沈黙する神々の都を、俺たちは歩く   作:玉露33333

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第14話 扉の前

 こちらへ、と声がする。

 水底の静寂を揺らすことなく、意識の芯に直接響いてくる、甘い誘惑の声。

 目の前に浮かぶ、表情のない白い仮面。それは昨日までの値踏みするような視線ではなく、今はただ、俺だけをまっすぐに捉え、奥へと誘っていた。

 行けば、わかる。

 時折俺を苛む、あの夢の答えが。父が追い求め、そして諦めた、その景色が。あの扉の向こうに、すべてある。

 

 だが、俺はもう迷わない。

 左眉のすぐ上にある古い傷を、無意識に親指でなぞる。父の癖。迷いを振り払うための、俺自身の儀式。

 セシルさんが、リエルが、地上で戦っている。俺が終わらせなければ。

 

 俺は、白い仮面の誘いを振り切るように、その光に背を向けた。

 そして、この長い夜の元凶である、青灯籠へと手を伸ばす。

 

『——なぜ』

 

 声が、わずかに揺らいだ。

 戸惑いが、響きの中に滲む。

 仮面から放たれる光が強まり、俺の周囲の空間だけが、まるで舞台の上の役者のように、くっきりと照らし出された。

 

 ふわり、と。

 白い仮面が、その形を変えた。

 光はより明確な輪郭を帯び、人の姿を象っていく。

 長い髪、優美な衣、そして、どこまでも穏やかで、表情のない顔。それは、古代の神殿に描かれていそうな、石の女神像だった。ただ、その瞳があるべき場所は、昏い空洞のままだったが。

 

『我は、眠りを守る者。リュミナ』

 

 女神像が、そう名乗った気がした。

 リュミナ。その音の響きは、どこか懐かしい。

 彼女は、俺と青灯籠の間に、ゆっくりと回り込むようにして立ちはだかった。

 

『汝は、近き者。鍵に似た者。なぜ、拒むのです』

 

 その声は、責めているようではなかった。ただ、純粋な疑問。千七百年もの間、ただ一つの命令だけを守り続けてきた機械が、初めて遭遇したエラーに戸惑っているかのようだ。

 

『扉は、汝に応えましょう。さあ、こちらへ』

 

 リュミナが、その白い腕を、背後にある巨大な石の扉へと差し向けた。

 呼応するように、ごごごご、と地響きが起こる。

 千年以上も固く閉ざされていたはずの石の扉が、ゆっくりと、軋むような音を立てて、内側へと開き始めたのだ。

 

 ほんのわずかな、一筋の隙間。

 そこから、光が漏れ出した。

 この水底の、どの光とも違う、純粋で、圧倒的な密度の光。その光に触れただけで、魂が吸い上げられてしまいそうなほどの。

 そして、光の奥には、どこまでも続く昏い闇が見えた。まるで、世界の奈落へと通じる、巨大な縦穴。

 ざわめきが聞こえる。夢の奥で聞いた、数えきれない誰かの声。喜びか、嘆きか、それすらも判別できない、途方もない時間の堆積。

 

 ——あれが、湖底神殿の深部。

 

 直感で、わかった。

 あれこそが、俺がずっと追い求めてきたものだ。

 幼い日、父の仲間が見つけたという、祭壇の一行。その意味も、そこに眠っている。

 夢で見た、遠い背中。白い花。聞き取れなかった、誰かの名前。

 行けば、すべてがわかる。

 俺が何者で、なぜこの場所に引かれるのか。その答えが、今、手の届く場所に差し出されていた。

 

 足が、縫い付けられたように動かない。

 魂が、あの光と闇に、引き寄せられていく。

 

 その、時だった。

 

 

 ガァンッ!

 

 

 遠く、くぐもった、しかし確かな金属の破壊音が、水の壁を突き抜け、俺の鼓膜を打った。

 地上からだ。

 セシルさんの、盾の音。

 あれは、ただ受け止めた音じゃない。限界を超え、砕け散る音だ。

 

 続いて、声が聞こえた。

 

「——いやぁああああっ!」

 

 リエルの、絶叫。

 いつも冷静で、どんな時も理性を失わなかった彼女の、喉が張り裂けんばかりの、悲鳴。

 彼女の魔法が破られたのか。あるいは、守っていた誰かが、濁流に飲まれたのか。

 

 幻想的な水底の光景が、一瞬で色褪せた。

 脳裏に浮かぶのは、巨大な水の腕に立ち向かう、金色の髪。

 屋根の上で、震えながらも声を張り上げていた、銀色の髪。

 

 そうだ。俺は、約束した。

 

 『行くなら、戻ってこい』

 『帰ってきてから話して』

 

 二人の声が、はっきりと蘇る。

 古代の真実よりも、俺自身の謎よりも、今、確かに聞こえる仲間の悲鳴が、俺の心を掴んで離さなかった。

 街を救う、なんて大それたことじゃない。

 ただ、あの二人を、一人にはしておけない。

 

 ——よし。

 

 俺は、開きかけた巨大な扉に、きっぱりと背を向けた。

 リュミナの、驚いたような気配を感じる。

 だが、俺はもう振り返らない。

 

「悪い、行く」

 

 誰にともなく呟き、俺は青灯籠の火窓を、両手で強く掴んだ。

 渾身の力を込めて、それを回転させる。

 ぎりり、と嫌な音がして、青い光の筋が、禁じられた扉から外れる。

 

 俺は、来た道を引き返すために、踵を返した。

 リュミナの横を、すり抜ける。

 

『……拒絶、と判断』

 

 背後で、声がした。

 それまでの、どこか戸惑いを帯びた響きは、完全に消え失せていた。

 代わりに、そこにあるのは、絶対零度の、機械的な宣告。

 

『認証パターン、不一致』

『対象を、鍵に非ず、侵入者群と再定義』

『現時刻より、外郭封印機構、第三段階へ移行』

『すべての灯を以て、侵入者を排除。眠りへと、沈めよ』

 

 ぞくり、と。

 背筋に、悪寒が走った。

 振り返ると、そこには、もう女神像の姿はなかった。

 ただ、白い仮面が、冷たく浮かんでいる。

 だが、その色が、変わっていた。

 それまでの、静かな青白い光ではない。

 怒りと、憎悪と、拒絶をすべて混ぜ合わせたような、禍々しい——血のような、赤い光を放っていた。

 

「まずい……!」

 

 俺の選択は、事態を収拾させるどころか、最悪の引き金を引いてしまったのだ。

 水底の番人は、俺という不確定要素を排除し、その全機能をもって、この街を沈黙させようとしている。

 

 俺は、地上へと続く道を、全力で駆け出した。

 仲間の元へ。

 そして、自分自身が起こしてしまった、この絶望的な戦いを終わらせるために。

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