二刀の覚悟 〜元プロ二刀流、青道高校に転生す〜   作:熊々

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第4話です。

原作を持っておらず記憶とgoogleが頼りで書いてるため、若干原作とは違うと思います。
どうぞご了承いただけると幸いです。原作ファンの方申し訳ないです。


朝五時のグラウンドに、ふたつの遅刻が滑り込みます。
ひとつは、隠れて紛れ込もうとする方。
もうひとつは、堂々と列の前に出て頭を下げる方。

そのあと、監督が短く、低く、ある資格について話します。
資格を保留にされた一年生は、まだ走り続けています。

主人公は、別のブルペンで、同じ朝の空気を吸っています。
吸ったあとに、半センチだけ、ミットが動きます。

長い春の二日目を、お届けします。


第4話 投手失格

朝五時の青道学園は、まだ夜の青さが残っていた。

 

集合時間に間に合うには、寮から走って三分。

 

俺は、二分前に着いていた。

 

グラウンドに入ると、外灯のオレンジが土の上で薄く滲んでいた。空はまだ群青に近い。鼻から吸う空気が肺の奥でひんやりと刺さった。

 

前世の春先のメジャーキャンプ初日の朝によく似た冷たさだった。湿度が低くて土の匂いだけが妙に鋭い。あの感覚が十六歳の鼻腔の奥でもう一度立ち上がってきた。

 

息を吐くと白い塊が外灯の光の中でゆっくりほどけた。その白さの密度で自分の体温と外気の差が分かる。今朝の差は、たぶん十二度。前世のキャンプ地の朝とほとんど同じだ。

 

ベンチ脇に二軍と三軍の選手がばらばらと整列を始める。きっちり背筋を伸ばして立つ二年。肩を回しながら欠伸を噛み殺している同級生。ジャージの裾を直しながら俺の隣にすべり込んできた小柄な選手。

 

寝起きの差が整列の縦のラインに小さく出ている。先頭で先輩キャプテンが列の歪みを目だけで管理していた。怒鳴らない。ただ見ている。視線で揃えている。背筋が傾いている奴の方を目だけでちらりと見て、二秒で戻す。それで列の角度が勝手に直る。

 

青道のやり方だな、と俺は思った。

 

(——統制の質が、違うな)

 

俺は列の前から二人目に立って軽く屈んだ。スパイクの紐を、左から右の順に確認する。左を二回、右を一回。最後にもう一度、左の紐を二本指で挟んで結び目を内側に回す。指の腹で結び目の硬さを確かめる。ほどけない硬さで、しかし爪先の血流を止めない硬さ。その境界線を指が知っている。

 

——前世の高校時代。肩を作るために通ったブルペンで、ある先輩に教えられた癖だった。「右は強く結ぶな。左は二回引け。結び目は内側に隠せ」と酒臭い息で言われた。意味があるのかは二十年経っても分からない。それでも俺はずっとそうしてきた。プロに上がってからも、メジャーの土の上でも、最終登板の前にも、指はそうやって動いた。

 

(——ジンクスだ。それでいい)

 

紐を結び終えてからゆっくり身体を起こした。

 

四時五十五分。整列はもうほぼ揃っていた。誰も口を開かない。咳一つ、しゃっくり一つ聞こえない。冷たい空気の中で自分の呼吸の音だけがやけに大きく感じた。前世の試合前。満員のスタジアムでマウンドに上がる直前にもこんな静寂があった。三万人の歓声が一瞬だけふっと遠ざかる時間。あの感覚に似ている。

 

外灯の電球が、ジジ、と低く鳴った。その音が列の左端から右端まで届いて消えた。誰もそれに反応しなかった。

 

 

四時五十九分。部室の扉が軋む音もなく開いた。監督は、いつの間にか列の正面に立っていた。「いつの間にか」と書くしかない。足音は聞こえなかった。外灯の光の中にふっと輪郭が浮かび上がるように現れた。前世のメジャーで一度だけ会ったことがある古い名将の登場の仕方に似ていた。気配を消して空気だけが先に変わる。気がついた時にはもう正面に立っている。あの種類の人間が世界には何人かいる。

 

片岡監督は整列を一度だけ見渡した。左から右へ視線が滑った。途中で一度も止まらなかった。抜けた二つの穴を目で確かめた。それでも、表情は動かなかった。

 

「——おはよう」

 

低い声だった。挨拶ではなく、確認に近かった。それから片岡監督は数歩前に出て、列の正面で口を開いた。何かを言いかけた、その時だった。

 

俺の背中側——列の後方から衣擦れともつかない音が、ずる、と鳴った。

 

(——後ろで、何か這ってる)

 

俺は首は動かさず、視界の右下の隅に意識を集めた。前世のマウンド上で打者の足の動きを盗み見るのと同じ要領だ。首を回すと監督に気づかれる。眼球の動きだけで列の右後方を捉える。

 

捉えた。地面の上を、ジャージの肘が這っていた。

 

ほふく前進。

 

土埃を巻き上げないように、だが必死に。匍匐の角度がやけに低い。腹を地面につけたまま、肘で進んでいる。腕が一センチずつ前へ出る。膝が一センチずつ前へ出る。スパイクの爪先がほんのわずかに土を蹴っている。

 

——沢村栄純。

 

なにやってんだ、こいつ。匍匐は、ゆっくりと俺の右後方の列の足元へ近づいてくる。最後尾の方に体を滑り込ませようとしている。誰も気づかないうちに整列の中に紛れる作戦らしい。発想がもう終わっている。整列の中の足が一本増えれば俺たちが気づかないわけがない。

 

それでも、こいつは、やる方を選んだ。

 

そして、その匍匐の左側の少し後ろ。ジャージの裾を整え息を整え、汗を一度だけ拭ったあと——増子先輩が、堂々と歩き出した。

 

匍匐ではない。足音を消すでもない。普通に、グラウンドの土をスパイクで踏みながら、ベンチ脇の方から列の前へ、まっすぐ。監督の正面まで来て、止まった。

 

「遅れました!」

 

声は、太かった。頭の下げ方は、九十度。ぴったりの九十度で、止まった。

 

「増子透、寝坊しました。本当に、すんませんでした」

 

太い声がグラウンドの土の上にころんと落ちた。エース格の三年。隠れない。誤魔化さない。詫びる時は列に紛れず、列の前に出る。俺の前世のチームメイトの中にも、ああいう謝り方をする男が何人かいた。たいてい勝負弱くなかった。増子先輩、あんたが本物の三年だ——と俺は心の奥で頷いた。

 

監督は増子先輩を一度だけ見た。頷きはしなかった。否定もしなかった。ただ視線の中に「了解した」という質感が確かに含まれていた。その視線がまだ増子先輩の頭の上に乗っているうちに——監督の口だけが、別の方角に向かって動いた。

 

「そこ」

 

低く短い一言。整列の右後方が止まった。正確には、一本の腕が地面から二センチ浮いたところで止まった。

 

「何をしている」

 

匍匐の途中で、沢村は固まっていた。肘から地面までの距離、二センチ。膝から地面までの距離、五センチ。不自然な姿勢のままこいつは静止した。そのまま首だけを、ぎ、と上に動かした。土埃で薄汚れた顔の中で目だけが外灯の光を反射して大きく見えていた。

 

「あ、あの、監督ぅっ……」

 

声が裏返った。立ち上がろうとして膝が一度笑った。靴下の上にもう一度土が舞った。

 

「すみませんっ……いや、これは、その——」

 

沢村が引きずり出されるように列の前へよろよろと歩み出てきた。地面を蹴る音が、左右で揃っていない。俺の真横を通り過ぎた時、土と汗と寝起きの匂いがすれ違いに鼻に届いた。監督の真正面に立った。立った、というか運ばれてきた、に近い。頭を下げようとした。しかし下げきる前に口の方が先に動いた。

 

「いや、実は……昨日の夜、先輩たちと夜通し投げ込みを……」

 

(——こいつ、他人のせいにするな。それは自分の足を折る言い訳だ)

 

俺の心臓が、外側から殴られた。

 

前世のロッカールームで何度も見た光景が俺の脳裏で勝手に立ち上がる。打たれた投手がベンチに戻ってきて最初に口にする一言で、その投手の今後が大体分かる。

 

「球が走らなかった」と言う奴は次もある。

 

「あいつが配球を寄せてきたから」と言う奴は次がない。

 

例外はほとんどなかった。

 

増子先輩の右肩が、ぴくり、と動いた。動いた、というよりは止まった。止まって——動かさないことを選んだ、という質感だった。

 

何も言わなかった。沢村の言い訳に対して口を開かなかった。

 

——庇わない。

 

九十度で頭を下げて謝った増子先輩は、もう、自分の責任は引き受けた。沢村が今、自分で、自分の責任を別の場所に投げようとしている。その投げ先に三年生として乗ることはない。

 

増子先輩の沈黙の意味が、列に届いた。

 

列の三年たちの呼吸が、揃って一度、止まった。

 

片岡監督は、目を伏せもしなかった。

 

「言い訳をする者に」

 

低い、低い声。地面の下から這い上がってくるような声。

 

「マウンドに立つ資格はない」

 

短い、間。沢村の瞳孔が、開いた。開いて、それから、戻らなかった。

 

「今すぐ荷物をまとめて」

 

監督の唇が、最後の二音を、はっきりと刻んだ。

 

「帰れ」

 

 

(——あの宣告、本気で諦めさせる目だ)

 

俺の指先が冷たくなった。前世のスプリングキャンプ最終日。同じ中継ぎ枠を争っていた二歳上の左腕にピッチングコーチが告げた言葉と、片岡監督の今の声が重なった。あの時のあの目をしている。本気で諦めさせるために目の温度をここまで下げている。

 

沢村の身体が揺れた。最初は、ほんの一センチ。風で揺れたのか、自分で揺れたのか、本人も分かっていない。

 

それから足首から震えが上がった。肘の内側に白い緊張が走った。膝が内側に折れた。腰が引いた。最後に上半身が前に流れて、地面に膝をついた。膝が土に触れた音は、しなかった。ジャージの布だけが、ずるりと土に擦れる音をさせた。

 

足首から膝へ、膝から腰へ、腰から上半身へ。順番に崩れていった。

 

崩れ方を俺は前世で一度だけ見たことがある。あの時の左腕も、こうして上から順に折れていった。十六歳が二十六の左腕と同じ崩れ方をしている。同じ目だ。十六で見ていい目じゃない。

 

沢村は、それでも地面に這ったままで口を開いた。

 

「……まだ」

 

声が掠れていた。

 

「まだ、ボールすら投げてねぇ……!」

 

最後の音が跳ねた。涙混じりだった。膝立ちのまま、両手で土を掴むようにこいつはもう一度、声を絞り出した。

 

「投げてねぇっす! 俺、青道のグラウンドで一球も投げてねぇっす!」

 

監督は、答えなかった。答えるという行為の選択肢自体を持っていない、という背中の角度だった。増子先輩は、九十度の頭をまだ下げたままだった。下げたまま、目だけを地面の沢村の方へほんの少し傾けた。何も、言わなかった。

 

 

「監督っ……!」

 

沢村が膝立ちのまま、地面を這うようにして追いかけた。

 

スパイクを片手に抱えたままだった。靴下のままグラウンドの土の上を走った。数歩で足首まで土埃が舞い上がる。

 

外野フェンスの方へ向かった。なぜか、そっちへ走った。ボール籠の置いてあるネット際だ。

 

「俺、投げますっ……投げさせてくださいっ……一球でいいっす! 投げられますっ!」

 

外野フェンスにぶつかった。金網が、ぐわん、と低く揺れた。その音がグラウンド全体に嫌な余韻で残った。沢村はボール籠から白球を一つ引っ張り出した。立ち上がった。靴下が、もう半分まで黒く塗れていた。スパイクは、まだ片手に持ったままだった。それでも、振りかぶった。

 

フォームは、めちゃくちゃだった。軸足の沈みが浅い。左足の踏み出しがホームベースじゃない方向にずれている。肘が肩より先に勝手に出ていく。それでも——投げた。

 

ぐわん、と空気が鳴った。風じゃない。球が空気を引き裂いた音だった。低く、太く、振動が腹に届いた。ブルペンの中ではなく、外野の上空で鳴る種類の音だった。

 

(——なんだ、今のは)

 

ボールは低い軌道で、まっすぐ飛んでいった。

 

沈まない。

 

落ちない。

 

伸びていく。

 

外野の芝の上をスレスレに通過して、そのまま外野フェンスの上端を越えた。越えた、と俺の目が認識した瞬間、ボールはもう空に消えていた。朝焼けの淡い空に、白い点が一瞬浮かんで、それから見えなくなった。

 

軌道が、伸びた。伸びた、という言い方しかできない。

 

普通の高校一年の遠投なら、外野の真ん中で失速して芝の上にバウンドして止まる。沢村のボールは失速しなかった。スパイクも履かず軸足も沈まず肘も先に出た、あの滅茶苦茶なフォームから出た球が外野ネットの上端をはっきりと越えた。

 

二軍の先輩の一人が、口の中で呟いた。

 

「マジかよ……」

 

呆然という言葉がこんなに似合う声を、初めて聞いた。別の二年が、隣で口を開けたまま、目だけで沢村の腕を追っていた。

 

片岡監督が振り返った。ゆっくりじゃない。速かった。首から先に動いて、一拍遅れて肩から腰、足の順に向き直った。目だけが別の生き物のように動いた。沢村の手からスパイクへ。靴下の汚れからネットの揺れへ。最後に外野の上空——ボールが消えていった一点に視線を止めた。

 

数秒。監督は黙っていた。たぶん、三秒。俺の体感では、三十秒。

 

「外周を走れ」

 

低く、言った。少し、間が空いた。

 

「ボールには、まだ触るな」

 

沢村がその場で頭を下げた。

 

「うっす!」

 

返事は、短かった。短かったけれど、最後の音が揺れていた。涙混じりだったと思う。たぶん本人は気づいていない。俺だけが、列の前から二人目の位置でその揺れに気づいていた。

 

——生きた。

 

(——資格は、保留になった。それだけだ)

 

増子先輩が、もう一度、頭を下げた。九十度。今度もぴったりの九十度だった。朝練が、再開された。

 

 

ブルペンに入ると、空気が変わった。

 

土と汗と、夜の冷たさの残りと、ロジンバッグの白い匂い。前世のキャンプ地のブルペンの匂いとほとんど同じだった。違うのは、まだ十六歳の身体がその匂いを嗅いでいるという事実だけだ。胸のあたりに覚えのある熱が立ち上がってきた。十六歳の心臓が二十年前を思い出して走り始めている。

 

御幸さんが、俺のボールを受けていた。軽い、五球程度のキャッチボールから始める。一球目、ぱしっ、と軽い音。二球目、ぱしっ、と、もう少し低い音。三球目から、御幸さんのミットの位置がミリ単位で動かなくなった。四球目、ぱしん、と音が変わった。俺の指から離れた瞬間、ボールがどこに収まるかを御幸さんはもう知っていた。

 

(——こいつ、十六でこの捕り方か)

 

前世のメジャーで組んだベテラン捕手の腕を思い出していた。引退間際でもミットの一点だけは最後まで動かなかった。あの男のミットと御幸さんのミットは似ている。動かないというより、こっちの球をミットの方が呼んでいる。十六歳が、これか。

 

十六歳で、化け物の領域だな、と心の中で笑った。

 

俺は六球目で、肩を一段上げた。五割は挨拶、七割で本当の肩慣らし。前世のリリースの感覚が、十六歳の右腕の中で素直に再生されていく。八球目を投げ込んだ瞬間——ぱぁん、と、ブルペンの空気が割れる音がした。

 

御幸さんのミットが、初めて、半センチだけ後ろへ流れた。動かない、はずのミットが、半センチ。それだけ受けの体重を持っていかれた。

 

「——っ」

 

御幸さんの口から、短い息が漏れた。声には、ならなかった。ミットを下ろさず、捕った姿勢のまま、もう片方の手だけが、ぐ、と握り込まれた。指の力で、受けた痺れを押し戻している。捕手が初対面の投手の球をフルで受けた直後の、あの動きだ。

 

ブルペンの脇を歩いていた二軍の先輩二人が、足を止めた。

 

「——おい、今の」

 

「中学のあれ、本物か……」

 

声が、土の上で消えた。

 

御幸さんがミットの中の球を左手で取り出して、しゃがんだままこちらを見上げた。

 

「お前さ」

 

「はい」

 

「今のは、何キロ」

 

「分かりません」

 

正確に答えなかった。本当は分かっていた。前世の指の感覚で、リリースの瞬間に何キロ出ているかが大体わかる。今のは、たぶん、百五十二か三。中三の最高がちょうどそこだった。御幸さんに正直に答える理由は、まだ見つからなかった。

 

「……ふっ」

 

御幸さんは、笑い損ねた。声を出さない笑い方の、その手前で止めた。それから一度、ミットを構え直して、低く言った。

 

「もう一段、いけるな」

 

「はい」

 

「即答するな、って言ったろ」

 

「すみません」

 

御幸さんはそれだけ言って、ミットを構え直した。九球目を、俺は同じ強度で投げ込む。今度はミットが、動かなかった。さっきの半センチを、御幸さんは一球で吸収した。膝の上の左手の握り込みで、ミットを受ける右手の痺れを相殺している。十六歳が、二球目で対応した。本当に十六か、こいつ。

 

ブルペンの後ろを、二年の先輩が通り過ぎる気配があった。視線だけが一度こちらに向いて、それからまた別の方角へ流れていく。誰の独り言だったかは分からないが、低く、ぼそりと、土の上に短い言葉だけが落ちていった。

 

「……一年に、教えるもんがねぇな」

 

御幸さんの右肩が、ほんの少しだけ硬くなった。ミットの位置は、変わらない。呼吸も、変わらない。ただ肩の上のラインが一段、緊張した。俺は気づかないふりをして、五球目を放った。

 

ぱしん。

 

御幸さんのミットが、また動かなかった。球を返す前に御幸さんは一度だけ、ブルペンの後ろを振り返った。声の主はもう、別の方角を見ていた。

 

(——御幸さん、聞こえてましたよね)

 

俺はふと、グラウンドの外、東側の校舎の屋上に視線を上げた。カーテンの隙間が揺れた。ほんの数センチ。長い髪の影がその隙間の中で揺れていた。目が合った気がした。一秒未満の、錯覚かもしれない。それでも俺の目と誰かの目が確かに合った。

 

高島礼。

 

カーテンが戻った。影は消えた。

 

(——見ていたな、今の)

 

 

朝練が終わって、午前の授業を挟んで、午後練。そして、夕方。

 

グラウンドの外周路に夕陽が落ちていた。赤よりオレンジに近い色で、土の上に長く影を伸ばしていた。

 

その長い外周路を、沢村栄純はタイヤを引いて走っていた。

 

腰に巻いたロープの先で、軽トラのタイヤがずるずると土を擦っていた。タイヤの黒い側面に夕陽の赤が反射して、走るたびに、その赤が前に転がっていく。

 

フォームは、もう崩れていた。膝は内側に流れて、腕は身体の前で泳いでいる。口は半分開いたまま閉じる余力がない。肩は一歩ごとに上下に跳ねている。本来なら前後に動くべき肩がもう、上下にしか動かない。エネルギーの効率が最低まで落ちている。

 

何周走ったのか、本人にも分からないだろう。俺にも、分からない。

 

ただ影の長さだけが、一周ごとに伸びていた。最初に俺が階段に座った時、影は外周路の半分の長さだった。気がつくと影はバックネットを越え、外野フェンスの根元まで伸びている。その分だけ夕陽が落ちた。

 

その分だけ沢村は走った。

 

俺はブルペン裏の階段に腰を下ろして、その背中を遠くから見ていた。階段の鉄板は冷えが早い。尻に伝わる温度が一分ごとに下がっていく。それでも立たなかった。中に入ったら、見届けたことにならない気がした。

 

(——お前は、この試練を超えてエースになる)

 

(——俺はそれを知ってる)

 

知っている、なんて言葉を俺は心の中で使ってしまった。使った直後に嫌な気持ちになった。ずるい言葉だ。未来を知っている人間が、まだ知らない人間の苦しみを上から眺めて「大丈夫だ」と思うこと。それは励ましじゃない。安心したいのはこっち側だ。お前自身は今、何の保証もない場所で走っている。それを「知ってる」の一言で片付けるのはずるい。

 

ずるいと分かっても、その言葉を撤回できないまま、夕陽の中であいつの背中を見ていた。

 

タイヤを引く影が、夕陽の中で長く伸びていた。

 

あいつは、見上げた。

 

俺の方は、見なかった。

 




第4話、ここまで読んでくださってありがとうございました。

ある一年生の試練の朝の話を書きました。
書きながら、こちらの胸が一回、外側から殴られました。
他人の苦しみを「知っている」と思えてしまうことの、ずるさみたいなものが、書いている側にも残ります。

物語は、ここから青道のグラウンドが本格的に動き出します。
タイヤを引く影、半センチだけ流れたミット、屋上のカーテン——
今夜はいったん夕陽の中の長い影だけを置いて、終わります。

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