ネアポリスの空は、見滝原よりも少し濃い青をしていた。
美樹さやかは空港の出口で、スーツケースの持ち手を握りしめたまま立ち尽くしていた。
「……ほんとに来ちゃった」
日本からイタリア。
勢いで来たと言えば、完全に勢いだった。
けれど、そのきっかけは一通の手紙だった。
差出人は、ブローノ・ブチャラティ。
『約束通り、生きている。
君の言葉に助けられた。
本場のパスタを食べに来るといい』
そんな妙に律儀で、妙に真っ直ぐな手紙だった。
「……生きてるんだよね」
さやかは小さく呟いた。
あの夜、見滝原の歩道橋で泣いていた自分の隣に座ってくれた人。
ハンカチを貸してくれた人。
肉まんと温かいお茶を買ってくれた人。
自分を捨てるな、と言ってくれた人。
その人が、遠い国で本当に死にかけて、けれど生き残った。
自分が渡した青いリボンを見て、ほんの一瞬だけ踏みとどまったのだと、手紙には書いてあった。
さやかには、まだ実感がなかった。
自分はただ、恩返しがしたかっただけだ。
救われた分を、少しだけ返したかっただけだ。
それが誰かの命につながったなんて、あまりに大きすぎて、うまく飲み込めない。
「さやか」
声がした。
顔を上げる。
白いスーツの男が、到着ロビーの向こうに立っていた。
黒髪のおかっぱ。
落ち着いた瞳。
見滝原で見た時と同じ、いや、少しだけ柔らかくなった表情。
ブローノ・ブチャラティだった。
「ブチャラティさん!」
さやかは駆け寄ろうとして、途中で足を止めた。
彼の胸元を見てしまったからだ。
そこに刻まれた、大きな傷跡を。
息をすると痛むのだろうか。
本当に大丈夫なのだろうか。
そんな考えが、一気に押し寄せる。
ブチャラティはそれを察したように、静かに言った。
「大丈夫だ。生きている」
その一言で、さやかの目が熱くなった。
「……ほんとに?」
「ああ」
「ちゃんと?」
「ちゃんと、という言葉の定義によるが」
「そこは普通に頷いてくださいよ!」
ブチャラティはわずかに笑った。
さやかは唇を噛み、近づいて、そっと手を差し出した。
「触って確認してもいいですか」
「構わない」
さやかは彼の手を握った。
温かかった。
ちゃんと血が通っている手だった。
「……よかった」
声が震えた。
「ほんとに、生きてた」
「約束したからな。
君にパスタをごちそうするのも」
「ブチャラティさん、約束守りすぎです」
「破るよりはいい」
「そうですけど」
さやかは笑おうとして、少し泣いた。
泣いたことに気づいて、慌てて目元を拭う。
「すみません。なんか、空港で泣くの変ですよね」
「変じゃない」
「またそうやって全部受け止める……」
「泣ける時に泣いておいた方がいい」
その言葉に、さやかは思わず笑った。
「相変わらずですね」
「君もな」
「え、あたしも?」
「ああ。泣きながらでも、ちゃんと立っている」
さやかは返す言葉に困り、視線を逸らした。
その時、横から明るい声が飛んだ。
「おい、ブチャラティ! その子が例の日本の子か?」
陽気そうな青年が、ひょいと顔を出した。
それと同時に、小柄で落ち着きのない少年が身を乗り出す。
「日本から来たんだろ? すげー! 飛行機どんくらい乗るんだ?」
続いて長髪の青年が声をかける。
「ブチャラティの命の恩人なんだってな、嬢ちゃん。
歓迎するぜ」
さらに、金髪の少年が礼儀正しく頭を下げた。
「ジョルノ・ジョバァーナです。ブチャラティから話は聞いています」
その隣には、ピンク色の髪の少女。
彼女は少し緊張したような顔で、さやかを見ていた。
「トリッシュ・ウナよ。
よろしくね」
さやかは一瞬で情報量に押された。
「えっ、あ、どうも! 美樹さやかです!」
陽気そうな青年がにやりと笑う。
「俺はミスタ。よろしくな、サヤカ」
「俺ナランチャ! なあ、日本って自販機がどこにでもあるってマジか?」
「第一声それ!?」
さやかが思わずツッコむと、ナランチャは真剣な顔で頷いた。
「大事だろ! 夜中に腹減った時とかよ!」
ミスタも腕を組んで頷く。
「それは確かに大事だな」
ジョルノが少し呆れたように言う。
「ナランチャ、まず聞くべきことはそこではないと思います」
「じゃあ何聞くんだよ?」
そこにアバッキオが口を挟む。
「長旅で疲れていないか、とかじゃあねーのか?」
「あっ、そうだった! 疲れてるか?」
「順番!」
さやかは笑ってしまった。
ブチャラティはそのやり取りを見て、少しだけ肩の力を抜いたようだった。
「行こう。店を予約してある」
「ほんとに予約してるんですね」
「本場のパスタを食べたいと言っただろう」
「言いましたけど、まさか本当にイタリアまで呼ぶとは思わないじゃないですか」
「約束だからな」
「重い! 約束への姿勢が重い!」
ビビり気味のさやかを見て、ミスタが笑う。
「ブチャラティはそういうやつだぜ。一回やるって言ったら本当にやる」
ナランチャも頷く。
「飯の約束も守るし、命の約束も守る!」
その言葉に、さやかは少しだけ黙った。
命の約束。
自分が言った『生きてください』という言葉。
それをこの人は、本当に守ってくれた。
トリッシュが横から静かに言った。
「行きましょう。お腹、空いたでしょう?」
「はい」
さやかは頷いた。
「すごく」
店は、海の見える小さなトラットリアだった。
観光客向けの派手な店ではなく、地元の人たちが自然に集まっているような店。
窓の外には青い海。
厨房からは、トマトとオリーブオイルとにんにくの香りが漂っていた。
さやかは席に座るなり、深く息を吸った。
「うわ……匂いだけでお腹空く」
ナランチャが得意げに言う。
「だろ? ここ、うまいんだぜ!」
ミスタがすかさず言った。
「お前が作ってるわけじゃねえだろ」
「紹介したのは俺だし!」
「予約したのはブチャラティです」
ジョルノが冷静に補足する。
「じゃあ俺は何したんだよ!」
「騒いでただけだろ」
アバッキオが呆れながら言う。
「ひでー!」
さやかはまた笑った。
「みんな、仲いいんですね」
ミスタが肩をすくめる。
「まあ、いろいろあったからな」
ジョルノが静かに頷く。
「簡単には話せないことも多いですけどね」
ブチャラティはメニューをさやかに渡した。
「食べられないものはあるか?」
「特にはないです。辛すぎるのとかじゃなければ」
「なら、最初はシンプルなものがいい。トマトのパスタと、魚介のパスタを頼もう」
ミスタが口を挟む。
「四皿はやめろよ」
さやかが首を傾げる。
「なんでですか?」
ナランチャが即答した。
「ミスタは四って数字がダメなんだよ」
「え、なんで?」
ミスタは真顔で言った。
「縁起が悪い」
「へ、へえ……」
「笑うところじゃねえぞ。四ってのはマジでよくねえ」
「いや、笑ってないです。ちょっと面白いだけで」
「笑ってんじゃねえか!」
トリッシュが呆れたようにメニューを閉じる。
「人数分頼めば問題ないでしょ?」
ジョルノが頷く。
「そうですね。
七人ならミスタも納得するでしょう」
「おっ、そういうことならいいんじゃあねーの?」
「基準が独特すぎる……」
さやかはそう言いながらも、少し気が楽になっていた。
最初は緊張していた。
ブチャラティの仲間たち。
遠い国の、危険な世界を生き抜いた人たち。
自分とは違う場所の人間。
そう思っていた。
けれど、目の前の彼らは騒がしく、よく食べ、よく喋り、妙なこだわりで揉める。
普通の人間みたいだった。
……いや、たぶん普通ではないんだろうけど。
でも、ちゃんと生きていた。
自分と同じように。
料理が運ばれてくる。
トマトソースのパスタ。
魚介のパスタ。
バジルの香り。
さやかはフォークを手に取った。
「いただきます」
一口食べ、目を見開いた。
「……おいしい」
本当に、おいしかった。
トマトの酸味と甘み。
オリーブオイルの香り。
麺の歯ごたえ。
何より、温かかった。
それだけで、胸の奥がじんわりした。
「あの夜の肉まんより美味ければいいんだが」
ブチャラティが言った。
それを聞いてさやかは笑う。
「比べる相手がコンビニ肉まんなの、肉まんに失礼ですよ」
「だが、あれは大切な食事だった」
「……そう、ですね」
さやかはもう一口食べた。
「必要でした」
あの夜、泣きながら食べた肉まん。
味なんてよく覚えていない。
でも、手の中の温かさは覚えている。
生きている感じがした。
今のパスタも同じだった。
もっとおいしくて、もっと賑やかで、もっと遠くまで来たけれど、根っこは同じだ。
食べること。
生きること。
「ブチャラティさん」
「なんだ」
「約束、守ってくれてありがとうございます」
「こちらこそ」
「え?」
「君も約束を守ってくれた」
「何かしましたっけ」
「ハンカチを返した。
生きて、ここまで来た」
さやかはフォークを止めた。
そんなことを、当たり前みたいに言う。
でも、それはあの夜の自分にとって、当たり前ではなかった。
「……そっか」
さやかは小さく笑った。
「じゃあ、ちゃんと守りましたね」
「ああ」
「なら、もっと食べます」
「いい判断だ」
ミスタが口を挟んだ。
「ブチャラティ、飯食わせる時だけ妙に母親みてえになるよな」
ナランチャが大きく頷く。
「わかる! ちゃんと食えって顔する!」
「俺はそんな顔をしているか?」
「してるぜ」
アバッキオが言う。
「してるわね」
トリッシュが笑う。
「しています」
ジョルノまで穏やかに言った。
ブチャラティは少し黙った。
「……そうか」
さやかは吹き出した。
「満場一致ですね」
食事が少し落ち着いた頃、トリッシュがさやかに向き直った。
「ねえ」
「はい?」
「あなたがブチャラティに渡したお守りのこと、聞いてもいい?」
さやかは少しだけ緊張した。
魔法少女のことは話していない。
話すつもりもない。
ブチャラティにも、詳しいことは説明していなかった。
「えっと……そんな大したものじゃないですよ。ただ、あたしが勝手に作った青いリボンで」
「詳しい仕組みは聞かないわ」
トリッシュは静かに言った。
「でも、ブチャラティが言っていたの。あれを見て、あなたの言葉を思い出したって」
さやかは黙った。
トリッシュの声は、少し震えていた。
「私、その場にいたの。父親に会えると思っていた。やっと全部終わると思っていた。でも違った」
みんなが黙った。
ブチャラティはトリッシュを見ていたが、口を挟まなかった。
「私は殺されるところだった。理由なんて、私には何もなかった。ただ、存在していることが邪魔だっただけ」
トリッシュは拳を握った。
「その時、ブチャラティが私を連れて戻ってきてくれた。血だらけだった。でも、生きていた」
さやかは息を呑んだ。
手紙で読んだ。
ブチャラティ本人からも少し聞いた。
でも、トリッシュの口から聞くと、重さが違った。
「だから、ありがとう」
トリッシュはまっすぐに言った。
「あなたが何をしたのか、私は全部は知らない。でも、あなたの言葉がブチャラティを止めたなら、私も助けられたってことだから」
さやかは困ったように笑った。
「……そんな、あたしはほんとにリボン渡しただけで」
「それだけじゃないわ」
トリッシュの声は強かった。
「自分を大事にしてって、誰かに言うのは簡単そうで難しい。
特に、そういうことを言われ慣れていない人にはね」
ミスタが小さく頷く。
「ブチャラティは、まあ、そういうところあるからな」
ナランチャが素直に言った。
「すぐ自分が前に出るし」
ジョルノも続ける。
「自分の命を勘定に入れない判断をすることがあります」
「おい」
ブチャラティが少しだけ眉を動かした。
「事実です」
ジョルノは穏やかに返した。
ミスタが笑う。
「言われてやんの」
さやかはブチャラティを見た。
「ほら、みんな思ってるじゃないですか」
「……反省している」
「ほんとですか?」
「ああ」
「じゃあ、今後もちゃんと生きてください」
「努力する」
「そこは即答!」
テーブルに笑いが起きた。
ブチャラティも、困ったように、けれどどこか楽しそうに笑った。
ナランチャは食後のパンをかじりながら、さやかに質問攻めを始めた。
「なあ、日本の学校ってマジで毎日制服なのか?」
「まあ、学校によるけど、あたしのところはそうですね」
「昼飯は?」
「お弁当とか購買とか」
「購買って何売ってんだ?」
「パンとか飲み物とか。あと肉まんとか」
「肉まん!」
ミスタが身を乗り出す。
「それが例の、ブチャラティが買ったやつか?」
「そうです。コンビニの肉まん」
「コンビニってのもすげえよな。何でも売ってんだろ?」
「だいたい何でもありますね」
ナランチャの目が輝く。
「行きてえ!」
ジョルノが冷静に言う。
「観光目的がコンビニなのは珍しいですね」
「でも便利なんだろ? 最高じゃん!」
トリッシュも少し興味を示した。
「日本のお菓子は種類が多いって聞いたことがあるわ」
「多いですよ。季節限定とか、地域限定とか」
ミスタが指を鳴らす。
「今度来る時、なんか持ってきてくれよ」
「いいですよ」
「四種類はやめてくれ」
「まだ言う!」
ナランチャが笑う。
「じゃあ五種類で!」
「五ならいい」
「ほんと基準がわかんないですね」
さやかは笑った。
ジョルノがさやかを見て、静かに尋ねた。
「日本からここまで来るのは、不安ではありませんでしたか?」
「不安でしたよ。めちゃくちゃ」
「それでも来た」
「はい」
さやかはブチャラティをちらりと見た。
「生きてるって、自分の目で見たかったから」
ブチャラティは何も言わなかった。
ただ、穏やかに頷いた。
「それに、ちゃんとお礼も言いたかったんです。あの夜、あたし本当にダメだったから」
ナランチャが首を傾げる。
「ダメ?」
さやかは少しだけ迷った。
詳しく話す必要はない。
でも、隠すことでもないと思った。
「失恋して、泣いてたんです。歩道橋で」
ミスタは意外そうな顔をした。
「ブチャラティ、お前そんなとこ通りかかったのか」
「ああ」
「で、声かけたと」
「倒れそうな顔をしていた」
「なるほどな」
さやかは苦笑した。
「倒れそうな顔、してたらしいです」
トリッシュは優しく言った。
「そういう時に声をかけられる人って、少ないわ」
「そうかもしれません」
さやかはパスタの皿を見つめた。
「でも、声をかけてもらった側からすると、すごく大きかったです。別に問題が全部解決したわけじゃないけど、次の日まで生きる理由になったから」
テーブルが静かになった。
さやかは少し慌てて手を振る。
「あ、重くしてすみません! 今はもう、だいぶ大丈夫ですから!」
ブチャラティは静かに言った。
「無理に軽くしなくていい」
「……はい」
ジョルノが言う。
「人は、誰かの一言で立ち止まれることがあります。あなたとブチャラティの間で起きたことは、そういうことだったのでしょう」
ミスタが腕を組む。
「で、その立ち止まったやつが、今度はブチャラティを立ち止まらせたわけだ」
ナランチャが目を丸くした。
「なんかすげえな!」
「うん。すごいと思う」
さやかは素直に頷いた。
本当に、そう思った。
小さな出来事だった。
泣いていた少女にハンカチを貸した。
その少女がリボンを返した。
ただ、それだけ。
でも、その小さなやり取りが、遠く離れた空の下で命を繋いだ。
「……不思議ですね」
「そうだな」
ブチャラティは言った。
「だが、俺は偶然だけだとは思わない」
「え?」
「君が苦しみながらも、誰かに返そうとした。その選択があったからだ」
「……」
「恩返しとは、借りを帳消しにすることではないのかもしれない」
ブチャラティは、青いリボンをしまっている胸元に手を添えた。
「受け取ったものを、別の形で未来につなぐことだ」
さやかは何も言えなかった。
少し泣きそうになったので、慌てて水を飲んだ。
ミスタが察したのか、わざと明るく言った。
「よし、湿っぽい話はここまでだ。
デザート頼もうぜ!」
ナランチャが勢いよく手を挙げる。
「ティラミス!」
トリッシュも頷く。
「私も」
「待て、数に気をつけろよ」
ミスタが慌ててそう言うのを見て、さやかがにやりと笑った。
「じゃあ四つで」
「おい!」
ナランチャが爆笑した。
「サヤカ、わかってんじゃん!」
ミスタは真剣に顔をしかめた。
「冗談でもやめろ。食う前に皿割れるぞ」
「どんな呪いですか」
ブチャラティが淡々と言った。
「七人分頼む」
「ブチャラティさんまで数字に配慮してる……」
「不要な不安は避けるべきだ」
「優しさの方向が独特!」
笑いながら、さやかは思った。
来てよかった、本当に。
食後、彼らは海沿いを少し歩いた。
ネアポリスの街は賑やかで、少し荒っぽくて、でも生命力に満ちていた。
ナランチャは先頭であれこれ案内しようとして、何度か道を間違えかけた。
「こっちだって!」
「そっちはさっき来た道だ」
アバッキオが突っ込む。
「違うし!」
「違わねえよ」
ジョルノが地図を確認する。
「目的地とは逆方向ですね」
「全員で俺を否定すんな!」
さやかは笑いすぎてお腹が痛くなった。
「ナランチャ、案内向いてないんじゃ……」
「向いてる! ちょっと街が複雑なだけだ!」
トリッシュが呆れながらも楽しそうに言う。
「みんな一緒に来て正解だったわね」
ブチャラティは少し後ろを歩いていた。
さやかはその隣に並ぶ。
「傷、大丈夫ですか?」
「ああ」
「無理してないです?」
「していない」
「ほんとに?」
ブチャラティは少し考えた。
「……少しだけ」
「やっぱり!」
「歩く程度なら問題ない」
「問題ないって言う人ほど怪しいんですよ」
「君に言われるとはな」
「どういう意味ですか」
「自分もそういうところがあるだろう」
さやかは言い返そうとして、口を閉じた。
心当たりがあった。
「……あります」
「なら、お互い気をつける必要がある」
「ですね」
海風が吹く。
さやかは、見滝原の夜を思い出した。
あの時は、風が冷たかった。
自分が世界から切り離されたみたいだった。
でも今は、遠い国の風が頬を撫でている。
その隣には、あの夜に出会った人がちゃんと生きて歩いている。
「ブチャラティさん」
「なんだ」
「あたし、まだ完全に立ち直ったわけじゃないです」
「そうか」
「たぶん、日本に帰ったらまた落ち込む日もあります。
恭介のことも、仁美のことも、急に思い出して嫌になる日もあると思います」
「ああ」
「でも、今日のこと思い出したら、たぶん大丈夫です」
ブチャラティはさやかを見た。
さやかは笑った。
「本当に遠くまで来られたんだなって思えるから。歩道橋で泣いてたあたしが、ネアポリスでパスタ食べて、ミスタさんの四嫌いで笑ってるんですよ。意味わかんないけど、すごいじゃないですか」
「すごいことだ」
「ですよね」
「ああ」
ブチャラティは静かに言った。
「人は、自分が思っているより遠くへ行ける」
「……かっこいいこと言いますね」
「本心だ」
「知ってます」
その時、前方からナランチャが叫んだ。
「おーい! ジェラート食おうぜ!」
それに対してミスタも叫ぶ。
「いいな! ただし四種類盛りはやめろよ!」
さやかは笑って、ブチャラティを見る。
「行きましょう」
「ああ」
さやかは少し歩いてから、ふと振り返った。
青い海。
白い街。
騒がしい仲間たち。
そして、隣にいるブチャラティ。
これは、奇跡みたいな日だった。
でも、奇跡というより、約束の続きなのかもしれない。
あの夜、ハンカチを借りた。
後日、リボンを渡した。
サン・ジョルジョ・マジョーレ島で、そのリボンが運命を少しだけ変えた。
そして今、彼らは生きて、同じテーブルでパスタを食べた。
「……次は」
さやかが呟く。
ブチャラティが聞き返す。
「次は?」
「次は、みんなで日本に来てください」
ミスタが遠くから反応した。
「お、日本か! コンビニ行きてえ!」
ナランチャが叫ぶ。
「自販機も!」
トリッシュが微笑む。
「お菓子も見たいわ」
ブチャラティはさやかを見て、静かに頷いた。
「考えておく」
「そこは約束じゃないんだ」
「全員分の航空券は高い」
「現実的!」
さやかが笑う。
ブチャラティも、ほんの少し笑った。
胸元には、傷ついた青いリボンがある。
それはもう魔法の道具ではなく、ただの布だった。
けれど、そこに込められた約束はまだ生きていた。
自分を捨てない。
誰かを助けるために、生きる。
生きているからこそ、温かいパスタを食べられる。
くだらない話で笑える。
遠い国の友達に、また会える。
美樹さやかは、ネアポリスの空の下で大きく息を吸った。
胸の痛みは、まだ少し残っている。
けれど、それはもう、彼女を底へ引きずり込むだけのものではなかった。
痛みを抱えたままでも、人は歩ける。
遠くへ行ける。
誰かと笑える。
そのことを、今日のパスタの味と一緒に、さやかはずっと忘れないだろう。
「ブチャラティさん!」
前を歩きながら、さやかは振り返った。
「次、ジェラート奢ってください!」
「パスタの次はジェラートか」
「命の恩人なので!」
「その言い方はずるいな」
「使えるものは使います!」
ミスタが笑った。
「いいぞサヤカ! もっと言ってやれ!」
ナランチャも手を振る。
「俺も奢ってほしい!」
「お前は関係ないだろ」
「えー!」
アバッキオが突っ込み、ナランチャが不満な声を出す。
ジョルノが微笑み、トリッシュが呆れながら笑う。
ブチャラティは小さく息を吐き、そして言った。
「わかった。全員分だ」
ミスタがすかさず叫ぶ。
「四種類はなしだぞ!」
さやかは、声を出して笑った。
ネアポリスの空は明るかった。
青いリボンの約束は、まだ続いている。