ごぉん、と。
大鐘の響きが、まだ頭の芯を揺さぶっている。
リエルの張った不完全な結界が、淡い光を放ちながら、みしり、と悲鳴を上げていた。光の膜の向こう側で、街は死んだように静まり返っている。眠りの波が、すべてを沈黙させていた。
俺は、夢の中から持ち帰った言葉の熱を胸に、ゆっくりと身体を起こした。
すぐそばで、仲間が倒れている。
「セシルさん! リエル!」
俺は、這うようにして二人の元へ駆け寄った。
リエルは、杖を胸に抱きしめるようにして、ぐったりと地面に横たわっていた。その顔は蒼白で、唇が小さく震えている。かろうじて意識はあるようだが、もう魔力を練り上げる力は残っていないだろう。
セシルさんは、砕けた盾の残骸を庇うようにして、うつ伏せに倒れていた。その背中が、荒い呼吸に合わせて、か細く上下している。
「起きろ! 二人とも、目を覚ませ!」
俺はまず、リエルの肩を掴んで強く揺さぶった。
「リエル!」
「……う……あり、うす……?」
彼女の氷色の瞳が、うっすらと開かれる。だが、その焦点は定まっていない。眠りの波が、彼女の理性を霧の中へと引きずり込もうとしていた。
「しっかりしろ!」
俺は、彼女の頬を軽く、しかし強く叩いた。ぱん、と乾いた音が結界の中に響く。
「っ……!」
その痛みで、リエルの瞳に、わずかに光が戻った。
「セシルさん!」
次に、セシルさんの身体を仰向けに返す。その口の端からは、まだ血が滲んでいた。
「セシルさん、聞こえるか!?」
彼女の肩を揺するが、反応は鈍い。俺はためらわず、彼女の頬も強く打った。
「……ん……。うるさいな……。あと、五分……」
「寝てる場合か!」
俺は叫び、もう一度、今度はもっと強く彼女の肩を揺さぶった。
「……! ……ありうす、くん……?」
ようやく、セシルさんの榛色の瞳が、俺の姿を捉えた。
「二人とも、聞いてくれ」
俺は、荒い息をつきながら、必死に言葉を紡いだ。
「夢を、見たんだ。水底の、もっと古い時代の光景を」
夢の細部を、論理立てて説明する余裕はない。ただ、見たままの、感じたままの熱を、二人に叩きつける。
「英雄が……俺の夢に出てきた背中の男が、白い仮面に告げていた。壊れて、狂気に呑まれた時のための、最後の言葉を」
「……言葉……?」
リエルが、か細い声で問い返した。
「ああ。リュミナを……あの番人を止めるための、鍵だ。その言葉は——」
『夜明けまで眠れ』
俺がその響きを口にした瞬間、リエルの瞳が、はっと見開かれた。
学者としての、最後の理性が、その言葉の持つ意味を捉えようと閃く。
「『夜明けまで、眠れ』……。でも、それはこの神殿がまだ無事な頃、第一文明の言葉でしょう? なら、その時の言語で話さないと……」
「俺にはわからない。そういう意味だとしかわからなかった。でも、夢で感じた響きは、もっと……重くて、最後は消えるような感じだった」
「重くて、消えるような……。なら、最後の単語は、単純な『眠り』じゃない。『永眠』に近い、もっと静かな概念を示す言葉を使うべきね。そして、文頭の命令形は……」
リエルは、杖を杖代わりにして、ふらつきながらも身体を起こした。
俺が夢から持ち帰った、曖昧な言葉。それを、彼女が千の時を超えた学問の知識で、正確な「鍵」へと鋳造していく。
俺と彼女の、最後の共同作業だった。
「……できたわ」
数秒にも、永遠にも感じられた時間の後、リエルは蒼白な顔で、しかし確信に満ちた瞳で俺を見た。
「私が言う通りに、復唱して。一言一句、間違えずに」
その隣で、セシルさんも、砕けた盾の残骸を支えにして、ゆっくりと立ち上がっていた。
「……へへ。やっぱり、君たちは……すごいね」
その声はかすれていたが、紛れもない、いつもの彼女の笑顔がそこにはあった。
「作戦、変更だ。私が、道を開ける。アリウス君は、その言葉を、あいつに叩きつけてきて」
「セシルさん、でも盾が……!」
「盾がなくったって、私は盾役だよ」
彼女はそう言うと、残った盾の破片を捨て、自らの両腕を胸の前で交差させた。
己の身体そのものを、最後の盾とするために。
「行くぞ!」
セシルさんの号令を合図に、リエルが最後の魔力を振り絞って結界を解き放った。
瞬間、再び大鐘の重い響きと、昏い魔素の圧力が俺たちを襲う。
だが、もう俺たちは眠りに呑まれはしなかった。やるべきことが、定まっているからだ。
湖の中心で、漆黒の光を放つ白い仮面が、俺たちの抵抗に気づき、純粋な破壊の意思を向けてきた。
湖水が、巨大な黒い槍となって、幾条も俺たち目掛けて撃ち出される。
「行かせない!」
セシルさんが、その前に立ちはだかった。
彼女の身体に、黒い水の槍が、一本、また一本と突き刺さる。そのたびに、彼女の身体が大きく揺らぎ、膝が折れそうになる。
だが、彼女は倒れない。その背後で、俺が鍵となる言葉をリエルから受け取っていることを、信じているからだ。
「アリウス、復唱して! 『 Dormi ad auroram(ドルミ・アド・アウローラム)』!」
「Dormi ad auroram(ドルミ・アド・アウローラム)!」
リエルの声に合わせ、俺は古代の言葉を叫んだ。
この言葉だ。そうだ。俺はこの言葉を聞いたことがある。遥か、遥か昔に。
そう感じながら、俺は、セシルさんが身を挺して開けてくれた道を、一直線に駆け抜けた。
「……はぁっ!」
リエルが、最後の魔法を放つ。
それは、攻撃でも防御でもない。ただ、俺の足元に、一瞬だけ、氷の道を作り出すための、補助の魔法だった。
その道を滑るように加速し、俺は湖面の中心、リュミナの目前へと肉薄する。
黒い仮面が、俺を拒絶するように、禍々しい光を放った。
だが、俺はもう怯まない。
父譲りの長剣を、振りかぶる。
壊すためじゃない。
この、千七百年もの間、たった一人で役目を背負い続けてきた、哀しい番人に、最後の言葉を届けるために。
剣の切っ先が、黒い仮面に、そっと触れた。
俺は、祈るように、叫んだ。
リエルと二人で紡いだ、最後の言葉を。
「——ドルミ・アド・アウローラム(夜明けまで眠れ)!」
その瞬間、だった。
世界から、音が消えた。
リュミナから放たれていた漆黒の光が、ふっと、揺らいだ。
黒が、ゆっくりと白へと変わっていく。禍々しい魔素が、清浄な光の粒子となって、霧散していく。
そして、俺が剣を当てている白い仮面の、その奥。
瞳があるべき空洞に、一瞬だけ、悲しげな光が灯ったように見えた。
それは、怒りでも、拒絶でもない。
ただ、ひたすらに永い孤独の果てに、ようやく与えられた安らぎへの、感謝の色。
やっと、誰かが言ってくれた。
その、声なき声が、俺の心に直接響いた。
ごぉん、と鳴り響いていた大鐘の音が、ゆっくりと、しかし確実に、静まっていく。
街を覆っていた眠りの波が、まるで朝霧が晴れるかのように、すうっと消えていった。
広場のあちこちで倒れていた人々は、まだ穏やかな寝息を立てている。だが、もう湖へと吸い寄せられる力は、どこにもなかった。
彼らはただ、夜明けまで、安らかに眠るだけだ。
俺は、水面に膝をつき、安堵の息を吐き出した。
全身の力が抜け、剣を杖代わりにするのがやっとだった。
遠くで、セシルさんがその場にへたり込み、リエルが崩れ落ちるのが見えた。
終わった。
長い、長い夜が、ようやく。
ふと、顔を上げる。
東の空が、わずかに白み始めていた。
夜の闇を破り、一本の、金色の光が差し込んでくる。
夜明けだ。
その光を浴びて、目の前の白い仮面が、静かに、そしてゆっくりと、頷いたように見えた。
そして、それは長い時の役目を終えたかのように、音もなく、光の粒子となって、水底の深い闇へと沈んでいった。