努力を重ね、ついに憧れのSTARRYでソロ出演を果たす灯里。
しかし、同じ学校に通う後藤ひとり、そして結束バンドの登場によって、彼女の中に少しずつ焦りと劣等感が積もっていく。
誰かに勝ちたいわけじゃない。
ただ、自分の音も誰かに届いてほしかった。
これは、星に届こうとした一人の少女が、自分の音を見失いながらも、もう一度向き合おうとする物語。
遠野灯里が「STARRY」という名前を聞いたのは、七歳の冬だった。
それは、人生が変わるような日には見えなかった。
夕飯は昨日の残りのカレーだったし、テレビでは名前も知らない芸人が大きな声で笑っていた。母は台所で食器を洗っていて、父は仕事部屋の床に座り、絡まったシールドをほどいていた。
父の仕事部屋は、家の中で一番好きな場所だった。
壁にはギターが何本も掛かっている。黒いもの、赤いもの、木目が透けて見えるもの。床にはエフェクターが並び、灯里にはそれが小さな機械の街みたいに見えていた。
部屋には、いつも音楽の匂いがした。
木の匂い。
金属弦の匂い。
古いアンプの、少しだけ焦げたような匂い。
父は音楽の仕事をしていた。
ただし、有名な人ではない。テレビに出るようなミュージシャンでも、雑誌に載るようなギタリストでもない。知り合いのバンドのサポートで弾いたり、レコーディングの手伝いをしたり、ライブハウスの機材トラブルに呼ばれたりする、音楽のすぐそばにいる大人だった。
遠野灯里は、昔からあまり目立つ子どもではなかった。
肩の少し下で切りそろえた黒髪は、光に当たるとほんのり藍色に透ける。前髪は長めで、気を抜くとすぐ目にかかった。瞳は灰色がかった黒で、黙っているとどこか眠たそうに見える。
背は同年代の中では少し低く、線も細い。運動が得意そうには見えないし、大きな声で笑うタイプでもない。けれど、一度何かを見つめると、瞬きの回数が減った。
まるで、その一点だけを世界から切り取ろうとしているみたいに。
父はよく、そんな灯里を見て苦笑した。
「灯里は、変なところで頑固だよな」
灯里自身には、その自覚はなかった。
ただ、一度胸の奥に引っかかったものを、なかったことにできないだけだった。
「灯里、そこにある赤いピック取って」
「これ?」
「そう。それ」
灯里が赤いピックを渡すと、父は笑って受け取った。
「ありがとう。灯里は機材の場所を覚えるの早いな」
「いっぱいあるから、たのしい」
「楽しいか、これ」
「うん。宝箱みたい」
父は少し照れたように笑った。
「まあ、お父さんにとっては宝箱だな」
そのとき、父のスマホが震えた。
父は画面を見て、少し眉を上げた。
「うわ、急だな……」
「おしごと?」
「うん。明後日、サポートで入ってくれって。ギターの人が手を怪我したらしい」
「ぱぱが出るの?」
「そう。下北沢のライブハウスでな」
父は何気なく言った。
「STARRYってところ」
その瞬間、灯里の指からピックが落ちた。
薄いプラスチックの板が、床で軽い音を立てる。
父が顔を上げた。
「灯里?」
灯里は返事ができなかった。
STARRY。
スターリー。
意味を知っていたわけではない。
行ったことがあるわけでもない。
写真を見たことも、誰かから詳しく聞いたこともない。
それなのに、その響きを聞いた瞬間、灯里の頭の奥で、ずっと眠っていた何かが薄く揺れた。
遠野灯里は、生まれたときから少しだけおかしかった。
自分が遠野灯里であることに疑問はない。
父と母の子どもとしてこの家に生まれ、幼稚園に通い、小学校に上がり、母に髪を結んでもらい、父の仕事部屋で楽器を眺める。
それが今の灯里の人生だった。
けれど、その奥にもう一つ、別の人生の気配があった。
今の自分とは違う誰かとして、どこかで一度生きていたような感覚。
はっきりとした名前も、顔も、最後の瞬間も思い出せない。けれど、知らないはずの言葉を知っていたり、初めて見るものに懐かしさを覚えたり、子どもらしく笑っている最中に、ふと自分だけが遠くから世界を眺めているような気分になることがあった。
たとえば、テレビから流れる古い曲のイントロを、なぜか先に知っている気がした。
母に連れられて初めて行った駅のホームで、来たことがあるはずがないのに、夕方の風の匂いだけを懐かしいと思った。
父の部屋に並ぶギターを見上げたとき、弾いたことなどないはずなのに、胸の奥が少しだけ痛くなった。
その違和感を、灯里は誰にも言わなかった。
言っても、きっと伝わらないと思ったからだ。
自分でも、うまく説明できなかった。
夢だったのかもしれない。
子どもの想像なのかもしれない。
けれど、灯里の中には確かに、今の人生だけでは説明できない感情があった。
その記憶は、いつも霧の向こうにあった。
掴もうとすれば消える。
思い出そうとすればぼやける。
輪郭のないまま、ただ胸の奥に沈んでいる。
けれど、父が「STARRY」と口にしたその瞬間だけ、霧の向こうから一筋の光が差した。
薄暗い階段。
壁一面に貼られたフライヤー。
狭いステージ。
黒い床。
天井から落ちる照明の熱。
アンプの低い唸り。
誰かのギターの音。
そして、客席の暗がりから、たしかに誰かがその音を見つめている感覚。
光景は一瞬だった。
すぐに消えてしまった。
けれど、消えたあとも胸の奥だけが熱かった。
灯里は、自分が何を見たのか分からなかった。
それが記憶なのか、夢なのか、ただの想像なのかも分からない。
ただ、そこには音があった。
誰かが本気で鳴らしている音。
誰かが本気で聴いている音。
そして、その場所へ向かって、胸の奥から急かされるような感覚があった。
灯里は、前の人生で何を諦めたのか覚えていなかった。
音楽をやっていたのか。
やりたかっただけなのか。
ステージに立てなかったのか。
誰にも聴かれないまま終わったのか。
それとも、音楽とはまったく別の何かを取りこぼしたのか。
何も分からない。
思い出そうとしても、胸の奥がざらつくだけだった。
ただ、後悔だけが残っていた。
形はない。
名前もない。
でも、確かにそこにある。
普通に遊んでいるときも。
母に髪を結んでもらっているときも。
父の部屋でギターを眺めているときも。
ふとした瞬間に、その後悔は灯里の中で疼いた。
「……すたーりー」
「ん?」
「そこ、スターリーっていうの?」
「そうだけど。知ってるのか?」
父が不思議そうに首を傾げる。
灯里は首を振った。
知らない。
知っているはずがない。
けれど、どうしてか分かった。
そこは、ただ音を出す場所ではない。
誰かが本気で鳴らした音を、誰かが本気で聴いてくれる場所だ。
「そこ、いいところなの?」
灯里が尋ねると、父は少し考えてから答えた。
「いいところだよ」
「楽しいところ?」
「楽しいだけじゃないな」
父は絡まったシールドをほどきながら、ぽつりと言った。
「ちゃんと見られる場所だ。下手なら下手って分かるし、届かなかったら届かなかったって分かる。でも、本当にいい音が鳴ったら、無名でも、子どもでも、ちゃんと誰かの記憶に残る」
「記憶に残る……」
「そう。そういう場所」
その言葉を聞いた瞬間、灯里の胸が強く鳴った。
記憶に残る音。
ただ上手いだけではなく、聴いた人の中に残る音。
灯里は、まだギターを弾いたこともなかった。
歌だって、学校の音楽の時間にしか歌ったことがない。
けれど、そのとき初めて思った。
自分も、そこに立ちたい。
STARRYという場所で、自分の音を鳴らしてみたい。
前の人生で何を失ったのかは分からない。
でも、この人生では、何も知らないふりをして通り過ぎたくなかった。
たったひとつでもいい。
自分がここにいたのだと、誰かの中に残る音を出してみたい。
父の部屋に並ぶギターが、その瞬間だけ、ただの楽器ではなく見えた。
二度目の人生で、どこかへ辿り着くための扉みたいに見えた。
「ぱぱ」
「ん?」
「ギター、教えて」
父は目を丸くした。
「ギター?」
「うん」
「急にどうした?」
「やりたい」
「指、痛いぞ」
「いい」
「最初は全然音出ないぞ」
「いい」
「毎日やらないと上手くならないぞ」
「毎日やる」
父は笑いかけて、途中でやめた。
灯里が本気の顔をしていたからだと思う。
七歳の子どもが、思いつきで言っている顔ではなかった。
灯里は、もう決めていた。
あの名前に届くまで弾く。
STARRYという場所に立てるまで、絶対にやめない。
父は少し困ったように頭をかいて、それから壁に掛けてあった小さめのアコースティックギターを取った。
「……じゃあ、まずはコード一個からな」
その夜、灯里は初めてギターに触った。
弦は硬かった。
指先に食い込んで、すぐに痛くなった。
父に教えられた通りにCコードを押さえようとしても、指が開かない。鳴らしてみても、半分以上の弦が詰まったような音になる。
ぽこん、と情けない音がした。
父は笑った。
「最初はそんなもんだよ」
でも、灯里は笑えなかった。
悔しかった。
こんな音では、あの名前に届かない。
STARRYという、胸の中で光り続ける場所に、こんな音では立てない。
その日から、灯里の日常は変わった。
学校から帰る。
手を洗う。
宿題をする。
ギターを持つ。
メトロノームを鳴らす。
コードを押さえる。
鳴らない。
もう一度。
鳴らない。
もう一度。
指が痛くなる。
泣く。
泣きながら弾く。
母が心配して部屋を覗いた。
「灯里、今日はもうやめたら?」
「もうちょっと」
「指、赤くなってるよ」
「もうちょっとだけ」
父も、最初は苦笑していた。
「ギターは逃げないぞ」
「でも、時間は逃げる」
灯里がそう言うと、父は黙った。
自分でも、どうしてそんな言葉が出たのか分からなかった。
けれど本当にそう思っていた。
何かが始まる前に。
誰かがあの場所に来る前に。
自分が先に行かなければならない。
根拠はなかった。
ただ、STARRYという名前を聞いた瞬間から、灯里の中には焦りが生まれていた。
小学生のころ、灯里は友達と遊ぶ時間を減らした。
最初は誘われるたびに迷った。
「灯里ちゃん、今日公園行こうよ」
「ごめん。今日、ギターあるから」
「また?」
「うん」
「毎日じゃん」
「うん」
そのうち、友達はあまり誘ってこなくなった。
寂しくなかったわけではない。
けれど、放課後の公園で遊ぶより、ギターを持っている時間のほうが大事だった。
コードが鳴るようになった。
簡単な曲が弾けるようになった。
父が教えてくれたリフを、ゆっくりなら真似できるようになった。
そのたびに灯里は嬉しくなった。
でも、嬉しさは長く続かなかった。
できるようになったことの先には、必ずできないことがあった。
コードが鳴れば、次はコードチェンジ。
コードチェンジができれば、次はリズム。
リズムが合えば、次は強弱。
強弱がつけば、次は歌。
上手くなればなるほど、足りないものが見えてくる。
中学生になると、父は中古のエレキギターを買ってくれた。
白いストラトタイプ。
ボディには小さな傷があり、金属パーツは少しくすんでいた。
それでも灯里には、世界で一番綺麗なギターに見えた。
「大事にしろよ」
「うん」
「でも、大事にしすぎて弾かないのは駄目だぞ」
「え?」
「楽器は、弾いて傷つけるものだから」
灯里は白いギターを抱きしめた。
「傷つけてもいいの?」
「ちゃんと使った傷ならな」
灯里はその言葉を覚えた。
弾いて傷つける。
使って傷つける。
なら、自分の指も、喉も、心も、そういうものなのかもしれないと思った。
中学二年の夏、灯里は歌の練習を本格的に始めた。
録音した自分の声を初めて聞いたとき、泣きたくなった。
薄い。
弱い。
平坦。
音程は外していないのに、何も残らない。
歌って、録音する。
聞く。
嫌になる。
もう一度歌う。
また聞く。
もっと嫌になる。
それでも続けた。
父はときどき止めた。
「今日は終わり」
「まだできる」
「できない。喉は壊したら面倒だぞ」
「でも」
「休むのも練習」
灯里は唇を噛んだ。
「休んでる間に、誰かが上手くなる」
父は少し驚いた顔をした。
「誰かって、誰だ?」
灯里は答えられなかった。
自分でも分からなかった。
ただ、胸の奥にいつも誰かがいた。
まだ会ったことのない誰か。
いつかSTARRYに来る誰か。
自分よりずっと強い音を鳴らす誰か。
「……分かんない」
灯里がそう言うと、父は黙って、灯里の頭に手を置いた。
「灯里」
「なに」
「上手くなってるよ」
「ほんと?」
「ほんと」
灯里が少しだけ顔を上げると、父は続けた。
「でも、上手いだけだと忘れられる」
その言葉は、灯里の胸に深く刺さった。
「忘れられる?」
「上手い人なんて、世の中にたくさんいるからな」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
「それを探すのが音楽なんだと思う」
父は苦笑した。
「お父さんも、まだ探してる」
灯里はその夜、眠れなかった。
上手いだけだと忘れられる。
なら、自分は何を鳴らせばいいのだろう。
高校は、後藤ひとりと同じ学校になった。
入学して数日後、灯里は廊下で彼女を見た。
ピンク色の髪。
ジャージ。
猫背。
人と目を合わせない歩き方。
クラスメイトたちが新しい友達を作ろうと笑い合う中で、彼女だけが机の前に固まっていた。
その姿を見た瞬間、灯里の胸の奥がざわついた。
あの子だ。
理由は分からない。
けれど、そう思った。
STARRYという名前を聞いたときと同じ感覚だった。
見てはいけない星を見つけてしまったような、胸の奥が焼ける感じ。
話しかけることはできた。
同じ学校の、同じ学年。
ギターを弾いているかもしれない子。
友達になれたかもしれない。
でも、灯里は近づけなかった。
怖かった。
あの子に近づいたら、自分が十年近く積み上げてきたものの正体が、分かってしまう気がした。
その日の放課後、灯里は下北沢へ向かった。
STARRYの階段を降りる。
壁に貼られたフライヤー。
奥から漏れる低音。
少し湿った空気。
扉を開けると、カウンターの向こうに金髪に近い髪の女性がいた。
腕を組み、鋭い目でこちらを見る。
伊地知星歌。
灯里は息を呑んだ。
この人だ。
また、理由のない確信が胸を打った。
「……何?」
星歌の声は低かった。
愛想はない。
けれど灯里には、その声が照明より眩しく聞こえた。
「あの」
声が震える。
灯里は鞄から音源を取り出した。
「出演希望です」
「高校生?」
「はい」
「バンド?」
「いえ。ソロです。ギターと歌で」
星歌の眉が少し動いた。
「ソロでライブハウス出るの、きついよ」
「分かってます」
「そう言うやつほど、だいたい分かってないけど」
灯里は唇を結んだ。
分かっていないのかもしれない。
でも、ここで引き下がるために、あの冬からずっと練習してきたわけではない。
「聴いてください」
灯里は音源を差し出した。
「駄目なら駄目でいいです。でも、聴いてから決めてほしいです」
星歌はしばらく灯里を見た。
その視線は怖かった。
音楽をやる人間を、簡単には信じない目だった。
やがて星歌は、面倒くさそうに音源を受け取った。
「名前」
「遠野灯里です」
「連絡先、そこに書いといて」
「はい」
三日後。
オーディションに来い、という連絡が来た。
灯里はスマホを握りしめ、床に座り込んだ。
嬉しい。
怖い。
吐きそう。
でも、行くしかなかった。
オーディションの日、灯里は三曲歌った。
一曲目は、ギターの技術を見せる曲。
二曲目は、歌を前に出した曲。
三曲目は、七歳の冬に父から聞いた名前を思い出して作った曲。
タイトルは「スターリー」。
最後のコードを鳴らし終えたあと、フロアには沈黙が落ちた。
灯里はマイクの前で立ち尽くした。
手のひらに汗が滲んでいる。
星歌は腕を組み、PA卓のそばに立っていた。
「高校生にしちゃ、かなり弾ける」
灯里は息を止めた。
「歌も悪くない。曲もまあ、形にはなってる」
「あ、ありがとうございます」
「でも、まとまりすぎ」
胸が冷えた。
「全部、間違えないようにやってる感じがする。綺麗だけど、引っかかりがない」
「……はい」
「客に何を残したいのか、まだ見えない」
灯里は俯いた。
父と同じことを言われた。
上手いだけでは忘れられる。
灯里には、まだそれ以上がない。
「ただ」
星歌が続けた。
「今後どうなるかは分からない。一回、出してみる」
灯里は顔を上げた。
「え」
「空いてる日に入れる。ノルマはある。それでも出る?」
灯里は深く頭を下げた。
「出ます」
こうして、遠野灯里はSTARRYのステージに立った。
初ライブの日。
客は少なかった。
父が来ていた。
父の知り合いが二人。
学校のクラスメイトが一人。
あとは対バン目当ての客が数人。
けれど灯里にとっては、それで十分だった。
照明が熱い。
マイクが近い。
アンプから鳴る音が、床から足の裏に返ってくる。
自分は今、STARRYに立っている。
あの名前を聞いた日から、ずっと目指していた場所にいる。
灯里は歌った。
十年近く積み上げたものを、全部出すつもりで歌った。
大きなミスはなかった。
声も外れなかった。
最後のコードが消えたあと、拍手が鳴った。
少ない拍手だった。
それでも、たしかに鳴っていた。
父は客席の後ろで、泣きそうな顔をしていた。
灯里は深く頭を下げた。
やっと、ここまで来た。
それから、灯里は月に一度か二度、STARRYに出演するようになった。
星歌は甘くなかった。
「MC、固い」
「はい」
「今日は二曲目で声が逃げた」
「はい」
「ギターは安定してる。でも、安定させることが目的になってる」
「……はい」
「客席を見ろ。見てるふりじゃなくて、ちゃんと見ろ」
「はい」
言われたことは全部メモした。
帰りの電車でスマホに打ち込んだ。
家に帰って録音を聴いた。
直した。
また出た。
また言われた。
また直した。
灯里は努力で自分の弱点をひとつずつ潰していった。
歌は安定した。
ギターも上手くなった。
曲も増えた。
取り置きも少しずつ増えた。
ライブ後に声をかけてくれる客も出てきた。
「今日、よかったです」
「ありがとうございます」
「高校生なんですよね? すごいですね」
「ありがとうございます」
「ギター、めちゃくちゃ上手いですね」
「ありがとうございます」
嬉しかった。
けれど、怖かった。
すごい。
上手い。
安定している。
その先に行かなければならない。
上手いだけでは忘れられる。
そして春。
STARRYに、後藤ひとりが現れた。
受付の近くで、彼女はエプロンをつけたまま固まっていた。
ピンク色の髪。
ジャージ。
目が合った瞬間、肩が跳ねる。
「あっ」
灯里の心臓が強く鳴った。
また、あの感覚だった。
父からSTARRYの名前を聞いたときと同じ。
廊下で初めて彼女を見たときと同じ。
何かが始まる。
そう思った。
伊地知虹夏が明るく手を振った。
「あ、灯里ちゃん! お疲れ!」
「お疲れさまです」
「紹介するね。この子、ぼっちちゃん。うちのバンドのギター!」
ひとりは勢いよく頭を下げた。
「あっ、後藤ひとりです……! すみません、こんな湿気みたいな存在が視界に入ってしまって……」
「湿気は自己紹介しないと思う」
灯里がそう言うと、虹夏が笑った。
「あはは、灯里ちゃん冷静!」
ひとりはさらに縮こまった。
「す、すみません……自己紹介するタイプの湿気で……」
「いや、責めてない」
灯里は小さく笑った。
笑えた。
でも、胸の奥は冷えていた。
この子が来た。
自分がずっと怖がっていた誰かが、とうとうSTARRYに来た。
最初の結束バンドは、危なっかしかった。
ひとりは人前でまともに話せない。
虹夏は明るくバンドを引っ張るけれど、まだ全部を背負えるほど大人ではない。
リョウは淡々としていて、何を考えているのか分かりづらい。
喜多は眩しいくらい明るく、音楽に対してはまだ不器用だった。
灯里は、彼女たちを少し離れた場所から見ていた。
控室で言い合い、笑い、落ち込み、また練習する。
虹夏が空気を戻す。
喜多が前を向く。
リョウが妙な一言を落とす。
ひとりが隅で縮こまりながら、それでもギターを抱えている。
羨ましいとは思わないようにした。
自分はソロだ。
一人で立つと決めた。
誰にも頼らず、誰にも寄りかからず、STARRYに立つために努力してきた。
だから大丈夫。
そう思い込もうとした。
けれど、客席は正直だった。
最初は灯里のほうが客を呼んでいた。
STARRYに出ている高校生ソロ。
ギターが上手い。
歌も安定している。
曲も聴きやすい。
そういう評価はあった。
でも、結束バンドが少しずつ形になっていくにつれ、フロアの熱が変わっていった。
喜多が戻り、四人になる。
オリジナル曲を作る。
ひとりが歌詞を書く。
不器用に練習する。
失敗する。
それでも前に進む。
完成度ではない。
客は、その過程を見たがっていた。
危なっかしい四人が、次にどうなるのか。
後藤ひとりが、また何かを鳴らすのか。
灯里のライブは、上手かった。
前よりずっと上手くなっていた。
ミスは少ない。
声も安定している。
曲順も考えた。
MCも改善した。
それでも、ライブ後の客の会話は変わっていった。
「遠野さん、今日も上手かったね」
「うん、安定してる」
「でもさ、結束バンド、今日すごくなかった?」
「あー、分かる。ぼっちちゃんのギター、急に別人みたいになるよね」
「喜多ちゃんもめっちゃ良くなってる」
「次も行こうよ」
上手かった。
安定している。
それだけ。
灯里は笑顔で頭を下げた。
「ありがとうございました」
客が去ったあと、唇の内側を噛んだ。
血の味がした。
家に帰ってから、朝まで練習した。
指の皮が剥けた。
喉が枯れた。
メトロノームの音が頭の中で鳴り続けた。
もっと。
もっと上手くならなければ。
もっと歌えなければ。
もっと曲を書かなければ。
後藤ひとりがあれほどの音を持っているなら、自分は努力で追いすがるしかない。
灯里はそう信じた。
信じるしかなかった。
星歌は、灯里の変化に気づいていた。
「遠野」
「はい」
「顔色悪い」
「大丈夫です」
「大丈夫って顔じゃない」
「練習してるだけです」
「寝てる?」
「寝てます」
「嘘だろ」
灯里は黙った。
星歌は腕を組み、灯里をじっと見た。
「お前、最近ずっと同じ顔で弾いてる」
「同じ顔?」
「失敗しないように弾いてる顔」
「……駄目ですか」
「駄目とは言ってない。でも、客に何か渡す顔じゃない」
灯里は拳を握った。
「私は、ちゃんとやってます」
「知ってる」
「練習もしてます」
「それも知ってる」
「だったら」
「練習してることと、届くことは別だ」
その言葉は、灯里の胸を刺した。
星歌は残酷だった。
でも、嘘は言わなかった。
だから余計に痛かった。
「遠野」
「はい」
「何と戦ってんの」
灯里は答えられなかった。
結束バンドと。
後藤ひとりと。
才能と。
七歳の冬から自分の中で燃え続けているものと。
「……自分とです」
「本当に?」
灯里は笑った。
笑えたと思った。
「はい。私は、努力だけはできますから」
星歌は、その言葉を聞いても笑わなかった。
やがて、結束バンドの客は増えていった。
灯里の取り置きは減っていった。
五人。
三人。
二人。
一人。
最後の一人は、父だった。
ライブ当日。
灯里はいつもより早くSTARRYに入った。
「早すぎ」
カウンターで星歌が言った。
「すみません」
「謝ることじゃないけど」
灯里は控室にギターケースを置いた。
白いストラトタイプ。
中学のとき、父が買ってくれたギター。
傷が増えた。
金属パーツはさらにくすんだ。
でも、ずっと一緒だった。
灯里はケースを開け、ギターを取り出し、丁寧にチューニングした。
指は冷たかった。
喉は乾いていた。
でも、大丈夫。
いつも通りやればいい。
いつも通り、完璧に。
本番。
照明が灯る。
客席を見る。
父がいた。
客席の後ろで、いつものように少し心配そうな顔をしている。
他にも数人いた。
けれど、灯里を目当てに来た人は父だけだった。
分かってしまう。
目線で。
立ち方で。
開演前の空気で。
誰が自分を待っていて、誰が次のバンドを待っているのか。
灯里は息を吸った。
「遠野灯里です。今日はよろしくお願いします」
拍手が鳴る。
灯里は弾き始めた。
一曲目。
ミスはなかった。
二曲目。
声は安定していた。
三曲目。
ギターソロも決まった。
MC。
噛まなかった。
最後の曲。
七歳の冬から何度も作り直してきた、「スターリー」。
父が名前を口にした日から、自分の人生を変えた曲。
灯里は歌った。
声は震えなかった。
震えないようにした。
最後のコードを鳴らす。
音が消える。
拍手が鳴る。
礼儀正しい拍手だった。
温かくも冷たくもない。
ただ、演奏が終わったから鳴る拍手。
灯里は頭を下げた。
胸の奥で、何かが静かに折れた。
終演後。
控室に戻ると、足が震えていた。
ギターをケースにしまう。
いつもなら丁寧にクロスで拭く。
でも、その日は拭けなかった。
ケースを閉める。
金具を留める。
その音が、やけに大きく聞こえた。
スマホを見る。
通知はない。
SNSを開く。
結束バンドの名前が流れてくる。
次のライブ楽しみ。
ぼっちちゃんのギターすごい。
喜多ちゃんの歌が好き。
虹夏ちゃんのドラムが好き。
山田のベースがえぐい。
遠野灯里の名前は、どこにもなかった。
灯里はスマホを伏せた。
七歳の冬。
父が言った。
下北沢のSTARRY。
その名前を聞いた瞬間から、灯里はずっと走ってきた。
遊ぶ時間を削った。
眠る時間を削った。
指が痛くても弾いた。
喉が痛くても歌った。
友達を作る時間も、普通に青春する時間も、全部音楽に渡した。
それなのに。
届かなかった。
努力は、努力したという事実にしかならなかった。
誰かに届く保証なんてなかった。
灯里は立ち上がった。
ギターケースを見た。
白いギターが、その中に眠っている。
父がくれたギター。
七歳の冬から今までの全部。
持っていかなければ。
いつもならそうする。
でも、その日は手が伸びなかった。
持ったら、また弾きたくなる。
弾きたくなったら、また期待してしまう。
期待したら、また壊れる。
灯里は、ギターケースを控室に置いたまま、扉を開けた。
廊下に出る。
フロアでは片付けが始まっていた。
星歌の声が聞こえた。
「遠野?」
呼ばれた。
でも、振り返らなかった。
階段を上る。
足音がやけに大きい。
息が浅い。
視界の端が暗い。
STARRYの扉を押し開ける。
夜の下北沢の空気が、冷たく頬に当たった。
灯里は走り出した。
どこへ向かっているのか、自分でも分からなかった。
駅前の明かり。
人の声。
居酒屋の匂い。
ライブ帰りらしい客の笑い声。
すべてが遠かった。
息が切れる。
足がもつれる。
それでも走った。
STARRYから離れたかった。
ギターから離れたかった。
七歳の自分から離れたかった。
あの日、父がSTARRYという名前を言わなければ。
自分がその名前に胸を焼かれなければ。
こんなに苦しくならなかったのだろうか。
角を曲がる。
人通りが少し減った。
下北沢の中心から少し外れた、明かりの少ない道だった。
古い建物の壁に、薄く剥がれたポスターが重なっている。閉まったシャッターの前に、空き缶がひとつ転がっていた。遠くの店から漏れる笑い声が、ここまでは届ききらず、ただ濁ったざわめきになっていた。
道の先に、大きな通りが見えた。
車の光が流れている。
白いヘッドライト。
赤いテールランプ。
信号が変わるたびに、光の列が止まり、また動く。
灯里は歩道の端で立ち止まった。
息が苦しい。
喉が詰まる。
涙で視界が歪む。
足元の縁石が、ぼやけて見えた。
車道との境目に立つと、風が強くなった気がした。
近くを車が通るたび、空気が横へ引っ張られる。
排気の匂い。
タイヤが路面を擦る音。
信号機の電子音。
どれも現実の音なのに、遠かった。
灯里は、自分の手を見た。
指先には、弦でできた硬い皮があった。
何年もかけて作った指だった。
その指が、震えていた。
もう戻れない。
戻ったら、ギターがある。
父がいる。
星歌がいる。
後藤ひとりがいる。
結束バンドがいる。
そして、まだ音楽を好きな自分がいる。
それが一番つらかった。
嫌いになれればよかった。
ギターなんてくだらないと笑えればよかった。
STARRYなんて知らなければよかったと、本気で思えればよかった。
でも、灯里はまだ好きだった。
ギターが好きだった。
歌うことが好きだった。
STARRYが好きだった。
だから、もう耐えられなかった。
信号が変わる。
車の列が動き出す。
光が伸びる。
灯里は、一歩を出した。
足元の白線が近づいた。
車の音が大きくなる。
誰かが遠くで何かを言った気がした。
でも、意味にならない。
もういい。
もう十分だ。
十年やった。
七歳のあの日から、ずっと走ってきた。
もう、休みたい。
次の一歩を出そうとした。
その瞬間。
「遠野!!」
夜を裂くような声がした。
腕を掴まれた。
強い力だった。
痛いほど強かった。
身体が後ろへ引き戻される。
足が縁石に引っかかり、視界が大きく揺れた。
すぐ目の前を、白い光が通り過ぎた。
風が頬を叩いた。
遅れて、鋭い音が耳に刺さる。
灯里は何が起きたのか分からなかった。
ただ、膝から力が抜けた。
歩道に引き倒されるように座り込む。
腕は、まだ掴まれている。
見上げると、伊地知星歌がいた。
息を切らしていた。
髪が乱れていた。
顔が真っ青だった。
いつもの不機嫌そうな顔ではない。
怒っている。
でも、それ以上に、怖がっている。
「何してんだ……!」
星歌の声が震えていた。
「何してんだよ、お前!」
灯里は口を開いた。
けれど、声が出なかった。
星歌は灯里の腕を掴んだまま、離さなかった。
指が食い込んで痛い。
その痛みだけが、現実だった。
「離してください」
やっと出た声は、掠れていた。
「離すかよ!」
「もう、いいんです」
「よくない!」
「いいんです!」
灯里の声が夜に跳ねた。
通りの向こうで、誰かが振り返る。
車の音が遠ざかる。
でも、灯里にはもう何も見えていなかった。
「もう無理なんです! 弾けないんです! 歌えないんです! 何をしても届かないんです!」
星歌は灯里の腕を掴んだまま、何も言わなかった。
灯里は泣きながら続けた。
「私、七歳のころにSTARRYの名前を聞いて……それで、ずっと頑張ってきたんです」
言葉が止まらなかった。
「ここに立ちたかった。誰より先に、ちゃんと音楽で存在したかった。あの場所で、私の音を鳴らしたかった」
「遠野」
「でも、駄目でした。先にいたのに。ずっと前から始めたのに。あの子たちが来たら、全部持っていかれた」
喉が痛い。
涙が止まらない。
それでも言葉は止まらなかった。
「後藤さんは悪くないです。結束バンドも悪くないです。みんな頑張ってるの、分かってます。ちゃんと音楽してるのも分かってます。だから余計に苦しいんです!」
灯里は泣きながら笑った。
壊れたみたいに。
「才能がある人が努力したら、努力しかない人間は、どこに行けばいいんですか」
星歌の表情が歪んだ。
「私の十年は、何だったんですか」
沈黙。
夜の下北沢の音だけが、遠くで鳴っている。
星歌は灯里の腕を掴んだまま、低く言った。
「勝手に決めんな」
「え……」
「お前の十年が何だったかなんて、今ここで勝手に決めんな」
星歌の声は震えていた。
怒りだけではない。
もっと別の感情が混ざっていた。
「客が減った。悔しい。才能が憎い。後から来たやつに抜かれた気がする。そんなの、音楽やってりゃ何度でもある」
「でも……」
「でもじゃない」
星歌は灯里を強く引いた。
車道から、完全に引き離すように。
「死ぬほど積み上げたものが、誰かの一音に負けることもある。自分より若いやつに、自分より不器用なやつに、自分より後から始めたやつに、全部持っていかれた気になることもある」
灯里は動けなかった。
「でも、それでお前が消えていい理由にはならない」
星歌の手は震えていた。
それでも、灯里を離さなかった。
「私の音なんて、誰も覚えてません」
「私が覚えてる」
灯里は息を呑んだ。
星歌は睨むように灯里を見ていた。
でも、その目は赤かった。
「最初に音源持ってきた日も、オーディションで手が震えてたのも、初ライブで客席見れなかったのも、毎回メモ取って帰ってたのも、本番前に誰より早く来て、誰より遅くまでチューニングしてたのも、全部覚えてる」
「……でも」
「でもじゃないって言ってんだろ」
星歌の声が荒くなる。
「お前が今つまんなくなってるのは本当だ」
灯里の肩が震えた。
「失敗しないように弾いてる。誰かに勝つために歌ってる。客の顔じゃなくて、数字ばっか見てる。だから届かない」
痛かった。
息が止まるほど痛かった。
でも、星歌は続けた。
「でも、お前がいらないって意味じゃない。終わりって意味でもない」
灯里は泣き崩れた。
星歌が支えた。
道端で座り込む形になっても、星歌は灯里の腕を離さなかった。
「私、もう戻れないです」
「戻るぞ」
「無理です」
「無理でも戻る」
「ギター、置いてきました」
「知ってる」
星歌は短く言った。
「だから追いかけてきた」
灯里の顔が歪んだ。
「置いてきたんです。もう持てないから。持ったら、また弾きたくなるから。弾きたくなったら、また期待するから。期待したら、また壊れるから」
「じゃあ今は私が持つ」
「え?」
「お前が持てないなら、私が預かる。だから捨てるな」
星歌は灯里の肩を掴んだ。
「帰るぞ、STARRYに」
「……帰りたくない」
「帰る」
「怖いです」
「怖くても帰る」
「星歌さん」
「帰るんだよ」
星歌の声は乱暴だった。
でも、手は離れなかった。
灯里にはもう抵抗する力がなかった。
星歌に引かれるようにして、夜の下北沢を戻った。
さっき走ってきた道を、今度はゆっくり歩く。
街の明かりが眩しい。
人の声が痛い。
車の音が怖い。
でも、星歌の手だけが現実だった。
STARRYの階段の前まで戻ると、灯里の足が止まった。
星歌が振り返る。
「どうした」
「……怖いです」
「何が」
「戻ったら、ギターがあります」
「あるな」
「見たら、また泣きます」
「泣けばいい」
「迷惑です」
「今さらだろ」
灯里は少しだけ笑いそうになった。
でも、すぐに涙が出た。
星歌はため息をつき、階段を降りた。
「ほら」
STARRYの扉を開ける。
中は、終演後の静けさに包まれていた。
片付けは途中で止まっていたらしい。
PAの人がこちらを見て、何かを言いかけて、やめた。
父がいた。
控室の前で、真っ青な顔をして立っていた。
「灯里……!」
父が駆け寄ってくる。
灯里は父の顔を見た瞬間、また泣いた。
「ごめんなさい」
「いい。いいから」
父は灯里を抱きしめた。
強くはなかった。
壊れ物に触れるみたいだった。
「ごめんなさい、お父さん。ギター、置いていこうとして……」
「いい。戻ってきたならいい」
「ごめんなさい」
「灯里が戻ってきたなら、それでいい」
父の声も震えていた。
星歌は少し離れたところで、腕を組んでいた。
でも、目は逸らさなかった。
控室の中。
灯里のギターケースは、置いていった場所にそのままあった。
白いギターが入ったケース。
七歳の冬から今までの全部。
灯里はその前に座り込んだ。
手を伸ばす。
でも、触れられない。
ケースの表面に、ライブハウスの照明が鈍く映っている。
「……持てないです」
灯里は言った。
星歌は隣にしゃがんだ。
「じゃあ、今日は持たなくていい」
「捨ててもいいですか」
「駄目」
「弾けないかもしれません」
「今は弾くな」
「下手になります」
「下手になれ」
灯里は顔を上げた。
星歌は真剣な顔で言った。
「下手になってもいいから、生きろ」
灯里は何も言えなかった。
「上手くなるために死にそうになるくらいなら、一回下手になれ。休め。飯食え。寝ろ。学校行け。音楽以外のことをしろ」
「音楽以外、何もないです」
「だから作れ」
「作れません」
「作るんだよ」
星歌はケースに手を置いた。
「これは捨てるな。お前が持てるようになるまで、ここで預かる」
「STARRYに?」
「嫌ならお前の父親に預ける。でも今のお前には持たせない」
灯里は俯いた。
「私、またここに立てますか」
「立ちたいなら」
「立っていいんですか」
「私が駄目って言ってない」
「でも、私の音、つまらないって」
「今はな」
星歌は容赦なかった。
「でも、今だけだろ」
灯里は涙を拭った。
「今だけ……」
「お前の十年を、今日一日で終わったことにするな」
父が隣で泣いていた。
灯里はそれに気づいて、胸が痛くなった。
「お父さん」
「うん」
「私、ギター好きだった」
過去形になった。
そのことに、自分で傷ついた。
父も気づいたのか、顔を歪めた。
でも、父は言った。
「うん」
「でも、今は怖い」
「うん」
「弾いたら、また壊れる気がする」
「じゃあ、今は弾かなくていい」
「でも」
「灯里」
父は灯里の頭に手を置いた。
「お父さんは、灯里に音楽で死んでほしくてギターを教えたんじゃない」
灯里は声を上げて泣いた。
STARRYの控室で。
置いていったギターケースの前で。
星歌と父に見られながら。
七歳のころ、初めてコードが押さえられずに泣いたときみたいに。
その夜、灯里はSTARRYの事務所で甘いココアを飲まされた。
星歌が雑に紙コップを置いた。
「飲め」
「……甘いです」
「甘いやつにした」
「なんで」
「知らん。こういうときは甘いほうがいいだろ」
灯里は紙コップを両手で持った。
指が震えていた。
でも、温かかった。
星歌は向かいの椅子に座り、腕を組んでいた。
「しばらくライブは入れない」
「……クビですか」
「休めって言ってる」
「でも、休んだら忘れられます」
「忘れられたくないなら、生きて戻ってこい」
灯里はココアを見つめた。
「戻れるでしょうか」
「知らん」
星歌は正直だった。
「でも、戻る気があるなら、場所くらいは空けとく」
灯里はまた泣きそうになった。
「星歌さん」
「何」
「私、後藤さんが羨ましかったです」
「だろうな」
「結束バンドのことも、嫌いになりそうでした」
「うん」
「でも、本当は嫌いになりたくなかった」
「うん」
「あの子たちが悪いわけじゃないから」
「うん」
「それが、一番苦しかったです」
星歌はしばらく黙っていた。
それから、少しだけ視線を落とした。
「近すぎたんだよ」
「近すぎた?」
「音楽にも、あいつらにも、STARRYにも」
星歌は言った。
「星ってのは、遠くから見るから綺麗なんだろ。近づきすぎたら焼ける」
灯里は小さく笑った。
「STARRYなのに?」
「うるさい」
その言い方が、あまりにも星歌らしくて、灯里はまた泣いた。
数日後。
灯里は学校へ行った。
教室はいつも通りだった。
誰も、灯里の中で何が折れたのか知らない。
世界は普通に進んでいた。
昼休み、廊下の端で後藤ひとりと会った。
ひとりは灯里を見つけると、びくっと肩を跳ねさせた。
「あっ、遠野さん……」
「後藤さん」
「あ、あの、その……体調、大丈夫ですか……?」
灯里は少し迷った。
大丈夫ではない。
でも、嘘をつく気力もなかった。
「大丈夫じゃないかも」
ひとりは目を見開いた。
そして、ものすごく困った顔をした。
「あっ、えっと、その……私ごときが何か言うのも、地中の虫が太陽に進路相談するくらいおこがましいんですけど……」
「うん」
「遠野さんのライブ、私、覚えてます」
灯里は動けなくなった。
ひとりは鞄から一冊のノートを取り出した。
「これ……感想、です。言葉にするのが下手なので、すごく変かもしれないんですけど……」
灯里はノートを受け取った。
ページを開く。
ぎこちない字で、びっしり書かれていた。
一曲目のイントロのリフ。
二曲目のサビ前、灯里の声が少し掠れるところ。
最後の曲のコード。
歌い終わったあと、灯里が一瞬だけ目を伏せる癖。
綺麗すぎて、少し遠く感じたこと。
でも、遠いからこそ見上げたくなる音だったこと。
最後に、小さく書かれていた。
――遠野さんの音は、私には出せません。
灯里はノートを閉じた。
胸が痛かった。
けれど、その痛みは、前とは違った。
「……ありがとう」
ひとりは慌てて首を振った。
「あっ、いえ、私の感想なんて、押し入れの湿気が文字の形を取っただけなので……!」
「後藤さん」
「は、はい」
「私、後藤さんの音が羨ましかった」
ひとりは固まった。
「今も羨ましい。たぶん、しばらくは聴くのがつらい」
「あ……」
「でも、嫌いじゃない」
灯里はノートを胸に抱いた。
「それだけ、言っておきたかった」
ひとりは、泣きそうな顔になった。
それから、小さく言った。
「私も、遠野さんみたいに、ちゃんとステージに立てる人が羨ましいです」
「私みたいに?」
「はい。私はすぐ逃げたくなるので……ステージからも、学校からも、地球からも……」
「地球からは逃げないで」
「あっ、はい……宇宙はまだ早いですよね……」
灯里は、少し笑った。
本当に少しだけ。
でも、久しぶりに自然に笑えた。
それからしばらく、灯里はSTARRYに出なかった。
ギターは、STARRYに預けたままだった。
星歌からは、ときどき短い連絡が来た。
飯食ったか。
寝てるか。
学校行ったか。
ギターは無事。
最後の一文を見るたび、灯里は泣きそうになった。
ギターは無事。
自分が置いていったものは、まだそこにある。
捨てられていない。
終わっていない。
ある夜、父が言った。
「STARRY、行くか?」
灯里は固まった。
「ライブじゃなくていい。ギター取りに行くんでもなくていい。ただ、挨拶だけでも」
「……怖い」
「うん」
「でも、行きたい」
「じゃあ行こう」
父と二人で、下北沢へ向かった。
STARRYの階段の前に立つと、足が震えた。
でも、前ほど息は苦しくなかった。
扉を開けると、星歌がカウンターの向こうにいた。
「来たか」
「……はい」
「ギター、見る?」
灯里は少し迷って、頷いた。
控室の隅。
白いギターケースは、ちゃんと置かれていた。
灯里はその前にしゃがんだ。
ケースに触れる。
冷たかった。
でも、怖くはなかった。
まだ開けられない。
まだ弾けない。
それでも、触れることはできた。
「星歌さん」
「何」
「まだ、持って帰れないです」
「分かった」
「でも、捨てたくないです」
「知ってる」
「いつか、また弾きたいです」
「うん」
灯里はケースから手を離した。
「そのとき、またSTARRYに立てますか」
星歌は面倒くさそうに息を吐いた。
「オーディションはする」
灯里は目を瞬いた。
「え?」
「当たり前だろ。ライブハウスなんだから」
星歌は腕を組んだ。
「戻ってきたいなら、ちゃんと音持ってこい。今度は誰かに勝つためじゃなくて、お前が鳴らしたい音を」
灯里は、ゆっくり頷いた。
「はい」
七歳の冬。
STARRYという名前を聞いた瞬間、灯里の人生は走り出した。
その道は、思っていたよりずっと痛かった。
努力は万能ではなかった。
客席は、自分ではない誰かを選ぶかもしれなかった。
それでも。
伊地知星歌は見ていた。
父は待っていた。
後藤ひとりは、ノートに書いていた。
ギターは、まだSTARRYにあった。
なら、まだ終わりではない。
遠野灯里は、ケース越しに自分のギターへ触れた。
星には届かなかった音。
けれど、まだ消えてはいない音。
いつかまた、この場所で鳴らすために。
今度は、誰かに勝つためではなく。
自分がまだここにいると、伝えるために。