# 第8章 沈んだ参道
湖から無理やり引きはがされた腕が、まだじんじんと熱を持っていた。
俺とリエルは、セシルさんに両腕を掴まれたまま、半ば引きずられるようにして夜の雑踏を逆走していた。背後で聞こえる陽気な祭の音楽が、ひどく遠い世界の音のように感じられる。
「いい? 二人とも、ギルドに戻るまで絶対に湖の方は見ないで!」
セシルさんの声は、普段の快活さからは想像もつかないほど硬く、切迫していた。彼女の榛色の瞳には、本気の怒りと、それから俺たちへの深い心配の色が浮かんでいる。
リエルは何も答えなかった。ただ、蒼白な顔で固く唇を結んでいる。杖を握る彼女の指先が、小刻みに震えているのを、俺は横目で見ていた。
俺自身、まだ心臓が激しく鼓動していた。湖の底から聞こえた、あの声。俺ではない誰かの名前を呼ぶ、甘く、抗いがたい響き。セシルさんに腕を引かれなければ、俺は間違いなく、あの闇色の水の中へ足を踏み入れていただろう。
夜の冒険者ギルドは、祭の喧騒が嘘のように静まり返っていたが、その奥ではただならぬ緊張感が漂っていた。俺たちの報告を聞いた事務課長補佐のバルツ氏は、みるみるうちに血相を変え、すぐに上層部へと連絡を飛ばした。
祭管理所の役人も叩き起こされてギルドに連れてこられたが、「ただの集団幻覚だろう」「祭を中止するなど前代未聞だ」と繰り返すばかりで、話にならなかった。
結局、決定を下したのはギルドだった。
「——これ以上の被害拡大は看過できない。辺境伯府の許可を待っていては手遅れになる可能性もある。ギルドの独断で、特例措置を講じる」
会議室に集められた俺たちの前で、ギルド副長であるエリカ・モルテンが重々しく宣言した。
「君たち三人には、湖灯祭管理水域からつながる外郭礼拝区へ向かってもらう。時間は、いますぐ」
「内容は、青灯籠に関係する魔素異常の調査。ギルドはこの異常事態の原因が湖灯祭管理水域からつながっているとされる外郭礼拝区にあるのではないかと考えている」
「一階梯の冒険者には厳しい依頼になるかもしれないが、生憎とこの時間に集められる有力な他の冒険者はいない。幸い三階梯の冒険者もいるパーティーだし、実績が少ないというだけで能力自体は高いようだ。申し訳ないが、頑張ってほしい」
しかし、とギルド副長は続ける。
「あくまで、外郭浅層の目視確認のみ。何が見えようと、深部への進入は固く禁ずる。これは命令だ。いいね?」
念を押すようなギルド副長の言葉に、俺たちは黙って頷いた。
与えられた準備時間は、わずか。
仮眠を取る暇もなく、俺たちは装備の点検と、最低限の物資の補給に追われた。セシルさんは傷の入った盾の革ベルトを締め直し、予備の松明と縄をリュックに詰めている。リエルは、分厚い古文書から書き写した何枚もの羊皮紙を、何度も読み返していた。その横顔は、これから禁じられた領域へ足を踏み入れる学者の、緊張と興奮がない交ぜになった色をしていた。
俺は、父譲りの長剣の刃こぼれを砥石で直し、革帯の護符袋を強く握りしめた。
これから向かうのは、夢で見たあの場所だ。
恐怖は、ある。だが、それ以上に、確かめたいという気持ちが勝っていた。あの水底に、一体何が眠っているのかを。
*
夜明け前。
街の灯もほとんどが消え、世界が最も深い闇に沈む時間。
俺たちは、ギルドの案内役人に連れられ、南門下の湖岸に設けられた立入禁止区画へとたどり着いた。錆びついた古い鉄格子の扉が、重い音を立てて開けられる。その向こうには、湖へと下る石段が、闇の中へと続いているだけだ。
ぽつんと置かれた一台の青灯籠だけが、この場所が特別な境界であることを示していた。
「……いい? 絶対に無理はしないこと。危ないと思ったら、私の合図ですぐに引き返す。いいね?」
セシルさんが、最後の確認をするように俺たちの顔を見た。
「わかっているわ」
「ああ」
俺たちが頷くのを見て、彼女はこくりと頷き返し、一歩前に出た。
青灯籠の先、石段はすぐに途切れ、その先は闇色の湖水に沈んでいた。
だが、その水面はどこかおかしい。波紋一つ立てず、まるで厚いガラスのように、不自然な静けさを保っている。
「……ここね」
リエルが呟き、杖の先でそっと水面に触れた。
すると、水面は液体のように揺らめくのではなく、柔らかな幕のように、彼女の杖先を押し返した。
「水の、結界……? いいえ、もっと古い。第一文明期の魔術よ」
リエルの氷色の瞳が、驚きと畏怖に見開かれる。
俺は、ごくりと喉を鳴らし、意を決してその幕に手を伸ばした。
指先が、冷たく、しかし弾力のある何かに触れる。抵抗はあるが、強く押せば通れそうだ。
セシルさんとリエルに目配せをし、俺は息を止め、その水の膜へと身体を押し込んだ。
一瞬の、圧迫感。
全身が冷たい水に包まれる感覚と、耳の奥がつんとするような浮遊感。
だが、それはすぐに終わり、俺の足は、固い石の感触を踏みしめていた。
目を開けると、そこは信じがたい光景だった。
俺は、湖の底に立っていた。
頭上や周囲は、間違いなく昏い湖水だ。時折、銀色の鱗をきらめかせた魚の群れが、まるで空を飛ぶ鳥のように、すぐそばを通り過ぎていく。
だが、俺のいる場所には水はなく、薄いが、確かに呼吸のできる空気が満たされていた。水底から湧き上がる淡い魔素の光が、周囲を青白く照らし出している。
地上の音は、完全に遮断されていた。
聞こえるのは、自分の心臓の音と、ごう、という遠い水流の音だけ。まるで、世界の胎内にいるかのような、深い静寂。
やがて、セシルさんとリエルも、水の膜をくぐって俺の隣に降り立った。
二人とも、目の前の光景に言葉を失っている。
「これが……湖の底……」
セシルさんの声が、呆然と響いた。
俺たちの目の前には、一本の道が、水底のさらに深い闇へと続いていた。
苔むした石畳で舗装された、古い参道だ。
道の両脇には、途中で折れたり、崩れかけたりした石柱が、墓標のように立ち並んでいる。その表面には、水草や貝が付着し、長い年月の経過を物語っていた。
壁面には、巨大な碑文が刻まれている。そのほとんどは風化し、水草に覆われていたが、ところどころに、見覚えのある古代文字——線文字シャナトの形を読み取ることができた。
「……信じられない」
リエルは、まるで聖地巡礼に訪れた信徒のように、震える足で一歩前に出た。
彼女は碑文に駆け寄ると、白く細い指でそっと水草を払い、そこに刻まれた文字を食い入るように見つめ始めた。
「……『眠る灯は、湖の心へ』……『声なき声に、耳を澄ますなかれ』……。祭歌の、失われた原詩と同じ……。やはり、祭はここで行われていた儀式を、不完全に模倣したものだったんだわ……」
その隣で、セシルさんは警戒を解いていなかった。
彼女は足元の石畳の強度を確かめ、頭上の岩盤に亀裂がないかを確認し、そして、いつでも戻れるように、俺たちが入ってきた水の膜の方角を指さした。
「長居は禁物だよ。空気が薄い。こんな場所に長くいたら、魔素酔いで動けなくなる」
現実的な彼女の言葉が、この幻想的な光景に呑まれかけていた俺の意識を引き戻した。
俺は、セシルさんのように周囲を警戒しながら、ゆっくりと参道を進んだ。
古代の空気が、肌を撫でる。何千年も前に、誰かがこの道を歩き、祈りを捧げたのだ。その気配が、今もこの場所に色濃く残っている。
ふと、壁に刻まれた一節に、俺の足が止まった。
ほとんどが風化して、意味のある文章としては読み取れない。
だが、その中に、なぜか見覚えのある単語の断片が、いくつも浮かび上がって見えた。
『……声は……』
『……底に、沈み……』
断片的な、意味をなさない言葉の羅列。
だが、その響きは、俺の記憶の奥底にある何かを強く揺さぶった。
いつだったか。子供の頃、父の仲間だった冒険者が、焚き火の前で語ってくれた古い物語。彼が最後にたどり着いたという、沈黙の神殿。その祭壇に残されていたという、一行の言葉。
『いまや、声は、湖の底に沈み』。
彼が口にした言葉が、意味ではなく、熱として蘇る。この壁に刻まれた文字が、血に直接囁きかけてくるような、奇妙な錯覚に陥った。
その時だった。
参道の、少し先。
等間隔に並べられた、灯を置くための石の台座の一つが、ふわり、と淡い光を放った。
「っ、何か来る!」
セシルさんが盾を構え、俺も剣に手をかける。リエルが、詠唱の準備に入った。
だが、光の中から現れたのは、敵意を帯びた怪物ではなかった。
それは、人影だった。
古代の神官が着るような、長い衣をまとった、半透明の姿。実体はなく、ゆらゆらと揺らめいている。魔素が作り出した、過去の残像だ。
残像は、俺たちの存在に気づいた様子は一切ない。ただ、プログラムされた動きを繰り返すかのように、ゆっくりと台座に近づくと、そこに灯を置くような仕草をした。
その役目を終えると、人影は満足したように頷き、ふっと光の粒子となって掻き消えた。
「……ただの、幻……?」
「ええ。過去にここで行われていた儀式の光景が、濃密な魔素の中に記録されていたのでしょう。攻撃の意思はないみたい」
リエルが、緊張を解いて息をついた。
俺は、古代の神官が消えた先を、じっと見つめていた。
この参道は、まだ続いている。
そして、その昏い闇の奥に、何か、途方もなく巨大な影が、ぼんやりと浮かんで見えた。
大きすぎて、距離感が掴めない。
あれが、湖底神殿。
夢で見た、八つの尖塔と、巨大な扉を持つ、眠れる骸。
俺たちが今いるこの場所は、あの巨大な神殿の、入り口ですらないのだ。
その圧倒的なスケールに、俺はただ、畏怖の念を抱いて立ち尽くすしかなかった。
その、瞬間。
遠くに見える巨大な扉が、一瞬だけ、白く閃光を放った。
それは、ただの光ではなかった。
まるで、巨大な、表情のない仮面が、こちらを振り向いたかのような。
そして、その光の視線は——他の誰でもない、俺だけを、まっすぐに射抜いていた。
「……っ!」
隣で、リエルが息を呑むのがわかった。
彼女は、わなわなと震える指で、神殿の影を指さした。その顔は、恐怖と、学者としての純粋な畏敬とで、蒼白になっている。
「……嘘……。あれが、神殿本体……? じゃあ、私たちが今、立っているこの場所は……」
彼女は、絶望的な真実を悟ったかのように、か細い声で呟いた。
「私たち、入口にも立っていない……」