俺の提案を聞き、御機嫌至極な夫人に礼を言って書斎を辞すと、自室へ戻る前に、ふと思い立ってベニカの部屋へ向かった。
折角早起きしたんだ。たまには俺が彼女を起こしに行って、驚かせてやるって趣向も悪くないだろう。
音を立てずに扉を開けて忍び込むと、カーテン越しの朝の光が柔らかく部屋を照らす中、窓際に、瀟洒な真鍮製の鳥籠が掛けられていることに気付いた。
そっと歩み寄って覗き込むと、止まり木に大人しく蹲っているのはミカだった。小首を傾げて俺を見上げる、愛嬌たっぷりの丸い目が可愛らしい。
馬丁氏に依る看病の賜物か、先日負った背中の傷は既に大分癒えていて、少しずつ羽毛も生えて来ている。この調子なら職務復帰も近そうだ。
こいつをここへ持って来たのは、毎日様子を見に小屋へと通って来る、ベニカの思いを汲んだ彼の配慮なのだろう。
餌箱にたっぷり盛られた豆や麦に、甲斐甲斐しく世話を焼く彼女の姿が思い浮かんで、思わず笑みが零れた。
ふと見ると、籠の底に例の小さく畳まれた蠟引きの紙片が落ちている。恐らく、脚環から外れたものだろう。
ミカを驚かさないように、そっと扉を開けて摘まみ出すと、静かに開き、朝日に透かして見た。書かれていたのは、またしてもヴィジュネル暗号だ。
どうやら前回とは違う方陣を使っているようで、瞬時に判読は不可能だったが、試しに一文字ずつずらして試すと、四文字ずらしたところで「陽光、鵠翼ニ差セリ」と読めた。今回もまた難解だ。
以前目にした暗号文は、フィンデール政変計画の存在と、その中心人物がディエシーとナーダル卿であることを示唆する内容だった。
とすれば、これもまた、近々どこかで起きる何事かを報せるものに違いないのだろうけど……。師匠、あんたは一体何者なんだ? どこの誰に何を伝える為にミカを飛ばしているんだ?
「ランジャ様……?」
突然呼び掛けられて心臓が跳ね上がる。声を振り返ると、夜着姿のベニカがウサ公を抱えたまま怪訝顔で俺を見上げていた。
思わず手にした紙切れを、あたふたと懐へ押し込みながら、取り繕った笑顔で「よう」と答える。
「何だ。起きちまったのか。珍しく早起きしたから、今朝は俺が起こしてやろうと思ってたのに」
そう言ってにやりと笑ってやると、ぱーっと顔を輝かせ、傍らのティーテーブルにウサ公をそそくさと座らせると、ぎゅっとしがみ付いて来るなり、
「早起きの御褒美です」
と言いながら精一杯爪先立ちで背伸びする。その懸命な姿に苦笑を浮かべつつ、
「身に余る光栄」
なんぞと茶化しながら身を屈めてやると、俺の頬に彼女式の口付けをしてくれた。まったく、こんなおしゃまをどこで覚えて来るのやら。
「もうすぐ朝飯だ。着替えたら先に行っててくれ」
「ランジャ様は?」
「俺の部屋の隣に客がいるんでね。そいつのご機嫌伺いをしたら行くよ」
「お客様?」
ぱちくりと瞬く大きな瞳は、「金糸雀嬢だ」と言いながら片目を瞑って見せると、更に大きく見開かれるが、
「実は、彼女は病気でね」
の一言を付け足すと、好奇心に輝いていた表情は、たちまち心配そうに曇った。
「病気? あの人、病気なんですか?」
「あぁ、療養の為にここの邸で預かる事になったんだ。売れっ子の歌姫ってのも、中々大変な商売なんだろう。だから、早く良くなるように、彼女の事は出来るだけそっとしておいてやろうな」
髪を撫でつつ同意を求めるように言うと、彼女は俺を見上げたまま、「はい」と笑顔で頷いてくれた。
部屋を出ると、ユージェニーの部屋から、水差しを携えた女中が出て来たところに出くわした。
彼女は立ち止まると、笑顔で丁重な挨拶をし、客が目覚めた事を告げると、俺の礼に会釈で答えてから階下へ降りて行った。
彼女と入れ替わりに部屋へ入り、続き部屋の扉を叩くと、少しばかり緊張を孕んだ可愛らしい声が返って来る。
そっと開いて中を伺うと、ユージェニーは、夜着にガウンを羽織った姿でベッドから半身を起し、窓外に広がる庭園をぼんやりと眺めていた。
朝日を浴びて輝く細い金髪を頬に当てるように、少し首を傾げて物思いに耽る様子は、あの舞台で見た、儚くも可憐な花の精霊ガートルードを髣髴とさせる。
頬に赤みも差して見えるあたり、体調も良さそうだ。見れば、枕元のサイドテーブルに用意していたロナ処方の薬が、一包減っていた。
「よう」と声を掛けてやると、彼女はさっと表情を強張らせ、俺から隠すように身を捩りながら、例の革封筒を胸に固く抱き締める。やれやれ、美女に抱かれて夜明かしとは、封筒殿も随分な高待遇だ。
思わずふっと苦笑を漏らすと、警戒も露わな眼差しで振り向く彼女の胸元を、「それ」と言いつつ指差した。
「そんなに大事な書類なのに、中身を検めもせずに受け取ったのか?」
茶化し気味の言葉に、彼女ははっと顔を上げると、もどかしげに封を開け、取り出した黒表紙をぱらぱらと捲る。が、偽物と判るとぱたりと力無く膝に伏せ、打ちひしがれた様子で項垂れた。
「私、騙されたのですね」
潤んだ声と共に、黒表紙の上に重ねた白い手の甲に、涙が零れ落ちるのを見ちまうと、何やら途端に気まずい思いが湧いて来やがる。
思わずくしゃくしゃ頭を掻きながら、
「いや、まぁ、その……結果としちゃ、そう言う事になるかな」
なんぞと曖昧な返事をしていた。美女の涙ってのはどうにも苦手だ。
「そもそも石屋の資料ってのは、全てが帯出禁止でね。残念ながら侯爵閣下の御希望には添えない事になってる」
溜息交じりに言いながら、ベッドの縁に腰掛けると、涙に濡れた茶金の瞳が、恨みがましげに俺を睨む。
「私を捕えて、如何なさるおつもりなのですか?」
「捕えただなんて、人聞きの悪い事言わないでくれ。いきなり倒れたのはあんただぜ?」
そう言ってにやりと笑ってやると、ふと俯いた頬が、恥じらうようにぽっと染まった。
「アレーネ女伯の計らいでね。あんたはここで暫く静養する事になった。侯爵閣下へは家士を遣って報せてくれるそうだよ」
「アレーネ様が……?」
怪訝そうに見上げる濡れたままの瞳に、大きく頷いて見せる。
「あぁ、俺はここの居候なんだ。夫人にあんたの事を話したら、快く引き受けてくれたよ。彼女はあんたを不憫と思し召しでね。侯爵に囲われる身じゃ、想い人との逢瀬も儘ならないだろうってさ」
すると彼女は一瞬顔を輝かせたが、再び表情を曇らせると、丸で痛む心を宥めるかのように、夜着の胸元をぎゅっと握り締め、切なげな溜息を一つついた。
「私には、想い人などおりません」
「え?」
「この身も心も、侯爵閣下のもの。他の殿方に心を寄せることなど在り得ません」
震える声で頑なに首を振って見せるけど、この小鳥ちゃんも、俺以上に嘘が下手なご様子で……。
「まぁいいさ。そのうち俺の同僚が見舞いに来てくれるかもしれないけど、その時にはあまり素気無くしてくれるなよ」
苦笑気味に言いながら、溜息をつきつつ立ち上がると、
「あの……」
と遠慮がちに呼び止められる。が、振り向くと、気まずそうに視線を逸らしながら、
「いえ、何でもありません」
と首を振った。
皆まで申さずとも、言いたいことは全てその顔に書いてあるさ。敢えて訊き返すような無粋はするまい。
「夫人の厚意を無にしない為にも、遠慮せずにゆっくり養生してくれ」
言い含めるように一言だけ告げると、静かに部屋を辞した。
しかし困ったぞ。こうも頑なじゃ、暫くの間は尋問も出来ゃしない。無理強いして、また発作を起こされるのも本位じゃないし……。
あまり気は進まないけど、彼女の心を開く為には、アイヴァン卿を餌にすることも考えなきゃならんかも知れんな。
週が明けての事だ。陽が傾く頃、修行を終えたベニカを本部へ迎えに行くと、大親方付きの書生氏が、大階段下で俺を待ち構えていた。
未だ二階から降りて来ないベニカへの伝言を、ホールに屯していた門下生に託してから三階へ上がると、案内された部屋はカレル大親方の執務室だった。フィンデール支部の引継ぎも終わって、漸くの御帰還てところか。
そう言えばベニカが言ってたっけ。かの支部の新任親方は神聖騎士団上がりの武闘派で、鉱山開発の陣頭指揮を執っていた、本部でも屈指の猛者だって。
新王恩賜の鉱山の再開発も手掛けにゃならんだけに、本部人事としちゃ、これ以上無い適任てとこなんだろうけど、若手二枚目の赴任を期待していた小娘どもの落胆ぶりが目に浮かぶようだな。
「やぁやぁ、久し振りだね。休暇は楽しんでるかな?」
控えの間で待っていると、程なくして開いた扉から、いつものやんちゃそうな笑顔が表れ、席を立って会釈する俺に仕草で着席を促す。
「お疲れ様っす。いつ御帰りに?」
「一昨日の朝だよ。まったく、気忙しい事この上ない。帰ったらアレーネ殿との逢瀬を存分に愉しもうと思っていたというのに、飼い猫を撫でてやる暇さえ無い有様だ」
彼は臆面の無くそう言いのけて、大袈裟に肩を竦めて見せると、書生氏が差し出す薔薇実茶のカップを、礼と共に受け取った。相も変わらず、老いて益々お壮んなこって。
「休暇返上の原因は、ディエシーの手紙っすか?」
幾分茶化した口調で問う俺に、湯気で曇った鼻眼鏡の向こうから、明らかに何やら企んでる表情で片眉を上げて見せる。
「まぁ、そんなところだ。しかし、僕も釣りは大好きだからね。あの御仁から主《ヌシ》釣りなぞに誘われたら、二つ返事だ。大いに釣果を期待したいのでね、及ばず乍ら僕も撒き餌を用意させてもらったよ」
「撒き餌?」
「そう、撒き餌だ。疑似餌とも言うかな。実を言うと、最近は殿上人からのお尋ねにお答えする時、君の来歴に少しばかり脚色を加えていてね。それが奏功すればしめたもの。例の報告書を狙う輩が釣れた事を見ても、どうやら効果は抜群のようだ。さぞかし大物が釣れるぞ」
わくわくしながら揉み手をする様子は、丸で悪戯の計画を練るやんちゃ坊主そのものだ。
思わず「俺っすか!」と声を上げると、彼は、
「餌は活きのいいものに限るからねぇ」
と、さも面白そうにからからと笑った。
「ヴィスロ殿の逮捕で、後見人たるノランサリエ候は、今、宮中でも大分苦しいお立場におられるようでね。何としても地歩の回復をとお望みに違いない。評議会の弱みを突くのに、好機と言えばこれほど絶好の機は無いだろう。
それに加えて、実は、宮中に残された資料の中に、興味をそそられるものが幾つか見付かっているそうなんだ。差し詰め、蛇の抜け殻と言ったことろかな。
真相が暴かれる前に、あのお二方がアステリオ城で変死した事に関しては、返す返すも口惜しい事ではあるけれどね」
「蛇の抜け殻……?」
思わず身を乗り出しながら訊き返すと、深く頷きながら「如何にも」との答えが返って来る。
「フィンデールの政変を受けて拘束される前に、身の回りは随分と周到に整理していたようなんだが、彼が退いた事によって、別の疑惑も浮かび上がって来ていてね」
黒猫屋でロナから聞いた話と符合する。幾分伺うような口調で、
「ひょっとして、幻覚剤の密売っすか?」
と訊ねると、彼は、
「ほぉ、早速聞き及んでいたとは。さすがに抜け目が無いな」
と、茶化し気味に言いながら軽やかに笑った。
「抜け殻の正体は、その捜査の際に見付かった何通かの書簡でね。もしかすると、彼ら蓮火幇の狙いが判るかもしれないという代物なんだ。だが、如何せん、宮中の内情にも拘わるものなんでね、たとえ石屋の中枢にいたとしても、おいそれと口に出せるものでも無いんだ」
「そう焦らされると、尚の事聞きたくなりますがね」
言いながら思わず苦笑を浮かべると、彼もまた何やら含んだ笑いをにやりと返す。
「まぁ、そう急かずとも、近々君をダシにして、女神様の御尊顔を拝しに伺うつもりなんだ。釣行の詳細な計画は、その時に練る事にしたから、楽しみにしていてくれ給え」
「はぁ……」
くしゃくしゃ頭を掻きながら曖昧な返事をする俺に、彼は週末に訪問する旨、夫人への伝言を上機嫌で託す。それを受けてから部屋を辞すると、大きな溜息をついてから階下へと向かった。
やれやれ。人を勝手に餌と決めて、一体何を企んでいるのやら……。だけど、宮中に残された毒蛇の抜け殻ってのには、正直、俺も大いに興味をそそられるものだ。
あの変態爺ィを擁していたとあっては、評議会の石頭どもの発言力も大幅に減退した事だろうし、そうとなりゃ、祭司長の覚え目出度きホルザレン会からの捜査依頼も、内心ではどうであれ、無碍には出来んだろう。
蓮火幇の目的が明らかになれば、今は亡きマルセルやテオドールが追っていた、連続放火事件の全容も明らかになるだろうし、延いては、ファルエル王謀殺の件を解明する糸口にもなるかもしれない。
そんな事をつらつら考えつつ、門下生でごった返す玄関ホールへ辿り着くと、ベニカの姿を捜す俺を遠くから呼ぶ声があった。
振り返ると、声の主に思わずどきっとする。大階段の下で軽く片手を上げたのは、アイヴァンだったのだ。
「よう、久し振り」
応えた笑顔が少しばかり引き攣っちまったのは、彼の顔色が優れないのを見て取ったせいだろうか。何だ、このもやもやした気分は。俺には疚しい事など何も無い筈だぞ。断じて。
「何?」
歩み寄りつつ訊ねると、彼は思い詰めた表情のまま、俺の腕を掴んで引き寄せるなり、顔を近付けて声を潜めた。
「ランジャ殿、貴卿は先日、アレーネ女伯閣下と劇場に御出でであったな」
「あ、あぁ、まぁ、付き合いでね」
不覚にもどぎまぎした返答になっちまった事に、心なしか彼の表情が険を含んだように見える。
「閉幕後の茶話会にも居られたようであったが、その折に言葉を交わした歌姫を覚えて御出でか?」
「あぁ、覚えてるけど」
「この数日、かの歌姫殿が行き方知れずなのだ。劇場でも騒ぎになっている。何か御存じであれば教えて頂きたい」
「あぁ、彼女ならこの週末、俺の下宿に……」
その瞬間、いきなり飛んで来た拳を、左頬へモロに喰らって吹っ飛んだ。
門下生たちの悲鳴が上がる中、何事かと見上げると、起き上がる暇も無く馬乗りになった彼に胸倉を掴まれた。
口の中が切れて滲んだ血に、リカバリセルが即応する。いやはや、のほほんと上品なお坊ちゃまかと思いきや、中々どうして重たい拳を持ってやがる。
「やはりそうか! やはり貴卿はそう言う男であったか!」
「な、何をいきなり……!」
「ラルフ殿が噂していた通りだ。貴卿が劇場裏から、細身の金髪美女を連れ去るを見たと」
「い、いや、あれはそう言う事じゃなくて……!」
「更には、貴卿が彼女を抱えて出て来たのは、如何わしい酒場の裏口からであったと言うではないか!」
「ちょっと待てよ、俺は何も……!」
「問答無用!」
叫ぶと共に尚も殴り掛かろうとするところを咄嗟に突き飛ばすと、もんどり打って尻餅を搗いた彼を、今度は俺が胸倉を掴んで引き摺り上げる。
恋に狂った野郎ってのも始末に負えないが、俺もまた一方的に詰られてカッとなっていた。
「まったくどいつもこいつも、人の話は最後まで聞きやがれってんだ!」
「何を申すか! 貴卿が稀代の嫖客と知られたディエシー卿と親交あるは周知の事。それが美女と人目を忍ぶとあらば……!」
「ならば何だ?! 真実が知りたきゃ、邸へ来て彼女の口から聞きやがれ! 手前ェにその度胸があるんならな!」
「何?!」
「ちょっと! 何してるのあんたたち!」
金切り声を上げて突進してくるなり、ずんぐりした手で俺たちを引き離したのは、マデリン大親方だった。
彼女は尚も睨み合う俺たちの間に割って入ったまま、やれ門下生たちに示しがつかないだの、大の大人が衆人環視の中何をやっているのなどと、くどくど長々説教をかましていたようだったが、頭に血が昇ったままじゃ何も聞こえやしない。
が、いつの間にかしがみ付いていた、痩せっぽちの小さな体に気付かされると、頭の天辺からすぅっと熱が引いていくのを感じた。
ぐしゃぐしゃに泣きじゃくっている赤毛の編み下げ頭を、宥めるようにぽんぽんと軽く叩いてから抱き上げると、彼もまた彼女の様子に熱を覚まされたか、はっとして気まずそうな顔になったが、俺は、何かを言い掛けて伸ばして来た彼の手には、気付かぬ振りをして背を向けると、そのまま何も言わずに玄関を出ちまった。
我ながら大人げないとは思ったけど、碌すっぽ事情も聞かずに間夫呼ばわりとは、随分な御挨拶じゃないか。
一体誰の為だと思ってンだ、畜生。余計な気を回したのはこっちの勝手だろうけどさ。