沈黙する神々の都を、俺たちは歩く   作:玉露33333

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第07話 夜の湖に、灯が沈む

 夜の帳が、エルデンブルクの街に下りていた。

 空には満月ひとつない。その代わりに、地上には無数の星が生まれていた。屋台の明かり、家々の窓から漏れる灯、そして祭のために飾り付けられた色とりどりの灯籠。街全体が、一つの巨大な燭台のように輝いている。

 

 俺たち三人は、ギルドでの打ち合わせを終え、南門下の湖岸へと続く坂道を下っていた。

 今夜は、湖灯祭のメインイベントである『湖灯流し』が行われる。当然、人出はこれまでで最大になるだろう。俺たちの仕事は、その雑踏に紛れて青灯の配置に異常がないかを確認し、万が一の事態に備えることだ。

 

「わー、すごい人だね! 見てよアリウス君、あそこの串焼き、すっごく美味しそう!」

 セシルさんは、まるで初めて祭に来た子供のようにはしゃいでいた。その金色の髪には、昼間のうちに買ったのだろう、小さな赤い花の飾りが揺れている。屋台の火に照らされた横顔は、いつもより少しだけ華やいで見えた。

 

「セシルさん、仕事中だぞ」

「いーいの! 腹が減っては戦はできぬ、って言うでしょ? リエルちゃんも一本どう? ここのは秘伝のタレが自慢なんだって!」

「……結構です」

 

 リエルは、相変わらずの無表情でセシルさんの誘いを断った。

 だが、その銀色の髪は夜の闇によく映え、周囲の灯籠の白い光を吸い込んで淡く輝いている。深い紺色のローブも相まって、彼女だけがこの世の者ではないような、幻想的な雰囲気を纏っていた。

 彼女は人混みや屋台には目もくれず、ただ、道端に置かれた灯籠に刻まれた古い祝福の文様や、遠くから聞こえてくる祭歌の旋律に、注意深く耳を澄ませているようだった。

 

 坂道を下りきると、視界が一気に開けた。

 湖だ。

 夜のアルバ湖は、街の灯を映して、静かな闇色の鏡となっていた。湖岸には、すでに数えきれないほどの人が集まり、今か今かと灯籠流しの始まりを待っている。楽団の奏でる陽気な音楽、人々の楽しげな話し声、子供たちのはしゃぐ声。そのすべてが混ざり合い、祭の夜の特別な空気を作り出していた。

 

「さて、と。まずは巡回だね。青灯の位置を確認しよう」

 セシルさんが、きりりと表情を引き締めて言った。

 俺たちは人波をかき分けるようにして、湖岸沿いの遊歩道を歩き始めた。白灯、黄灯、そして、問題の青灯。その一つ一つを、リエルが取り出した職人用の配置図と照らし合わせていく。

 

「……ここの青灯は、問題ないわ。ちゃんと灯りの窓が湖心を向いている」

「こっちも大丈夫そうだね。よしよし」

 

 幸い、湖岸に設置された青灯の大半は、職人たちの手によって正しく配置されているようだった。祭管理所の横槍も、現場の古くからの慣習をすべて覆すには至らなかったらしい。

 少しだけ安堵の息をついた、その時だった。

 

「う、うわーん! お母さーん!」

 人混みの中で、小さな子供の泣き声がした。

 見ると、五歳くらいの女の子が、母親とはぐれてしまったらしく、途方に暮れた顔で立ち尽くしている。

 

「あーあー、よしよし。大丈夫だよ」

 真っ先に駆け寄ったのは、セシルさんだった。

 彼女は子供の前にしゃがみ込むと、その目線に合わせて優しく微笑んだ。

「お姉さんと一緒に、お母さんを探そうか。ね?」

 その手慣れた様子は、まるで本物の姉のようだった。弟や妹が故郷にいるのだろうか。

 セシルさんは迷子の手を引き、少し離れた場所で心配そうに人混みを探していた母親の元へと、すぐに連れて行ってやった。

 

「……ああいうの、慣れてるんだな」

「ええ。彼女、ああいう人なんでしょうね」

 俺の呟きに、リエルが静かに応えた。その氷色の瞳には、どこか眩しいものを見るような、複雑な色が浮かんでいた。

 

 やがて、祭の進行役を務める神官が、湖に突き出た小さな桟橋の上で、高く声を張り上げた。

「——これより、湖灯流しを執り行います! 皆様の祈りを、灯に乗せて、湖の心へと届けましょう!」

 

 その言葉を合図に、人々は手にしていた灯籠に火を灯し、そっと水面へと浮かべていく。

 一つ、また一つと、小さな光が水の上へと滑り出していく。

 それは、言葉を失うほどに美しい光景だった。

 無数の灯が、まるで天の川のように湖面を埋め尽くし、ゆらゆらと揺れながら沖へと流れていく。人々の祈りが、願いが、一つ一つの光となって、闇色の水面を彩っている。

 

「……きれいだ」

 

 思わず、声が漏れた。

 故郷の村にも小さな祭はあったが、これほどの規模のものは見たことがない。俺はただ、目の前の幻想的な光景に、心を奪われていた。

 

 だが、その感動は、長くは続かなかった。

 

 ふと、奇妙な違和感を覚えた。

 目の前の光景が、ぐにゃりと歪む。

 灯籠は、湖面を滑っているのではない。

 まるで、水底から伸びる見えない手に引かれるように、一つ、また一つと、ゆっくりと——沈んでいく。

 

「……え?」

 

 瞬きをすると、光景は元に戻った。灯籠は、ただ水面を漂っているだけだ。

 目の錯覚か。

 そう思った、次の瞬間。

 

 俺の目には、はっきりとそれが見えた。

 きらめく無数の灯籠の、その遥か下。

 昏く、冷たい湖の底に、巨大な影が横たわっている。

 

 神殿だ。

 夢で見た、あの神殿。

 天を突く八つの尖塔。水草に覆われた、沈んだ参道。そして、すべてを拒絶するように固く閉ざされた、巨大な石の扉。

 幻は、ほんの一瞬だった。

 だが、その威圧感と、途方もない古さだけが、現実の痛みのように脳裏に焼き付いた。

 

「……アリウス?」

 隣から、リエルの鋭い声が飛んできた。

「あなた、どうしたの? 顔色が、真っ青よ」

「え……あ、いや……」

 

 うまく言葉が出てこない。

 何と説明すればいい? 湖の底に、古代の神殿が見えた、とでも? 信じてもらえるはずがない。

「なんでもない。ちょっと、人混みに酔っただけだ」

 俺がそう言ってごまかした、その時だった。

 

「きゃっ!」

 近くで、小さな悲鳴が上がった。

 見ると、青灯の一つが、いつの間にか向きを変えていた。その青い光は湖ではなく、煌々と岸辺の観客たちを照らしている。

 そして、その光を真正面から浴びた一人の若い女性が、うつろな目でふらふらと湖へ向かって歩き出していた。その足取りは、まるで夢の中を歩いているかのように、おぼつかない。

 

「危ない!」

 セシルさんが叫び、人混みをかき分けて女性の元へと駆け寄る。

「しっかりしてください! 目を覚まして!」

 彼女が力強く肩を掴むと、女性ははっと我に返ったように瞬きをし、自分が何をしていたのかわからないという顔で、その場にへたり込んだ。

 

「リエル、あの青灯を!」

「わかっているわ!」

 リエルが、問題の青灯籠へと駆け寄る。

 そして、それに手をかけ、正しい向きへと戻そうとした、その瞬間。

 

 ぴたり、と。

 彼女の動きが、止まった。

 

 リエルは、青灯の先、無数の灯籠が流れていく湖面の、さらに奥……闇が最も深い一点を、食い入るように見つめていた。

 その氷色の瞳が、信じられないものを見るように、わずかに見開かれている。杖を握る彼女の指が、微かに震えていた。

 彼女にも、何かが見えたのだ。

 俺が見たものと、同じかどうかはわからない。だが、この湖の底に眠る、尋常ならざる何かの気配に、彼女もまた触れてしまったのだ。

 

「リエルちゃん!」

 

 セシルさんの、鋭い声が飛んだ。

 彼女は、先ほどの女性をその連れに任せると、弾かれたようにこちらへ駆け寄ってきた。

「見るな! 二人とも、そっちから目を離しなさい!」

 

 セシルさんは、俺とリエルの腕を、左右の手でそれぞれ強く掴んだ。

 そして、有無を言わさぬ力で、俺たちを湖から引き離すように、人混みの中へと引っ張り戻す。

 

「いい? あの灯の向こうは、見るな。昔からの禁忌だよ。魅入られたら、戻ってこられなくなる」

 その声は、本気で俺たちを心配していた。

 

 セシルさんに腕を引かれながらも、俺は、湖から目が離せなかった。

 闇色の水面が、揺らめいている。

 灯籠の光が作る、光と影のその向こうから、はっきりと声が聞こえた。

 

『——こちらへ』

 

 夢の中で聞いた、あの声だ。

 誘うような、甘い響き。

 行かなければ。

 あの声の先へ。あの扉の向こうへ。

 

 俺の足が、意思に逆らって、一歩、湖へと踏み出そうとしていた。

 

「アリウス君!」

 腕を掴むセシルさんの力が、さらに強まる。

「だめだって、言ってるでしょ!」

 その声は、もう怒りに近かった。

 

 その強い痛みと声に、俺ははっと我に返った。

 背筋に、ぞくりと冷たい汗が流れる。

 俺は今、何をしようとしていた?

 

 湖は、ただ静かだった。

 無数の灯を浮かべ、美しい夜の顔を見せている。

 だが、俺にはもうわかっていた。

 この美しい水面のすぐ下に、どこまでも昏く、深い口を開けた、巨大な何かが眠っているのだということを。

 

 そして、それは今、静かに目覚めようとしている。

 この祭の灯を、合図にして。

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