沈黙する神々の都を、俺たちは歩く   作:玉露33333

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第16話 夢の底の言葉

 ごぉん、と。

 湖の底から響き渡る、眠りの大鐘。その重く、昏い響きが、魂を直接揺さぶってくる。

 街が、沈黙していく。

 悲鳴も、怒声も、祭の音楽も、すべてが闇色の音の中に吸い込まれ、溶けて消えていく。遠くで、糸の切れた人形のように倒れていく人々の影が見えた。セシルさんが、リエルが、俺の名前を呼ぼうとして、その言葉を結ぶ前に、ゆっくりと地面に崩れ落ちていく。

 

 だめだ。

 俺の意識も、急速に薄れていく。

 抗えない。この眠りは、あまりに深く、そして甘い。まるで、母親の腕の中に抱かれるような、抗いがたい安らぎが、思考を麻痺させていく。

 まだ、終われない。

 まだ——。

 

 意識が完全に途切れる、その寸前だった。

 ふわり、と。

 淡い、氷色の光が、俺たち三人を包み込んだのを、瞼の裏で感じた。

 リエルだ。

 彼女が、最後の力を振り絞って、小規模な結界を張ったのだ。

 大鐘の響きが、一枚の薄い膜を隔てたかのように、わずかに遠くなる。完全には遮断できない。だが、その不完全な守りが、俺たちの意識を、完全な忘却からかろうじて繋ぎとめていた。

 

 身体の自由は、もうない。

 だが、意識だけが、奇妙に澄み渡っていく。

 俺は、落ちていた。

 現実から切り離され、夢よりもさらに深い、記憶の底へと。

 いつも見る、あの水底の夢とは違う。もっと深く、もっと鮮明な、誰かの過去へと。

 沈む灯に導かれるように、俺の意識は、千七百年の時を遡っていく。

 

 

 *

 

 

 目を開けると、そこは静寂と、冷たい光に満たされた場所だった。

 湖の底。

 だが、俺が知る、崩れた参道や苔むした石柱のある場所ではない。

 そこは、巨大な神殿の、最も神聖な一室だった。

 天井は、まるで夜空を閉じ込めたかのように高く、磨き上げられた黒曜石の床には、星々のように淡く光る鉱石が埋め込まれている。水はどこにもないのに、まるで深海にいるかのように、青白い光がすべてを清浄に照らし出していた。

 崩れる前の、本来の姿。第一文明ウル=シャナトの、湖底神殿。

 

 その広間の中央に、二つの影があった。

 一つは、俺もよく知る姿。

 白い仮面をつけた、石の女神像。リュミナ。

 だが、その姿は、俺が知るどの彼女とも違っていた。禍々しい赤でも、拒絶の黒でも、冷たい青でもない。その全身からは、どこまでも穏やかで、慈愛に満ちた、柔らかな白銀の光が放たれている。

 本来の、彼女の姿。

 

 そして、そのリュミナと向かい合うようにして、もう一つの人影が立っていた。

 白い、清浄な装束をまとった、一人の人間。

 逆光で、その顔は窺い知れない。ただ、その背中が、声が、男のものであることだけがわかった。

 俺の夢に現れた、あの背中。

 英雄、と呼ぶにふさわしい、強く、しかしどこか哀しみを帯びた立ち姿。

 

「——私は、守り続けます」

 

 リュミナが、静かに口を開いた。

 その声は、俺が聞いたどの声とも違っていた。冷たい機械音でも、甘い誘惑の声でもない。ただ、ひたすらに穏やかで、憂いを帯びた、美しい女性の声だった。

 

「私は、この場所を、主の眠りを、永遠に守りましょう。たとえ、この身が朽ち果てようとも。それが、私に与えられた、唯一つの使命なのですから」

 

 その言葉に、白い装束の男は、ゆっくりと首を横に振った。

 

「だが、リュミナ。時は、あまりに長い」

 

 その声は、どこか遠い場所から響いてくるようだった。

 慈愛と、そして、どうしようもない諦観が、その響きの中に溶け合っている。

 

「いずれ、お前は壊れてしまうだろう。人の心が、長い時の中で歪むように。お前の意思も、いつかはおかしくなってしまうかもしれない。守るという使命が、いつか、すべてを眠らせるという、狂気に変わってしまう日が来るかもしれない」

 

「……」

 リュミナは、何も答えなかった。

 ただ、その表情のない白い仮面を、わずかに伏せた。

 

 白い装束の男は、そっと片膝をつくと、リュミナの石の手に、自分の手を重ねた。

「だから、これは、私からの最後の願いだ。そして、お前を縛る、最後の命令でもある」

 

 彼は、リュミナの仮面を、まっすぐに見つめた。

 その瞳は、逆光の奥にあって見えない。けれど、俺にはわかった。彼は、泣いているのだと。

 

「もし、お前が壊れ、狂気に呑まれたなら……その時は、誰かがお前に告げるだろう」

 

 彼は、言葉を一つ一つ、石に刻むように、紡いでいく。

 

「『夜明けまで眠れ』、と」

 

 その言葉は、命令でありながら、祈りのようだった。

 呪いでありながら、救いのようでもあった。

 

「それが、お前を一度だけ、その永い役目から解き放つ、私からの……最後の言葉だ」

 

 そう言うと、男はゆっくりと立ち上がった。

 そして、一度もこちらを振り返ることなく、神殿のさらに奥、昏い闇へと続く扉の方へと歩いていく。

 白い花びらのような光が、彼の足元から舞い上がり、静かに消えていった。

 

 リュミナは、ただ黙して、その背中を見送っていた。

 やがて、その白い仮面の、瞳があるべき空洞から、一筋、光の雫がこぼれ落ちた。

 それは、黒曜石の床に落ちると、小さな音も立てずに、青白い光の中へと溶けて消えた。

 

 

 *

 

 

 はっ、と。

 俺の意識は、現実へと引き戻された。

 

 全身が、鉛のように重い。

 瞼を開けると、そこは、淡く光る不完全な結界の膜の内側だった。

 街は、死んだように静まり返っている。大鐘の響きは、まだ続いている。だが、その音は、夢の中で聞いた英雄の言葉によって、どこか遠いものに感じられた。

 

 『夜明けまで眠れ』

 

 その言葉の響きと、夢で見た光景の余韻が、まだ胸の奥で熱く燃えていた。

 あれが、鍵だ。

 あの言葉こそが、リュミナを止める、唯一の方法。

 

 俺は、ゆっくりと身体を起こした。

 すぐそばで、リエルとセシルさんが、眠りの波に抗うようにして、ぐったりと倒れ込んでいるのが見えた。

 リエルは、杖にすがるようにして、かろうじて意識を保っている。その顔は蒼白で、唇は小さく震えていた。

 セシルさんは、砕けた盾の残骸を抱きしめるようにして、地面に横たわっている。その榛色の瞳は固く閉じられ、荒い呼吸だけが、彼女がまだ戦っていることを示していた。

 

 結界が、限界に近い。

 光の膜が、みしり、と嫌な音を立てて明滅している。

 このままでは、二人とも、完全に眠りに呑まれてしまう。

 

 俺は、夢の中から持ち帰った、たった一つの言葉を、強く胸に抱きしめた。

 意味は、まだ完全にはわからない。

 だが、あれが希望であることだけは、確かだった。

 二人を、揺り起こさなければ。

 そして、伝えなければ。

 この長い夜を、終わらせるための言葉を。

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