有無を言わさぬ力で腕を引かれ、俺とリエルはギルド併設の酒場の、少し奥まったテーブル席に座らされた。
セシル・リンドと名乗った金髪の少女は、俺たちの前にどすんと腰を下ろすと、通りかかった給仕の女性に慣れた様子で声をかける。
「ワインを三つ。あと、肉の盛り合わせもお願い」
銅貨を数枚テーブルに置き、彼女は改めて俺たちに向き直った。
その榛色の瞳には、悪戯っぽい光と、それから見過ごせない真剣さが同居している。
「さて、と。まずは落ち着いて聞いてほしいんだけど」
セシルさんは、俺たちが書き写した依頼票の羊皮紙をテーブルの上で広げた。
「この『湖灯祭管理水域・魔素異常調査』。これ、毎年この時期に出る依頼なんだ。そして、毎年何人か怪我人が出てる」
「……どういうこと?」
俺が尋ねると、セシルさんはこくりと頷いた。
「祭の時期、アルバ湖の周辺は大陸でも有数の魔素溜まりになる。巡礼者の祈り、観光客の熱気、灯籠の火……そういうのが全部混ざって、魔素が不安定になるんだ。特に、湖岸の古い地下水路や遺跡と繋がってる場所は危ない。水が意思を持ったみたいに人を襲ったり、幻を見せられたりね」
彼女の言葉は、ただの脅しではなかった。
自身の経験に裏打ちされた、確かな重みがあった。
「去年、私が受けたのは湖岸の警備依頼だったけど、青灯の近くで正気を失った巡礼者が、湖に歩いて入ろうとしたのを止めたことがある。その人は『美しい歌が聞こえた』って言ってた。……だから、この依頼は魔素の調査だけじゃ済まない。最悪、正体不明の何かと戦うことになるかもしれないんだよ」
そこまで言って、セシルさんは俺とリエルの顔を交互に見た。
「君たち、第一階梯だよね? 悪いけど、駆け出しの剣士と、たぶん後衛の下位魔術師だけで対処できる相手じゃない。だからやめておきな、って言ってるの」
正論だった。
第三階梯の先輩からの、親切心からの忠告だ。俺の心の天秤は、たしかに撤退の方へ傾きかけた。金貨一枚は惜しいが、命あっての物種だ。
だが、隣に座るリエルは、まったく動じていなかった。
彼女は冷たい氷色の瞳でセシルさんをまっすぐに見つめ返し、静かに口を開いた。
「忠告には感謝するわ。でも、私たちはその危険性を承知の上で、この依頼に興味を持ったの」
「承知の上、ですって?」
「ええ。あなたが言うように、祭の時期に魔素が濃くなるのは事実でしょう。けれど、それがなぜ『青灯』の周辺で特に顕著なのかしら? 依頼票の裏にあった古い警告文。あれが、ただの迷信だとは思えない」
リエルの指が、テーブルの上で杖の頭をゆっくりと撫で始める。
彼女の思考が、深く潜っていく合図だ。
「この依頼の本当の目的は、現象の観測と記録にあるはず。なぜなら、その先には第一文明期の遺跡——“外郭礼拝区”へと続く道がある可能性があるのだから。それを、危険だからという理由だけで見過ごすのは、学者としてありえない選択よ」
「それに、私は中位の魔術を使える魔術師でもある。冒険者の階梯こそ低いけど、そんな簡単に遅れは取らないわ」
その言葉に、セシルさんは呆れたように息をついた。
「学者、それに魔術師……。君、もしかして学院の?」
「エルデンブルク学院の休学者よ」
「あー……なるほどね。道理で話が通じないわけだ。なんでそんな貴重な人材が冒険者をやろうとしているのよ……」
セシルさんはがしがしと金色の髪をかき混ぜ、今度は俺の方に視線を向けた。
「君はどうなの? 学者さんのお供で、危ない橋を渡るつもり?」
「俺は……」
言葉に詰まる。
セシルさんの言う危険は、もっともだ。リエルの言う知的好奇心も、俺にはよくわかる。そして、金貨一枚という報酬が、宿代に追われる身にはどうしようもなく魅力的だった。
三つの理由が、頭の中でぐるぐると回る。
どうするべきか。答えが出ないまま、俺は無意識に左眉の傷をなぞっていた。
その俺の仕草を見て、セシルさんは何かを諦めたように、もう一度、今度はもっと深いため息をついた。
「もー……。わかった、わかったわよ!」
彼女は両手をばんとテーブルに叩きつけた。周囲の冒険者たちが何事かとこちらを見るが、彼女は気にも留めない。
「君たちみたいなあぶなかっしい二人を、このまま行かせるわけにはいかない! 私も行く! 私もその依頼、一緒に受ける!」
「……は?」
「え?」
俺とリエルの声が、綺麗に重なった。
セシルさんは腕を組み、ふんと胸を張る。
「いい? そのパーティー、どう考えたって前衛が足りてないでしょ! 盾役がいて、初めて後衛の魔術師も、中衛の剣士も仕事ができるんだから。私がついて行って、危なくなったら君たちの首根っこを掴んででも連れ戻す。それで文句ないでしょ!」
それは、あまりに予想外な提案だった。
リエルも、さすがに少し驚いたように目を瞬かせている。
だが、反対する理由はどこにもなかった。第三階梯の、しかも盾役の先輩が加わってくれるというのだ。これほど心強いことはない。
「……いいのか? セシルさん」
「いいの! お姉さんに任せなさいって言ったでしょ?」
彼女はにっと笑い、右の頬に笑窪を作った。
「ただし、報酬は三等分だからね! 金貨一枚を三人で割ると……銀貨三十三枚と、銅貨がちょっと。ま、ないよりはマシか」
こうして、ほとんどセシルさんの勢いに押し切られる形で、俺たちの仮パーティーに三人目の仲間が加わることになった。
*
臨時パーティーの結成は、ギルドの受付で簡単に行えた。
俺、アリウス・アスタリオン。銀髪の魔術師、リエル・エル・クルーシェル。そして、金髪の盾役、セシル・リンド。階梯も専門もバラバラな三人の名前が、一枚の羊皮紙に書き込まれる。
「まずは、南門下の湖岸へ行ってみようか。祭で使う灯籠の置き場があるはずだから、そこで何か分かるかもしれない」
セシルさんの提案で、俺たちはギルドを出て、街の南側へと向かった。
石畳の道は緩やかな下り坂になっていて、建物の隙間から、きらきらと輝くアルバ湖が見える。道端には、旅芸人の一座が陽気な音楽を奏で、その周りを子供たちがはしゃぎながら走り回っていた。
「わあ、見てアリウス君! あれ、竜の飴細工だって!」
「セシルさん、子供みたいだ……」
「失礼な! 君より二つも年上なんですけど!」
セシルさんは、道中の屋台にいちいち目を輝かせ、俺をからかったり、リエルに話しかけたりと忙しい。リエルはといえば、相変わらず表情を変えないまま、時折「そうなの?」と相槌を打つだけだ。それでも、最初の刺々しい雰囲気は、いくらか和らいでいるように見えた。
賑やかな大通りを抜け、南門の手前を東に折れる。
そこは、湖へと下る石段に面した、広い広場になっていた。
広場の隅には、祭で使われるのであろう大量の灯籠が、種類ごとに分けられて山積みになっている。白、黄、そして、ひときわ目を引く、深い青。職人たちが忙しそうに行き交い、灯籠に魔石をはめ込んだり、灯りの向きを調整したりしていた。
その、時だった。
ふ、と。
広場を吹き抜ける風が、一瞬だけ止まった。
それまで聞こえていた職人たちの怒鳴り声や、子供たちのはしゃぎ声が、まるで水の中に沈んだかのように遠くなる。空気が、ねばりつくように重くなった。
「……何?」
リエルが、いち早く異変に気づいて呟いた。
俺も、背中の長剣の柄に手をかける。セシルさんはすでに、左腕の盾を前にかざしていた。
見ると、広場の隅、青灯籠が積まれたすぐそばで遊んでいた子供の一人が、ふらりとよろめいた。
五歳くらいの、小さな男の子だ。
その子は、うつろな目で湖の方を見つめ、まるで夢遊病者のように、一歩、また一歩と石段の方へ歩き始めた。
「坊や、危ない!」
セシルさんが叫んだのと、男の子が糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちたのは、ほぼ同時だった。
そして——湖の水面が、不自然に盛り上がった。
ざばっ、と。
水しぶきとともに、巨大な水の腕が姿を現す。それは透明な筋肉のようにうねり、倒れた男の子を目がけて、一直線に伸びてきた。
「きゃあああっ!」
「化け物だ!」
周囲から悲鳴が上がる。職人たちが、我先にと逃げ惑う。
だが、俺たちは動かなかった。
いや、動けなかったのではない。このために、俺たちはここにいる。
「行くよ!」
セシルさんの短い号令が飛ぶ。
彼女は誰よりも早く駆け出し、倒れた子供の前に立ちはだかった。左腕の盾を構え、水の腕を真正面から睨みつける。
「私の後ろへ!」
俺も、迷わず剣を抜いた。
「セシルさん、援護します!」
風の魔術を足に集中させ、石畳を蹴る。セシルさんの横をすり抜け、水の腕の側面へと回り込んだ。
「アリウス、時間を稼いで! リエル、あの子を!」
「わかってる!」
セシルさんの指示に、リエルが応える。彼女は杖を構え、短い呪文の詠唱を始めていた。
水の腕が、巨大な拳を振り下ろす。
狙いは、盾を構えるセシルさんだ。
「させない!」
俺は剣に、わずかな雷の魔素を込めた。父から教わった、不完全な「雷纏」。完全な技にはほど遠いが、今はこれでいい。
バチッ、と青白い火花が散る。
雷を帯びた剣先を、水の腕の側面に叩きつけた。
ぎゃん、と甲高い音がして、水の腕の表面が激しく波打つ。魔素が乱れ、動きが一瞬だけ、鈍った。
その隙を、セシルさんは見逃さない。
彼女は振り下ろされた水の拳を、盾の表面で受け流す。ごう、と衝撃が空気を揺らすが、彼女は一歩も引かなかった。
「リエル!」
「ええ!」
後方から、リエルの澄んだ声が響く。
リエルの杖先に、淡い蒼光が収束した。
次の瞬間、数条の氷矢が空気を裂いて放たれる。
氷矢は狙い違わず水の腕へ突き刺さり、着弾した箇所から白い霜を広げていく。
水の腕の動きが、さらに鈍った。
同時に、倒れた子供の周囲に、半透明の氷の壁が瞬時に形成された。これで、万が一の攻撃からも子供を守れる。
——よし。
俺は剣を構え直し、次の攻撃に備えた。
セシルさんが盾で受け、俺が剣で乱し、リエルが魔術で止める。
即席のパーティーとは思えないほど、三人の連携はうまく回っていた。
だが、水の腕は倒れない。
崩しても、すぐに湖水を取り込んで再生してしまう。きりがない。
「原因は別にあるはずよ!」
リエルが叫んだ。彼女の視線が、戦いながらも周囲の状況を冷静に分析している。
「この魔素の濁り……異常の源は……あそこ!」
彼女が杖で示した先。
そこには、職人が置きっぱなしにしていったのであろう、一台の青灯籠があった。
そして、その青い灯の窓は——湖ではなく、煌々と人のいる岸辺を、俺たちがいるこの広場を照らしていた。
「あの灯りか!」
「アリウス君、お願い!」
セシルさんの声が飛ぶ。
俺は、セシルさんとアイコンタクトを交わした。
一瞬の、無言の連携。
セシルさんが、大きく息を吸い込み、盾を構え直す。
「こっちだよ、化け物!」
彼女は盾で地面を強く叩きつけ、水の腕の注意を自分一人に引きつけた。
その隙に、俺は青灯籠へと走った。
再生を始めた水の腕が、俺に気づいて触手を伸ばす。だが、その進路をリエルの放った氷壁が阻んだ。
「悪い、行く!」
仲間に短く告げ、俺は青灯籠にたどり着いた。
それはずしりと重い、石と金属でできた灯籠だった。灯りのともる火窓の部分を掴み、渾身の力で回転させる。
ぎりり、と嫌な金属音が鳴る。
向きを変えられた灯籠の青い光が、広場から外れ、本来あるべき場所——湖の中心へと向けられた。
その瞬間、だった。
あれほど猛威を振るっていた水の腕の動きが、ぴたりと止まった。
その巨体を維持していた力が抜けるように、形が崩れていく。
やがて、それはただの水に戻り、ざあっと音を立てて石畳に流れ落ちた。
後に残ったのは、びしょ濡れの石畳と、呆然と立ち尽くす人々、そして、荒い息をつく俺たち三人だけだった。
「……はぁ、はぁ……終わった、か」
俺は剣を杖代わりにして、その場に膝をついた。
リエルが駆け寄り、氷壁を消して子供の様子を確認する。幸い、気を失っているだけで怪我はないようだ。
やがて、セシルさんが俺の隣にやってきて、やれやれと肩をすくめた。
「ほら、言った通りでしょ」
その声は、少しだけ震えている。
「君たちはほんと、あぶなかっしいんだから……」
彼女の言葉に、俺は何も言い返せなかった。
ただ、目の前で起こった出来事の重みを、改めて噛みしめる。
青灯の向きが、ひとつ狂っただけで、これだけの惨事が起きる。
金貨一枚の依頼。
それは、俺たちが考えていたよりもずっと、深く、そして危険な謎に繋がっているのかもしれない。
俺は、静まり返った湖の水面を、じっと見つめていた。