青いリボンの約束   作:東頭鎖国

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第五章 今でも晴れ渡り澄んだ空の下で

 ネアポリスの空は、見滝原よりも少し濃い青をしていた。

 

 美樹さやかは空港の出口で、スーツケースの持ち手を握りしめたまま立ち尽くしていた。

 

「……ほんとに来ちゃった」

 

 日本からイタリア。

 勢いで来たと言えば、完全に勢いだった。

 けれど、そのきっかけは一通の手紙だった。

 

 差出人は、ブローノ・ブチャラティ。

 

『約束通り、生きている。

 君の言葉に助けられた。

 本場のパスタを食べに来るといい』

 

 そんな妙に律儀で、妙に真っ直ぐな手紙だった。

 

「……生きてるんだよね」

 

 さやかは小さく呟いた。

 あの夜、見滝原の歩道橋で泣いていた自分の隣に座ってくれた人。

 ハンカチを貸してくれた人。

 肉まんと温かいお茶を買ってくれた人。

 自分を捨てるな、と言ってくれた人。

 

 その人が、遠い国で本当に死にかけて、けれど生き残った。

 自分が渡した青いリボンを見て、ほんの一瞬だけ踏みとどまったのだと、手紙には書いてあった。

 

 さやかには、まだ実感がなかった。

 自分はただ、恩返しがしたかっただけだ。

 救われた分を、少しだけ返したかっただけだ。

 

 それが誰かの命につながったなんて、あまりに大きすぎて、うまく飲み込めない。

 

「さやか」

 

 声がした。

 顔を上げる。

 白いスーツの男が、到着ロビーの向こうに立っていた。

 

 黒髪のおかっぱ。

 落ち着いた瞳。

 見滝原で見た時と同じ、いや、少しだけ柔らかくなった表情。

 

 ブローノ・ブチャラティだった。

 

「ブチャラティさん!」

 

 さやかは駆け寄ろうとして、途中で足を止めた。

 彼の胸元を見てしまったからだ。

 そこに刻まれた、大きな傷跡を。

 

 息をすると痛むのだろうか。

 本当に大丈夫なのだろうか。

 そんな考えが、一気に押し寄せる。

 

 ブチャラティはそれを察したように、静かに言った。

 

「大丈夫だ。生きている」

 

 その一言で、さやかの目が熱くなった。

 

「……ほんとに?」

 

「ああ」

 

「ちゃんと?」

 

「ちゃんと、という言葉の定義によるが」

 

「そこは普通に頷いてくださいよ!」

 

 ブチャラティはわずかに笑った。

 さやかは唇を噛み、近づいて、そっと手を差し出した。

 

「触って確認してもいいですか」

 

「構わない」

 

 さやかは彼の手を握った。

 温かかった。

 ちゃんと血が通っている手だった。

 

「……よかった」

 

 声が震えた。

 

「ほんとに、生きてた」

 

「約束したからな。

 君にパスタをごちそうするのも」

 

「ブチャラティさん、約束守りすぎです」

 

「破るよりはいい」

 

「そうですけど」

 

 さやかは笑おうとして、少し泣いた。

 泣いたことに気づいて、慌てて目元を拭う。

 

「すみません。なんか、空港で泣くの変ですよね」

 

「変じゃない」

 

「またそうやって全部受け止める……」

 

「泣ける時に泣いておいた方がいい」

 

 その言葉に、さやかは思わず笑った。

 

「相変わらずですね」

 

「君もな」

 

「え、あたしも?」

 

「ああ。泣きながらでも、ちゃんと立っている」

 

 さやかは返す言葉に困り、視線を逸らした。

 

 その時、横から明るい声が飛んだ。

 

「おい、ブチャラティ! その子が例の日本の子か?」

 

 陽気そうな青年が、ひょいと顔を出した。

 それと同時に、小柄で落ち着きのない少年が身を乗り出す。

 

「日本から来たんだろ? すげー! 飛行機どんくらい乗るんだ?」

 

 続いて長髪の青年が声をかける。

 

「ブチャラティの命の恩人なんだってな、嬢ちゃん。

 歓迎するぜ」

 

 さらに、金髪の少年が礼儀正しく頭を下げた。

 

「ジョルノ・ジョバァーナです。ブチャラティから話は聞いています」

 

 その隣には、ピンク色の髪の少女。

 

 彼女は少し緊張したような顔で、さやかを見ていた。

 

「トリッシュ・ウナよ。

 よろしくね」

 

 さやかは一瞬で情報量に押された。

 

「えっ、あ、どうも! 美樹さやかです!」

 

 陽気そうな青年がにやりと笑う。

 

「俺はミスタ。よろしくな、サヤカ」

 

「俺ナランチャ! なあ、日本って自販機がどこにでもあるってマジか?」

 

「第一声それ!?」

 

 さやかが思わずツッコむと、ナランチャは真剣な顔で頷いた。

 

「大事だろ! 夜中に腹減った時とかよ!」

 

 ミスタも腕を組んで頷く。

 

「それは確かに大事だな」

 

 ジョルノが少し呆れたように言う。

 

「ナランチャ、まず聞くべきことはそこではないと思います」

 

「じゃあ何聞くんだよ?」

 

そこにアバッキオが口を挟む。

 

「長旅で疲れていないか、とかじゃあねーのか?」

 

「あっ、そうだった! 疲れてるか?」

 

「順番!」

 

 さやかは笑ってしまった。

 ブチャラティはそのやり取りを見て、少しだけ肩の力を抜いたようだった。

 

「行こう。店を予約してある」

 

「ほんとに予約してるんですね」

 

「本場のパスタを食べたいと言っただろう」

 

「言いましたけど、まさか本当にイタリアまで呼ぶとは思わないじゃないですか」

 

「約束だからな」

 

「重い! 約束への姿勢が重い!」

 

 ビビり気味のさやかを見て、ミスタが笑う。

 

「ブチャラティはそういうやつだぜ。一回やるって言ったら本当にやる」

 

 ナランチャも頷く。

 

「飯の約束も守るし、命の約束も守る!」

 

 その言葉に、さやかは少しだけ黙った。

 命の約束。

 自分が言った『生きてください』という言葉。

 

 それをこの人は、本当に守ってくれた。

 

 トリッシュが横から静かに言った。

 

「行きましょう。お腹、空いたでしょう?」

 

「はい」

 

 さやかは頷いた。

 

「すごく」

 

 

 

 

 店は、海の見える小さなトラットリアだった。

 観光客向けの派手な店ではなく、地元の人たちが自然に集まっているような店。

 窓の外には青い海。

 

 厨房からは、トマトとオリーブオイルとにんにくの香りが漂っていた。

 さやかは席に座るなり、深く息を吸った。

 

「うわ……匂いだけでお腹空く」

 

 ナランチャが得意げに言う。

 

「だろ? ここ、うまいんだぜ!」

 

 ミスタがすかさず言った。

 

「お前が作ってるわけじゃねえだろ」

 

「紹介したのは俺だし!」

 

「予約したのはブチャラティです」

 

 ジョルノが冷静に補足する。

 

「じゃあ俺は何したんだよ!」

 

「騒いでただけだろ」

 

 アバッキオが呆れながら言う。

 

「ひでー!」

 

 さやかはまた笑った。

 

「みんな、仲いいんですね」

 

 ミスタが肩をすくめる。

 

「まあ、いろいろあったからな」

 

 ジョルノが静かに頷く。

 

「簡単には話せないことも多いですけどね」

 

 ブチャラティはメニューをさやかに渡した。

 

「食べられないものはあるか?」

 

「特にはないです。辛すぎるのとかじゃなければ」

 

「なら、最初はシンプルなものがいい。トマトのパスタと、魚介のパスタを頼もう」

 

 ミスタが口を挟む。

 

「四皿はやめろよ」

 

 さやかが首を傾げる。

 

「なんでですか?」

 

 ナランチャが即答した。

 

「ミスタは四って数字がダメなんだよ」

 

「え、なんで?」

 

 ミスタは真顔で言った。

 

「縁起が悪い」

 

「へ、へえ……」

 

「笑うところじゃねえぞ。四ってのはマジでよくねえ」

 

「いや、笑ってないです。ちょっと面白いだけで」

 

「笑ってんじゃねえか!」

 

 トリッシュが呆れたようにメニューを閉じる。

 

「人数分頼めば問題ないでしょ?」

 

 ジョルノが頷く。

 

「そうですね。

 七人ならミスタも納得するでしょう」

 

「おっ、そういうことならいいんじゃあねーの?」

 

「基準が独特すぎる……」

 

 さやかはそう言いながらも、少し気が楽になっていた。

 

 最初は緊張していた。

 ブチャラティの仲間たち。

 遠い国の、危険な世界を生き抜いた人たち。

 

 自分とは違う場所の人間。

 そう思っていた。

 けれど、目の前の彼らは騒がしく、よく食べ、よく喋り、妙なこだわりで揉める。

 

 普通の人間みたいだった。

 ……いや、たぶん普通ではないんだろうけど。

 でも、ちゃんと生きていた。

 自分と同じように。

 

 料理が運ばれてくる。

 トマトソースのパスタ。

 

 魚介のパスタ。

 バジルの香り。

 

 さやかはフォークを手に取った。

 

「いただきます」

 

 一口食べ、目を見開いた。

 

「……おいしい」

 

 本当に、おいしかった。

 トマトの酸味と甘み。

 オリーブオイルの香り。

 麺の歯ごたえ。

 

 何より、温かかった。

 それだけで、胸の奥がじんわりした。

 

「あの夜の肉まんより美味ければいいんだが」

 

 ブチャラティが言った。

 それを聞いてさやかは笑う。

 

「比べる相手がコンビニ肉まんなの、肉まんに失礼ですよ」

 

「だが、あれは大切な食事だった」

 

「……そう、ですね」

 

 さやかはもう一口食べた。

 

「必要でした」

 

 あの夜、泣きながら食べた肉まん。

 味なんてよく覚えていない。

 でも、手の中の温かさは覚えている。

 

 生きている感じがした。

 今のパスタも同じだった。

 もっとおいしくて、もっと賑やかで、もっと遠くまで来たけれど、根っこは同じだ。

 

 食べること。

 

 生きること。

 

「ブチャラティさん」

 

「なんだ」

 

「約束、守ってくれてありがとうございます」

 

「こちらこそ」

 

「え?」

 

「君も約束を守ってくれた」

 

「何かしましたっけ」

 

「ハンカチを返した。

 生きて、ここまで来た」

 

 さやかはフォークを止めた。

 そんなことを、当たり前みたいに言う。

 でも、それはあの夜の自分にとって、当たり前ではなかった。

 

「……そっか」

 

 さやかは小さく笑った。

 

「じゃあ、ちゃんと守りましたね」

 

「ああ」

 

「なら、もっと食べます」

 

「いい判断だ」

 

 ミスタが口を挟んだ。

 

「ブチャラティ、飯食わせる時だけ妙に母親みてえになるよな」

 

 ナランチャが大きく頷く。

 

「わかる! ちゃんと食えって顔する!」

 

「俺はそんな顔をしているか?」

 

「してるぜ」

 

アバッキオが言う。

 

「してるわね」

 

トリッシュが笑う。

 

「しています」

 

ジョルノまで穏やかに言った。

 

 ブチャラティは少し黙った。

 

「……そうか」

 

 さやかは吹き出した。

 

「満場一致ですね」

 

 食事が少し落ち着いた頃、トリッシュがさやかに向き直った。

 

「ねえ」

 

「はい?」

 

「あなたがブチャラティに渡したお守りのこと、聞いてもいい?」

 

 さやかは少しだけ緊張した。

 魔法少女のことは話していない。

 話すつもりもない。

 

 ブチャラティにも、詳しいことは説明していなかった。

 

「えっと……そんな大したものじゃないですよ。ただ、あたしが勝手に作った青いリボンで」

 

「詳しい仕組みは聞かないわ」

 

 トリッシュは静かに言った。

 

「でも、ブチャラティが言っていたの。あれを見て、あなたの言葉を思い出したって」

 

 さやかは黙った。

 トリッシュの声は、少し震えていた。

 

「私、その場にいたの。父親に会えると思っていた。やっと全部終わると思っていた。でも違った」

 

 みんなが黙った。

 ブチャラティはトリッシュを見ていたが、口を挟まなかった。

 

「私は殺されるところだった。理由なんて、私には何もなかった。ただ、存在していることが邪魔だっただけ」

 

 トリッシュは拳を握った。

 

「その時、ブチャラティが私を連れて戻ってきてくれた。血だらけだった。でも、生きていた」

 

 さやかは息を呑んだ。

 手紙で読んだ。

 ブチャラティ本人からも少し聞いた。

 

 でも、トリッシュの口から聞くと、重さが違った。

 

「だから、ありがとう」

 

 トリッシュはまっすぐに言った。

 

「あなたが何をしたのか、私は全部は知らない。でも、あなたの言葉がブチャラティを止めたなら、私も助けられたってことだから」

 

 さやかは困ったように笑った。

 

「……そんな、あたしはほんとにリボン渡しただけで」

 

「それだけじゃないわ」

 

 トリッシュの声は強かった。

 

「自分を大事にしてって、誰かに言うのは簡単そうで難しい。

 特に、そういうことを言われ慣れていない人にはね」

 

 ミスタが小さく頷く。

 

「ブチャラティは、まあ、そういうところあるからな」

 

 ナランチャが素直に言った。

 

「すぐ自分が前に出るし」

 

 ジョルノも続ける。

 

「自分の命を勘定に入れない判断をすることがあります」

 

「おい」

 

 ブチャラティが少しだけ眉を動かした。

 

「事実です」

 

 ジョルノは穏やかに返した。

 

 ミスタが笑う。

 

「言われてやんの」

 

 さやかはブチャラティを見た。

 

「ほら、みんな思ってるじゃないですか」

 

「……反省している」

 

「ほんとですか?」

 

「ああ」

 

「じゃあ、今後もちゃんと生きてください」

 

「努力する」

 

「そこは即答!」

 

 テーブルに笑いが起きた。

 ブチャラティも、困ったように、けれどどこか楽しそうに笑った。

 

 ナランチャは食後のパンをかじりながら、さやかに質問攻めを始めた。

 

「なあ、日本の学校ってマジで毎日制服なのか?」

 

「まあ、学校によるけど、あたしのところはそうですね」

 

「昼飯は?」

 

「お弁当とか購買とか」

 

「購買って何売ってんだ?」

 

「パンとか飲み物とか。あと肉まんとか」

 

「肉まん!」

 

 ミスタが身を乗り出す。

 

「それが例の、ブチャラティが買ったやつか?」

 

「そうです。コンビニの肉まん」

 

「コンビニってのもすげえよな。何でも売ってんだろ?」

 

「だいたい何でもありますね」

 

 ナランチャの目が輝く。

 

「行きてえ!」

 

 ジョルノが冷静に言う。

 

「観光目的がコンビニなのは珍しいですね」

 

「でも便利なんだろ? 最高じゃん!」

 

 トリッシュも少し興味を示した。

 

「日本のお菓子は種類が多いって聞いたことがあるわ」

 

「多いですよ。季節限定とか、地域限定とか」

 

 ミスタが指を鳴らす。

 

「今度来る時、なんか持ってきてくれよ」

 

「いいですよ」

 

「四種類はやめてくれ」

 

「まだ言う!」

 

 ナランチャが笑う。

 

「じゃあ五種類で!」

 

「五ならいい」

 

「ほんと基準がわかんないですね」

 

 さやかは笑った。

 ジョルノがさやかを見て、静かに尋ねた。

 

「日本からここまで来るのは、不安ではありませんでしたか?」

 

「不安でしたよ。めちゃくちゃ」

 

「それでも来た」

 

「はい」

 

 さやかはブチャラティをちらりと見た。

 

「生きてるって、自分の目で見たかったから」

 

 ブチャラティは何も言わなかった。

 ただ、穏やかに頷いた。

 

「それに、ちゃんとお礼も言いたかったんです。あの夜、あたし本当にダメだったから」

 

 ナランチャが首を傾げる。

 

「ダメ?」

 

 さやかは少しだけ迷った。

 詳しく話す必要はない。

 でも、隠すことでもないと思った。

 

「失恋して、泣いてたんです。歩道橋で」

 

 ミスタは意外そうな顔をした。

 

「ブチャラティ、お前そんなとこ通りかかったのか」

 

「ああ」

 

「で、声かけたと」

 

「倒れそうな顔をしていた」

 

「なるほどな」

 

 さやかは苦笑した。

 

「倒れそうな顔、してたらしいです」

 

 トリッシュは優しく言った。

 

「そういう時に声をかけられる人って、少ないわ」

 

「そうかもしれません」

 

 さやかはパスタの皿を見つめた。

 

「でも、声をかけてもらった側からすると、すごく大きかったです。別に問題が全部解決したわけじゃないけど、次の日まで生きる理由になったから」

 

 テーブルが静かになった。

 

 さやかは少し慌てて手を振る。

 

「あ、重くしてすみません! 今はもう、だいぶ大丈夫ですから!」

 

 ブチャラティは静かに言った。

 

「無理に軽くしなくていい」

 

「……はい」

 

 ジョルノが言う。

 

「人は、誰かの一言で立ち止まれることがあります。あなたとブチャラティの間で起きたことは、そういうことだったのでしょう」

 

 ミスタが腕を組む。

 

「で、その立ち止まったやつが、今度はブチャラティを立ち止まらせたわけだ」

 

 ナランチャが目を丸くした。

 

「なんかすげえな!」

 

「うん。すごいと思う」

 

 さやかは素直に頷いた。

 

 本当に、そう思った。

 

 小さな出来事だった。

 泣いていた少女にハンカチを貸した。

 その少女がリボンを返した。

 ただ、それだけ。

 

 でも、その小さなやり取りが、遠く離れた空の下で命を繋いだ。

 

「……不思議ですね」

 

「そうだな」

 

 ブチャラティは言った。

 

「だが、俺は偶然だけだとは思わない」

 

「え?」

 

「君が苦しみながらも、誰かに返そうとした。その選択があったからだ」

 

「……」

 

「恩返しとは、借りを帳消しにすることではないのかもしれない」

 

 ブチャラティは、青いリボンをしまっている胸元に手を添えた。

 

「受け取ったものを、別の形で未来につなぐことだ」

 

 さやかは何も言えなかった。

 少し泣きそうになったので、慌てて水を飲んだ。

 ミスタが察したのか、わざと明るく言った。

 

「よし、湿っぽい話はここまでだ。

 デザート頼もうぜ!」

 

 ナランチャが勢いよく手を挙げる。

 

「ティラミス!」

 

 トリッシュも頷く。

 

「私も」

 

「待て、数に気をつけろよ」

 

 ミスタが慌ててそう言うのを見て、さやかがにやりと笑った。

 

「じゃあ四つで」

 

「おい!」

 

 ナランチャが爆笑した。

 

「サヤカ、わかってんじゃん!」

 

 ミスタは真剣に顔をしかめた。

 

「冗談でもやめろ。食う前に皿割れるぞ」

 

「どんな呪いですか」

 

 ブチャラティが淡々と言った。

 

「七人分頼む」

 

「ブチャラティさんまで数字に配慮してる……」

 

「不要な不安は避けるべきだ」

 

「優しさの方向が独特!」

 

 笑いながら、さやかは思った。

 来てよかった、本当に。

 

 食後、彼らは海沿いを少し歩いた。

 ネアポリスの街は賑やかで、少し荒っぽくて、でも生命力に満ちていた。

 ナランチャは先頭であれこれ案内しようとして、何度か道を間違えかけた。

 

「こっちだって!」

 

「そっちはさっき来た道だ」

 

 アバッキオが突っ込む。

 

「違うし!」

 

「違わねえよ」

 

 ジョルノが地図を確認する。

 

「目的地とは逆方向ですね」

 

「全員で俺を否定すんな!」

 

 さやかは笑いすぎてお腹が痛くなった。

 

「ナランチャ、案内向いてないんじゃ……」

 

「向いてる! ちょっと街が複雑なだけだ!」

 

 トリッシュが呆れながらも楽しそうに言う。

 

「みんな一緒に来て正解だったわね」

 

 ブチャラティは少し後ろを歩いていた。

 

 さやかはその隣に並ぶ。

 

「傷、大丈夫ですか?」

 

「ああ」

 

「無理してないです?」

 

「していない」

 

「ほんとに?」

 

 ブチャラティは少し考えた。

 

「……少しだけ」

 

「やっぱり!」

 

「歩く程度なら問題ない」

 

「問題ないって言う人ほど怪しいんですよ」

 

「君に言われるとはな」

 

「どういう意味ですか」

 

「自分もそういうところがあるだろう」

 

 さやかは言い返そうとして、口を閉じた。

 心当たりがあった。

 

「……あります」

 

「なら、お互い気をつける必要がある」

 

「ですね」

 

 海風が吹く。

 さやかは、見滝原の夜を思い出した。

 

 あの時は、風が冷たかった。

 自分が世界から切り離されたみたいだった。

 

 でも今は、遠い国の風が頬を撫でている。

 その隣には、あの夜に出会った人がちゃんと生きて歩いている。

 

「ブチャラティさん」

 

「なんだ」

 

「あたし、まだ完全に立ち直ったわけじゃないです」

 

「そうか」

 

「たぶん、日本に帰ったらまた落ち込む日もあります。

 恭介のことも、仁美のことも、急に思い出して嫌になる日もあると思います」

 

「ああ」

 

「でも、今日のこと思い出したら、たぶん大丈夫です」

 

 ブチャラティはさやかを見た。

 さやかは笑った。

 

「本当に遠くまで来られたんだなって思えるから。歩道橋で泣いてたあたしが、ネアポリスでパスタ食べて、ミスタさんの四嫌いで笑ってるんですよ。意味わかんないけど、すごいじゃないですか」

 

「すごいことだ」

 

「ですよね」

 

「ああ」

 

 ブチャラティは静かに言った。

 

「人は、自分が思っているより遠くへ行ける」

 

「……かっこいいこと言いますね」

 

「本心だ」

 

「知ってます」

 

 その時、前方からナランチャが叫んだ。

 

「おーい! ジェラート食おうぜ!」

 

それに対してミスタも叫ぶ。

 

「いいな! ただし四種類盛りはやめろよ!」

 

 さやかは笑って、ブチャラティを見る。

 

「行きましょう」

 

「ああ」

 

 さやかは少し歩いてから、ふと振り返った。

 

 青い海。

 

 白い街。

 

 騒がしい仲間たち。

 

 そして、隣にいるブチャラティ。

 これは、奇跡みたいな日だった。

 でも、奇跡というより、約束の続きなのかもしれない。

 

 あの夜、ハンカチを借りた。

 後日、リボンを渡した。

 

 サン・ジョルジョ・マジョーレ島で、そのリボンが運命を少しだけ変えた。

 

 そして今、彼らは生きて、同じテーブルでパスタを食べた。

 

「……次は」

 

 さやかが呟く。

 ブチャラティが聞き返す。

 

「次は?」

 

「次は、みんなで日本に来てください」

 

 ミスタが遠くから反応した。

 

「お、日本か! コンビニ行きてえ!」

 

 ナランチャが叫ぶ。

 

「自販機も!」

 

 トリッシュが微笑む。

 

「お菓子も見たいわ」

 

 ブチャラティはさやかを見て、静かに頷いた。

 

「考えておく」

 

「そこは約束じゃないんだ」

 

「全員分の航空券は高い」

 

「現実的!」

 

 さやかが笑う。

 ブチャラティも、ほんの少し笑った。

 

 胸元には、傷ついた青いリボンがある。

 それはもう魔法の道具ではなく、ただの布だった。

 けれど、そこに込められた約束はまだ生きていた。

 

 自分を捨てない。

 誰かを助けるために、生きる。

 

 生きているからこそ、温かいパスタを食べられる。

 くだらない話で笑える。

 遠い国の友達に、また会える。

 

 美樹さやかは、ネアポリスの空の下で大きく息を吸った。

 胸の痛みは、まだ少し残っている。

 

 けれど、それはもう、彼女を底へ引きずり込むだけのものではなかった。

 

 痛みを抱えたままでも、人は歩ける。

 遠くへ行ける。

 誰かと笑える。

 

 そのことを、今日のパスタの味と一緒に、さやかはずっと忘れないだろう。

 

「ブチャラティさん!」

 

 前を歩きながら、さやかは振り返った。

 

「次、ジェラート奢ってください!」

 

「パスタの次はジェラートか」

 

「命の恩人なので!」

 

「その言い方はずるいな」

 

「使えるものは使います!」

 

 ミスタが笑った。

 

「いいぞサヤカ! もっと言ってやれ!」

 

 ナランチャも手を振る。

 

「俺も奢ってほしい!」

 

「お前は関係ないだろ」

 

「えー!」

 

 アバッキオが突っ込み、ナランチャが不満な声を出す。

 ジョルノが微笑み、トリッシュが呆れながら笑う。

 ブチャラティは小さく息を吐き、そして言った。

 

「わかった。全員分だ」

 

 ミスタがすかさず叫ぶ。

 

「四種類はなしだぞ!」

 

 さやかは、声を出して笑った。

 ネアポリスの空は明るかった。

 

 青いリボンの約束は、まだ続いている。

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