墓場の子   作:地図ヶ原

1 / 7
プロローグ

牝牛はまだ納屋へ帰りたがっていた

 

 牝牛は死んでも、まだ納屋へ帰りたがっていた。

 

 首を落とされ、腹を裂かれ、血を土に吸わせて横たわっていても、その名残だけは肉のそばに留まっていた。餌桶の木の匂い。冬の朝に吐いた白い息。湿った藁の底に残る体温。首にかけられていた古い鈴の重み。戸口の低い梁に角をぶつけた時の鈍い感触。それらは言葉にはならなかった。ただ、ゆるくほどけた毛糸のように、屠場の空気に絡んでいた。

 

 牝牛は賢い獣ではない。生きていた時も、死んだ後も、それは変わらない。ただ、帰る場所を覚えているだけだった。

 

 屠場の隅で、ロッカは牝牛の首のあたりに手を置いていた。そこにはもう温もりはない。皮は冷え始め、剥がされるのを待つだけの肉の重みになっている。それでも、掌に触れているものは肉だけではなかった。肉の外側に、薄く、鈍く、まだ消えないものがある。声ではない。訴えでもない。死んだものが死んだことに気づかず、習慣の形だけで残っている、その残りだった。

 

「どこへ行きたいの」

 

 小さく問いかけても、答えは返らない。代わりに、餌桶の縁を舌で押した感触が来た。納屋の暗がり。首にない鈴の軽さ。戸口の方へ進もうとする、鈍い習慣。死んだものは、何でも教えてくれるわけではない。多くはただ、残っているだけだった。

 

「またあそこにいる」

 

 屠場の入口で、誰かが低く言った。

 

 大人たちは仕事を続けている。血を流す者、桶を運ぶ者、皮を剥ぐ準備をする者、刃を研ぐ者。誰も好きでやっているわけではない。だが、獣は生きているうちに働き、死んだ後は肉になる。そうでなければ村は回らない。

 

 ただし、今日の牝牛は少し違った。

 

 老いすぎていた。

 

 あの牝牛は、とうに死んでいるべき年を越えていた。越えてなお毛艶は悪くならず、足腰も折れず、乳も出た。はじめは幸運と呼ばれ、次に気味悪がられ、最後には誰も名前を呼ばなくなった。数日前から、納屋の壁が夜に鳴った。風ではない。戸口でもない。内側から、重い身体が土壁を押しているような音だった。朝になると壁には跡がなかったが、牝牛の角の根元には白い筋が浮き、目の奥には濁らない黒さが残っていた。

 

 乳の匂いも変わっていた。腐っているわけではない。むしろ、いつまでも傷まなかった。桶に残った乳を犬が舐めようとして、鼻先を近づけたまま動かなくなったことがある。その犬は半日ほど納屋の隅で震え、夜になってようやく吠えた。吠えた相手は、牝牛ではなく、牝牛の影だった。それから誰も、その乳を口にしなくなった。

 

 王印魔法使いを正式には呼ばなかった。呼べば、牛一頭の話では済まなくなるからだ。検分が入り、記録が残り、村が何を隠していたかまで問われる。兆候を見つけた時、報告するのが正しい。それは皆が知っていた。だが正しさは、腹を満たさない。畑を耕さない。冬を越す干し肉を増やしもしない。確実に処分するなら、それでよい。そういうことになっていた。

 

「ロッカ」

 

 母の声がした。今度は近かった。怒鳴り声ではなかったが、頼むような響きと、恥じるような響きとが混じっていた。

 

 母は、まだ老いてはいなかった。けれど、顔の輪郭にはもう疲れがこびりついていた。頬は痩せ、目の下には薄い影があり、髪はいつも後ろで固く結ばれていた。若い頃は美しかったのだろうと、村の女たちは時々言った。ロッカには、それが何の意味を持つのか分からなかった。母の美しさは、炊事の煙と洗い桶の水と、泣く子を抱く腕の中で、とうに使い減らされているように見えた。

 

「そこから離れなさい」

 

「まだ戻りたがってる」

 

 刃を研いでいた男の手が止まった。桶を持っていた女が、顔をしかめた。弟の泣き声が一段高くなった。妹は母のスカートを握り、こちらを見ていた。弟はまだ鼻をうまく拭けず、泣くたびに顔を濡らした。妹は何が怖いのかも分からないまま、母の足にしがみついていた。生きているものたちは、いつも騒がしい。死んだものの方が静かで、よほど分かりやすいことが多かった。

 

 母は屠場に入ってこなかった。入口で足を止めたまま、ロッカの背を見ていた。

 

「戻らないわ」

 

「知ってる」

 

「なら、そんなことを言わないで」

 

 牝牛の首筋を撫でた。そこにはもう首輪も鈴もなかった。鈴は昨夜、父が外していた。まだ使えるからだ。死んだ獣から取れるものは、肉だけではない。牝牛の残り香は、鈴のない首を時折ひねっていた。そこにあるはずのものがないことを、ぼんやりと不思議がっていた。悲しんでいるのではない。怒っているのでもない。ただ、変わったことに追いつけないでいる。

 

「鈴、返してほしいみたい」

 

 母が息を呑んだ。

 

 それが、いけなかった。

 

 大人たちは死体を扱うことには慣れていた。獣を殺し、血を抜き、肉を分けることにも慣れていた。けれど、死んだ獣が何を欲しがっているかを子供が言うことには慣れていなかった。

 

「やめろ」

 

 父が言った。

 

 父は桶を置き、ロッカの方へ歩いてきた。顔は赤く、目だけが冷えていた。父は大柄ではなかったが、肩と手だけが妙に厚かった。畑を打ち、荷を運び、獣を押さえ、戸を直し続けた身体だった。日に焼けた首筋には深い皺があり、爪の間にはいつも土が入っていた。髭は剃り残しが多く、髪は短く刈られていた。村の男としては特別に粗暴でも怠惰でもない。ただ、どこにでもいる働く男だった。ロッカは、そのことが嫌だった。

 

 腕を掴まれ、牝牛の死体から引き離された。力は強くなかった。ただ、ためらいがなかった。掌から牝牛の残り香がほどける。

 

 牝牛は、少しだけこちらを向いた気がした。

 

 実際には、首は落とされている。向くはずがない。だが、残り香は揺れた。

 

「死んだものにいつまでも触るな」

 

 父は低い声で、ロッカだけに聞こえるように言った。

 

「死んでるだけでしょ」

 

 父を見上げた。

 

「触っても、嫌がらない」

 

 父の手に力が入った。屠場にいた者たちが黙った。沈黙は、死者のものではなかった。生者のものだった。互いに言葉を押し込め、何を言えばよいか分からない時に生まれる、濁った沈黙だった。

 

 入口の向こうで、村の子供たちが囁いた。

 

「墓場の子」

 

 誰が言ったのかは分からなかった。

 

 彼らを見ても同じだった。村の子供たちは、ロッカを見ると声を潜めた。時には石を投げた。時には一緒に遊ぼうとした。だが、誰かの祖母が死んだ翌日、ロッカがその祖母の好んでいた煮豆の味を口にした時から、彼らは本当に近づかなくなった。死んだ者は、よく食べ物を覚えていた。生きている者は、それを不気味がった。

 

 その理由が、ロッカにはよく分からなかった。死んだ者が何かを覚えていることより、生きている者がすぐ忘れることの方が、よほど不思議に思えた。

 

 牝牛の処分が済む頃、村の空は低く曇っていた。薄い日が雲の奥で白く濁り、家々の屋根も畑も、同じ灰色に沈んで見えた。肉は分けられ、皮は干される準備をされ、骨は後で砕かれることになった。血のついた土には灰が撒かれた。

 

 家に戻され、戸口のそばに座らされた。

 

 家の天井は低く、梁には古い煤がこびりついていた。壁の隙間からは細く風が入る。食器はどれも欠け、同じ木椀が何度も削られ、何度も洗われ、家族の誰のものともつかなくなっていた。母の手も、近所の女たちの手も、皆同じように荒れていた。村の女たちは違う顔をしていても、手だけはよく似ている。いつか自分の手もああなるのだと思うと、胸の奥が冷えた。

 

 母は何も言わず、弟妹を奥へ連れて行った。父は外で村の男たちと話していた。低い声は、土壁を通しても聞こえた。

 

「先生を呼ぶか」

 

「もう処分した」

 

「だが、あの子が」

 

「あの子の話は別だ」

 

「別じゃないだろう」

 

 膝を抱え、壁にもたれた。

 

 別ではない。そう言った男は正しかった。だが、正しいだけだった。正しいことは、村ではいつも途中で止まる。畑に石があれば取り除く。病んだ獣は殺す。泣く子は叩くか抱く。だが、死んだものがまだいる時、それをどうすればよいかを知っている者はいない。

 

 家の梁に、去年死んだ祖父の残り香が薄くかかっている。祖父はほとんど何も言わない。死ぬ前からそういう男だった。囲炉裏端に座り、乾いた咳をし、手だけをいつも動かしていた。死んだ後も、手の動きだけが残っているような気配がした。

 

 妹が生まれる前に死んだ子の残り香は、母の寝台の近くに時々いた。あれは名前をつけられる前に死んだので、呼びにくい。呼びにくいものは、見えにくい。見ようとしなければ、たいていは薄い影にもならない。

 

 死者はどこにでもいるわけではない。

 

 強く残るものもあれば、すぐ消えるものもある。顔を知っていれば近い。名前を知っていれば呼びやすい。生前に言葉を交わしていれば、さらに輪郭がはっきりする。遺品があれば、そこから辿れることもある。何もなければ、会えない。会えても、話すとは限らない。死んだ者も、生きている者と同じように、話す相手を選ぶことがある。

 

 だからロッカは、村の者が思うほど何でも知っているわけではなかった。ただ、知られたくないことほど、死んだ後に形を残しやすいことは知っていた。後悔。恨み。執着。言い残した言葉。隠した物の場所。謝らなかったこと。許さなかったこと。そういうものは、よく残る。

 

 村は小さく、残るものが多すぎた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。