それから、さらに数日が経った。
「──じゃあ、次は駅の南側を回ります。爆豪君、遅れないように」
「ウス……」
昼前の商店街を歩きながら、爆豪は前を行く男へ苛立たしげに返事をした。
今日、ベストジーニストは朝から事務所にいない。
出勤して間もなく緊急の要件が入ったらしく、詳しい事情を説明する暇もないまま外出し、代わりに爆豪は事務所所属のサイドキックが担当するパトロールへ同行することになった。
もっとも、同行とは名ばかりである。
爆豪には仮免許がない。
事務所に雇用され、サイドキック候補という肩書きを与えられていようと、その事実だけは変わらないため、パトロール中にヒーローとして活動することはできず、基本的には有資格者の後ろについて歩くしかなかった。
その代わり、出発前の爆豪にはベストジーニストから一つの課題が与えられていた。
「……ったく、クソ細けえんだよ」
手元のクリップボードには事務所が用意した周辺地図と数枚の記録用紙が挟まれており、地図には今日パトロールする区域が赤線で囲まれ、記録用紙には時刻、場所、周辺環境、視認性、監視設備の有無などを書き込む欄が並んでいる。
課題そのものは単純だった。
町を歩き、事件や事故が起きた際に問題となりそうな場所を探す。
大通りから見通せない路地裏、建物同士の隙間、監視カメラの死角、夜間に人目が少なくなりそうな場所、逃走経路として利用されそうな細道。
その他にも気になる場所があれば、その理由を含めて記録する。
戦う必要はない。
むしろ、戦ってはいけない。
ただ見て、考えて、書け。
出発前に残されていた指示を思い出し、爆豪は盛大に舌打ちした。
「んなモン、地図とカメラ見りゃ分かんだろうが……」
「意外と分かりませんよ」
「あァ?」
前を歩いていたサイドキックが振り返った。
「地図は道があることは教えてくれますけど、そこを実際に歩いた時に何が見えるかまでは教えてくれません。監視カメラだって設置場所が分かっても、看板や街路樹で視界が遮られてることがありますから」
「……」
「だからパトロールするんです」
「……了解っス」
不承不承といった調子で返しながらも、爆豪は先ほど確認した監視カメラの位置を地図へ書き込んだ。
パトロールはそのまま駅の南側へ進んでいった。
昼前の商店街は買い物客の姿も増え始めており、スーパーの袋を提げた老人や自転車を押す主婦、配送用の台車を動かす店員たちが行き交っている。爆豪はサイドキックから大きく離れないようについていきながら、路地の入口や建物の配置を確認し、監視カメラを見つければレンズの向きを目で追った。
「あの路地、カメラねえな……っすね」
「一本先の交差点にはありますね。記録しておいてください。帰ったら設置図と照合しましょう」
爆豪は地図上の該当箇所へ印をつけ、記録用紙に時刻と位置を書き込んだ。
その時、数メートル先を歩いていた女性の足取りが不意に乱れた。
「……?」
買い物帰りらしい女性だった。
片手に鞄を提げ、もう片方の手にも小さな袋を持っていたが、身体が左右へ僅かに揺れたかと思うと、そのままバランスを崩して道路脇へよろめいた。
「おい!」
「大丈夫ですか!」
サイドキックが即座に駆け寄り、倒れかけた女性の腕を支える。
その拍子に鞄が滑り落ち、袋入りのパンや野菜、パック詰めされた惣菜が歩道へ散らばった。
リンゴが一つ、歩道の傾斜に沿って車道側へ転がっていく。
爆豪は反射的に足を伸ばしてそれを止めた。
「……ったく」
クリップボードを脇へ抱え、リンゴを拾う。そのまま他の食料品も集め始めると、背後から弱々しい声が聞こえた。
「す、すみません……」
「大丈夫っス」
女性の方を見ることなく返し、最後に残った惣菜のパックを拾う。
幸い容器は割れておらず、中身も漏れていない。鞄へ戻そうとしたところで、爆豪の手が止まった。
どこかで聞いた声だった。
パンの袋とリンゴを持ったまま、サイドキックに付き添われてベンチへ腰掛けた女性を見る。
「……あ?」
そこで初めて、まともに顔を見た。
幼い頃から何度も見てきた顔だった。
家へ遊びに行けば出迎えられ、近所ですれ違えば挨拶を交わし、母親同士にも付き合いがあった。
「……おばさん?」
女性も顔を上げた。
「……勝己、くん?」
緑谷引子だった。
気付くのが遅れたのは、髪型や服装が変わっていたからではない。
記憶にある姿と比べ、あまりにも疲れて見えたからだった。
ふくよかな体つきこそ大きく変わっていないものの、目の下には化粧でも隠しきれていない隈が浮かび、頬にも以前のような血色がない。
ほんの少し歩いただけで息を整えている様子からも、まともに休めていないことが窺えた。
「…………」
爆豪はリンゴとパンを持ったまま言葉を失った。
引子もまた、目の前にいる少年が本当に爆豪なのか確かめるように見上げている。
「お知り合いですか?」
傍らから尋ねられ、ようやく我に返った。
「……まあ、そうっす」
「そうでしたか」
サイドキックはそれ以上の事情を尋ねず、引子へ向き直った。
「まだ顔色がよくありませんね。吐き気や胸の痛みはありませんか?」
「はい、大丈夫です。本当に、少し立ち眩みがしただけですから……最近あまり眠れていなくて、そのせいだと思います」
出久が雄英を去り、ヴィランとして追われるようになった今、その母親が眠れていない理由など爆豪には尋ねるまでもなかった。
「……これ」
「あ……ありがとう、勝己くん」
リンゴとパンを差し出すと、引子が受け取ろうと手を伸ばす。
その指先が僅かに震えているのを見た爆豪は、渡すのをやめて自分で鞄へ戻した。
「勝己くんは、その服……ヒーローのお仕事? デニム……?」
引子の視線が濃紺のデニム製コスチュームへ向けられ、爆豪も自分の格好を見下ろした。
「まだ違うっすね。免許持ってねえから、ヒーロー活動はできねえし。今は事務所で働きながら資格取るための勉強してて、今日はパトロールについて回ってるだけって……感じっス。デニムについては触れないでください」
クリップボードを軽く掲げると、引子は納得したように頷いた。
「そうなんだ。勝己くん、雄英を辞めたって聞いて心配してたけど……ちゃんと頑張ってるんだね」
「…………」
よりによって引子からそんな言葉を掛けられ、爆豪は返答できなかった。
父親には既に、自分が出久を長年いじめていたことも、それを抱えたまま雄英に居続ける資格はないと考えて退学したことも話している。
しかし、その事実を目の前の母親は知らない。引子にとって自分は今でも、息子と幼い頃から一緒に育った近所の少年なのかもしれない。
サイドキックは二人を交互に見て、何かを察したらしい。
「あー……そうだ。俺はしばらくこの近辺を回ってくるよ!」
「あ?」
「まだ確認してない場所もありますからね。向こうの通りまで見てきます」
「ちょ──」
反論する暇も与えず、サイドキックは片手を上げて歩き出した。
その背中は呼び止めても振り返らず、商店街の角を曲がって見えなくなる。
「……クソが。逃げやがった」
「ごめんね、勝己くん。お仕事中なのに……私も、もう大丈夫だから」
引子がベンチへ手をついて立ち上がろうとしたため、爆豪はすぐに制した。
「さっきフラついたばっかじゃねえかよ、座ってて大丈夫っスから」
「でも、少し休んだから──」
「そのツラで何言ってんスか。目の下、隈だらけじゃねえかよ」
思った以上に強い口調になり、引子が目を丸くする。
爆豪は一瞬だけ気まずそうに口を歪めると、声を落としてベンチを顎で示した。
「……もうちょい休んでてください。別に急いでねえんで」
「……うん。ありがとう」
引子が再び腰を下ろしたのを確認すると、爆豪はその傍らに立った。
隣に座ることも考えたが、どうにも落ち着かず、結局クリップボードを片手に立ったまま商店街へ目を向ける。
父親に話した時とは違う緊張があった。
謝らなければならない。
自分が出久に何をしてきたのかも、何故雄英を辞めたのかも、いつまでも引子だけに伏せておくわけにはいかない。
それに数日前、自分は出久本人と会っている。引子が今の息子について何も知らないのであれば、それも伝えるべきだろう。
だが、何から話せばいいのか。
「……あの、おばさん」
「そういえばね、私、最近こっちに引っ越してきたの」
「……え?」
覚悟を決めかけたところへ予想外の話を差し込まれ、爆豪は引子へ顔を向けた。
「だから勝己くんに会えてびっくりしちゃった。まさか、こんなところで会うなんて思ってなかったから」
「引っ越したんスか?」
「うん。前のあたりは……ちょっと、住み辛くなっちゃってね」
最後の方だけ、引子の声が小さくなった。
爆豪は理由を尋ねなかった。
ヴィランによる事件が起これば、その家族や近しい人間まで非難の対象となり、報道が過熱した事件では住所や勤務先を探し出され、嫌がらせや誹謗中傷が繰り返されることもある。
まして緑谷出久は今や、ただ家を飛び出した少年ではない。
オール・フォー・ワンの後継者、敵連合のリーダーとして扱われ、連日報道されている。
その母親が以前と同じ家で何事もなく暮らし続けられたとは考えにくかった。
「…………そう、スか」
「お父さんもね、心配してくれてるの」
「デクの親父さん?」
「うん。今も海外赴任してるんだけど、もう日本にいなくてもいいんじゃないかって。こっちに来ないかって言ってくれてるんだけど……」
引子は膝の上で両手を組み、少しだけ俯いた。
「どうしても、あの子のいる日本を離れることができなくて」
「…………」
「出久が今どこにいるのかも分からないし、帰ってくるかも分からない。それでも、もし帰ってきた時に私までいなかったらって思うと……どうしてもね」
困ったように笑う引子を前に、爆豪は何も言えなかった。
目の下の隈も、先ほどふらついたことも、住み慣れた家を離れたことも、今の話を聞けば繋がってしまう。
夫から国外へ来るよう勧められてなお日本に残り、いつ帰るとも知れない息子を待ち続けている。
その息子を、自分は幼い頃から傷つけてきた。
爆豪はクリップボードを握る指の位置を何度か変えた。
怒鳴られるかもしれない。軽蔑されるかもしれない。それでも、何も知らない引子から「頑張っている」と言われたまま、この場を離れることだけはできなかった。
「……おばさん」
「なに?」
クリップボードをベンチの端へ置き、引子の正面へ回る。
そして、深々と頭を下げた。
「すみませんでした」
「……勝己くん?」
「俺、ずっとデクをいじめてました」
引子から返事はなかった。
「ガキの頃からです。あいつが無個性だったから見下して、何やっても俺より下だって決めつけて……なのに、あいつが俺の後ろついてきたり、俺が困ってる時に手ぇ差し出したりすんのがムカついて、ずっと当たり散らしてました」
幼い頃には、自分が間違っているなど考えたこともなかった。
周囲より強い個性を持ち、何をやっても褒められていた自分にとって、無個性の出久から手を差し伸べられることは、自分が下に見られているようにさえ感じられた。
「中学になってからも変わってねえです。あいつが雄英受けるって知った時も馬鹿にして、ノートぶっ壊して……酷ぇことも言いました」
そこまで口にすると、自分でも忘れたふりをしていた言葉が蘇った。
屋上からのワンチャンダイブ。
出久が気に入らないというだけで吐き捨て、本当に飛び降りたらどうなるのかさえ考えなかった。謝ったこともない。
「雄英に入ってからも、俺は何も変わんなかった。あいつに個性があるって分かったら、今度はずっと俺を騙してたんじゃねえかって勝手にキレて……あいつが何言っても聞こうとしなかった」
引子の顔を見ることはできなかった。それでも、自分に都合の悪いところだけ曖昧にするつもりはなかった。
「デクが雄英辞めて、ヴィランになって……最初は俺も、あいつが勝手にそうしたんだと思ってました。でも、後になって考えたら、あいつがそうなるまで追い詰めたもんの中に、俺がやってきたこともあったんじゃねえかって」
そこで一度、言葉を切る。
「……思ってます」
「…………」
「今さら謝って済むことじゃねえって分かってます。デク本人にも、まだちゃんと謝れてねえ。だから、おばさんに謝って許してもらおうとか、そういうつもりでもないっす」
爆豪は頭を下げたまま、はっきりと言った。
「……すみませんでした。俺が、デクにしてきたこと全部」
商店街の喧騒だけが、二人の周囲を流れていった。
「俺、ヒーローになって、あいつを捕まえなきゃって思ってます。そのあとは、責任とってヒーローやめて……って、考えてるんす」
引子は何も答えなかった。
怒鳴られる覚悟はしていた。
頬を叩かれたところで当然だと思っていたし、二度と顔を見せるなと言われても受け入れるつもりだった。
しかし、いつまで待っても声はなく、爆豪は頭を下げた姿勢のまま動かなかった。
やがて、引子が小さく息を吐いた。
「……あの子ね。いつもあなたの話をしていたの」
「…………」
「もちろん、いつも嬉しそうな顔をしてたわけじゃなかったけどね。怒って帰ってくる日もあったし、落ち込んでることもあった。でも、それでも勝己くんの話はよくしてた」
引子は膝の上に置いた自分の手へ目を落とした。
「かっちゃんの個性は凄いんだとか、判断が速いんだとか、絶対に凄いヒーローになるんだとか……戦うとしたらって、私が聞いてもよく分からないような戦い方の話まで、一生懸命してくれてね。『かっちゃんがヒーローになったら』って話を、ずっとしてたの」
爆豪の拳が強く握られた。
中学時代の自分が出久にどう接していたのかを考えれば、その言葉を素直に受け取れるはずがない。
憧れを向けられていることを知りながら、それを鬱陶しいと切り捨て、近づくたびに突き放してきたのだから。
「……勝己くん」
「……はい」
「うちの息子を、勝己くんの人生の理由に使わないでください」
爆豪は顔を上げた。
引子は怒っているようには見えなかった。
しかし、先ほどまでの疲れた笑みも消えていた。
「いじめていたことを話してくれて、ありがとう。でも……ごめんなさい。今は、許すとか許さないとか、まだ言えない。知らなかったことも、気付いてあげられなかったことも、いろんなことが一度に頭に入ってきて、私もまだ整理できないから」
「……はい」
「だから、今言えるのは一つだけ」
引子は真っ直ぐ爆豪を見た。
「勝己くんが出久にしたことは、いつか出久本人にちゃんと謝ってください。でも、その償いのためにヒーローになって、その償いのためにヒーローを辞めるなんて決めないで」
「でも、俺は──」
「勝己くんは、勝己くんの責任と理由でヒーローになってほしい」
遮られ、爆豪は口を閉じた。
「だって、出久がずっと憧れてた勝己くんは、そんなヒーローじゃなかったもの。勝つのが当たり前で、どんなヴィランが相手でも絶対に諦めなくて、最後には一番になってる。あの子が話してくれた『かっちゃん』は、そういう子だったから」
「……あいつが勝手に言ってただけっスよ」
「うん。そうかもしれないね」
引子はあっさり頷いた。
「だから、出久が思ってた通りになってって言ってるんじゃないの。どうするかは、勝己くんが決めて」
それまで一続きになっていたものが、爆豪の中で初めて切り分けられた。
出久をいじめたことへの責任と、ヒーローになる理由。
出久を捕まえることと、その後の自分の人生。爆豪はその全てをまとめて、自分が背負うべき罰のように考えていた。
「……俺は」
続きは出なかった。
すぐに答えられることではなく、引子も答えを求めなかった。
ベンチの脇に置かれた買い物鞄を手元へ引き寄せ、持ち手を掴んでゆっくり立ち上がる。
「おばさん、まだ休んでた方が──」
「もう大丈夫。さっきよりずっと楽になったから」
今度はふらついていなかったが、爆豪は何かあればすぐ支えられる距離から離れなかった。
引子は服の裾を整えると、少し考えてから爆豪を見上げた。
「でもね」
「……?」
「ちゃんとヒーローになった勝己くんが、出久を捕まえて、私の前に引き摺り出してくれたら……それは、とっても嬉しいかな」
「…………は?」
予想していなかった言葉に、爆豪は間の抜けた声を漏らした。
「いや、引き摺り出すって……」
「だって、帰ってきてくれないんだもの」
引子は少しだけ頬を膨らませた。
「お母さんがこんなに心配してるのに連絡もしないで、勝手に学校を辞めて、勝手にいなくなって……テレビをつければ怖い名前の人たちと一緒にいるって言われるし。帰ってきたら、言いたいことがいっぱいあるの」
「……そりゃ、まあ」
「だから捕まえてきて」
引子ははっきりと言った。
「その時は、二人まとめて説教してあげる」
「……はい」
「よろしい」
引子が微笑んだ。
目の下にはまだ濃い隈が残っているものの、その表情はほんの少しだけ、爆豪の記憶にある昔の彼女へ近づいていた。
「じゃあ、私は帰るね。お仕事の邪魔しちゃってごめんなさい」
「……送りますよ」
「近くだから大丈夫」
「でも──」
「勝己くんにはお仕事があるでしょう?」
引子はベンチに置かれていたクリップボードを手に取り、爆豪へ差し出した。
「ちゃんと頑張ってね」
「……ウス」
「それじゃあね、勝己くん」
「……気ぃつけてください」
引子は買い物鞄を提げ、商店街をゆっくりと歩いていった。
爆豪はその後ろ姿が人波の向こうへ消えるまで見送ってから、手元のクリップボードへ視線を落とした。
勝己くんは、勝己くんの責任と理由でヒーローになってほしい。
言われたことは理解できる。それでも、自分の中で答えが出たわけではなかった。
ヒーローになる資格を得て、正規の立場で出久を追い、自分の手で捕まえる。そこを変えるつもりはない。
ただ、その先まで罪悪感だけで決めてしまっていいのかと問われれば、もう以前のように迷わず頷くことはできなかった。
では、出久を抜きにして自分がヒーローを目指す理由は何なのか。
昔なら考えるまでもなかった。
オールマイトのように勝ち続け、一番になる。それだけで十分だったはずなのに、今の自分が同じ答えを口にしていいのかとなると、簡単には答えが出ない。
「……クソ」
眉間を揉んだところで、通りの向こうから聞き覚えのある声が飛んできた。
「お待たせしましたー!」
「あ?」
顔を上げると、先ほど気を利かせて姿を消したサイドキックが、片手を軽く上げながらこちらへ歩いてくる。
「……どっかで見てたんすか」
「まさか。ちゃんとパトロールしてましたよ。そこの裏通りと駐車場も見てきました」
「タイミング良すぎないスか」
「偶然です、偶然」
まったく悪びれずに答えた男は、誰もいなくなったベンチを見た。
「もう帰られたんですね」
「……ああ」
「ずいぶん長く話してましたけど、何を話してたんですか?」
爆豪は一瞬黙った。
「……まあ、ちょっと」
「そっか」
それ以上は尋ねず、サイドキックはクリップボードを指した。
「じゃあ、続き行きましょうか。まだ南側の半分くらい残ってますよ」
「……ウス」
二人は再び歩き出した。
午後になって人通りが増えると、爆豪は朝に馬鹿にした課題の意味を少しずつ理解することになった。
特に厄介だったのは、午前中には何の問題もなかった監視カメラが、店への搬入に来た配送車一台によって路地の入口ごと見えなくなっていた場所だった。
設置図を眺めるだけなら監視範囲内で終わる話だが、実際には時間帯によって死角が生まれる。
「……チッ、面倒な所に停車してんじゃねえわ」
小さく吐き捨てながら、爆豪は記録用紙へ時刻と状況を書き込んだ。
最後の区域を回り終える頃には、日はすっかり西へ傾いていた。
「今日はここまでですね」
サイドキックが腕時計を確認する。
ビルの隙間から夕日が差し込み、駅前の店舗では看板や街灯が点き始めていた。
朝にはほとんど空白だった記録用紙も、今では細かな文字と印で埋まっている。
事務所へ戻ると、日中の外回りを終えたサイドキックたちが次々と帰還しており、受付の奥では報告書を整理するスタッフが慌ただしく動いていた。
爆豪も借りていた備品を戻し、指示されていた通り記録用紙の抜けがないかを確認する。
「じゃあ、俺は今日のパトロール報告をまとめてきます。爆豪君の課題は本人から報告するように言われてるので、ベストジーニストのところへ持っていってください」
「ウス」
ベストジーニストは既に戻っていると聞いている。
朝の緊急の要件が何だったのかは知らないが、帰ってきて早々に書類仕事へ戻っているらしく、執務室の前まで来ると扉の向こうから紙を動かす微かな音が聞こえてきた。
爆豪は扉の前で足を止め、クリップボードを持ち直した。
いつもなら面倒臭がってそのまま入ってしまいそうなところだが、ここ数日の間に最低限の事務所内の作法くらいは叩き込まれている。
扉を叩くと、中からベストジーニストの声が返ってきた。
「入りたまえ」
「失礼しま──」
ドアノブを回し、扉を開ける。
同時に、室内から別の男の声が聞こえた。
「──それじゃあ、自分は戻ります。緑谷出久に関する報告も逐次送りますんで」
爆豪の足が止まった。
開いた扉を挟んで、三人の視線が重なる。
執務机の向こうにはベストジーニストが座っており、その正面には見覚えのある赤い翼を背負った男がいる。
数日前、町内清掃の最中にも姿を見せたナンバー2ヒーロー、ホークスだった。
机の上には何枚かの資料が広げられ、ホークスは薄いファイルを片手にソファから立ち上がっている。
最初に口を開いたのはベストジーニストだった。
「……ホークス、お前という奴は」
その声を聞いて、ホークスが僅かに肩を竦める。
「今」
爆豪は動かなかった。
「デクって言ったか?」
「……言いましたね」
ホークスは悪びれもせず認めた。
「何でテメェがデクのこと話してんだ。報告って何だよ。何知ってやがる!」
「すまない、爆豪」
ベストジーニストが席を立った。
「今は退室してくれ。これは極秘事項だ」
「あァ!? ふざけんな! デクの名前出しといて出てけで済むと思ってんのか!」
「君が彼を追っていることは承知している。だが、それと機密情報へのアクセス権限は別の問題だ。ここで扱っている情報は、私の一存で君へ開示できるものではない」
「だったら何でホークスは知ってんだよ!」
「それを含めて話せないと言っている」
ベストジーニストの口調は落ち着いていたが、その視線は爆豪ではなく、一瞬だけホークスへ向けられた。
意図的に名前を聞かせた時点で嫌な予感はしていた。
そしてホークスが、退室を命じられた爆豪を引き留めるようにその場から動かないことで、ほとんど確信へ変わっている。
「クソが……!」
爆豪が奥歯を噛み締めた。
ヒーローとして守るべき一線をジーニストが引いていることくらい理解できる。
それでも、出久について何かを知っている人間が目の前にいて、素直に引き下がれるはずもなかった。
そんな爆豪を眺めながら、ホークスがいかにも今思いついたとでもいうように口を開く。
「そうそう。今ちょうど、ヴィランの組織に潜り込めるような、ドロップアウト気味の若者がいれば都合いいんですけどねえ」
「…………」
ベストジーニストの表情が変わった。
「ホークス」
先ほどよりも明確な制止だった。
「何スか?」
「それ以上はやめろ。彼は子どもだぞ」
ホークスは答えず、爆豪へ視線を移した。
「雄英高校ヒーロー科を自主退学。仮免なし。今はヒーロー事務所に所属してるけど、表向きはサイドキックですらない候補生。素行について調べれば、昔から喧嘩っ早くて口も悪い」
「誰が素行悪ぃって?」
爆豪が即座に噛みつく。
ホークスは待っていましたとばかりに片眉を上げた。
「ほら、ナンバー2相手でもこれでしょう?」
「誰がテメェに喧嘩売った!」
「おや」
ホークスはとぼけた顔で爆豪を眺め、それからベストジーニストへ視線を向けた。
「これはまさに求めていた人材じゃあないですか。ねぇ、ジーニストさん。手段を選んでる余裕なんてないんじゃないんすかね」
「……最初から、そのつもりだったな」
ベストジーニストの声から、普段の柔らかな調子が消えた。
「いやぁ、俺ってば見ての通り口が軽くて」
ホークスは軽く笑ったが、ベストジーニストは応じなかった。
「爆豪を巻き込むつもりなら、私は賛成できない」
「あァ?」
当人を置き去りにして進み始めた会話に、爆豪が眉を吊り上げる。
「待てや。巻き込むって何だ。潜入ってどこにだよ」
「爆豪、今は──」
「ここまで聞かせといて今さら出てけは通らねえだろうが!」
「まあまあ」
ホークスが二人の間へ割って入るように片手を上げた。
「本人もこう言ってることですし」
「君がそう言わせたんだろう……!」
ホークスは肩を竦めた。
その軽い態度とは対照的に、ベストジーニストの目は笑っていない。
爆豪にはまだ話の全容が見えていなかったが、少なくとも一つだけは理解できた。
ホークスとベストジーニストは、緑谷出久に関する何かを握っている。