沈黙する神々の都を、俺たちは歩く   作:玉露33333

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第15話 盾が止め、剣が届く

 石の階段を駆け上がり、地上へと転がり出た瞬間、俺の全身を凄まじい魔素の嵐が打ち据えた。

 空気が、違う。

 夜明け前の冷たいそれではない。まるで水の中にいるかのように、ねばつくほどに濃密な魔素が、呼吸のたびに肺を灼く。

 

 南門下の広場は、地獄の様相を呈していた。

 湖から伸びる、昨日までとは比較にならないほど巨大な水の腕が、防衛線を築くギルド員たちを薙ぎ払おうと猛威を振るっている。屋台の残骸、砕けた石畳、そして祭のために飾られた灯籠が、まるで玩具のように宙を舞っていた。

 その灯籠の火は、すべてが禍々しい赤色に染まっている。

 水底の番人、リュミナの怒りの色だ。

 

 そして、その巨大な水の腕の真正面に、たった一人、立ちはだかる影があった。

 

「セシルさん……!」

 

 金色の髪を振り乱し、彼女は両足で地に踏みとどまり、左腕の盾を構えていた。

 麦穂の輪が彫られた、父から贈られたという大切な盾。その表面には、すでに無数の亀裂が走り、ぎりり、と悲鳴のような音を立てていた。

 彼女の足元のアスファルトは放射状に砕け、その踵は地面に深くめり込んでいる。水の腕が繰り出す圧倒的な質量を、彼女はその一身で受け止めていた。

 

「くっ……うぅ……!」

 

 歯を食いしばるセシルさんの口の端から、血が滲んでいる。だが、その榛色の瞳は、絶望に屈してはいなかった。ただひたすらに、前だけを、自分たちが守るべき街だけを見据えている。

 彼女の背後では、他の冒険者たちが眠った人々を必死に坂の上へと運び上げていた。彼女が稼ぐ、その一瞬の時間だけが、彼らの命綱だった。

 

「——観よ、理の目! 彼の者の、力の源流を!」

 

 後方から、リエルの張り詰めた声が響いた。

 見ると、彼女は崩れた屋台の屋根の上で、片膝をついて杖を構えていた。銀色の髪は魔素の風にあおられ、その顔は魔力の消耗で紙のように白い。

 だが、その氷色の瞳は、この混沌とした戦場の中で、ただ一点だけを、恐るべき集中力で見抜いていた。

 湖の中心、水の腕が生み出されるその根源。そして、その力を操る、水底のリュミナ。

 

「アリウス!」

 俺の姿を認めたリエルが、叫んだ。

「あの番人の魔素の流れには中心がある! あの仮面よ! あそこに、ほんの一瞬でもいい、強い衝撃を与えて流れを乱せば……動きが止まるはず!」

 

 仮面。

 俺が、地上へ戻るきっかけを作ってしまった、あの赤い光。

 そうだ。あれを止めなければ、セシルさんがもたない。

 

「わかった!」

 俺は剣を抜き放ち、地を蹴った。

 だが、リュミナも俺の存在に気づいていた。

 セシルさんを押し留めていた巨大な水の腕とは別に、湖面から無数の小さな水の触手が、まるで蛇のように現れ、俺の進路を阻むように襲いかかってくる。

 

「させるものですか……っ!」

 リエルの杖先が煌めいた。

「氷壁!」

 俺の目の前に、瞬時に分厚い氷の壁が幾重にも形成される。水の触手がそれに激突し、甲高い音を立てて砕け散った。

 だが、すぐに再生した触手が、氷壁を叩き、穿ち、突破しようとする。リエルの魔力だけで、この猛攻を防ぎきるのは不可能だ。

 

「アリウス君……!」

 セシルさんが、苦悶に満ちた声で俺の名を呼んだ。

「リエルちゃん……! 信じてる……からね……!」

 その声は、もう限界が近いことを告げていた。

 

「今よ!」

 リエルが、最後の力を振り絞るように叫んだ。

 彼女は杖を地面に突き立て、防御魔術ではない、まったく別の詠唱を始める。

「凍てつけ、理の外の濁流よ!」

 彼女が放ったのは、氷の槍でも、壁でもない。極小の氷の礫を無数に含んだ、絶対零度の冷気。

 それが、セシルさんを打ち据える巨大な水の腕の表面に叩きつけられ、その動きを、ほんの一瞬、心臓の鼓動一つ分だけ、鈍らせた。

 

 その一瞬を、セシルさんは見逃さなかった。

「はあああああっ!」

 彼女は、獣のような雄叫びを上げた。

 ただ受け止めるだけではない。彼女の戦闘スタイルは、本来、カウンター型だ。

 セシルさんは膝のばねを使い、溜めに溜めた衝撃を、盾ごと前へと叩きつけた。

 水の腕を押し返すのではない。その圧倒的な力のベクトルを、ほんのわずかに、逸らす。

 

 ごうっ、と。

 巨大な水の腕が、セシルさんのすぐ横を通り過ぎ、空っぽの地面を叩きつけた。

 轟音と共に、石畳が粉々に砕け散る。

 そして、俺の前から、湖の中心へと至る道が——ほんの一瞬だけ、開かれた。

 

「行けえええええっ!」

 セシルさんの声が、弾ける。

 その瞬間、彼女の盾が、ぱきん、と乾いた音を立てて砕け散った。

 

「任せろ!」

 俺は仲間の想いを背負い、風の魔術を足に込めて疾走した。

 湖岸の濡れた石畳を蹴り、水面を跳ぶ。

 目の前には、赤い光を放つ白い仮面、リュミナが浮かんでいた。

 憎悪と拒絶の光が、俺を焼き尽くそうと迫る。

 

 俺は、父譲りの長剣を構え、その切っ先に意識を集中させた。

 体内の魔素を練り上げ、雷の属性へと変換していく。

 壊すためじゃない。

 リエルが言っていた。流れを、乱すために。

 これまで何度も失敗し、暴発させてきた不完全な技。だが、今、この瞬間だけは、制御できる気がした。

 

「雷纏!」

 

 剣の刀身が、青白い光を帯びた雷に包まれる。

 バチバチと激しい音を立てる雷撃を、無理やり剣の表面に押し留める。

 狙いは、ただ一点。

 あの、赤い仮面。

 

 リュミナが、俺を迎え撃つために新たな水の腕を形成しようとする。

 だが、遅い。

 

 セシルさんが受け、リエルが読み、そして俺が、届く。

 

 雷を纏った俺の剣先が、リュミナの赤い仮面に——触れた。

 

 キィィィィィン、と。

 鼓膜を突き破るような、甲高い金属音が響き渡った。

 破壊の衝撃ではない。雷の魔力が、リュミナの魔素の流れに強制的に割り込み、その回路をショートさせたのだ。

 

 赤い光が、ノイズのように激しく明滅する。

 そして、ふっ、と。

 まるで、灯火が吹き消されるかのように、その光は完全に消え失せた。

 

 同時に、あれほど猛威を振るっていた巨大な水の腕が、その形を保てなくなり、ただの水へと戻って崩れ落ちていく。

 水の触手も、赤い灯籠の光も、すべてが嘘のように消え失せた。

 後に残されたのは、破壊された広場と、夜明け前の静寂だけだった。

 

「……はぁ、はぁ……やった、のか……?」

 

 俺は、水面に膝をつき、荒い息を繰り返した。

 全身の力が、抜けていく。

 遠くで、リエルが屋根から滑り落ちるように降りてくるのが見えた。

 セシルさんが、砕けた盾の残骸を腕から外し、その場にへたり込んでいる。

 勝った。

 俺たちは、この長い夜を、乗り越えたんだ。

 

 そう、思った、直後だった。

 

 ぞわり、と。

 背後の湖面から、先ほどまでとは比較にならない、巨大な悪寒が立ち上った。

 振り返る。

 そこには、消えたはずの白い仮面が、再び浮かび上がっていた。

 

 だが、その光は、もう赤くも青くもない。

 どこまでも昏い、まるで光そのものを吸い込んでしまうかのような——漆黒の光を放っていた。

 

 ごぉん、と。

 大聖堂の鐘とは違う、もっと古く、重い響きが、湖の底から鳴り響いた。

 湖面全体が、巨大な影に覆われていく。

 それは、巨大な鐘の影だった。

 眠りの、大鐘。

 リュミナが、最後の手段として、この街全体を、永遠の眠りへと沈めようとしている。

 

 街全体が、その影に呑まれていく。

 遠くで、人々が糸の切れた人形のように、ばたばたと倒れていくのが見えた。

 セシルさんが、リエルが、俺の名前を呼ぼうとして、その言葉を結ぶ前に、ゆっくりと地面に崩れ落ちていく。

 

 俺の意識も、急速に薄れていく。

 だめだ。

 まだ、終われない。

 まだ——。

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