沈黙する神々の都を、俺たちは歩く   作:玉露33333

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第13話 青い灯の街

 石の階段を駆け下りる。一段、また一段と、地上の喧騒が遠ざかっていく。

 だが、完全に消えることはない。俺が今いるのは、まだ街の皮膚のすぐ下。分厚い石畳一枚を隔てた向こう側では、仲間たちが、この街の存亡を賭けて戦っている。

 

 最初に聞こえてきたのは、鈍い、腹に響くような衝撃音だった。

 立て続けに三度。おそらく、セシルさんが盾で何かを受け止めた音だ。

 

「持ち場を離れるな! 防衛線を絶対に下げるな!」

 

 彼女の、鋭い声が聞こえる。

 いつも俺たちをからかう時の、快活な響きはどこにもない。それは、戦場の只中に立つ指揮官の、鋼のように鍛え上げられた声だった。

 南門下の湖岸。あそこが、眠りの波に飲まれた人々の流れが湖へと注ぎ込む、最も危険な場所だ。セシルさんは、ギルドの増援部隊を率いて、その濁流をたった一本の防衛線で食い止めている。

 

 俺は、地下通路の壁に手をつき、一瞬だけ足を止めた。

 行かなければ。彼女を助けに。

 だが、その衝動を、奥歯を噛みしめて抑え込む。俺の持ち場は、ここじゃない。セシルさんは、俺が自分の役割を果たすと信じて、あの場所に立っている。

 

 ごうっ、と。

 地響きにも似た、巨大な水の轟音が、地下空間全体を揺るがした。

 壁の石材が、ぱらぱらと粉を落とす。

 

「水の腕だ! 昨日よりでかいぞ!」

 地上から、誰かの絶望的な叫び声が届いた。

 

 水の腕。湖の底の番人が、防衛線をこじ開けるために送り込んだ、最大の一撃。

 ぎりりりり、と、金属が限界を超えて軋む音が響き渡った。

 セシルさんの盾だ。あの巨大な水の拳を、彼女は、たった一人で真正面から受け止めている。

 

「セシルさん……!」

 俺は、声にならない声で仲間の名を呼び、再び走り出した。

 彼女の背後には、きっと、怯える人々がいる。昨日、俺たちが守った子供のような、何の力もない、ただの家族が。

 明るい先輩の顔じゃない。大切なものを守るためなら、決して砕けることのない盾となる——『守る女』としての、彼女の本当の顔が、俺の脳裏に焼き付いていた。

 

 通路の奥へ、さらに奥へ。

 その時、風の流れが変わり、別の声が俺の耳に届いた。

 

「——職人の方! 三番目の青灯を、今です! 光の窓を、湖心へ!」

 

 リエルの声だ。

 遠く、高く、しかし凛として、闇を切り裂くように響いてくる。

 彼女の持ち場は、街の東側、入り組んだ路地の奥に架かる古い石橋。おそらく、彼女はどこかの屋根の上から、戦場全体を俯瞰しているのだろう。

 

 その声は、微かに震えていた。

 恐怖と、極度の集中。そして、消耗した魔素を無理やり振り絞る、悲鳴にも似た気迫。

 彼女は、怖いのだ。だが、それでも声を張り上げ、自分の知識を、この街を守るための武器に変えている。

 

 短い詠唱が、風に乗って断片的に聞こえてくる。

 鋭く空気を切り裂く、氷の魔法が形成される音。

 眠りの波に誘われた人々が、危険な水路へ滑り落ちないように、濡れた石畳を凍らせているのだ。

 そして、人の流れそのものを逸らすために、薄い結界の壁を、幾重にも張り巡らせているに違いない。

 

「わ、わかった! お嬢ちゃんの言う通りにやる!」

 職人の、しゃがれた声が応える。

 そうだ。彼女は一人じゃない。彼女の知識と魔法が、絶望的な状況下で、人々が動くための道筋を示している。

 知識が行き先を決め、魔法が、人を動ける状態にする。

 彼女は、この悪夢の夜の、ただ一人の司令塔だった。

 

 ドン、と。

 夜空に、一際大きな音が響いた。

 花火だ。祭の締めくくりに打ち上げられるはずだった、最後の一発。

 その光が、地下通路の入り口から差し込み、一瞬だけ俺の足元を照らし出した。

 

 闇の中に咲いた巨大な光の華は、けれど、どこか歪んでいた。

 火の粉が、夜空に軌跡を描いて散っていく。その形が、まるで、風化しかけた古代文字のように見えた。

 『眠れ』。

 そう書かれているような気がした。幻か。あるいは、湖の底の番人が、街全体に見せている巨大な幻覚か。

 

 その、直後だった。

 

 南門下の湖岸から響き渡っていた、水の轟音が、ふっと、嘘のように小さくなった。

 あれほど猛威を振るっていた水の腕の力が、弱まっている。

 セシルさんが、守り切ったのだ。

 そして、ギルド員と職人たちが、一つ目の灯点を、あるべき姿へと戻したのだ。

 

 続いて、東の石橋の方角から聞こえていた混乱の声が、少しずつ潮が引くように収まっていく。

 人々の流れを制御していた、リエルの声が止んだ。

 二つ目の灯点が、戻った。

 

 残るは、最後の一つ。

 俺の、持ち場だ。

 

 地下通路の最奥部。

 昨日、俺たちが守護者と戦った、あの場所。

 巨大な石の扉が、固く口を閉ざしたまま、闇の中に鎮座している。

 そして、その手前には、一台の青灯籠が、不気味な光を放っていた。

 その青い光は、湖心ではない。

 禁じられた、石の扉の奥深くを、煌々と照らし出している。

 

 俺は、剣の柄を強く握りしめた。

 セシルさんが、リエルが、作ってくれた時間。繋いでくれた、希望。

 それを、俺が終わらせる。

 

 一歩、青灯籠へと足を踏み出す。

 その、瞬間だった。

 

 石の扉の、さらに奥。

 完全な闇の中から、白い光が、ふわりと浮かび上がった。

 

 夢で見た、あの光。

 水底で俺を誘った、あの光。

 目も、鼻も、口もない、のっぺりとした白い仮面。

 

 それは、俺だけを、まっすぐに見ていた。

 そして、頭の中に直接、あの甘い声が響き渡る。

 

 

『——こちらへ』

『——鍵に、似た者よ。なぜ、拒む』

 

 

 仮面は、俺を深部へと誘うように、ゆっくりと、扉の奥の闇へと後ずさっていく。

 行けば、わかる。

 この声の、正体が。

 俺が、何者なのかが。

 

 だが、俺はもう、迷わない。

 俺の耳にはまだ、仲間の声が残っている。

 『戻ってこい』と叫んだ、セシルさんの声が。

 『帰ってきてから話して』と願った、リエルの声が。

 

 俺は、白い仮面の誘いを無視し、青灯籠へと手を伸ばした。

 この長い夜を、終わらせるために。

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