「逃げ場ねぇぞ、デク」
爆豪の声が、爆音の向こうから届く。
出久は鉢巻を押さえたまま、息を呑んだ。
前方には瀬呂のテープ。細く見えて、複数の支点へ張り巡らされたそれは、下手に突っ込めば騎馬ごと絡め取られる。横は砕けた氷片で足場が悪く、後ろからは爆豪チームが迫っている。
機動力は、封じられた。
「……真正面しかない」
出久が低く呟くと、麗日がごくりと喉を鳴らした。
「デク君……」
「大丈夫」
そう言った声が、自分でも少し硬いと思った。だが、もう迷っている余裕はない。
爆豪チームが迫る。先頭は切島。硬化した身体で、まるで盾みたいに前へ出ている。その後ろで芦戸が足場を滑らせ、瀬呂はいつでもテープを追加で撃てる姿勢。そして騎手の爆豪は、低く身を乗り出していた。
完全に、取りに来ている。
「麗日さん、重さ戻して」
「えっ?」
「軽いままだと、押し負ける」
「……分かった! 正直酔いも結構限界だったり」
麗日が指を合わせる。
ふっと、騎馬全体へ重さが戻った。発目の装備が、ぎしりと軋む。
「なるほど! 機動戦から固定砲台へ移行ですね!」
「そんな格好いいものじゃないよ!」
出久は前を見る。爆豪が笑った。
「ようやく腹括ったか」
「……逃げても追ってくるだろ、かっちゃんは」
「あたりめぇだ」
爆豪の掌に、爆炎が溜まる。
「テメェから逃げる理由がねぇ」
爆豪チームが、真正面から突っ込んできた。
氷片が砕け、酸で滑る足場を瀬呂のテープが強引に制御する。切島の硬化した肩が、盾のように迫った。
「轟君!」
「分かってる」
轟が足を踏み込む。
出久達の騎馬の前に、低い氷の突起が連続して生えた。高い壁ではない。切島に砕かせるための壁でもない。足元、膝下、進行方向を乱すための小さな障害。
「うおっ!?」
切島の足が一瞬引っ掛かる。だが、倒れない。硬化した足で氷を踏み砕き、そのまま前へ出る。
「このくらいじゃ止まんねぇ!」
「止めるためじゃない」
轟が言う。
その一瞬、爆豪チームの速度が僅かに落ちた。
十分だった。
「今!」
出久が身を乗り出す。
白い骨が、腕の内側から伸びる。槍骨。だが、刺すためではない。鉢巻を狙うための、長い指のように。
「チッ!」
爆豪が爆破で身体を横へ振る。出久の槍骨が空を切った。
同時に、爆豪の手が伸びる。狙いは出久の額。一千万ポイント。
「取ったァ!」
「まだ!」
麗日が叫び、騎馬の重心をずらした。出久の身体がほんの少し横へ流れ、爆豪の指先が鉢巻の端を掠める。布が揺れる。だが、取れない。
「丸顔ォ!!」
「名前で呼んでよ!」
麗日が叫び返す。
その間に、瀬呂のテープが再び飛んだ。狙いは出久の右腕。槍骨を封じるつもりだ。
「発目さん!」
「はいはいはい!」
発目の装備から小型のアームが飛び出し、テープを絡め取る。ぎゅるん、と音を立てて巻き取られた。
「捕獲成功! いやぁ、瀬呂さんのテープ、素材としても面白いですね!」
「返せよそれ!」
瀬呂が叫ぶ。
だが、爆豪は止まらない。
「邪魔だ!」
至近距離で、爆破。
直接攻撃にはならない角度で、爆風だけを叩きつける。視界が白く弾けた。
「っ……!」
白煙、爆風、熱。視界がぐしゃりと潰れ、熱風が頬を叩き、耳鳴りが響く。
だが。
(来る——!)
出久は反射的に前を見る。
爆豪は正面。まだそこにいる。切島の後ろ。爆炎を纏ったまま、真正面から。
そう判断した。
次の瞬間。
「瀬呂ォ!!」
「おう!!」
テープが飛ぶ。
出久は咄嗟に槍骨を振るい、迎撃した。白いテープを叩き落とす。さらに二本、三本と飛んでくるそれを、全部防ぐ。
防ぎながら、出久は気付いた。
(かっちゃんが来ない?)
正面にいるはずなのに、爆豪が動かない。
いや、違う。
いない。
「デク君上——!!」
麗日の悲鳴。
その瞬間、ぞわりと背筋が粟立った。
「っ!?」
見上げる。
上空。爆煙を突き破るように、一つの影が飛び出していた。
爆豪勝己。
掌から連続爆破を噴射し、騎馬から単身で跳んでいる。
「は——」
出久の反応が、完全に遅れた。
騎馬戦。騎手は騎馬の上にいる。そう思い込んでいた。
だから、爆豪が自分の騎馬を踏み台にして、単独で空から取りに来るなんて、一瞬も考えていなかった。
「取ったァァァァァ!!!」
爆豪が吼える。
爆破。急加速。空中から一直線。
出久は慌てて槍骨を伸ばす。だが、遅い。爆豪はもう目前だった。
「しま——」
ひゅっ、と軽い音がした。
あまりにも軽い音だった。
出久の額から、一千万ポイントの鉢巻が抜き取られる。
「——あ」
一瞬、本当に一瞬、何が起きたのか理解が空白になる。
爆豪が空中で獰猛に笑った。その手には、一千万ポイントの鉢巻。
『とっっっっったァァァァァ!!!』
プレゼント・マイクの絶叫が競技場を揺らす。
『爆豪勝己ィ!! 空中からの奇襲!! 一千万ポイント強奪成功ォォォォ!!!』
観客席が、爆発したみたいに沸いた。歓声、悲鳴、どよめき。その全部が混ざる。
「デク君!!」
麗日が叫ぶ。
だが、出久は動けなかった。
取られた。
今、本当に、目の前で。
爆豪は空中で身体を捻ると、そのまま掌を下へ向けた。爆破の反動で軌道を変え、自分の騎馬側へ戻る。
「ナイス爆豪ォ!!」
切島が吼える。
瀬呂が即座にテープを射出し、空中の爆豪の腕へ巻き付け、そのまま強引に引き戻した。芦戸が酸で足場を滑らせ、騎馬が爆豪の着地点へ滑り込む。
連携は、完璧だった。
爆豪が自分の騎馬へ着地する。その右手には、出久から奪った一千万ポイントの鉢巻が握られていた。
「……はっ」
爆豪が荒く息を吐き、その目が真っ直ぐ出久を射抜いた。
「言ったろ」
爆炎が、掌で弾ける。
「最後にテメェを取るのは、俺だってなァ」
「——っ!!」
その瞬間、出久の意識が一気に現実へ引き戻された。
取られた。
一千万ポイントを、今この瞬間に。
「返せッ!!」
出久が反射みたいに前へ出る。槍骨が一直線に伸び、爆豪の手の鉢巻を狙う。
だが。
「遅ぇ」
爆豪が爆破し、爆風で騎馬ごと横へ滑る。同時に瀬呂のテープが飛び、出久の槍骨へ巻き付いた。
「っ!?」
「悪ぃな緑谷!!」
瀬呂が叫ぶ。
槍骨が引かれ、その一瞬で爆豪チームが距離を取る。
「轟君!!」
「ああ!」
轟が氷を伸ばす。だが、爆豪は止まらなかった。
爆破で氷片を吹き飛ばしながら加速し、切島が前で砕き、芦戸が滑らせ、瀬呂が軌道を固定する。完全に、逃げ切り態勢だった。
「待て!!」
出久が叫び、騎馬を前へ出そうとする。
だが。
「デク君、前!」
「っ!」
瀬呂が張ったテープの網が、まだ残っている。無理に突っ込めば絡め取られる。
一瞬、足が止まる。
その僅かな躊躇の間に、爆豪チームがさらに距離を広げた。
『残り時間、十秒ォォォ!!』
プレゼント・マイクの声が響く。
「十秒……!」
麗日の顔が青ざめる。
出久は歯を食いしばった。
まだ届く。まだ。まだ——!
「発目さん、推進!」
「ベイビーはもう限界です!! でもやります!!」
サポートアイテムが悲鳴みたいな音を上げる。
轟の氷。麗日の無重力。発目の推進。三つが重なり、騎馬は再加速した。
だが。
「瀬呂ォ!」
「任せろ!」
再びテープが飛び、出久達の進行方向へ何重にも張り巡らされる。
「くそっ!!」
槍骨で切る。一本、二本。だが、その間にも時間が削られていく。
『五!』
爆豪が笑う。爆炎を噴き上げながら、一千万ポイントの鉢巻を肩へ掛けて。
『四!』
夜嵐チームが、別方向で暴風みたいに他チームを蹴散らしている。既に誰も止められない。
『三!』
物間が、いつの間にか複数の鉢巻を抱えながら観客席へ手を振っていた。
「いやぁ、実に愉快だねぇ!」
『二!』
「……え?」
出久が、一瞬目を見開く。
大型モニターの順位欄。そこに表示されていたのは、四位、普通科、心操人使。
「いつの間に……!?」
麗日が呆然と呟く。
目立たない位置、乱戦の外。だが心操は、確実に点数を積み上げていた。
『一ィ!!』
終了ブザーが、競技場へ響き渡った。
その瞬間、全ての騎馬が止まる。出久の槍骨も、空中で止まった。
届かない。
最後まで。
結局、一度も。
「……終わった」
出久が呆然と呟く。
モニターへ、最終順位が映し出された。
『騎馬戦終了ォォォ!! 最終結果はこちらァ!!』
一位、爆豪チーム。大量ポイントで、ぶっちぎり。
「っしゃァ!!」
爆豪が吼え、切島が拳を握り締める。瀬呂と芦戸も叫んでいた。
二位は夜嵐チーム。他所で暴れ回っていた結果、圧倒的な点数を獲得している。
『すげぇぞ夜嵐ィ!! 暴風みてぇな荒らしっぷりだったァ!!』
三位は物間チーム。爆豪から奪った鉢巻に加え、乱戦で細かく回収した点数が効いていた。
「いやぁ、堅実な勝利というやつだね」
物間が大仰に礼をする。
そして四位、心操チーム。
普通科の名が表示された瞬間、観客席がどよめいた。
『普通科!! 普通科がヒーロー科を押し退けて四位進出だァァ!!』
心操は、静かにモニターを見上げていた。歓喜も絶叫もない。ただ、冷静な目をしている。
『以上、四位までが最終種目進出決定ィ!!』
そのアナウンスに、出久は何も言えなかった。
モニターの下。緑谷チーム、0点。
一千万ポイントを失った時点で、全て消えた。
敗退。
ここで終わり。
静まり返ったように感じた。
実際には、競技場はまだ歓声に包まれている。爆豪チームを称える声、普通科躍進へのどよめき、次の種目への期待。その全部が渦みたいに響いている。
なのに、出久には少し遠かった。
0点。
敗退。
モニターへ表示されたその文字だけが、頭に焼き付いて離れない。
騎馬が停止し、出久はゆっくり俯いた。拳が震えていた。
「……ごめん」
掠れた声だった。
「轟君、麗日さん、発目さん……ごめん」
唇を噛む。
「僕が、最後……取られて」
もっと警戒していれば。もっと視野が広ければ。爆豪の動きを読めていれば。
そう考え始めた瞬間、轟が口を開いた。
「何言ってんだ」
いつもの無表情に近い顔のまま、真っ直ぐ出久を見ている。
「負けたのは、お前一人の責任じゃない」
「でも……!」
「俺も止め切れなかった。爆豪を止められなかったのは俺だ」
「いや、それは……!」
「それに」
轟が僅かに息を吐く。
「チーム戦だろ」
短い言葉だった。だが、それだけで十分だった。
麗日も、ぶんぶん首を振る。
「そうだよ! なんでデク君だけ謝んの!」
「麗日さん……」
「うち、最後かなり酔ってたし! 足引っ張っとったかもだし!」
「そんなこと——」
「ある!」
麗日がむっとする。
「それに、みんなで戦ってたんだから、みんなで負けたの! 一人だけのせいとか、そんなのは違うよ!」
いつもの柔らかさの奥に、強い意志がある声だった。
発目も、ゴーグルを押し上げながら、うんうん頷く。
「最後なんて、あと数秒長引いてたら普通に爆発してましたよ!」
「それ危なくない!?」
「サポート科的にはロマンです!」
「ロマンで済ませちゃ駄目だよ!?」
思わず出久が叫ぶ。
発目は満足げに胸を張った。
「なので! 責任割合で言えば、みんな均等です!」
「均等って……」
出久の口から、少しだけ笑いが漏れた。
本当に、少しだけ。
けれどそれだけで、胸の奥に張り付いていた重さが少し崩れる。
悔しい。
ものすごく悔しい。
あと少しだった。勝てる可能性は、確かにあった。爆豪に取られた瞬間が、何度も頭をよぎる。自分の判断ミス、読み負け、甘さ。その全部が、悔しくてたまらない。
けれど。
「……でも」
出久は小さく息を吐き、痛いくらい強く拳を握った。
「楽しかったな……」
視線を上げる。
広い競技場、割れた氷、千切れたテープ、爆炎の跡。その全部が、さっきまでの全力の痕跡だった。
「全部出し切れた」
卑怯なことも、後ろ暗いことも、何もない。
考えて、叫んで、必死で、全力で戦った。
負けた。
でも、逃げなかった。
最後まで、真正面から戦った。
胸の奥に残っているのは敗北感だけじゃない。奇妙なくらい澄んだ感覚。全力を出し切った後にしかない、熱と爽快感だった。
「……そっか」
麗日が、ふっと笑う。
「うん。なんか、分かるかも」
轟も小さく頷いた。
「悪くない負け方だった」
「負け方を評価するのもどうなんですかね?」
発目が首を傾げる。
「でもまぁ、ベイビー達はいっぱい宣伝出来ました!」
「ブレないなぁ発目さん……」
『さぁさぁ! 熱戦冷めやらぬところだが、ここで一旦クールダウンだァ!』
競技場に、プレゼント・マイクの声が響き渡った。
『続いては参加自由のレクリエーションタイム! 出るもよし、休むもよし、目立つもよし! ただし無理は禁物だぜリスナー諸君!』
歓声が、少し柔らかいものへ変わる。戦いを見ていた観客達の空気も、張り詰めたものから祭りの熱へ戻っていく。
『その後は昼食を挟んでェ——いよいよ本日の大本命!』
マイクの声が、わざとらしく溜めを作る。
『最終種目! 一対一のガチンコトーナメントだァァァァ!!』
再び、競技場が揺れた。
出久は、その歓声を背中で聞いていた。
もう、自分の出る舞台ではない。
そう思うと胸の奥がちくりと痛む。けれど、足は止まらなかった。
「早速まとめないと……!」
控え室に戻る頃には、身体のあちこちが熱を持っていた。爆風で打った肩、槍骨を無理に伸ばした前腕、騎馬の上で踏ん張り続けた腰。
出久は救護用のテーピングを取り出し、慣れない手つきで腕に巻きながら、ぶつぶつと呟き始めた。
「まず視界……煙幕下で正面に意識を固定しすぎた。瀬呂君のテープに反応できたのはよかったけど、それが逆に囮として成立してた。かっちゃんの単独離脱を想定してなかったのは完全に失敗……騎馬戦のルール上、騎手は騎馬の上にいるものって固定観念があった。いや、騎手が一瞬離れた場合の扱いって、厳密にはどうなんだろう……でも反則になってない以上、成立する戦術として考えるべきで……」
テープを引っ張る。少し強く巻きすぎて、指先が痺れた。
「あ、きつい」
巻き直す。
「あと、轟君の氷で進路妨害した後、こっちから攻める選択肢もあった。受けに回りすぎた。麗日さんの無重力も、もっと短時間で切り替える前提なら機動力と安定性を両立できたかも。発目さんの装備は出力限界が早かったから、序盤に宣伝目的の動きが多かった分、終盤の余力が……いやでも、あれがなかったら序盤で目立てなかったし、他チームの牽制も集められなかった可能性が……」
言葉が止まらない。
敗退した悔しさが、分析に変わって口から漏れていく。そうしていないと、胸の奥で燻るものに飲まれそうだった。
「かっちゃんは、こっちが反撃する瞬間を狙ってた。僕が鉢巻を取り返しに行く性格まで読んでた。最後の十秒で焦るのも……」
その時、携帯が震えた。
出久の言葉が、ぴたりと止まる。
「……」
嫌な予感がした。
胸の奥を、冷たい指で撫でられたような感覚。
出久はゆっくりと携帯を手に取った。
画面に表示されていたのは、名前ではない。番号でもない。
非通知設定。
「……」
喉が乾く。
ブブッ。
また震える。
出久は画面を見つめたまま固まった。
出ない方がいい。そう思った。
けれど、出なければならない気もした。
逃げても、きっと意味がない。
指が、勝手に通話ボタンへ触れる。
「……はい」
耳に当てた瞬間、静かな呼吸音が聞こえた。
そして。
『やあ』
穏やかな声だった。
老人のようで、けれど妙に若々しくもある。優しく、柔らかく、どこか親しげで。
だからこそ、出久の背筋は凍った。
『体育祭、お疲れ様』
「……あなたは」
『結果は残念だったね。緑谷出久くん』
名を呼ばれた。
ただそれだけで、胸が強く跳ねる。
出久は思わず周囲を見回した。控え室には誰もいない。外からはレクリエーションの歓声が微かに響いている。
けれど今この部屋の中にある音は、携帯から流れるその声だけだった。
『一千万ポイント。実に惜しかった。君はよく考え、よく動き、よく耐えた。見事だったよ』
「……見て、いたんですか」
『もちろん』
即答だった。
出久の手に、じわりと汗が滲む。
『だが、不思議でもあった』
「不思議……?」
『新たな個性は、ほとんど使っていないようだったからね』
心臓が、嫌な音で鳴る。
『あれほどの舞台だ。全国が見ている。ヒーローを目指す者なら、自分の力を示す絶好の機会だったはずだ』
声は優しい。だが、その優しさは刃物の鞘に似ていた。
『それなのに、君は随分と慎重だった。使っていたのは常時発動型の『五感強化』と『槍骨』くらいかな。派手な物もあれば、こっそり使える物もあったろうに』
「……」
『縛りプレイというやつかな?』
男はそこで、あっさりと話を切った。
『まあいい。今日はその話をしたかったわけではないんだ』
責めるでもなく、失望するでもなく、ただ少し世間話を終えたような軽さで。
「……本題?」
『そう。本題だ』
出久は携帯を握る手に力を込めた。嫌な汗が、掌に滲む。
『ヒーロー殺しを知っているね』
「……!」
出久の目が、わずかに見開かれる。
ヒーロー殺し。その単語を知らないはずがなかった。
ここ最近、ニュースでもネットでも、その名前は何度も流れていた。プロヒーローを襲撃し、重傷、あるいは死亡に追い込む謎のヴィラン。犯行の痕跡はある。被害者もいる。だが、本人の姿はほとんど掴めない。
ヒーロー社会の影を刺すように現れた、異質な存在。
『ヒーローオタクの君なら、当然ニュースは追っているかな?』
「……追ってます」
出久は慎重に答えた。
「そのヒーロー殺しが、何なんですか」
『彼は思想家だ』
「……ヴィランです」
『もちろん、法的にはそうだろうね』
男は否定しない。むしろ、その分類自体には興味がなさそうだった。
『だが、ただの強盗や殺人犯とは少し違う。彼には信念がある。歪んではいるが、強固な信念だ。偽物のヒーローを裁く。真の英雄だけが名乗る資格を持つ。そういう類の、厄介で、純粋で、危険な信念がね』
「……何が言いたいんですか」
『君は、彼に興味を持つべきだ』
出久の背筋が冷える。
「僕が?」
『そう。君が』
男の声は変わらず穏やかだった。
心臓が早鐘を打っている。怖い。怖いのに、頭のどこかが回ってしまう。
ヒーロー殺し。この男が今その名前を出した意味。
『近いうちに、保須で少し騒がしくなる』
出久の指が、携帯を握り締める。
『ヒーロー殺しも、そこにいる可能性が高い』
「なぜ、そんなことを僕に言うんですか」
『君がヒーローになりたいからだよ』
「……っ」
『ヒーローは、事件の中心に立つものだろう?』
その言葉は、甘かった。
甘くて、毒だった。
『君が今日の敗北を本当に悔しいと思うなら。力を持ちながら使わなかった自分に、ほんの少しでも苛立ちを覚えているなら』
「やめてください」
『本物を見に行くといい』
「やめろ……!」
出久の声が、思わず荒くなる。控え室の壁に、その声が小さく反響した。
電話の向こうの男は怒らなかった。むしろ、満足そうに息を吐いた。
『いい反応だ』
「……僕は、あなたの言う通りには動きません」
『もちろん』
即答だった。
『それでいい。君は君の意志で選ぶべきだ』
まただ。
選ばせるように言いながら、道を置く。拒絶さえ、選択肢の一つとして包み込む。
出久は、吐き気に似た感覚を覚えた。
『昼食をしっかり取りなさい。怪我の手当ても忘れずに。午後は観戦するだけでも、君にとって多くの学びがあるだろう』
「……」
出久は歯を食いしばる。
『また連絡するよ、出久くん』
「待っ——」
ぷつり。
通話は切れた。
画面には、非通知の文字だけが残っていた。
出久は携帯を握ったまま、しばらく動けなかった。
外からは、レクリエーションの明るい音楽が聞こえてくる。笑い声。歓声。祭りの空気。
その全部が、薄い壁一枚の向こうにある。
なのに、出久のいる控え室だけが、暗い水の底に沈んだみたいだった。