湖灯祭が終わってから、数日が過ぎた。
エルデンブルクの街は、祭の熱気が嘘だったかのように、穏やかな日常を取り戻しつつあった。壊された屋台は片付けられ、石畳の修復作業が進められている。人々は昨夜の悪夢のことなど何も知らず、ただ「今年の祭は、最後の花火が上がらないまま終わったな」と、少しだけ残念そうに噂するだけだった。
俺たち三人は、南門へと続く坂道の途中、手すりにもたれて眼下に広がるアルバ湖を眺めていた。
あの夜に負った傷は、ギルドの神官の治癒術でほとんど癒えている。だが、身体の芯に残った鉛のような疲労感は、まだ完全には抜けきっていなかった。
それでも、こうして三人で朝日を浴びていると、あの長い夜を戦い抜いたのだという、静かな達成感が胸に満ちてくる。
湖は、何事もなかったかのように、ただ青く、静かに広がっていた。
あの水底に、途方もない古代の神殿が眠っていることなど、誰も信じないだろう。
「……もっと、強くならなければ」
ぽつりと、リエルが呟いた。
風が、彼女の銀色の髪を優しく揺らす。
「知識だけでは足りない。魔力も、判断力も、すべてが。もっと強くならなければ、私たちは、あの扉の前にさえ立てない」
その氷色の瞳は、まっすぐに湖の底を見据えていた。学者としての探求の炎は、少しも衰えていない。
「もっと強くなったら、今度こそ、あの遺跡の奥に行きましょう。あそこに何が眠っているのか、この目で確かめるまで、私は終われない」
その言葉に、隣で聞いていたセシルさんが、やれやれと大げさに肩をすくめた。
「はいはい、古代狂いはほどほどにね。私はもう、あんな怖い思いはこりごりだよ」
彼女はそう言って笑ったが、その声にはいつもの快活さが少しだけ足りない。砕けた盾の代わりとして、今は腰に予備の小さな手盾を提げている。その姿は、どこか心許なく見えた。
「……でも、まあ」と、セシルさんは続けた。
彼女は一度、言葉を切り、少しだけ視線を泳がせる。
「いつかは、ね。……それより、さ」
彼女は、まるで大事なことを切り出すかのように、ごくりと喉を鳴らした。
そして、少しだけ恥ずかしそうに、俺たちの顔を交互に見る。
「私たち、このまま正式に組むってことで、いいんだよね?」
その問いは、あまりに不意で、あまりにまっすぐだった。
俺とリエルは、一瞬、言葉を失って顔を見合わせる。
先に口を開いたのは、リエルだった。
彼女は、ふいと顔をそむけ、杖の頭を指先で撫でながら、わざとらしく冷静な声で言った。
「……合理的に判断して、異論はないわ。あなたの盾、アリウスの剣、そして私の魔術。この三つの連携効率は、すでに実戦で証明されている。目的が一致する限り、このパーティーを継続するメリットは大きいと判断できる」
「……素直じゃないなぁ、リエルちゃんは」
「なにか言ったかしら」
リエルの、少しだけ早口になる照れ隠しに、セシルさんが苦笑する。
そして、二人の視線が、俺に注がれた。
「俺も、異論ない」
俺は、はっきりと答えた。
「っていうか、俺は、二人と一緒じゃなきゃ嫌だ。俺一人じゃ、あの夜は絶対に越えられなかった。これからも、よろしく頼む」
俺は、自然と頭を下げていた。
その俺の頭を、セシルさんが、ぽん、と少し乱暴に撫でた。
「もー、アリウス君は真面目なんだから! 顔を上げてよ、なんかこっちが照れるでしょ!」
彼女はそう言うと、ぱん、と景気づけに手を打った。
「よーし、決まりだ! 今日から私たち、正式にパーティー結成ってことで! リーダーは、もちろんこの私!」
「待って。リーダーの選定は、別途協議すべき案件よ。あなたのその、すぐ突っ走るところはリーダーには……」
「いーいの! 言い出しっぺがリーダーなの!」
いつも通りの、二人のやり取り。
その光景が、なんだか無性に嬉しくて、俺は思わず笑ってしまった。
そうだ。これが、俺たちの始まりなのだ。
笑い声が、穏やかな坂道に響く。
やがて、その笑い声が途切れた時、俺は、もう一度、静かに湖へと目を向けた。
勝ったはずなのに。
悪夢を退け、日常を取り戻したはずなのに。
あの夢の声は、まだ胸の奥に、冷たい澱のように残っている。
その、瞬間。
湖の底から、声がした。
水に滲んだ、聞き取れない、誰かの名前。
俺にだけ聞こえる、最後の呼び声が、もう一度だけ、心に響いた。
俺は、今は行かない。
ただ、いつか答えを読みに行く、と。
心の中で、静かに誓った。
三人の旅は、始まったばかり。
湖は、眠っている。
――――だが、眠りは永遠ではない。