沈黙する神々の都を、俺たちは歩く   作:玉露33333

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第09話 白い仮面は、誰を通す

 リエルの声が、水底の静寂に吸い込まれて消えた。

 『入口にも立っていない』。

 その言葉が、目の前に広がる光景の途方もなさを、的確に言い当てていた。俺たちのいるこの場所は、神殿の庭先ですらない。おそらくは、巨大な門を守る、門番の足元。そんな場所に過ぎないのだ。

 

 遠くに見える大神殿の影は、ただ黙してそこにあるだけで、凄まじい威圧感を放っていた。とてつもなく長い時間が、質量となって俺たちにのしかかってくる。

 ごう、と遠い水流の音が響く。頭が、わずかにくらりとした。空気が薄い。濃密な魔素が、思考を少しずつ麻痺させていく。

 

 

「……セシルさんの言う通りだ。長くはいられない」

 俺が呟くと、セシルさんはこくりと頷いた。

「撤退しよう。ギルドへの報告が先だ。こんな場所、私たちだけでどうこうできるものじゃない」

 それが、最も正しい判断だった。危険を前にして深入りしない。冒険者としての、鉄則だ。

 

 だが、リエルだけは動かなかった。

 彼女は、まるで聖遺物でも見るかのように、神殿の影から目を離さずにいた。その氷色の瞳は、恐怖よりも、純粋な学術的畏敬に染まっている。

 

「待って。もう少しだけ……。あの碑文、読めるかもしれない……」

「リエルちゃん!」

 セシルさんが強い声で彼女を制しようとした、その時だった。

 

 ふ、と。

 先ほど、古代の神官の幻影が現れた石の台座が、再び淡い光を放ち始めた。

 だが、今度の光は、先ほどのようなおぼろげなものではない。もっと強く、指向性を持った、冷たい光だ。

 

 光は、ゆっくりと収束し、一つの形を成していく。

 それは、人の顔ほどの大きさの、なめらかな卵型の光球だった。

 そして、その表面には、目も鼻も口もない。

 ただ、のっぺりとした、白い陶器のような質感が浮かび上がっているだけ。

 

「……白い、仮面……」

 

 俺の口から、かすれた声が漏れた。

 間違いない。

 夢で見たものと、まったく同じだ。水底の神殿の奥から、俺を値踏みするように見つめていた、あの表情のない仮面。

 それが今、現実の存在として、俺たちの目の前に浮かんでいた。

 

「な、何……?」

 セシルさんが盾を構え、俺とリエルの前に立ちはだかる。

 リエルは、息を呑んだまま、その白い光から目が離せないでいた。彼女の学者の本能が、あれがただの魔素現象ではない、何らかの機能を持った古代の機構であることを見抜いているのだろう。

 

「……台座の文字が……光って……」

 リエルが、震える声で呟いた。

 見ると、白い仮面が浮かぶ台座の縁に刻まれた線文字シャナトが、光の明滅と同期するように、青白く輝いていた。

「……読めるわ……断片的にだけど……『眠り』……『灯』……そして、『守る』……。これは、何かを守るための、番人……?」

 

 その言葉を証明するかのように、白い仮面はゆっくりと向きを変え、俺たち三人を順番に検分するような動きを見せた。

 冷たい光が、肌を撫でる。魂の芯まで見透かされるような、不快な感覚。

 セシルさんを見、リエルを見る。仮面の光に、変化はない。

 だが、その光が俺を捉えた、瞬間。

 

 ぴたり、と。

 仮面の動きが、止まった。

 

 そして、それまで周囲をぼんやりと照らしていた光が、すっと一本の筋となって、俺の胸元だけを正確に射抜いた。

 同時に、頭の中に直接、声が響いた。

 水に滲んだような、男でも女でもない、古い言葉。

 

『——■■■……■……』

 

 意味はわからない。

 だが、なぜか、その響きが何を伝えようとしているのか、魂の深いところで理解できた。

 

「……アリウス君?」

 隣で、セシルさんが訝しげな声を上げる。

「どうしたの? あの光、君だけを照らしてる……」

 

 声は、まだ続いている。

 俺にだけ聞こえる、問いかけ。

 

『——汝は、近き者か』

『——鍵に、似た……■を持つ者か』

 

 鍵。

 その言葉に、心臓が大きく跳ねた。

 なぜだ。この、古代の番人は、俺の何を知っている?

 

「……すごい」

 後ろから、リエルの恍惚とした呟きが聞こえた。

「あなたにだけ、反応している……。何らかの、認証機構なのね……。アリウス、もっと近くへ。何が起こるか、見たいわ」

「リエル! だめよ!」

 

 リエルは、危険を忘れたかのように一歩前に出ようとし、それをセシルさんが慌てて腕を掴んで引き留めた。

「近づいたら、何されるかわからない! 奥へ連れて行かれたら、もう戻れないかもしれないんだよ!」

「でも、これは第一文明期の遺跡が、千七百年ぶりに起動した瞬間なのよ!? これを見過ごすなんて、学者として……!」

「学者である前に、パーティーの仲間でしょ!」

 

 二人の言い争う声が、水底の静寂に響く。

 だが、俺の耳には、それよりも強く、仮面の声が届いていた。

 

『——奥へ。主の眠りを、守る場所へ』

 

 白い仮面が、ふわりと浮き上がり、参道のさらに奥、大神殿の影が横たわる方角へと、俺を誘うようにゆっくりと動き始めた。

 行けば、わかる。

 この夢の、始まりの場所へ。

 父の仲間がたどり着けなかった、その先へ。

 俺がずっと知りたかった、その答えが、あの扉の向こうにある。

 

 足が、勝手に一歩、前に出ようとした。

 魂が、あの白い光に引かれていく。

 

「アリウス君、行っちゃだめ!」

「アリウス、待って! それが何なのか、確かめるまでは……!」

 

 

 セシルさんと、リエルの声。

 二人が、必死に俺の名前を呼んでいる。

 そうだ。俺は、一人じゃない。

 俺の隣には、盾を構えてくれる仲間がいる。俺の背中には、道を読んでくれる仲間がいる。

 この二人を置いて、一人で行くわけには、いかない。

 

 ——俺は、行かない。

 

 心の中で、強く念じた。

 誘いを拒絶するように、石畳を踏みしめる足に、ぐっと力を込める。

 

 その、瞬間だった。

 

 俺の拒絶の意思を読み取ったかのように、白い仮面の光が、不規則に激しく明滅を始めた。

 頭の中に響いていた声が、問いかけから、戸惑いの響きへと変わる。

 

『——拒絶? なぜ。汝は、■■■……』

 

 仮面の言葉が、ノイズのように乱れる。

 それと同時に、俺たちがいる参道全体が、ぎしり、と嫌な音を立てて揺れ始めた。

 天井の岩盤から、ぱらぱらと石片が落ちてくる。壁に刻まれた碑文が、明滅する光に照らされて、まるで苦悶の表情を浮かべているように見えた。

 

「まずい! ここ、崩れる!」

 セシルさんが叫んだ。

「撤退! 二人とも、走って!」

 

 彼女は、まだ呆然としているリエルの腕を引き、俺の背中を強く叩いた。

 その衝撃で、俺は金縛りから解き放たれた。

 

「悪い、行く!」

 仮面に短く告げ、俺は踵を返した。

 背後で、白い仮面が発する光がさらに強まり、何かが砕ける轟音が響き渡る。

 もう、振り返っている暇はなかった。

 

 

 三人は、来た道を全力で引き返した。

 入り口である水の膜が、淡い光となって前方に見える。

 俺は、ためらうことなくその膜へと飛び込んだ。

 再び、全身を包む冷たい圧迫感。

 そして、次の瞬間には、俺の身体は夜明け前の冷たい空気に満たされた、地上の石段へと転がり出ていた。

 

「はぁっ、はぁっ……!」

 肺が、新鮮な空気を求めて激しく収縮する。

 すぐにセシルさんとリエルも、水の膜から弾き出されるようにして姿を現した。リエルは膝に手をつき、セシルさんは盾を地面に下ろして、三人とも、しばらくは荒い息を整えることしかできなかった。

 

「……なんだったんだ、今の……」

 セシルさんが、信じられないという顔で呟く。

「アリウス君にだけ反応するなんて……君、いったい何者なの?」

「……俺にも、わからない」

 俺は、力なく首を振った。

 

 リエルは、まだ水底での出来事の興奮から冷めやらないのか、蒼白な顔のまま、しかしその瞳だけは爛々と輝かせていた。

「認証……鍵……。血筋か、あるいは、何か特別な印を持っているのか……。興味深いわ。実に、興味深い……」

 

 その時だった。

 ざわ、と。

 背後の湖面が、奇妙な音を立てた。

 

 俺たちは、はっとして振り返る。

 そして、信じられない光景を目にした。

 

 夜の暗闇の中、湖面に浮かべられたままだった祭の灯籠が、まるで巨大な磁石に引き寄せられるかのように、一斉に動き出していた。

 本来なら、風と水の流れに従って、ばらばらに漂っているはずの灯。

 それが、意思を持った生き物の群れのように、隊列を組み、ゆっくりと、しかし確実に——湖の中心、一点へと集まり始めている。

 

「……嘘でしょ」

 セシルさんの声が、震えていた。

「祭は、まだ終わってない……。ううん、違う。今、まさに始まろうとしてるんだ……!」

 

 湖の底で、俺たちが目覚めさせてしまった、何か。

 それが、地上の祭を乗っ取り、本来の儀式を始めようとしている。

 夜明けの光が差し込むには、まだ、長い時間が必要だった。

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