爆豪勝己は、衣装室の姿見に映った自分を見ながら、早くも契約書へ署名したことを後悔しかけていた。
最大の原因は髪である。
普段は四方へ鋭く跳ねている金髪が整髪料によって綺麗に撫でつけられ、額の右側から左側へ流れる見事な七三分けになっていた。
職場体験の時にも同じ目に遭っているため、鏡の中にいる妙に小綺麗な自分の姿には嫌というほど見覚えがある。
そして現在、爆豪が連れてこられている場所も問題だった。
事務所の一角に設けられた衣装室はかなりの広さがあり、壁際には天井近くまでハンガーラックが並んでいる。
シャツやジャケットだけでなく、パンツ、コート、靴、ベルトといった小物まで種類ごとに整理され、中央には試着した姿を確認するための大きな鏡が何枚も設置されていた。
収められている衣服は、どれもベストジーニストが自ら厳選した一級品である。
本人の美意識を反映しているため、単純に高価なだけの服はほとんどなく、素材や縫製はもちろん、着た際のシルエットまで考えて選ばれており、服に詳しい人間が見れば衣装室そのものが宝の山に思えただろう。
しかし、爆豪は先ほどから苦い顔を崩していなかった。
「まだヒーローではないとはいえ、装いには気を遣わねばならない」
そう言いながら、ベストジーニストが最初に取り出したのは、左右で丈の異なる黒いジャケットだった。
全体の色調こそ落ち着いているものの、片側だけ長く取られた裾に細身のパンツを合わせることで、かなり鋭い印象を与える組み合わせになっている。
奇抜一辺倒ではなく、街中を歩いていても十分成立する範囲に収めながら、見る者の記憶には残る。
ベストジーニストはそれを爆豪の身体へ重ね、肩幅との釣り合いを確かめてから鏡へ視線を向けた。
「悪くない」
「絶対着ねえ」
即答だった。
ジーニストは特に反論せず、ジャケットを元の位置へ戻すと次のラックへ移った。
今度は深い赤を差し色に使ったライダースジャケットを選ぶ。
肩から胸元にかけて複数の切り替えが入り、金属製のファスナーが斜めに走っているため、先ほどよりも攻撃的な印象が強い。
爆豪の目つきや体格にはよく合っていたが、本人は数秒眺めただけで眉間へ深い皺を刻んだ。
「嫌だぞ……」
再び却下された。
次に選ばれたのは、丈の長い濃紺のシャツだった。
襟は一般的な形だが裾が前後で大きく異なり、その上から短いジャケットを重ねることで上下の長さに意図的な差を作るデザインになっている。
爆豪は嫌そうな顔をした。
ジーニストは戻した。
黒を基調として袖だけに細かな柄を入れたブルゾンも、首元を大きく立ち上げたジャケットも、太腿の辺りへベルト状の装飾を加えたパンツも結果は変わらなかった。
どれも決して悪趣味ではなく、むしろ服そのものを見れば洒落ている。
街中で着ても奇人扱いされるほどではなく、ファッションに関心のある若者なら喜んで試着しそうな物ばかりだった。
ただし、無難という言葉からは少しずつ外れており、色、形、重ね方のどこかに必ず一つは強い特徴がある。
そして、それこそが爆豪の好みと致命的に噛み合っていなかった。
爆豪は普段から服装に強いこだわりを持っているわけではなく、着心地が悪くなく、身体を動かす邪魔にならず、自分から見て余計な装飾が付いていなければそれでいい。
対してベストジーニストが選ぶ服は、どれほど実用性を確保していても、必ず何かしらの主張を持っていた。
ジーニストは爆豪を飾り立てたいのではなく、鋭い目つきや鍛えられた体格、荒っぽい雰囲気まで含めて本人の特徴を活かそうとしているのだが、その意図を理解したところで爆豪が着たいと思うかは別問題だった。
何着目か分からなくなった頃、ベストジーニストはラックの奥から一着のコートを取り出した。
黒に近い灰色で、膝近くまである長い丈に対して襟は大きく、腰の位置には太いベルトが設けられている。
前を開けたまま羽織ればかなり様になる造りで、ジーニストはしばらく爆豪とコートを見比べた後、かなり好感触だったらしく小さく頷いた。
爆豪はそれを見た瞬間から嫌そうな顔をしていた。
「着てみたまえ」
「なんで尖ったファッションしかねえんだよ、ユニクロ行かせてくれや」
ベストジーニストは手にしたコートと爆豪を見比べ、いかにも心外そうに目を細めた。
「無難な服装を否定するつもりはない。簡素であることと洗練されていることは両立するし、機能性を重視した装いにも相応の美がある。だが、君はこれからヒーローとして人前に立つことを目指すのだろう?」
「だからってこんなん着る必要ねえだろ」
「あるとも。ヒーローはヴィランを倒していればそれでよい職業ではない。市民の前に立ち、時には取材を受け、子供たちから憧れの対象として見られる。服装もまた、君がどういう人間であるかを他者へ伝える──」
始まった。
爆豪は露骨に顔をしかめた。
職場体験の時にも嫌というほど聞かされた話であり、ベストジーニストにとって身だしなみとは単なる趣味ではなく、ヒーローとしての在り方そのものに繋がっているらしい。
本人が八年連続でベストジーニスト賞を受賞していることを考えれば説得力だけは十分だったが、だからといって爆豪が同じ価値観を喜んで受け入れる理由にはならなかった。
「そもそも君の場合、何も考えずに無難なものを選べば、装いではなく単なる無頓着へ流れかねない。せっかく体格にも恵まれているのだから、それを活かさない手はない。先ほどのライダースも肩のラインはよく──」
「勘弁してくれ……」
ベストジーニストは小さく息を吐くと、手にしていたコートを丁寧にラックへ戻した。
爆豪の好みを無視して無理に着せるつもりはないらしいが、かといって本人が望む無地のシャツとパンツだけで済ませる気もないらしく、今度は別のラックへ視線を移しながら何やらぶつぶつと呟き始める。
「色数を減らすべきか……いや、本人の印象が強い以上、下手に抑えるより一箇所へ特徴を集めた方が纏まりはいい。黒を基調にしてシルエットで変化をつければ、この頑固者でも──」
「聞こえてんぞ」
そんなやり取りの最中、衣装室の扉が勢いよく開いた。
「ベストジーニスト!」
先ほど事務所内ですれ違った若いサイドキックが顔を覗かせ、室内に入ってくるなりジーニストへ声を掛ける。
かなり急いできたらしく普段より声が大きかったが、七三分けになった爆豪を目にした途端、ほんの一瞬だけ言葉が止まった。
爆豪の目つきが鋭くなる。
「……なんだよ」
「い、いえ!」
サイドキックは慌てて視線をベストジーニストへ戻した。
「お客様です! 爆豪くんのご両親が……」
「…………」
その報告を聞いた瞬間、それまで不機嫌そうにサイドキックを睨んでいた爆豪の勢いが目に見えて削がれた。
どうしてここにいるのか、と聞く必要はなかった。
契約書へ署名する際、未成年である以上は保護者にも確認してもらう必要があると説明されている。
本来なら事務所側から連絡を入れ、改めて話をすることになるはずだったが、爆豪が雄英を辞めてからヒーロー事務所を探し回っていたことを両親も当然知っている。
そこへ突然、ベストジーニストの事務所から何らかの連絡が入ったのなら、直接足を運んできても不思議ではなかった。
「……チッ」
爆豪は小さく舌打ちすると、両親と顔を合わせる場面でも想像したのか、七三分けになった頭を僅かに俯けた。
母親がこの姿を見て何を言うかについては、考えるまでもない。
一方、ベストジーニストは報告を受けると衣装選びを即座に中断した。
「こちらからご挨拶に伺うべきところ、遅れを取ってしまったな。どちらへお通しした?」
「第二応接室です。受付から、もうお待ちいただいていると」
「分かった。すぐに向かう」
ベストジーニストはラックから出していた衣服を元の場所へ戻し、乱れがないことを確認してから衣装室の出口へ向かった。
途中で立ち止まると、未だその場に残っている爆豪へ振り返る。
「爆豪、君も来たまえ」
「……俺もかよ」
「君の雇用について話すのだ。本人がいなくてどうする」
正論を返され、爆豪はますます嫌そうに顔を伏せた。
第二応接室は、衣装室から廊下を二つ挟んだ先にあった。
普段なら気にも留めない程度の距離だったが、爆豪にとっては妙に長く感じられた。
ベストジーニストの数歩後ろを歩きながら、何度か七三分けにされた髪へ手を伸ばしかけ、そのたびに前を歩く男の視線を感じて渋々下ろす。
今さら髪型などどうでもいいと言いたいところだったが、これから会う相手が相手である。
やがてベストジーニストが第二応接室の前で足を止め、軽く扉を叩いた。
「お待たせしました」
返事を待って扉を開けると、室内にいた二人が同時にこちらを向いた。
ソファから立ち上がったのは、爆豪光己と爆豪勝だった。
母親である光己は勝己とよく似た金髪に赤い瞳を持ち、年齢よりも若く見える容姿をしている。
対する父親の勝は柔らかな雰囲気の男で、突然ナンバー3ヒーローの事務所へ足を運ぶことになったためか、少なからず緊張している様子だった。
爆豪は二人と目が合った途端、露骨に顔を逸らした。
「……」
そして光己の視線が息子の顔から七三分けになった頭へ移り、一瞬だけ止まる。
何かを言われる。
そう身構えた爆豪の予想に反し、光己は髪型について一言も触れなかった。それより先に言わなければならないことが山ほどあったらしい。
「勝己!」
「……チッ」
光己はソファを回り込むと、部屋へ入ってきた息子のところまで一直線に歩み寄った。
「このバカ息子! 勝手に雄英やめて、勝手に家を飛び出して、挙げ句の果てにヒーローの方にまで迷惑かけて! あんた自分が何やってるか分かってんの!?」
「ああ」
「『ああ』じゃない!」
鋭い声が応接室へ響いたが、爆豪はまともに目を合わせようともせず、鬱陶しそうに舌打ちして顔を横へ向けた。
家を出たことについて何も考えていないわけではない。
雄英を辞めると決めた時から、両親に迷惑をかけることも心配させることも分かっていた。
だからといって今さら殊勝に謝罪できる性格でもなく、ましてベストジーニストの目の前で母親から叱られている状況では、反抗する気力よりも早く居心地の悪さが勝っていた。
「こっちはあんたが毎日どこほっつき歩いてんのかも分かんないのよ! ヒーロー事務所回ってるって聞いたって、どこに行って何してるか全然言わないし!」
「ああ」
「だからそれやめなさいって言ってんでしょうが!」
「聞いてんだろうが」
「聞いてる奴の態度じゃないでしょうが!」
光己が一歩詰めれば、爆豪は面倒そうに半歩下がる。
ベストジーニストは止めなかった。
先ほどまで衣装室で爆豪を相手に服装について延々と持論を述べていた男が、今は口を挟む余地などないと判断したのか、親子のやり取りを静かに見守っている。
「雄英の先生方にもどれだけ迷惑かけたと思ってんの! それで今度はベストジーニストさんのところに押しかけて、雇えって言ったんじゃないでしょうね!?」
「違ぇよ。向こうから声掛けてきたんだよ」
「だったら余計にちゃんとしなさい! せっかくあんたのことを気に掛けてくれる人がいるのに、その人にまで迷惑かけてどうすんのよ!」
光己の剣幕は収まらなかった。
雄英を辞めたことについても、それが息子自身で考えた末の決断ならば、何が何でも撤回させようと思っているわけではない。
しかし、ろくに相談もしないまま退学を決め、それからも家族に事情を話そうとはせず、ネカフェに寝泊まりしてヒーロー事務所を訪ね歩いている。
どこへ行くのか、何をするのかといくら連絡してもまともな答えは返ってこず、勝手にしろと放っておけるほど、光己にとって息子の置かれている状況は軽いものではなかった。
「こっちがどれだけ心配したと思ってんの!」
その言葉を聞いた途端、これまで鬱陶しそうに母親の小言を受け流していた爆豪の表情が変わり、眉間に刻まれていた皺がさらに深くなる。
「……うるせえ」
「勝己?」
「うるせえんだよ! 何しようが俺の勝手だろうが、ババア! 引っ込んでろ!」
応接室に叩きつけられた怒声は、先ほどまでの親子喧嘩とは明らかに質が違っていた。
爆豪が母親に反抗すること自体は珍しくもない。
幼い頃から口が悪く、何かにつけて光己と言い争いになっては互いに一歩も引かず、家中に怒鳴り声を響かせることもあったため、その程度で光己が怯むような関係ではなかった。
しかし今の爆豪から向けられたのは、単なる反抗心から来る悪態ではない。
「俺が雄英辞めようが、どこ行こうが、何しようがテメェには関係ねえだろ! いちいち首突っ込んでくんじゃねえ!」
家族に自分の事情へ触れられることそのものを拒むような剥き出しの感情に押され、光己は言い返すことも忘れて数歩後ろへ下がった。
普段なら同じだけの声量で怒鳴り返してくる母親が黙り込んだことで、爆豪自身も僅かに目を見開く。
勢いに任せて言い過ぎたと気づいた様子はあったものの、今さら謝る言葉を見つけられるはずもなく、視線を逸らしながら強く拳を握り締めた。
それまで家族の問題だとして口を挟まずにいたベストジーニストも、さすがにこれ以上は見過ごせないと判断したらしく、光己と爆豪の間へ視線を向ける。
「爆豪、お母様になんて──」
注意しようとした声は、途中で止まった。
応接室の奥でソファが僅かに軋み、それまで一言も発さずに親子のやり取りを見守っていた勝が立ち上がったからだった。
光己と勝己が衝突した時、勝が同じように声を荒らげることは一切なく、気の強い母と息子の傍で、まあまあと宥めるのが日常となっていた。
勝は何も言わないままソファを離れると、妻の横を通り過ぎ、真っ直ぐ息子の前まで歩いていった。
「あァ? アンタも俺に文句あんのかよ」
いつもとは違う父親の様子に、爆豪は怪訝そうに顔を上げた。
勝は答えず、息子を正面から見つめていた。普段と変わらない穏やかな顔立ちからはいつもの柔らかさが消えており、何かを言おうとして一度唇を結んだ後、ゆっくりと右腕を上げる。
パアン!
乾いた音が、応接室に響いた。
「──っ」
平手を受けた爆豪の顔が勢いよく横を向き、整えられていた七三分けの髪が僅かに乱れた。
光己は目を見開いたまま夫を見つめ、ベストジーニストも口にしかけていた言葉を完全に止めている。
何より状況を理解できていなかったのは、叩かれた爆豪本人だった。
母親と激しく言い争ったことなら数え切れないほどあり、頭を小突かれたり叱り飛ばされたりすることも珍しくなかったが、父親の勝から平手打ちを受けた記憶など一度もない。
頬へじわじわと熱が広がっていく中でも、怒鳴り返すことも父親の腕を掴むこともできず、ただ横を向いた姿勢のまま目を見開いていた。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
勝己は頬に残る熱よりも、自分を叩いたのが父親だったという事実をまだ飲み込めずにいた。
光己も同様らしく、夫と息子を交互に見ながら何かを言おうとしては言葉を呑み込んでいる。
そんな沈黙の中で、勝は一度だけ深く息を吐くと、光己ではなくベストジーニストへ顔を向けた。
「すみません。勝己くんと二人きりにしてもらえますか?」
「……あなた?」
光己が思わず声を漏らした。
勝は妻へ視線を移したものの、何かを説明することはなく、小さく頷くだけだった。普段なら夫がこうした態度を見せれば何を考えているのか大体察することができる光己も、つい先ほど目の前で起きたことだけは予想の外にあったらしく、その場から動けずにいる。
ベストジーニストもすぐには返事をしなかった。
ここは彼の事務所であり、勝己はこれから自分が預かろうとしている未成年でもある。
まして親子の話し合いとはいえ、その直前に平手打ちを目の当たりにした以上、何も考えず二人だけにすることを躊躇うのは当然だった。
それでも、勝の表情に先ほどの感情的な険しさは残っていなかった。叩いた右手を身体の横へ下ろし、いつもの穏やかな顔へ戻ろうとしながら、ただ息子と話す時間を求めている。
やがてベストジーニストは光己と顔を見合わせた。
光己も迷った末に小さく頷く。
「……分かりました。我々は外におります」
「ありがとうございます」
勝が頭を下げると、ベストジーニストは光己を促して応接室の出口へ向かった。
光己は扉の前まで進んでから一度だけ振り返り、頬を赤くしたまま立ち尽くしている息子と、その正面に立つ夫を心配そうに見つめたものの、結局何も言わずに部屋を出ていく。
ベストジーニストが最後に扉を静かに閉めると、応接室には父と息子だけが残された。
「…………」
勝己にとって、母親と二人きりになることよりも父親と二人きりになる方が、今は遥かに居心地が悪かった。
光己なら怒鳴られれば怒鳴り返せる。
説教されれば悪態を吐き、互いに言いたいことをぶつけ合った末に終わらせることができる。だが、勝とはそういう関係ではなく、まして今は、その父親から生まれて初めてと言っていいほど強く叩かれた直後である。
何を言われるのか分からないまま立っている勝己に対して、勝は少し困ったように眉を下げると、先ほどまで家族が使っていたソファを手で示した。
「まあ、座って話そう」
「……」
勝己は返事をしなかったが、拒絶もしなかった。
乱暴に腰を下ろす気にもなれず、促されるままソファへ座る。
勝もテーブルを挟んだ向かい側へ移動して腰掛けたことで、先ほどまで光己やベストジーニストを交えていた応接室が、急に広くなったように感じられた。
勝己は父親と目を合わせず、膝へ肘を置いて床を睨んでいる。
勝はそんな息子を急かさず、少しの間を置いてから自分の右手へ視線を落とした。
「勝己くん」
「……なんだよ」
「叩いてごめんね」
勝己が顔を上げた。
てっきり先ほどの態度について叱られるものと思っていたため、最初に謝られるとは予想していなかった。
「……別に」
勝己は短く答えて顔を逸らした。
頬にはまだ僅かな熱が残っているものの、痛みそのものは大したものではない。
そんなことよりも、父親が自分を叩いた直後にこうして謝っていることの方が、勝己にはよほど扱いづらかった。
勝はそれ以上謝罪を重ねず、今度はテーブル越しに息子を見た。
「それで、勝己くん。教えてくれないかい?」
「何をだよ」
「なんで雄英をやめて、家を出たのか」
勝己の目が僅かに細くなった。
「さっきババアが散々──」
「ヒーローになるために別の道を探してるっていうのは知ってるよ。でも、お父さんが聞きたいのはそこじゃないんだ」
穏やかな声で遮られ、勝己は口を閉じた。
「雄英にいたってヒーローにはなれたはずだよね。それなのに学校をやめて、僕たちにもほとんど何も話さないまま家を出た。ヒーローになるためだけなら、そこまでする必要はなかったんじゃないかな」
「…………」
「何かあったんだろう?」
勝己の視線が再び床へ落ちる。
勝は答えを急かすことなく、向かいのソファに座ったまま待っていた。
「お母さんも僕も、雄英をやめたことを怒りたいわけじゃないんだ。もちろん、何も相談してくれなかったことは寂しかったし、心配もしたけどね。でも勝己くんが本当に考えて決めたことなら、まず理由を聞きたい」
勝己は何も言わなかった。
勝は無理に答えを引き出そうとはせず、これまでの出来事を頭の中で辿るように視線を落とした。
「……出久君が関係しているのかい?」
その名前が出た瞬間、勝己の肩が僅かに強張った。
分かりやすい反応だった。勝もそれを見逃さなかったが、質問を重ねることはせず、再び黙って息子の言葉を待った。
勝己は膝の上で両手を組み、親指を擦り合わせながら床を睨み続けていた。
何度か口を開きかけては閉じ、そのたびに眉間の皺が深くなっていく。
「……あいつが」
やがて漏れた声は、普段の勝己からは想像しにくいほど歯切れが悪かった。
「あいつが雄英やめて、ヴィランになったのは……俺のいじめが原因だと思ってる」
勝の表情が僅かに変わったが、口は挟まなかった。
勝己も父親の反応を確かめようとはせず、俯いたまま途切れ途切れに言葉を続ける。
「ガキの頃からずっとだ。あいつが無個性だったから見下して、何やっても俺より下だって決めつけて……あいつが俺に近寄ってくんのがムカついて、何回も突き放した。それでも寄ってきやがるから、もっとムカついて……」
そこまで話したところで一度言葉が詰まり、勝己は唇を噛んだ。
思い返せば、いくらでも出てくる。
自分の後ろをついて回っていた幼い出久を邪険にしたことも、転んだ自分へ差し出された手を振り払ったことも、中学へ進んでからさらに露骨になった態度も、当時は間違っていると考えたことさえなかった。
自分には個性があり、出久にはない。それだけで上下が決まっているつもりになり、その認識に逆らうような行動を取られるたびに苛立ちをぶつけてきた。
「雄英入ってからも変わんなかった。あいつが何考えてようが知ろうともしねえで……気付いた時には、あいつはいなくなってた」
勝は静かに聞いていた。
驚きも困惑も表情には浮かんでいたが、息子が自分から話そうとしている以上、それを遮ることだけはしなかった。
勝己の両手に力が入り、組んだ指の関節が白くなる。
「だから、俺は雄英にいる資格がねえ。何もなかったみてえな面して雄英に残って、ヒーローになる勉強続けて……そんなの違ぇだろ。俺があいつにやってきたこと知ってんのは俺なんだからよ。だったら、そこに居座ってんのはおかしい」
これまで勝己は、教師にも両親にも、雄英を辞めた理由をほとんど説明してこなかった。口にしてしまえば、自分が何をしてきたのか、その責任をどう取ればいいのか分からないことまで、全て他人の前へ晒すことになるからだった。
「それに……あいつをどうにかする責任があんだよ、俺には」
「……」
「何日か前に会えた」
勝が僅かに目を見開いた。
「ちゃんと話せたわけじゃねえ。仲間みたいなやつに丸められて、動けるようになった時にはまたいなかった」
その時のことを思い出したのか、勝己は悔しそうに奥歯を噛んだ。
ようやく見つけた出久を止められず、目の前まで辿り着きながら逃げられた。
その事実は、これまで抱えてきた焦りをさらに強くするには十分だった。
「今のままじゃダメなんだよ、俺は」
絞り出すようにそう言ってから、勝己は長く息を吐いた。
「このままじゃ、次に会えてもまた逃げられる。何もできねえまま終わる。だからヒーローになる。雄英じゃなくても、ちゃんと資格取って、ちゃんとあいつを追えるようになって……俺が捕まえる」
そこまで話し終えると、勝己は再び俯いた。
勝はすぐには何も言わなかった。
息子が雄英を辞めた理由も、家を出てヒーロー事務所を回り続けていた理由も、そこまでして出久を追おうとしている理由も、初めて聞かされることばかりだった。
やがて勝は背もたれへ身体を預け、困ったように眉を下げた。
「……僕に似て、不器用に育っちゃったなあ」
「あァ?」
予想外の言葉に、勝己が顔を上げる。
勝は苦笑していたが、その笑みにはいつもの穏やかな明るさがなかった。
「勝己くんが何か抱えてるんだろうとは思ってたけど、そこまで一人で考えてたなんて知らなかったよ。お父さんにも、もう少しくらい話してくれてよかったのに」
「……話せるかよ、こんなこと」
「そういうところが不器用だって言ってるんだよ」
勝己は反論しかけたものの、結局何も言わずに口を閉じた。
勝もそれ以上からかうことはせず、しばらく息子を見つめた後、ゆっくりと視線を落とした。
「でも……そっか。出久君を、いじめてたんだね」
その声音から苦笑が消える。
「お父さん、二人は仲の良い友達だって思ってたよ。小さい頃から一緒にいたし、出久君はよく勝己くんの話をしてたからね。君も口ではあれこれ言いながら、いつも出久君のことを気にしてた。だから勝手に、喧嘩はしても仲の良い幼馴染なんだと思ってた」
勝は自分の両手へ視線を落とし、指を組んだ。
「ちゃんと気付いて、叱ってやるべきだった」
それからしばらく、応接室には気まずい沈黙が流れた。
勝己は父親が自分まで責任を感じていることにどう反応すればいいのか分からず、ソファへ深く腰掛けたまま視線を逸らしている。
勝も息子から聞かされた話を整理するように黙っていたが、やがて何かに気付いたように眉を上げた。
「そういえば勝己くん、何日か前に出久君と会えたって言ってたよね」
「あァ?」
「その時、ちゃんと謝れたかい?」
勝己の表情が固まった。
あの時、自分が出久へ口にしたのは、長年の行いに対する謝罪ではない。
これから自分もヒーローになり、どこへ逃げようが必ず追いかけて捕まえるという、父親の質問とはまるで違う方向の言葉だった。
「……あァ? 宣戦布告みたいな事はしてやったけど、別にそんな……」
いつもの勢いで答えかけた声が、途中から目に見えて小さくなっていった。
勝はしばらく息子の顔を見つめていた。
「勝己くん」
「……なんだよ」
「お父さん、ちゃんと『ありがとう』と『ごめんなさい』を言えるようにって、小さい頃から教えてたよね?」
「そういう次元の話じゃねえんだよ!」
勝己が堪えきれずに叫んでも、勝はその声に押されることなく、少し困ったように眉を下げただけだった。
「『そういう』話なんだよ」
「あァ?」
「何年もいじめてきたことを一言謝ったからって、それで全部なかったことになるわけじゃない。出久君が許してくれるとも限らないし、勝己くんが謝ったことで、今の出久君がヴィランをやめて帰ってきてくれるわけでもない。それでも、自分が悪いことをしたと思ったなら『ごめんなさい』と言う。助けてもらったり、何かしてもらったりしたら『ありがとう』と言う。結局はそこからなんじゃないかな」
「だからよ、俺が言ってんのは──」
「分かってるよ。勝己くんはもっと大きな話をしてるんだよね」
再び反発しかけた息子を穏やかに制し、勝はソファの背もたれへ身体を預けた。
勝己が出久にしてきたことを軽く考えているわけでも、子供同士の喧嘩として済ませようとしているわけでもない。
ただ、問題が大きくなったからといって、人と人との間にある当たり前のことまで別物になるわけではないのだろう。
「僕も学生の頃はヒーローを目指しててさ。結局、諦めちゃったけど」
思いがけない話題に、勝己の眉が僅かに上がった。
「……知ってる」
「そっか。話したことあったっけ」
「ババアから聞いた」
「ああ、お母さんか。それなら僕が言うより色々余計なことまで聞いてそうだなあ」
「どうでもいいわ。何の話だよ」
勝は少し昔を懐かしむように笑った後、話を戻した。
「その頃にね、色々と考えたんだよ。ヒーローっていうものを」
ヒーローになりたいという気持ちそのものは本物だった。
人を助け、悪人を捕まえ、多くの人から頼られる存在になりたいと思い、自分なりに努力もしていたが、結局は別の道を選んだ。
それを今さら後悔しているわけではなくとも、当時考えたことまで忘れたわけではない。
「学生だった頃は、強いヴィランを倒したり、災害現場で大勢を助けたりするのがヒーローなんだと思ってた。もちろん、それも間違いじゃないと思うよ。実際にヒーローになった人たちは、僕にはできなかったような大変なことを毎日やってるんだから」
そこで勝は一度言葉を切り、向かいに座る息子を見た。
「でも、ヒーローの本質って、そういう小さなことから始まるんじゃないかな」
勝己は怪訝そうに父親を見返した。
「困ってる人がいたら声を掛けるとか、自分が悪いことをしたら謝るとか、助けてもらったらお礼を言うとかね。相手がどう思ってるのか考えることだってそうだと思う。そんなこともできない人が、ヒーローになった途端に知らない誰かを本当の意味で大切にできるようになるとは、僕にはあんまり思えないんだ」
「……ガキに教える道徳じゃねえか」
「そうだね」
勝はあっさり認めた。
「だからこそ、そういう当たり前を大事にしなきゃいけない。ヒーローになりたいなら尚更。僕はそう思う」
それきり、勝己は黙り込んだ。
父親の言っていることは、子供の頃から何度も聞かされてきたような当たり前の話だった。
それでも完全に間違っていると言い切れないのは、出久を捕まえることばかり考え、その先で本人とどう向き合うのかについては、ほとんど答えを出していなかったからだ。
いや、考えないようにしていたという方が近いのかもしれない。
勝己は膝の上で組んだ両手を見つめたまま、父親に言われたことを頭の中で繰り返していた。
その様子を見ていた勝は、息子が真剣に考え込んでいることに気付くと、何故か自分の方が居心地悪そうに姿勢を直した。
少し前まで父親らしく話していたことが急に恥ずかしくなったのか、頬を掻きながら慌てたように笑う。
「まあ、ヒーローにもなってないおじさんが何言ってるんだって話だね!」
「あ?」
「いやあ、偉そうなこと言っちゃったなあと思って。実際にヒーローとして働いたことがあるわけでもないのに、本質がどうとか語っちゃってさ」
「……今さら何なんだよ」
先ほどまでの真面目な雰囲気を自分から崩してしまった父親を、勝己は呆れたように睨んだ。
だが、勝はその視線を受けても困ったように笑うだけで、もう先ほどの話を繰り返そうとはしなかった。
言いたかったことは既に伝えたのだから、後は勝己自身が考えればいい。
しばらくして表情を整えると、勝は改めて息子を見た。
「とにかく、僕は君がここで経験を積んで、ヒーローになりたいっていう話に反対するつもりはないよ」
勝己が僅かに目を見開く。
「……いいのかよ」
「いいも何も、勝己くんがちゃんと考えて決めたことなんだろう? さっき聞いた限りだと、勢いだけで雄英を辞めて、適当に次の場所を探してるわけじゃないっていうのも分かったしね」
もちろん、親として不安がなくなったわけではない。
高校を辞め、家を出て、ネットカフェに寝泊まりしながらヒーロー事務所を回っていた息子の行動を全面的に肯定できるはずもなかったが、少なくとも何を考えてそこまでしたのかを聞けたことで、勝にとっては先ほどまでとは意味が違っていた。
「それに、ベストジーニストさんが見てくれるなら、お父さんとしてはずっと安心だよ。勝己くん一人であちこち回ってるより、ちゃんとした大人の人のところで教えてもらえるんだから」
勝はそこで立ち上がった。
「話してくれてありがとう、勝己くん」
「…………」
勝己は返事をしなかったものの、先ほどまでのように露骨に顔を逸らすこともなかった。
勝はそれ以上何も求めず、応接室の扉へ向かう。ノブへ手を掛けたところで一度だけ息子を振り返ったが、何かを言い足すことはせず、そのまま扉を開いた。
廊下には光己とベストジーニストが待っていた。
「あなた」
真っ先に近づいてきた光己は、勝の顔を見た後、その肩越しに応接室の中を覗き込んだ。
ソファに座ったままの勝己が目に入ると何か言いたそうに口を開いたものの、結局その場では何も言わなかった。
「大丈夫だよ」
勝がそう言って微笑むと、光己は夫の表情をしばらく見つめた末、肩の力を抜いた。
勝はそんな妻へ意思を確認するように目を向けた。
「光己」
それだけで何を尋ねられているのか察したのか、光己は応接室にいる息子をもう一度見てから、小さく息を吐いた。
「……あんたがちゃんと話したんなら、いいわよ」
「ありがとう」
二人が揃ってベストジーニストへ向き直る。
「お待たせして、すみませんでした」
「いえ。必要な時間だったのでしょう」
「はい。おかげさまで、ちゃんと話せました」
勝は一度光己と顔を見合わせてから、ベストジーニストへ告げた。
「先ほどお話しいただいた件ですが、私たちは反対しません」
ベストジーニストは黙って二人の言葉を待つ。
「勝己くんからも、どうして雄英を辞めたのか、これからどうしたいのかを聞きました。まだ心配なことはありますし、親として言わなきゃいけないこともたくさんあります。でも、この子がここで経験を積んで、もう一度ヒーローを目指したいと言うなら……僕は応援したいと思います」
光己も隣で頷いた。
二人は揃って頭を下げる。
「息子を、よろしくお願いします」
先ほどまでの騒がしさが嘘のように、廊下が静かになった。
ベストジーニストは深く頭を下げた二人を前に、すぐには言葉を返さなかった。
やがて応接室の中へ視線を向け、ソファに座ったままこちらの様子を窺っている勝己を一瞥してから、両親へ向き直る。
「確かに、お預かりします。生デニムを育てるように、時間をかけてね」
(生デニム?)