「——おい、坊主。着くぞ」
がたん、と荷馬車が大きく揺れた。
弾みで壁に頭を打ちつけ、俺ははっと目を覚ました。
幌の隙間から、冷たい風が吹き込んでくる。肌を刺すような、山脈から下りてくる風だ。鼻の奥に、湿った土と、遠い湖の匂いが混じっていた。
夢を見ていた。
また、あの夢だ。
左眉のすぐ上にある古い傷跡を、無意識に親指でなぞる。父さんが、引退してからよくやっていた癖だった。あの人は囲炉裏の火を見つめて、俺は、水底の夢を見つめる。
「……すまない、御者さん。うとうとしてた」
「構わねえよ。もうすぐエルデンブルクの北門だ。あれを見りゃ、誰でも眠気なんざ吹っ飛ぶさ」
御者が顎でしゃくった方を見る。
幌の隙間から見えたのは、巨大な石の門だった。その向こうに、城壁都市が広がっている。
アルバ=レイク地方の領都、エルデンブルク。
またの名を、「四つの石門の都」。
ごくり、と喉が鳴った。
背中のリュックに入れた、父譲りの長剣の重みを確かめる。革帯の護符袋も、確かにそこにある。
水底の夢の残滓は、まだ胸の奥に冷たく残っていた。
けれど、それ以上に、これから始まる冒険への期待が、心臓を熱くさせていた。
*
荷馬車は、巨大なアルゲン山脈を背にして、王道メルナ街道を南へ下っていた。
長く続いた山道が終わり、視界が不意に開ける。そこには、巨大な盆地が広がっていた。直径百二十キロにも及ぶ、巨大なカルストの盆。アルバ=レイク地方だ。
遠く、段々畑のように連なる段丘が見える。一番高い段丘には鬱蒼とした森が広がり、その一段下には、整然と区画された麦畑とぶどう畑が広がっていた。石垣に囲まれた畑の間を、白い街道が縫うように走っている。道の脇には、この地方でよく見かける古い時代の横穴墓が、黒い口を開けていた。
街道のあちこちに、色とりどりの幟が立てられている。
年に一度の、湖灯祭。それを目当てに、王国中から人が集まってくるのだ。
「すげえ……」
思わず、声が漏れた。
俺が育ったアスタリオン村とは、何もかもが違う。規模も、活気も、行き交う人の数も。
やがて、馬車は盆地の第二段丘に築かれた城塞都市、エルデンブルクの城門前へとたどり着いた。
北門だ。
門の前は、人と馬車でごった返していた。入市税を払う商人、巡礼服の旅人、そして、俺と同じように武具を身につけた冒険者たち。誰もが、祭りの熱気に浮かされたような顔をしている。
「ほらよ、坊主。ここが終点だ。達者でな」
「ああ、世話になった」
御者に銅貨を数枚渡し、俺は馬車を降りた。
背負ったリュックの紐を握りしめ、人波をかき分けて門の衛兵の列に並ぶ。自分の番が来て、懐から出した羊皮紙の身分証を見せた。
「アスタリオン村のアリウス。歳は十七。冒険者ギルドの第一階梯か。ずいぶん若いな。ま、祭りの間は稼ぎ時だ。頑張りな」
衛兵は慣れた手つきで証書を確認し、無愛想に手で払った。
その仕草ひとつにも、大都市の貫禄のようなものを感じる。
分厚い石で組まれた巨大な門をくぐり抜けた瞬間、街の喧騒が全身を包んだ。
石畳の道。道の両脇にひしめくように建つ、石と木でできた三階建て、四階建ての建物。窓という窓から、祭の飾り布が垂れ下がっている。
道は緩やかな下り坂になっていた。
そして、その坂道の先、建物の切れ間の向こうに——それが見えた。
「……湖」
街の南東側、低くなった土地に、巨大な銀色の円盤が嵌め込まれていた。
アルバ湖だ。
陽の光を浴びて、水面がきらきらと輝いている。その広大さは、まるで内海だ。父の話では、中央の最も深い場所は二百六十メートルを超すという。
あの底に、神殿が眠っている。
夢で見た光景が、不意に脳裏をよぎった。昏い水、沈む灯、巨大な神殿の影。
現実の湖は、ただ静かに、美しく広がっているだけだ。だが俺には、あの輝く水面の奥に、別の顔が隠されているような気がしてならなかった。
——よし。
小さく息を吐いて、俺は歩き出した。
まずは宿を探し、それからギルドへ向かう。やるべきことは決まっている。
街の中は、祭の準備で大わらわだった。
大通りでは、職人たちが屋台を組み立てている。香辛料の匂い、焼いた肉の匂い、甘い菓子の匂いが風に乗って鼻をくすぐる。道の脇には、まだ火の入っていない灯籠が山と積まれていた。白い灯、黄色い灯、そして、数は少ないが、深い海の底のような色をした青い灯も見える。
宿は、すぐに見つかった。
だが、問題はその値段だった。
「祭の間は特別料金でね。相部屋のベッドひとつで、一泊銀貨一枚と銅貨二十枚だよ」
宿の主人は、申し訳なさそうに、しかしきっぱりとそう言った。
銀貨一枚と銅貨二十枚。
アスタリオン村なら、家族三人が一週間は暮らせる金額だ。
母さんが旅立ちのときに持たせてくれた路銀は、銀貨二十枚。それに、村の幼馴染がなけなしの金をはたいてくれた銅貨が数十枚。
この宿に泊まれば、十日もすれば無一文だ。
「……わかった。少し、考える」
礼を言って、俺は宿を出た。
いくつかの宿を回ってみたが、どこも似たようなものだった。一番安い木賃宿ですら、銀貨一枚を要求される。祭の間のエルデンブルクは、駆け出しの冒険者には厳しい街らしい。
腹が、ぐぅ、と鳴った。
懐と相談して、屋台で買った黒パンと干し肉をかじりながら、俺は冒険者ギルドの本部へと向かった。
こうなったら、一刻も早く仕事を見つけるしかない。
エルデンブルクの冒険者ギルド本部は、街の中央広場に面して建っていた。
辺境伯の城にも引けを取らない、巨大な石造りの建物だ。入口の扉には、剣と杖を交差させたギルドの紋章が彫り込まれている。
中へ入ると、むっとするような熱気が顔を撫でた。
酒の匂い、汗の匂い、なめした革と鉄の匂い。併設された酒場では、屈強な冒険者たちが昼間から酒を酌み交わし、大声で笑っている。その誰もが、俺よりもずっと経験を積んでいるように見えた。
訓練課で教わった階梯の話を、ふと思い出す。
冒険者の階梯は、第一から第五までの五段階。第一階梯が俺のような駆け出し。第二階梯が中堅手前、第三階梯が中級、第四階梯が上級。そして第五階梯ともなれば、王国の英雄と謳われる存在だ。
俺は第一階梯の、訓練課程を終えたばかりの新米。ここで酒を酌み交わしている連中は、皆もっと上にいる。同じ冒険者でも、立っている場所がまるで違うのだ。
少しだけ気圧されながらも、俺は奥にある依頼票の貼り付け板へと向かった。
コルクが張られた巨大な板に、羊皮紙の依頼書が隙間なく鋲で留められている。
「『坑道のゴブリン退治』、報酬は銅貨五十枚……パスだな」
「『街道警備の助っ人』、三日間拘束で銀貨二枚か。悪くないが……」
薬草採集、害獣駆除、商人の護衛。
第一階梯の冒険者が受けられる依頼は、どれも地味で報酬も安い。これでは宿代を稼ぐので精一杯だ。
何か、もっと割のいい仕事はないか。
焦りながら板を眺めていた俺の目に、ふと、一枚の依頼票が飛び込んできた。
事務的な、飾り気のない文字でこう書かれている。
『依頼:湖灯祭管理水域・魔素異常調査』
魔素の調査。魔法の素質が「中の上」と判定された俺にも、できなくはない仕事だ。
だが、俺の目を引いたのは、仕事内容よりもその下に書かれた報酬額だった。
『成功報酬:金貨一枚』
金貨、一枚。
銀貨百枚分。平民の、数か月分の稼ぎに相当する額だ。
第一階梯向けの依頼としては、完全に破格だ。危険手当が上乗せされているのだろう。ゴクリ、と喉が鳴った。これさえあれば、当面の宿代の心配はなくなる。
俺は、吸い寄せられるようにその依頼票に手を伸ばした。
その時だった。
「……興味があるの?」
澄んだ、鈴を振るような声が、すぐ隣から聞こえた。
はっとして横を見ると、そこに一人の少女が立っていた。
俺と同じくらいの歳だろうか。
背中まで届く長い銀髪を、緩い三つ編みにして左肩の前に流している。肌は、陽の光を知らないかのように白い。深い紺色のローブに身を包み、その瞳は、まるで薄い氷のように淡い色をしていた。
鼻筋の通った、人形のように整った顔立ち。だが、その表情には一切の感情が浮かんでいない。
ローブで分かりにくいが、起伏に富んだ体つきをしている。
彼女もまた、俺が見ていた依頼票をじっと見つめていた。
「あ、いや……報酬がいいな、と」
我ながら、間抜けな答えだった。
少女は俺を一瞥したが、特に気にした様子もなく、再び依頼票に視線を戻した。
「金貨一枚。確かに、ただの魔素調査にしては高すぎるわね。何か裏があるはずよ」
「裏?」
「依頼票は、裏も確認するのが基本でしょう?」
そう言って、彼女は慣れた手つきで鋲を抜き、依頼票を裏返した。
裏面には、手書きの簡易な地図と、いくつかの注意書きが記されている。
「……これは、湖岸の地下水路の図面ね。祭の期間だけ解放される、管理用の通路。青灯が立てられている場所が、調査区域……」
彼女は、そこに書かれた古い文字をすらすらと読み解いていく。
学院で専門教育を受けた魔術師か、学者の卵だろうか。俺には、単語を拾うのがやっとだ。
「古い禁忌。『青灯の向きを変えるな』『青い灯の向こうを見るな』……ありきたりな警告ね。でも、この一文は興味深いわ」
彼女が、白く細い指で示した場所。
そこに、他の文字とは少し違う、より古い書体で一行が書き加えられていた。
「『青の道は、沈んだ神殿の“外郭礼拝区”へと通ず』……。なるほど。だから報酬が高いのね。これはただの調査じゃない。未踏遺跡に繋がる可能性がある、ということかしら」
沈んだ神殿。
その言葉に、心臓がどきりと跳ねた。
俺は、彼女が指した文字の列を必死で目で追った。長文は読めない。だが、独学で覚えた知識の中に、見覚えのある形があった。
水と、器と、蓋。
三つの記号を組み合わせた、ひとつの単語。
「……『眠り』」
ぽつりと、俺の口から言葉が漏れた。
その瞬間、それまで無表情だった少女の氷色の瞳が、わずかに見開かれた。
「……あなた、今、何て?」
「え? いや、その……この文字、たぶん『眠り』とか、そういう意味の……」
しどろもどろに答える俺を、彼女は信じられないものを見るような目で見つめていた。
冷たい氷のようだった瞳に、初めて知的な好奇心の光が灯る。
「……あなた、古代文字が読めるの?」
「全部じゃない。単語を、いくつか……独学で」
「独学で、線文字シャナトを?」
彼女はしばらく何かを考え込むように黙り込み、やがて、すっと俺に向き直った。
そして、まるで取引を持ちかける商人みたいに、きっぱりと言った。
「あなた、名前は?」
「アリウス。アリウス・アスタリオン」
「私はリエル。リエル・エル・クルーシェルよ」
リエルと名乗った少女は、俺の藍色の瞳をまっすぐに見据えた。
「アリウス。この依頼、どうせ一人で受けるつもりだったのでしょう? もしよかったら、現地調査だけでも組まないかしら。もちろん、報酬は折半で」
金貨一枚の、半分。銀貨五十枚。
それでも、今の俺には喉から手が出るほど欲しい大金だ。
それに何より——。
沈んだ神殿。
『眠り』という、謎の言葉。
あの夢と、何か関係があるのだろうか。
確かめたい。自分の目で、この依頼の先にあるものを見てみたい。
路銀の心配と、未知への好奇心。
二つの感情が胸の中で渦を巻き、俺はすぐには答えを返せずにいた。
線文字シャナト:第一文明の時代の文字。この地域には今の文明を含めて、合計六つもの文明が存在していた。