こちらへ、と声がする。
水底の静寂を揺らすことなく、意識の芯に直接響いてくる、甘い誘惑の声。
目の前に浮かぶ、表情のない白い仮面。それは昨日までの値踏みするような視線ではなく、今はただ、俺だけをまっすぐに捉え、奥へと誘っていた。
行けば、わかる。
時折俺を苛む、あの夢の答えが。父が追い求め、そして諦めた、その景色が。あの扉の向こうに、すべてある。
だが、俺はもう迷わない。
左眉のすぐ上にある古い傷を、無意識に親指でなぞる。父の癖。迷いを振り払うための、俺自身の儀式。
セシルさんが、リエルが、地上で戦っている。俺が終わらせなければ。
俺は、白い仮面の誘いを振り切るように、その光に背を向けた。
そして、この長い夜の元凶である、青灯籠へと手を伸ばす。
『——なぜ』
声が、わずかに揺らいだ。
戸惑いが、響きの中に滲む。
仮面から放たれる光が強まり、俺の周囲の空間だけが、まるで舞台の上の役者のように、くっきりと照らし出された。
ふわり、と。
白い仮面が、その形を変えた。
光はより明確な輪郭を帯び、人の姿を象っていく。
長い髪、優美な衣、そして、どこまでも穏やかで、表情のない顔。それは、古代の神殿に描かれていそうな、石の女神像だった。ただ、その瞳があるべき場所は、昏い空洞のままだったが。
『我は、眠りを守る者。リュミナ』
女神像が、そう名乗った気がした。
リュミナ。その音の響きは、どこか懐かしい。
彼女は、俺と青灯籠の間に、ゆっくりと回り込むようにして立ちはだかった。
『汝は、近き者。鍵に似た者。なぜ、拒むのです』
その声は、責めているようではなかった。ただ、純粋な疑問。千七百年もの間、ただ一つの命令だけを守り続けてきた機械が、初めて遭遇したエラーに戸惑っているかのようだ。
『扉は、汝に応えましょう。さあ、こちらへ』
リュミナが、その白い腕を、背後にある巨大な石の扉へと差し向けた。
呼応するように、ごごごご、と地響きが起こる。
千年以上も固く閉ざされていたはずの石の扉が、ゆっくりと、軋むような音を立てて、内側へと開き始めたのだ。
ほんのわずかな、一筋の隙間。
そこから、光が漏れ出した。
この水底の、どの光とも違う、純粋で、圧倒的な密度の光。その光に触れただけで、魂が吸い上げられてしまいそうなほどの。
そして、光の奥には、どこまでも続く昏い闇が見えた。まるで、世界の奈落へと通じる、巨大な縦穴。
ざわめきが聞こえる。夢の奥で聞いた、数えきれない誰かの声。喜びか、嘆きか、それすらも判別できない、途方もない時間の堆積。
——あれが、湖底神殿の深部。
直感で、わかった。
あれこそが、俺がずっと追い求めてきたものだ。
幼い日、父の仲間が見つけたという、祭壇の一行。その意味も、そこに眠っている。
夢で見た、遠い背中。白い花。聞き取れなかった、誰かの名前。
行けば、すべてがわかる。
俺が何者で、なぜこの場所に引かれるのか。その答えが、今、手の届く場所に差し出されていた。
足が、縫い付けられたように動かない。
魂が、あの光と闇に、引き寄せられていく。
その、時だった。
ガァンッ!
遠く、くぐもった、しかし確かな金属の破壊音が、水の壁を突き抜け、俺の鼓膜を打った。
地上からだ。
セシルさんの、盾の音。
あれは、ただ受け止めた音じゃない。限界を超え、砕け散る音だ。
続いて、声が聞こえた。
「——いやぁああああっ!」
リエルの、絶叫。
いつも冷静で、どんな時も理性を失わなかった彼女の、喉が張り裂けんばかりの、悲鳴。
彼女の魔法が破られたのか。あるいは、守っていた誰かが、濁流に飲まれたのか。
幻想的な水底の光景が、一瞬で色褪せた。
脳裏に浮かぶのは、巨大な水の腕に立ち向かう、金色の髪。
屋根の上で、震えながらも声を張り上げていた、銀色の髪。
そうだ。俺は、約束した。
『行くなら、戻ってこい』
『帰ってきてから話して』
二人の声が、はっきりと蘇る。
古代の真実よりも、俺自身の謎よりも、今、確かに聞こえる仲間の悲鳴が、俺の心を掴んで離さなかった。
街を救う、なんて大それたことじゃない。
ただ、あの二人を、一人にはしておけない。
——よし。
俺は、開きかけた巨大な扉に、きっぱりと背を向けた。
リュミナの、驚いたような気配を感じる。
だが、俺はもう振り返らない。
「悪い、行く」
誰にともなく呟き、俺は青灯籠の火窓を、両手で強く掴んだ。
渾身の力を込めて、それを回転させる。
ぎりり、と嫌な音がして、青い光の筋が、禁じられた扉から外れる。
俺は、来た道を引き返すために、踵を返した。
リュミナの横を、すり抜ける。
『……拒絶、と判断』
背後で、声がした。
それまでの、どこか戸惑いを帯びた響きは、完全に消え失せていた。
代わりに、そこにあるのは、絶対零度の、機械的な宣告。
『認証パターン、不一致』
『対象を、鍵に非ず、侵入者群と再定義』
『現時刻より、外郭封印機構、第三段階へ移行』
『すべての灯を以て、侵入者を排除。眠りへと、沈めよ』
ぞくり、と。
背筋に、悪寒が走った。
振り返ると、そこには、もう女神像の姿はなかった。
ただ、白い仮面が、冷たく浮かんでいる。
だが、その色が、変わっていた。
それまでの、静かな青白い光ではない。
怒りと、憎悪と、拒絶をすべて混ぜ合わせたような、禍々しい——血のような、赤い光を放っていた。
「まずい……!」
俺の選択は、事態を収拾させるどころか、最悪の引き金を引いてしまったのだ。
水底の番人は、俺という不確定要素を排除し、その全機能をもって、この街を沈黙させようとしている。
俺は、地上へと続く道を、全力で駆け出した。
仲間の元へ。
そして、自分自身が起こしてしまった、この絶望的な戦いを終わらせるために。