彼の振るう剣は、あまりに精緻で冷徹な「死の剣」であり、自らの力に戸惑いながら孤独の中にいた。
剣聖という剣の才能だけを授かって、現実世界から転生した男の話。
生成AIのGeminiに書いてもらっています。
鐘ヶ淵の慈雨と先生の日常
安永の春。江戸の町は、数日前から降り続く菜種梅雨(なたねづゆ)に、しっとりと濡れていた。
隅田川の川面は、上流の秩父山系から運ばれた泥を含んで鉛色に濁り、時折、大きな流木が鈍い音を立てて岸辺の杭に当たっている。雨脚は決して強くはないが、霧のように細かく、肌にまとわりつくような湿り気を含んでいた。隅田川沿いに等間隔に並ぶ柳の枝は、たっぷりと水を含んで重たげにしなり、時折風に揺れては川面に雫を落としている。
鐘ヶ淵にある、秋山小兵衛の隠居所。
竹垣に囲まれ、周囲の喧騒から切り離されたこの慎ましやかな家屋では、囲炉裏の炭がパチリと爆ぜる音だけが、静寂を優しく破っていた。
小兵衛は、長年使い込まれて見事な艶の出た文机に向かい、さらさらと筆を走らせている。隠居して久しいが、その背筋は一本の芯が通ったように伸び、白髪混じりの頭からは、枯れた中にも油断のない、研ぎ澄された気配が漂っていた。かつて江戸中の道場を震撼させた「無外流の達人」の面影は、今もその指先ひとつ、視線の動きひとつに宿っている。
「……おはる。今日の魚は何だい」
小兵衛が、手元を動かしたまま、低く落ち着いた声で尋ねる。
「はいはい、先生! 四谷の弥七さんが届けてくれた小鯛ですよ。小ぶりだけど身がキュッと締まってて、塩焼きにすればお酒がどんどん進んじゃいますよ! 今、一生懸命に鱗を落としてるんだから、もうちょっと待っててくださいね。お酒の方も、一番いいやつを冷やしてありますから!」
台所から、四十近くも年の離れた若妻・おはるの弾んだ声が返ってきた。彼女は百姓娘あがりの健康的な肌艶をしており、袖をまくり上げ、鼻歌を歌いながら甲斐甲斐しく立ち働いている。おはるにとって、この偏屈で、だが誰よりも優しく、そして底知れぬ強さを持つ「先生」に美味しいものを食べさせることこそが、人生最大の喜びであった。
おはるは手際よく鯛のヒレを切り落とし、出刃包丁の背を使って逆なでるように鱗を弾いていく。
「いいかい、おはる。鱗は一枚たりとも残しちゃいけないよ。喉に引っかかったら、せっかくの酒が台無しだからね」
「分かってますよ、先生はもう! 私はこれでも『秋山小兵衛の妻』なんですからね。鱗落としぐらい、お手の物ですよ。ほら見てください、この銀色の肌! 綺麗でしょう?」
おはるが鯛を差し出して見せると、小兵衛はふっと目尻を下げ、煙管を手に取った。
「ふふ、お主の腕前は信じているよ。だがね、料理も剣術も同じだ。最後の詰めを誤る者が、一番無様に負けるものさ」
「もう、すぐ剣術の話に繋げるんだから……。はいはい、最後の最後まで気を抜かずに焼きますよ!」
おはるは鯛の腹を裂き、内臓を丁寧に取り除くと、冷たい井戸水で血の気を綺麗に洗い流した。さらに、粗塩を指先でつまみ、高い位置から「パラパラ」と雪を降らせるように振りかける。特に尾びれと背びれには多めに塩を塗り込む「化粧塩」を施す。こうすることで、焼き上がった際に見事な立ち姿になることを、彼女は経験で知っていた。
囲炉裏の火が、赤々と爆ぜる。
おはるは鯛を串に刺し、火から絶妙な距離を保って灰に突き立てた。
「じっくり、ゆっくりですよ……先生の剣と同じで、焦っちゃダメなんです」
「ほう、言うようになったじゃないか」
小兵衛は煙管の煙をふぅと吐き出し、白く煙る雨の庭を眺めた。
「……おはる。客だよ。それも、とびきり場違いな奴が来るぞ」
「ええっ、こんな雨の中を? 物好きもいるもんですねえ、先生。傘もささずに来るんですか?」
おはるが手を休めて首を傾げた、その直後だった。
竹垣の向こう、白く霞む景色の中から、一人の若者が、まるですり足で空間を滑るように音もなく姿を現した。
「たのもう……」
濡れた土を踏みしめる音さえさせず、その若者はそこに立っていた。
名は瀬戸新次郎。着古して色は褪せているが、汚れ一つない着物に、手入れだけは完璧に行き届いた二本を差している。顔立ちは驚くほど整っているが、その瞳には光がなく、深い底の見えない淵のような静寂が横たわっていた。
彼は、現代という場所から、ただ「剣の理(ことわり)」という絶対的な法則だけを魂に焼き付けられて、この江戸の世に落とされた異邦人であった。彼の脳内には、物理演算のように最適化された剣の軌道が常に流れており、それは彼にとって、才能というよりは逃れられぬ呪縛に近いものだった。
「雨宿りかい、それともわしに用かな」
小兵衛は筆を置き、ゆっくりと縁側に腰を下ろした。新次郎の瞳の奥にある、底知れない孤独と、人間離れした「異質な力」を即座に見抜いたのだ。
「秋山小兵衛先生……。この世で最も『生きた剣』を使う方だと聞き、道を聞きに来ました」
新次郎の声は、雨音に溶けてしまいそうなほど平坦で、喜怒哀楽の欠片もなかった。
「道、とな。中山道かい、東海道かい。それとも日光街道かな」
「『剣の先』にある道です。私は、自分の剣がなぜ、これほどまでに死に近いのかを知りたいのです。私の振るう刃は、ただ対象を最短距離で断ち切るためだけに存在している。そこには何の熱も、迷いも、相手との繋がりもありません。それが……恐ろしいのです」
「ほう……」
小兵衛は煙管を口に運び、若者の全身を、爪先から頭の頂まで舐めるように観察した。
重心の置き方、指先の微かな力み、呼吸の周期。どれをとっても隙がない。それどころか、あまりに効率化され、無駄を削ぎ落とされたその立ち姿は、人間というよりは、氷のように冷たく磨き上げられた一振りの名刀そのもののようだった。
「上がれ。雨の中に立たせておくのも業腹だ。おはる、もう一人分の飯を用意しておくれ。若い男だ、米を多めに炊いておくれよ。今日はお祝いだ、鯛をもう一匹焼いてやろうじゃないか」
「はい、合点承知です! 先生、急いで火を強めますからね! 新次郎さんも、さあさあ、遠慮しないで中に入って! 濡れたままじゃ風邪を引いちゃいますよ、ほら、手拭い!」
おはるが元気よく応じ、新次郎に乾いた手拭いを手渡した。新次郎は戸惑いながらもそれを受け取り、江戸の家庭という、彼にとって最も縁遠かった温もりのある空間に足を踏み入れた。
木挽町の静寂と、大治郎の「剛」
翌朝。菜種梅雨は嘘のように上がり、江戸の空は抜けるような青空に覆われた。
陽光が隅田川の雫をキラキラと反射させ、柳の葉は洗いたての鮮やかな緑を放っている。空には雲一つなく、風は春の暖かさを運んできていた。
小兵衛は新次郎を連れ、隅田川を舟で下り、木挽町にある息子・大治郎の道場を訪ねた。
「父上、これは珍しい。……して、そのお連れの方は?」
大治郎が、いつものように生真面目な顔で、深々と頭を下げながら問う。その立ち姿は、父とは対照的に、太い幹の巨木のような重厚さを湛えていた。
「大治郎、少しばかりこの若者の相手をしてやっておくれ。理(ことわり)に触れておるが、心がない。お主の剣で、こ奴に温い飯の味を教えてやってほしいんだよ」
「父上のお頼みとあれば……。しかし、この若者、ただならぬ気配を持っておりますな。まるで、そこだけ空気が凍りついているようだ。……瀬戸殿とお呼びすればよいか。参られる」
実直で誠実な大治郎は、父の言葉を重く受け止め、道場の板間に立った。
道場の隅では、大治郎の妻であり、一刀流の達人でもある三冬が、凛とした佇まいで座り、この異様な立ち合いを注視している。三冬の目にも、新次郎の立ち姿は「異様」に映った。一切の「構え」がない。ただ、そこに物質として存在しているだけのような、虚無の気配である。
「……構えぬのか」
大治郎が低く問う。
「構えれば、そこが起点になります。私は起点を持たず、あなたの動きに対する『反応』としてのみ存在したい」
「左様か……。では、参る!」
大治郎が、無外流の正眼に構えた。足の裏が板間に吸い付くような、磐石の構え。大治郎の呼吸は深く、重く、道場の空気を支配していく。
対する新次郎は……竹刀を右手にぶら下げ、呆然と立っている。しかし、新次郎の視界には、大治郎の構えから発せられる微かな振動、筋肉の収縮、重心の数ミリ単位の移動が、まるですべて透過された図解のように視えていた。
「はああっ!」
大治郎が踏み込んだ。剛剣が空を裂き、新次郎の脳天を目掛けて一直線に振り下ろされる。その一撃は、並の剣客であれば構えごと粉砕されるほどの威力があった。
決まった――三冬がそう確信した瞬間、新次郎の姿が掻き消えた。
新次郎は大治郎の懐に、水の流れるような滑らかさで入り、自身の竹刀を大治郎の剣の軌道にそっと「添えた」。
パシッ、という乾いた音。
大治郎の身体は、自身の放った凄まじい力の反動をそのまま利用され、弾き飛ばされるように後方へ突き飛ばされた。大治郎は空中で見事に体勢を立て直し、着地したが、その顔には驚愕が広がっていた。
「……まいった。……父上、今の、突きではありません。何だ、この動きは。まるで、風を打っているようでした。手応えが全くないのです」
大治郎は、震える自身の拳を見つめながら呟いた。
「……ただの移動です。あなたの力の流れを、私の動きで遮っただけです。計算通りに動けば、力は不要です」
新次郎は、自分の手を見つめていた。
「やはり、壊してしまう。私は、手合わせがしたいのではない。ただ……誰かと対等に触れ合いたいだけなのに、私の身体が勝手に、効率的な『制圧』の応えを出してしまうのです。私は、人間ではないのかもしれない」
三冬が、静かに立ち上がって歩み寄った。
「瀬戸殿。あなたの剣には、確かに隙がございません。……ですが、あまりに寂しすぎます。それは人を守るための剣ではなく、ただ理(ことわり)を証明するための道具のようです」
新次郎は三冬の澄んだ瞳を見つめ、何も答えられなかった。
四谷の弥七、闇を駆ける
道場を後にした小兵衛は、新次郎を連れて四谷の坂道を歩いていた。
「先生、お出掛けですかい。おやおや、珍しいお連れさんですな」
声をかけてきたのは、密偵の四谷の弥七である。
「弥七かい。どうだい、最近の様子は」
「へい、それが少々きな臭い噂がありましてね……ちょっと耳を貸してくだせえ」
弥七は辺りを警戒しながら、小兵衛に囁いた。
「御家人崩れの浪人どもを束ねる鮫島伝内って野郎が、先生を逆恨みしてましてね。かつて自分の道場を潰されたことを逆恨みして、腕の立つ刺客を血眼になって探しておりやす。なんでも、新次郎さんとおっしゃる、このお侍さんを言葉巧みに騙して、先生を消させようって魂胆らしいですぜ」
小兵衛は新次郎を振り返った。
「新次郎殿。心当たりはあるかな」
「……あります。昨夜、私の宿にその男が来ました。『秋山小兵衛は民を苦しめる大悪党だ。正義のために、この手紙を持って彼を斬ってくれ』と。手付金として五両を置いていきました」
「ははは! わしが大罪人か! そりゃあ、全くの嘘というわけでもないがな。わしも若かりし頃は、随分と荒っぽいこともしてきた」
小兵衛は豪快に笑い飛ばした。
「よし、弥七。その鮫島の野郎がどこで何を企んでいるか、探っておくれ。新次郎殿。お主は、その手紙を持ってわしを斬るふりをして、奴らの懐に飛び込んでみる気はないかな?」
「……私が、あなたを斬るふりを?」
「そうさ。お主の『理』とやらが、演技まで完璧にこなせるかどうか、試してみようじゃないか」
その夜、弥七は黒い装束に身を包み、夜の江戸を風のように駆けていた。
鮫島伝内の潜伏先は、下谷の廃寺であった。弥七は音もなく屋根裏に忍び込み、天井板の隙間から下を覗き見る。
そこには、鮫島伝内を中心に、十数名の浪人たちが酒を酌み交わしていた。
「……いいか。あの瀬戸という若造は、腕は確かだが中身は空っぽだ。秋山小兵衛を斬らせた後、口封じに毒入りの酒で始末してやる。小兵衛の首を手土産にすれば、某大名家への仕官も夢ではないわ!」
鮫島が悪辣な笑い声を上げる。
「へへっ、左様で。あの若造、真顔で『正義のため』などと言っておりましたな。傑作だ!」
弥七は、その言葉をすべて記憶に焼き付けた。
「(……いけねえ。新次郎さんはもう、あいつらの術中だ。早く先生に知らせねえと!)」
弥七は音もなく屋根を滑り降り、闇夜に消えた。
不二楼の決戦と「鰹」の洗礼
翌日の夕刻。空は茜色から深い群青へと移ろい、浅草の街角には夕餉の支度の煙がたなびき始めていた。
小兵衛は一人、馴染みの料理屋「不二楼」の二階、隅田川を一望できる離れ座敷にいた。
「お待たせいたしました、秋山先生」
女将がお盆を捧げて入ってくる。そこには、初夏を先取りした見事な「初鰹」の刺身が並んでいた。
「ほう、これは見事な。皮目をさっと炙った香ばしさが、ここまで漂ってくるようだ」
小兵衛は目を細め、小皿に取った生姜醤油をたっぷりとつける。鰹の身はねっとりと赤く、箸で持ち上げるとずっしりとした重みがあった。
「……お主、そこにいるのは分かっているよ。せっかくの鰹だ、身を清めてから出てきたらどうだい」
小兵衛が静かに冷や酒を煽ったその時、庭に面した障子の外に、針のように鋭い殺気が満ちた。
ス……と音もなく障子が開き、新次郎がそこに立っていた。その手には、月光を浴びて冷たく光る真剣が握られている。
「先生……。鮫島殿から、あなたのこれまでの罪科(つみとが)を聞きました。あなたは表向きは枯れた隠居を装いながら、裏では金で人を斬る外道であると。私の『理』は、今、悪を断つためにあなたを斬れと命じています」
新次郎の声には一点の曇りもなかった。しかし、その瞳の奥には、彼自身も気づかぬ「悲しみ」が澱のように溜まっているのを、小兵衛は見逃さなかった。
「悪人か、と言われれば……そうかもしれん。わしもこれまで、生きていくために多くの命を奪ってきた。だが、新次郎殿。お主、その鰹を食ったかい」
小兵衛は、一切れの鰹を箸で差し出した。
「……何ですか、それは」
「初鰹だよ。江戸っ子はこれを食うために女房を質に入れるって言うくらい、命がけの味だ。ほら、口を開けなさい」
新次郎は困惑しながらも、小兵衛の不思議な威圧感に押され、鰹を口にした。
舌の上で脂が溶け、生姜の刺激が鼻を突き、噛みしめるほどに力強い赤身の旨味が溢れ出す。
「……味がします。喉の奥が熱くなるような……。私は、これまで栄養を摂るためだけに物を食べてきました。しかし、これは……」
「それが『生』の味だ、新次郎。お主を唆した鮫島という男は、この鰹の味を、お主と分かち合おうとしたかい?」
「……いいえ」
「不二楼の料理を血で汚すのは忍びない。外へ出ようじゃないか。隅田の川風に吹かれながら、わしの命でお主の理を試すがいい。お主の理が本物なら、わしの首など造作もないはずだ」
隅田川の月光、理を断つ一閃
月は薄い雲に隠れ、隅田川の土手道は深い闇に包まれていた。
対岸の灯火が水面に揺れ、時折、魚が跳ねる「ピチャリ」という音が響く。
小兵衛は、脇差一本を抜き放ち、左手で鞘を払った。
「……父上! 瀬戸殿! おやめください!」
そこへ、弥七から知らせを受けた大治郎と三冬が駆けつけた。大治郎は今にも飛び込もうとするが、小兵衛は鋭い一喝でそれを制した。
「来るな、大治郎! これはわしとこの若者の、魂の対話だよ」
新次郎が動いた。一閃。
新次郎の刀は、最短距離、最高速度、そして一切の迷いがない「完璧な正解」を描いて小兵衛の喉元へ迫る。
しかし、小兵衛は紙一重のところで、まるで柳が風を流すように身体を逸らした。
「惜しいねぇ! 軌道は正しいが、そこには『秋山小兵衛』という生身の人間がおらん!」
新次郎の刃が空を切るたび、小兵衛はステップを踏むように身をかわし、逆に脇差の柄で新次郎の急所を的確に打つ。
「理屈ではないのだよ、新次郎! お主は『最短の道筋』を見ているが、わしはお主の『心』を見ておる。お主の心に生じた、ほんのわずかな迷い……『この人を本当に斬っていいのか』という人間らしい温かな迷い。その隙が、わしにとっては大海原のように広いのだ!」
火花が夜の闇を鮮やかに彩り、二人の影が複雑に絡み合う。
大治郎と三冬は、その凄まじい攻防に息を呑んだ。新次郎の剣は、もはや人間のそれではない。だが、小兵衛の剣は、その異質な理を、まるで包み込むような深みを持っていた。
ついに、新次郎の刃が小兵衛の脳天を割る直前で、ピタリと止まった。
小兵衛は避けなかった。ただ、慈愛に満ちた目で新次郎を見つめていた。
「……なぜ、避けないのですか」
新次郎の声が震える。
「斬れぬのだよ、新次郎。お主はもう、鰹の味を知ってしまった。おはるが握った飯の温もりを、その手が覚えている。誰かを壊すための剣は、愛を知った瞬間に折れるものだ」
新次郎は刀を落とし、その場に膝を突いた。その頬を、初めて流れる涙が伝った。
「……野郎ども! どっちが勝っても構わねえ、まとめて始末しろ!」
闇の中から、鮫島伝内率いる浪人たちが一斉に姿を現した。火縄銃の火皿に火が灯る。
「弥七! やっておくれ!」
小兵衛の合図と共に、闇の中から無数の礫が飛び、銃を構えた浪人たちの手元を撃ち抜いた。弥七と配下の密偵たちが、一斉に襲いかかる。
「父上、お下がりを! ……三冬殿!」
「はい、大治郎殿!」
大治郎の剛剣が闇を裂き、三冬の鋭い一刀流が刺客を次々と無力化していく。
そして、新次郎もまた、ゆっくりと立ち上がった。その瞳には、もはや無機質な光はなく、人を守ろうとする静かな決意が宿っていた。
軍鶏鍋の賑わいと、旅立ちの朝
数日後。鐘ヶ淵の隠居所には、香ばしい醤油と生姜の香りが、これ以上ないほど幸せに満ちていた。
「さあさあ、煮えましたよ! 新次郎さんも、遠慮しないでバクバク食べてくださいな! ほら、この軍鶏の腿肉、最高にプリプリなんだから!」
おはるが、大きな土鍋から湯気の立つ肉を取り分け、新次郎の鉢に山盛りにする。
「……熱い。でも、本当に美味しいです、おはるさん」
新次郎は、慣れない手つきで箸を動かし、軍鶏を食した。
そこには大治郎も、三冬も、そして弥七もいた。江戸の夜を共に戦った仲間たちが、一つの鍋を囲んでいる。
「新次郎殿。お主の剣は、もはや呪縛ではない。誰かを守るための力だ」
大治郎が、真面目な顔で、しかし優しく語りかける。
「ありがとうございます。……私は、自分の生まれた場所には戻れないかもしれません。ですが、この江戸で、あなたがたに出会えて、初めて『人間』になれた気がします」
数日が過ぎ、初夏の風が隅田川の柳を優しく揺らす朝。
新次郎は、身なりを整え、小兵衛に別れの挨拶をした。
新次郎の背負う荷物は、以前より少し重くなっていた。
おはるが持たせてくれた、竹皮に包まれた握り飯。そこには、彼女が「精が出るように」と庭の紫蘇(しそ)と特大の梅干しを練り込んだ、愛情たっぷりの塊が三つ入っている。大治郎からは、予備の足袋と、何かの折にと小判が一枚、手拭いに包まれて渡された。
「達者でな、新次郎。困ったことがあれば、いつでも鐘ヶ淵を思い出せ。おはるの飯が、いつでも変らぬ味で待っているぞ」
「はい。必ず、また戻ります。……ありがとうございました、父上のようなあなたに出会えて、幸せでした」
新次郎は深く一礼し、朝日が昇る千住の街道へと歩み出した。
その足取りは、もはや幽霊のような不気味さはなく、しっかりと大地を踏みしめる、力強い人間のそれであった。
「……行ってしまいましたね、先生」
おはるが、少し寂しそうに、だが晴れやかな顔で呟いた。
「ああ。良い男になった。さて、おはる。今日は新次郎の門出を祝って、わしらも奮発しようじゃないか。深川まで足を伸ばして、穴子でも食いに行こう。……弥七、お主もどうだい」
「へへっ、旦那のご馳走とあれば、どこまでもお供しやすぜ!」
弥七が鼻をすりながら笑い、三人は春の光の中を歩き出した。
越後の雪解け、無垢なる再生
それから、一年が過ぎた。
季節は巡り、越後の国、米どころとして知られる小さな村に、遅い春が訪れていた。
周囲を峻険な山々に囲まれたこの村では、ようやく山肌の残雪が解け始め、透き通った雪解け水が、さらさらと音を立てて用水路を流れている。
村の端にある、古びた寺の境内。
そこには、十人ほどの子供たちが、竹光を手に元気な声を上げていた。
「ほら、腰が浮いているぞ。剣は腕で振るのではなく、足の裏で地面の呼吸を感じ、腰で振るものだ」
子供たちの中心にいたのは、瀬戸新次郎だった。
江戸を去る前の、あの剃刀のような鋭さは影を潜め、今の彼からは、どこか懐かしい土の匂いと、穏やかな慈愛が漂っている。彼の着物は木綿の質素なものに変わり、袖は襷(たすき)で上げられ、額には薄っすらと汗が浮かんでいた。
「瀬戸先生! こうですか!」
鼻を垂らした少年が、一生懸命に木刀を振り下ろす。
「そうだ。その一撃には、お主が今日食べた飯の力が宿っている。だから、大切に振るんだよ」
新次郎は少年の頭を優しく撫でた。かつて「自分は死の理でしかない」と嘆いたその手は、今、次代を担う子供たちの成長を支える手となっていた。
夕暮れ時、空が美しい紫に染まる頃、寺の軒先に一人の娘が現れた。
「瀬戸様、夕飯ができましたよ。今日は裏の川で大きな岩魚(いわな)が獲れたので、囲炉裏で塩焼きにしました。お味噌汁には、採れたての山菜をたっぷり入れてあります」
「……ありがとうございます。今、行きます」
新次郎は、子供たちを帰すと、静かに手を合わせ、遥か東の空を見上げた。
膳の上に並んだ岩魚の塩焼き。立ち上る湯気。
その香りが、ふと、江戸の鐘ヶ淵で食べた鯛の味、そして皆で囲んだ軍鶏鍋の熱気を思い出させる。
(先生。私は今、ようやく呼吸をしています。誰かを斬るためではなく、誰かと共に生きるために、この剣を使っています)
新次郎は、大切に保管していた竹皮の包み――おはるが最後に持たせてくれたあの包み――を、そっと撫でた。中身はとうに食べてしまったが、その竹皮には今も、江戸の温もりが染み付いているような気がした。
(おはるさん。あなたの握り飯の味を、私は一生忘れません。あの梅干しの酸っぱさが、私が人間であるということを、今でも教えてくれています)
新次郎は岩魚の身を箸で解し、口に運ぶ。
温かい。
その温もりこそが、彼が江戸で見つけた、何物にも代えがたい「理」であった。
江戸から吹く風が、越後の山々を抜けていく。
そこには、一振りの「死の道具」から、一人の「人間」へと生まれ変わった若者の、確かな生の足跡が刻まれていた。
隅田川の柳が風に揺れ、江戸の街は今日もまた、新しい物語を紡ぎ続けている。
鐘ヶ淵の隠居所では、今日もきっとおはるの「先生!」という笑い声が響き、小兵衛が飄々と酒を酌み交わしていることだろう。
その繋がりがある限り、新次郎の心に、もう二度と冷たい虚無が訪れることはないのである。
ある方の江戸時代を舞台にした作品に影響されて、Geminiに頼んで書いて貰いました。
生成AIは指定しない限り、細かく章分けをしてしまうので、何度も頼んで修正して貰いました。
登場人物の口調が気になったので修正してもらい、増補してもらいました。