石の階段を駆け下りる。一段、また一段と、地上の喧騒が遠ざかっていく。
だが、完全に消えることはない。俺が今いるのは、まだ街の皮膚のすぐ下。分厚い石畳一枚を隔てた向こう側では、仲間たちが、この街の存亡を賭けて戦っている。
最初に聞こえてきたのは、鈍い、腹に響くような衝撃音だった。
立て続けに三度。おそらく、セシルさんが盾で何かを受け止めた音だ。
「持ち場を離れるな! 防衛線を絶対に下げるな!」
彼女の、鋭い声が聞こえる。
いつも俺たちをからかう時の、快活な響きはどこにもない。それは、戦場の只中に立つ指揮官の、鋼のように鍛え上げられた声だった。
南門下の湖岸。あそこが、眠りの波に飲まれた人々の流れが湖へと注ぎ込む、最も危険な場所だ。セシルさんは、ギルドの増援部隊を率いて、その濁流をたった一本の防衛線で食い止めている。
俺は、地下通路の壁に手をつき、一瞬だけ足を止めた。
行かなければ。彼女を助けに。
だが、その衝動を、奥歯を噛みしめて抑え込む。俺の持ち場は、ここじゃない。セシルさんは、俺が自分の役割を果たすと信じて、あの場所に立っている。
ごうっ、と。
地響きにも似た、巨大な水の轟音が、地下空間全体を揺るがした。
壁の石材が、ぱらぱらと粉を落とす。
「水の腕だ! 昨日よりでかいぞ!」
地上から、誰かの絶望的な叫び声が届いた。
水の腕。湖の底の番人が、防衛線をこじ開けるために送り込んだ、最大の一撃。
ぎりりりり、と、金属が限界を超えて軋む音が響き渡った。
セシルさんの盾だ。あの巨大な水の拳を、彼女は、たった一人で真正面から受け止めている。
「セシルさん……!」
俺は、声にならない声で仲間の名を呼び、再び走り出した。
彼女の背後には、きっと、怯える人々がいる。昨日、俺たちが守った子供のような、何の力もない、ただの家族が。
明るい先輩の顔じゃない。大切なものを守るためなら、決して砕けることのない盾となる——『守る女』としての、彼女の本当の顔が、俺の脳裏に焼き付いていた。
通路の奥へ、さらに奥へ。
その時、風の流れが変わり、別の声が俺の耳に届いた。
「——職人の方! 三番目の青灯を、今です! 光の窓を、湖心へ!」
リエルの声だ。
遠く、高く、しかし凛として、闇を切り裂くように響いてくる。
彼女の持ち場は、街の東側、入り組んだ路地の奥に架かる古い石橋。おそらく、彼女はどこかの屋根の上から、戦場全体を俯瞰しているのだろう。
その声は、微かに震えていた。
恐怖と、極度の集中。そして、消耗した魔素を無理やり振り絞る、悲鳴にも似た気迫。
彼女は、怖いのだ。だが、それでも声を張り上げ、自分の知識を、この街を守るための武器に変えている。
短い詠唱が、風に乗って断片的に聞こえてくる。
鋭く空気を切り裂く、氷の魔法が形成される音。
眠りの波に誘われた人々が、危険な水路へ滑り落ちないように、濡れた石畳を凍らせているのだ。
そして、人の流れそのものを逸らすために、薄い結界の壁を、幾重にも張り巡らせているに違いない。
「わ、わかった! お嬢ちゃんの言う通りにやる!」
職人の、しゃがれた声が応える。
そうだ。彼女は一人じゃない。彼女の知識と魔法が、絶望的な状況下で、人々が動くための道筋を示している。
知識が行き先を決め、魔法が、人を動ける状態にする。
彼女は、この悪夢の夜の、ただ一人の司令塔だった。
ドン、と。
夜空に、一際大きな音が響いた。
花火だ。祭の締めくくりに打ち上げられるはずだった、最後の一発。
その光が、地下通路の入り口から差し込み、一瞬だけ俺の足元を照らし出した。
闇の中に咲いた巨大な光の華は、けれど、どこか歪んでいた。
火の粉が、夜空に軌跡を描いて散っていく。その形が、まるで、風化しかけた古代文字のように見えた。
『眠れ』。
そう書かれているような気がした。幻か。あるいは、湖の底の番人が、街全体に見せている巨大な幻覚か。
その、直後だった。
南門下の湖岸から響き渡っていた、水の轟音が、ふっと、嘘のように小さくなった。
あれほど猛威を振るっていた水の腕の力が、弱まっている。
セシルさんが、守り切ったのだ。
そして、ギルド員と職人たちが、一つ目の灯点を、あるべき姿へと戻したのだ。
続いて、東の石橋の方角から聞こえていた混乱の声が、少しずつ潮が引くように収まっていく。
人々の流れを制御していた、リエルの声が止んだ。
二つ目の灯点が、戻った。
残るは、最後の一つ。
俺の、持ち場だ。
地下通路の最奥部。
昨日、俺たちが守護者と戦った、あの場所。
巨大な石の扉が、固く口を閉ざしたまま、闇の中に鎮座している。
そして、その手前には、一台の青灯籠が、不気味な光を放っていた。
その青い光は、湖心ではない。
禁じられた、石の扉の奥深くを、煌々と照らし出している。
俺は、剣の柄を強く握りしめた。
セシルさんが、リエルが、作ってくれた時間。繋いでくれた、希望。
それを、俺が終わらせる。
一歩、青灯籠へと足を踏み出す。
その、瞬間だった。
石の扉の、さらに奥。
完全な闇の中から、白い光が、ふわりと浮かび上がった。
夢で見た、あの光。
水底で俺を誘った、あの光。
目も、鼻も、口もない、のっぺりとした白い仮面。
それは、俺だけを、まっすぐに見ていた。
そして、頭の中に直接、あの甘い声が響き渡る。
『——こちらへ』
『——鍵に、似た者よ。なぜ、拒む』
仮面は、俺を深部へと誘うように、ゆっくりと、扉の奥の闇へと後ずさっていく。
行けば、わかる。
この声の、正体が。
俺が、何者なのかが。
だが、俺はもう、迷わない。
俺の耳にはまだ、仲間の声が残っている。
『戻ってこい』と叫んだ、セシルさんの声が。
『帰ってきてから話して』と願った、リエルの声が。
俺は、白い仮面の誘いを無視し、青灯籠へと手を伸ばした。
この長い夜を、終わらせるために。