カーテンの閉じきった六畳一間。既に日付の感覚はおろか、時間の感覚も曖昧だ。
遠くを走るバイクの排気音。犬の鳴き声や、人の騒がしい声。
枕元に放り投げ捨てられた携帯は、黒い画面を晒したまま沈黙している。
指先一つ動かすにも、鉛のような重さを伴った。微かに湿気った枕に深く顔を沈める。
「お兄ちゃん、こっち!」
ーー心臓が跳ねた。
(ーーーっ、)
窓の外、どこかの兄妹のはしゃぐ声。
視界の裏側に焼きついた幻影を振り払うように、強く瞼を閉じた。だが、追い打ちをかけるように腹の虫が寂しい部屋に鳴り響く。
(...最後に食べたの、いつだったかな)
枕元に置いていた水を飲もうと手を伸ばす。思いの外軽かった。
ため息を深く吐き、重い腰を上げて冷蔵庫に行くも、そこも空。
(......外、出るか。)
出前を頼もうにもこんな辺鄙な田舎だ。そもそも肝心の携帯は沈黙したまま。
適当な上着を羽織る。
玄関のドアを開けると、刺すような冷気が淀んだ家の中に吹き入った。
アパートのボロい外階段を降り、肩を丸めて歩きだした。朝の通学時間帯だったのか、底冷えするような寒さの中、黄色い安全帽を被った子供たちが歩いている。
さっきの兄妹もこれぐらいの子だったのか。
眩暈がする。
ただでさえ遠いコンビニまでの距離が、果てしなく遠く感じられた。
住宅街の角を曲がって、コンビニ数十メートル。
前方から2人の男女が歩いてきた。
「もー!日車さん!そんな怖い顔してたら子供に避けられちゃいますよ!」
「...清水、今はそんな話をしている場合ではない。」
「いえ!今だからこそですよ!帰りに駅前のドーナツ屋に寄りません?事務所帰ったらコーヒー淹れますよ!」
きちんとしたスーツの男女。襟元に光るバッチを確認する。
(ああ、弁護士か。こんな朝っぱらから大変だなぁ。)
男の方の顔が目に入る。白眼ぎみの疲れてそうな顔の男。
(...なんだ?)
弁護士なんて、非呪術師の人間と関わったことなんてないはずだ。
違和感が急速に頭の中で膨れ上がる。やがてそれは頭の中をハンマーで叩かれているような強烈な痛みに変わった。
「...っ...う、」
膝を曲げ、頭を抱える。視界が歪み、点滅する。冷や汗がさらに身体の体温を下げる。
濁流のように記憶が脳内に流れ込む。画面越しに見ていた、あの男だ。
そうだ、彼らはそれの登場人物だったはずだ。
日車という男は正義を信じ、絶望して呪術師として目覚める。清水という女性は彼が弁護士自体に共に正義を歩んでいた人だ。
今までの人生の違和感のピースがハマっていく。ここは、あのアニメの物語ーーー
「えっ、ちょっと大丈夫ですか!?」
不意に上から降ってきた快活な声。
跳じむような足音が近づき、肩に手を添えられる。
「顔色真っ青ですよ!日車さん、どうしましょ?!この人すごい汗です!」
「...清水、大声を出すな。彼が驚くだろう。...大丈夫ですか。酷い顔色だ。清水、あのコンビニで何か温かいものを。」
「はい!」
走っていく清水さんと入れ替わるように肩を支えられる。
「...大丈夫ですか。まずは隅に移動しましょう。...失礼しますよ。」
日車は俺の脇に手を差し入れ、俺の様子を確認しながらゆっくりと移動する。
道路の隅に俺を座らせると、自身もしゃがみ込み顔色を確認するように、白眼ぎみの目でじっと見つめる。
(...くそっ、痛いな)
今だに治らない頭痛で頭が割れそうだ。だが、それ以上に、目の前にいる日車に緊張している。
ーーーなぜなら彼は俺の最推しだからだ。
一般人相手には敬語なんですねとか、やっぱり声かっこいいですねとかいろいろ考えていると、日車が俺の手首を手に取り、脈拍を測る。
原作の知識が入ってきた衝撃とかが全て吹き飛びそうだった。
「...。脈拍が早いな。呼吸も浅い。相当、お辛いようだ。」
日車が低く、落ち着いた敬語で告げる。
「...すみません、少し頭痛が酷くて。...もう、大丈夫ですから。」
俺はなんとか声を出し、視線を落とした。
今まで生きてきた呪術師としての警戒心と、推しに心配される緊張が混ざり合って、まともな顔ができない。
立ちあがろうとするが、日車にやんわり止められる。
「...もう直ぐ清水が戻ります。それまでは休んでください。まだ顔色が悪い。」
穏やかで低い声。だけど今の俺には緊張の種だ。彼は天才だ。今は呪術を知らないだろうが持ち前の観察眼で全て見透かされそうで怖い。
(推しに!看病されるとかめちゃくちゃ嬉しいけど!っ無理!)
会うなら万全な状態で会いたい。今の俺は上下スウェットに適当に羽織った上着。なんなら最後にシャワー浴びたのだって二日前だ。
呪霊相手にだってこんなに慌てたことはない。
無理やりにでも帰ろう。そう思っていると清水さんが戻ってくる。
「お待たせしましたーー!飲み物と、ゼリー飲料です!」
日車さんは受け取ると、俺の手に持たせるようにそっと添えた。
「...少し落ち着かれましたか。近くに私の事務所があります。そこで動けるようになるまで休んでいかれませんか。」
事務所に、という話に慌てて顔を上げる。
これ以上の関わりダメだ。
「いえ!大丈夫です!本当にありがとうございます!」
俺はひっくり返るように声を出して慌ててポケットに入っていた千円札2枚を日車に押し付けて握らせる。
「えっ!?ちょっと!?お金はいいですよ!」
清水さんの慌てた声がするが、立ち上がる。
「これお代です!お釣りは大丈夫です。失礼しますっ!」
ふらつく足でなんとか逃げるように走る。
「待ちなさい!」
鋭い日車の制止の声を背中に感じながら、家まで走り部屋に飛び込み、ドアに背中をつける。
「はぁ、はぁ、...死ぬかと思った。」
本物だった。日車さんも清水さんも。推しが脈拍を測ってくれた。心配してくれた。オタクとしての心臓が飛び出しそうだった。
一息吐き、落ち着く。まだ頭は痛いが、明日には治るだろう。
ぐぅ。
静まり返った部屋と、空腹を訴えている腹の虫に食料を買い出しに行ったのだと思い出す。
手の中には飲み物とゼリー飲料。
推しからもらった飲み物の暖かさを噛み締めながら、空っぽの冷蔵庫を思い出して、静かに天を仰いだ。
日車さん推しです。