髪に、同じく淡い青の眼を持つ魔法使い。純血名門レストレンジ家の当主。彼女の世話を焼く女は、ロドルファス――レストレンジの遠縁で、乳兄妹の関係だ。いわば共に育った学友、幼馴染。
燃えるように輝く星よりも、春のひだまりにロドルファスは惹かれている。
もしかしなくとも、添いたかったのかもしれない。だが、それは叶わなかった……。
「星の眼ですわ」
お美しいこと、と魔女は笑う。その声には小さな、頼りない生き物への慈しみと、ほんの少しの切なさが宿っていた。
魔女が赤ん坊を寝台に横たえる。胸元にやってきた熱を、彼女は受け止めた。まだ湿った髪は金色。ぱっちりと開いた眼は、彼女――戦星たるベラトリックスの、星の眼。ブラック家の色彩。
黒が克たなかったか、とベラトリックスは吐息をこぼす。ロドルファスは金の髪。ベラトリックスは黒の髪。黒のほうが強く出るだろうと踏んでいたが、魔法族の血はよく悪戯をする。黒髪の両親から金髪の子が生まれる、なんてこともままある。ブラック分家の三姉妹――いや、二人の姉妹とて、ベラトリックスは黒髪、妹は白金の髪であった。
まあよい、とベラトリックスは思考する。無事に産み落としたのだ。ひとまず、それでよい。
「……お前が世話を焼いておやり」
掠れた声で言い、視線を赤ん坊に向ける。
「しかし、奥様……私はあなた様のお世話を言いつかっております」
産後でお疲れでしょう。血を失っておられますし、難産でしたもの。
優しく優しく言う魔女に、ベラトリックスは首を振る。
「ちょっと眼を離したら……なんてことはない。おいき」
私は、この子の名を考えるから。そう付け加えると、魔女は納得したのか赤ん坊を抱いて出て行った。
実は赤ん坊の名はとっくのとうに決まっているなどと、知る由もなく。
しん、と静寂が満ちる。ベラトリックスは眼を瞑った。目交に浮かぶのは、金の髪の女。ロドルファスの乳兄妹。レストレンジ家の家令……の一人。そして、その腕に抱かれている、小さな小さな子。ベラトリックスの子。
彼女たちのほうがよほど、母子に見える。
ベラトリックスは口端を吊り上げる。献身的な魔女。たぶん、あの娘もロドルファスを好いている。つまり、ロドルファスと相思相愛であった。
だが……。
添うことは叶わなかった。理由はいくつかある。
一つは、乳兄妹とロドルファスの身分差。仕える者と主たる者。
血筋の点では申し分ないのだけど。魔女は純血であったので。それに、レストレンジの遠縁だ。交わったところで、濃くなりすぎない、ちょうどよい案配であった。
しかし、身分という名の隔たりはある。純血名門の正妻――正夫人の座にふさわしくない、とみなされる可能性が高かった。
一つは、魔女は身体に障りがあった。子が望めない体質だったのだ。レストレンジ家に跡取りをもたらすことができない、致命的な欠陥である。
――それでも
ロドルファスの弟、ラバスタンに当主の座を譲るなり、遠縁から子をもらうなりすることもできたろう。正夫人に、と押し通せなくはなかった。
けれど、ロドルファスは幼馴染の手を離し、もう一人の幼馴染に託したのである。
闇を印された者が、心を捧げるのは我が君のみ。何があるかわからない。側に置くわけには――妻とするわけにはいかぬ、とでも思ったのだろう。ロドルファスなりの温情である。
情があろうがどうしようもないことというものは、ある。ほかの女に心を向けるなど、と嫉妬する気にもなれない。ベラトリックスは可愛らしい女に弱かった。困ったことにロドルファスが好いている女は莫迦ではなく、賢い類であるし。己の実母が激しい気性だった反動であろう。
「かわいそうなことだ」
ぽつ、とベラトリックスは呟く。珍しいことに、惻隠の情がわいている。弱っているせいだろう。
別に夫なんてほしくなかった。子どももいらなかった。魔女は子どもがほしかったろうに。「ロドルファス様」の息子を見る眼がそれを物語っていた。けして持つことが叶わない、我が子を見る眼だ。
常は旦那様。だが、時たま「ロドルファス様」と魔女が呼ぶことを、ベラトリックスは知っていた。割り切れない感情。名残のようななにか。
仕方ないのだ。
ロドルファス・レストレンジとベラトリックス・ブラックの婚姻が、翻るわけがなかったのだから。
かつて、ベラトリックスには夫候補が二人いた。
一人はシリウス・ブラック。ブラック家の血をより濃く……という意図があった。
一人はその弟のレギュラス・ブラック。これは、ブラック分家――ベラトリックスの婿に、という意図。
正しい純血婚。ベラトリックスが蹴れば妹たちに話が回る類のもの。
畢竟、純血よ、永遠に。染まらず濁らず色褪せず……ブラック家の家訓を守れれば、それでよいのだ。番うのがベラトリックスでも、妹たちでも。組み合わせなどどうとでもなった。
分家の長子――長女であるベラトリックスによりよい血を、正しい婚姻を、と大人たちが考えた。そうして、優先されただけだ。
――巧くいきはしなかったけれど
くつ、とベラトリックスは笑った。当時の大人たちが考えた、未来の青写真は破られた。シリウスはグリフィンドールに入り、ブラック本家に泥を塗った。縁談未満……検討は白紙になった、という。
ベラトリックスの縁談は宙に浮いた。そして、思わぬところから話があった。
『……ブラック分家、あるいは本家を掌握するよりも』
俺様のためになることがある、と「あの方」は言った。
『我が腹心たちが結びつくのは、俺様にとって喜びである』
とある日に呼び出され、馳せ参じた腹心――闇を印された者は二人。
ベラトリックスとロドルファス。ブラックとレストレンジ。『双狼』と『蠍』。
俺様への忠を示せ、とあの方は告げた。歌うようにこう続けた。
『『双狼』と『蠍』の番。その間の子を寄越せ。前回、稀なる血を発現させたのは、その組み合わせだとか』
なあ、とあの方は笑った。ベラトリックスの隣にひざまずく、ロドルファスは俯いた。
『我が君。命とあらばいかなることもしましょうが、こればかりは神の領域。お約束できかねます。血とは気まぐれなものゆえに』
かつて、とロドルファスは囁いた。
『レストレンジの粋が顕れたのは、数百年前が最後。以降も『双狼』と『蠍』の番は何組かありましたが……顕れず』
ロドルファスは丁寧に言う。
確実にこれ、という条件が不明です。我が君のおっしゃるとおり、『双狼』と『蠍』は確率が高い。が、別の家門と結びついても発現した例があり……。一説には下女との間の子がというものも。
『レストレンジが箔を付けるための物語、ブラック家との繋がりを誇示するための伝説だろうがなんでもよい。俺様に語ったのが運の尽きだな、ロドルファス』
ぴしゃり、とあの方は言った。禍つ星の眼を輝かせ、命を下した。
『由緒正しき純血たちよ。稀なるものが宿るかはわからぬが、やってみせるがよい』
にっこりと、あの方は笑った。
男ならばウルペクラ、女ならばデルフィーニと名付けよ。
名誉と思え。
たとえ遠い遠い祖から伝わった血を顕さずとも。
お前たちの間の子は、俺様に仕えることとなるだろう。
は、と眼を開ける。そっと腹に手をやった。すると、平たい――痩せた感触が返ってくる。もはや胎の中に子はいない。彼女は仕事をやり遂げた。仕える者の、忠心を示した。
ここは、あの黄昏の時の寝台でもなく、あの方の御前でもない。
すべての希望が砕かれ、すすられる場所。
海の只中に浮かぶ孤島――アズカバンの、闇の底。
夢の名残を、瞬きで振り払う。とろとろとした眠りを破ったのはなんであろう、と神経を尖らせる。
なにかの視察か。
否、と彼女――ベラトリックスは眼を細める。魔法大臣がのこのことやってきたのは、数日ほど前。ただし、囚人の曖昧な感覚によるもの。もしかして、一週間前かもしれず、数ヶ月前かもしれない。
魔法大臣がお帰り遊ばしてから、アズカバンは時を繰り返すのみ。終わりの見えない停滞の中に、この監獄はあるのだ。
では、なにが彼女を眠りから引きずり出したのだろう。
慎重に、慎重に様子を窺う。やせ細り、弱っていても魔力は枯れきっていない。眼は光を失わず、耳は囚人たちの呻きを拾う。
乏しい明かりに、影が浮かぶ。いくつも、いくつも、鉄格子の前を行き過ぎていく。
蜂の巣をつついたような、という言葉がぴったりだった。アズカバンの主たる吸魂鬼は、狼狽し、怒っている。ご馳走の前を通っても、食べる気にもならないほどに。
ベラトリックスは息を殺す。何事かあったのは確実。それが、己たちに累を及ぼすか、否か。
「……死ぬわけにはいかない」
左腕を掴む。闇の印は沈黙したまま……消えてはいないがそれだけ。生きているだけ。今のベラトリックスのように。
ここを出て、お捜し申し上げられればよいのに、と臍を噛む。闇に堕とされて幾星霜、繰り返し、繰り返し思いを刻んできた。
必ず生きてここを出る。そしてあの方のところに行くのだと。
――やがて
どこからか、悲鳴が聞こえた。吸魂鬼の異変を察知した、役人どもの声が。
まさか、ありえない。ありえてはならない。
シリウス・ブラックが脱獄した!
ふふ、とベラトリックスは笑った。
やってのけたのか。我が愚かな従弟は。
向かう先はどこであろう? と首を傾げる。そうして、記憶の箱をひっかき回した。
外の世界のにおいがする男、魔法大臣はなんと言っていた? 正気じゃないのがおかしい。あいつは狂っている、と。
ベラトリックスは考える。なにせ時間だけは無駄にあるのだ。シリウスはどうして出て行ったのか。
「やつはホグワーツにいる、と」
声が聞こえる。ロドルファスだ。囚人たちは独房に入れられている。ベラトリックスは何年も「夫」の顔を見ていない。その声だけが耳に残る。
「シリウスが夜な夜な呟いていたとか……」
囚人たちの噂話。最近は鼠が多いだとか、痩せている、肥えているだとか。どこそこの魔法使いが入ってきただとか、色々とある。ロドルファスはくだらない噂話――おしゃべりもきっちりと覚えているわけだ。
たとえば、脱獄が叶うとなったら、役に立ちそうな人間を見繕って連れて行く必要があるので。あの方への手土産である。
「今更?」
ベラトリックスは問う。
今更、というよりも無為であるといったほうが正しい。あの方がいない。だというのにホグワーツに出向いたところで、なんとする。
「ハリー・ポッター」
ロドルファスが答えを投げてきた。ベラトリックスは天井を見上げる。そうか、と呟いた。
「あれから十年は経っている。入学しているはず」
なんらかの事情があり、従弟が出向く必要があった。ハリー・ポッターの身に危険が迫っているとか?
情報が足りない。なんにせよ、ベラトリックスは手が出せない。ハリー・ポッターが危険だろうがどうでもよい。忌々しい赤ん坊。我が君を破滅させた元凶。
めまぐるしい思考を、ロドルファスの声が切り裂いた。
「我々の出る幕はない。ただ待つだけの身。思えば――あの方のお役に立てたのは、子を生したことくらいかもしれない」
どこか皮肉気な響き。ベラトリックスは思い出した。どちらかに欠陥があるのかと思ったものだ。なかなか授からなかった。何度も交わり、ようやっと授かった時には嬉しかったものだ。
己の身に欠けがない、と証明できた。加えて『蠍』のレストレンジとの間の子は、先祖返りであった。神は微笑まれたのだ……。
「あれは……」
いまいくつだろうか、と呟けばロドルファスが「十五くらいだろう」とすかさず返してきた。正気を保っている上に、息子の年齢も把握しているとは。恐ろしい男である。ベラトリックスは、そんなくだらないことなど、覚えていない。
夫に情があるわけでもない。ただ、義務の婚姻。望まれたから交わって、産み落とした。
「ウルペクラ」
こぎつね座のウルペクラ、とベラトリックスは甘く歌う。歌う。
その名は我が君に授かったもの。
そのすべては我が君のもの。
私の誉れ。
健やかであれ。
我が唯一の、太陽のために。
ウルペクラ・レストレンジ(Vulpecula・Lestrange)
レストレンジ家嫡子。ロドルファスとベラトリックスの息子。
金髪灰眼。スリザリン所属。ハリーたちより二つ上。
トム・マールヴォロ・リドルの日記に操られた「共犯者」。
赤ん坊の時に闇の印を賜りし者。
印されし者。
『蠍』たるレストレンジの先祖返り。
その血は毒であり、薬である。
その血は毒も呪いも撥ね退ける。
戦星の名を冠した母は、愛しのこぎつね、黒き心臓ウルペクラ、と彼を呼んだ。
彼女がこぎつねを産み落としたのは。
闇の帝王に捧げるためである。