石の階段を駆け上がり、地上へと転がり出た瞬間、俺の全身を凄まじい魔素の嵐が打ち据えた。
空気が、違う。
夜明け前の冷たいそれではない。まるで水の中にいるかのように、ねばつくほどに濃密な魔素が、呼吸のたびに肺を灼く。
南門下の広場は、地獄の様相を呈していた。
湖から伸びる、昨日までとは比較にならないほど巨大な水の腕が、防衛線を築くギルド員たちを薙ぎ払おうと猛威を振るっている。屋台の残骸、砕けた石畳、そして祭のために飾られた灯籠が、まるで玩具のように宙を舞っていた。
その灯籠の火は、すべてが禍々しい赤色に染まっている。
水底の番人、リュミナの怒りの色だ。
そして、その巨大な水の腕の真正面に、たった一人、立ちはだかる影があった。
「セシルさん……!」
金色の髪を振り乱し、彼女は両足で地に踏みとどまり、左腕の盾を構えていた。
麦穂の輪が彫られた、父から贈られたという大切な盾。その表面には、すでに無数の亀裂が走り、ぎりり、と悲鳴のような音を立てていた。
彼女の足元のアスファルトは放射状に砕け、その踵は地面に深くめり込んでいる。水の腕が繰り出す圧倒的な質量を、彼女はその一身で受け止めていた。
「くっ……うぅ……!」
歯を食いしばるセシルさんの口の端から、血が滲んでいる。だが、その榛色の瞳は、絶望に屈してはいなかった。ただひたすらに、前だけを、自分たちが守るべき街だけを見据えている。
彼女の背後では、他の冒険者たちが眠った人々を必死に坂の上へと運び上げていた。彼女が稼ぐ、その一瞬の時間だけが、彼らの命綱だった。
「——観よ、理の目! 彼の者の、力の源流を!」
後方から、リエルの張り詰めた声が響いた。
見ると、彼女は崩れた屋台の屋根の上で、片膝をついて杖を構えていた。銀色の髪は魔素の風にあおられ、その顔は魔力の消耗で紙のように白い。
だが、その氷色の瞳は、この混沌とした戦場の中で、ただ一点だけを、恐るべき集中力で見抜いていた。
湖の中心、水の腕が生み出されるその根源。そして、その力を操る、水底のリュミナ。
「アリウス!」
俺の姿を認めたリエルが、叫んだ。
「あの番人の魔素の流れには中心がある! あの仮面よ! あそこに、ほんの一瞬でもいい、強い衝撃を与えて流れを乱せば……動きが止まるはず!」
仮面。
俺が、地上へ戻るきっかけを作ってしまった、あの赤い光。
そうだ。あれを止めなければ、セシルさんがもたない。
「わかった!」
俺は剣を抜き放ち、地を蹴った。
だが、リュミナも俺の存在に気づいていた。
セシルさんを押し留めていた巨大な水の腕とは別に、湖面から無数の小さな水の触手が、まるで蛇のように現れ、俺の進路を阻むように襲いかかってくる。
「させるものですか……っ!」
リエルの杖先が煌めいた。
「氷壁!」
俺の目の前に、瞬時に分厚い氷の壁が幾重にも形成される。水の触手がそれに激突し、甲高い音を立てて砕け散った。
だが、すぐに再生した触手が、氷壁を叩き、穿ち、突破しようとする。リエルの魔力だけで、この猛攻を防ぎきるのは不可能だ。
「アリウス君……!」
セシルさんが、苦悶に満ちた声で俺の名を呼んだ。
「リエルちゃん……! 信じてる……からね……!」
その声は、もう限界が近いことを告げていた。
「今よ!」
リエルが、最後の力を振り絞るように叫んだ。
彼女は杖を地面に突き立て、防御魔術ではない、まったく別の詠唱を始める。
「凍てつけ、理の外の濁流よ!」
彼女が放ったのは、氷の槍でも、壁でもない。極小の氷の礫を無数に含んだ、絶対零度の冷気。
それが、セシルさんを打ち据える巨大な水の腕の表面に叩きつけられ、その動きを、ほんの一瞬、心臓の鼓動一つ分だけ、鈍らせた。
その一瞬を、セシルさんは見逃さなかった。
「はあああああっ!」
彼女は、獣のような雄叫びを上げた。
ただ受け止めるだけではない。彼女の戦闘スタイルは、本来、カウンター型だ。
セシルさんは膝のばねを使い、溜めに溜めた衝撃を、盾ごと前へと叩きつけた。
水の腕を押し返すのではない。その圧倒的な力のベクトルを、ほんのわずかに、逸らす。
ごうっ、と。
巨大な水の腕が、セシルさんのすぐ横を通り過ぎ、空っぽの地面を叩きつけた。
轟音と共に、石畳が粉々に砕け散る。
そして、俺の前から、湖の中心へと至る道が——ほんの一瞬だけ、開かれた。
「行けえええええっ!」
セシルさんの声が、弾ける。
その瞬間、彼女の盾が、ぱきん、と乾いた音を立てて砕け散った。
「任せろ!」
俺は仲間の想いを背負い、風の魔術を足に込めて疾走した。
湖岸の濡れた石畳を蹴り、水面を跳ぶ。
目の前には、赤い光を放つ白い仮面、リュミナが浮かんでいた。
憎悪と拒絶の光が、俺を焼き尽くそうと迫る。
俺は、父譲りの長剣を構え、その切っ先に意識を集中させた。
体内の魔素を練り上げ、雷の属性へと変換していく。
壊すためじゃない。
リエルが言っていた。流れを、乱すために。
これまで何度も失敗し、暴発させてきた不完全な技。だが、今、この瞬間だけは、制御できる気がした。
「雷纏!」
剣の刀身が、青白い光を帯びた雷に包まれる。
バチバチと激しい音を立てる雷撃を、無理やり剣の表面に押し留める。
狙いは、ただ一点。
あの、赤い仮面。
リュミナが、俺を迎え撃つために新たな水の腕を形成しようとする。
だが、遅い。
セシルさんが受け、リエルが読み、そして俺が、届く。
雷を纏った俺の剣先が、リュミナの赤い仮面に——触れた。
キィィィィィン、と。
鼓膜を突き破るような、甲高い金属音が響き渡った。
破壊の衝撃ではない。雷の魔力が、リュミナの魔素の流れに強制的に割り込み、その回路をショートさせたのだ。
赤い光が、ノイズのように激しく明滅する。
そして、ふっ、と。
まるで、灯火が吹き消されるかのように、その光は完全に消え失せた。
同時に、あれほど猛威を振るっていた巨大な水の腕が、その形を保てなくなり、ただの水へと戻って崩れ落ちていく。
水の触手も、赤い灯籠の光も、すべてが嘘のように消え失せた。
後に残されたのは、破壊された広場と、夜明け前の静寂だけだった。
「……はぁ、はぁ……やった、のか……?」
俺は、水面に膝をつき、荒い息を繰り返した。
全身の力が、抜けていく。
遠くで、リエルが屋根から滑り落ちるように降りてくるのが見えた。
セシルさんが、砕けた盾の残骸を腕から外し、その場にへたり込んでいる。
勝った。
俺たちは、この長い夜を、乗り越えたんだ。
そう、思った、直後だった。
ぞわり、と。
背後の湖面から、先ほどまでとは比較にならない、巨大な悪寒が立ち上った。
振り返る。
そこには、消えたはずの白い仮面が、再び浮かび上がっていた。
だが、その光は、もう赤くも青くもない。
どこまでも昏い、まるで光そのものを吸い込んでしまうかのような——漆黒の光を放っていた。
ごぉん、と。
大聖堂の鐘とは違う、もっと古く、重い響きが、湖の底から鳴り響いた。
湖面全体が、巨大な影に覆われていく。
それは、巨大な鐘の影だった。
眠りの、大鐘。
リュミナが、最後の手段として、この街全体を、永遠の眠りへと沈めようとしている。
街全体が、その影に呑まれていく。
遠くで、人々が糸の切れた人形のように、ばたばたと倒れていくのが見えた。
セシルさんが、リエルが、俺の名前を呼ぼうとして、その言葉を結ぶ前に、ゆっくりと地面に崩れ落ちていく。
俺の意識も、急速に薄れていく。
だめだ。
まだ、終われない。
まだ——。