墓場の子   作:地図ヶ原

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プロローグ 2

 昼を過ぎて、王印の魔法使いが来た。

 

 ロッカは、その男を前に見た覚えがなかった。

 中年で、痩せても太ってもいない。馬は連れておらず、泥のついた長靴で村道を歩いてきた。外套は上等だったが、裾は擦り切れ、留め具には安い補修跡があった。腰には金属の印章が下がっていた。二つ尾の獅子が掘り込まれた王印の証だった。村人たちは男を先生と呼んだ。男はその呼び方を当然のように受け取ったが、それで気分がよくなるほど単純でもなかった。

 

 窓の隙間から、その姿を見た。

 

 男は屠場へ案内され、牝牛の死体を検分した。既に多くは切り分けられていたが、頭と角、血のついた土、皮の一部は残されていた。手袋をはめ、角の根元を見る。目蓋をめくり、舌を引き出し、歯茎を見る。血の匂いに顔をしかめることはなかった。

 

 村の男たちは、彼の後ろで落ち着かない様子をしていた。

 

「処分は済ませたのだな」

 

「はい、先生」

 

「兆候に気づいた時点で報告することになっている」

 

「急ぎでしたので」

 

「急ぎだったかどうかは、お前たちが決めることではない」

 

 男の声は平板だった。怒っているようにも、面倒がっているようにも聞こえた。おそらく、どちらでもあった。

 

「次があれば、先に知らせろ」

 

 そう言っただけで、それ以上追及しなかった。

 

 村人たちは安堵した。人は言葉より先に肩で安心する。背中で嘘をつく。死者よりも、生者の方がよほど読みにくく、よほど分かりやすい。

 

 検分が終わると、男は父と母に呼ばれた。

 

 家の奥へ行かされたが、聞こえないほど遠くへは行かなかった。壁の隙間、板の反り、古い家の継ぎ目は、声をよく通した。

 

「うちの娘が、妙なことを言います」

 

 母の声だった。

 

「死んだものに話しかけるとか、見えるとか」

 

 父が言い添えた。

 

「今日も、牛が鈴を欲しがっていると」

 

 しばらく沈黙があった。

 

 王印魔法使いは、すぐには答えなかった。

 

「娘を呼べ」

 

 部屋へ入ると、男は囲炉裏の向こうに座っていた。姿勢は崩れていたが、目だけはこちらに向いている。濁った茶色の目だった。良い目ではない。悪い目でもない。何かを見ることに疲れた者の目だった。

 

「名は」

 

「ロッカ」

 

「歳は」

 

 答えると、男はしばらくこちらを見た。

 

 ロッカは痩せた子供だった。畑に出るにはまだ細く、家の中で大人しくしているには目つきが強すぎた。髪は黒に近い焦げ茶で、母が結ぶとすぐにほどけた。顔立ちはまだ幼かったが、目だけは妙に静かで、何かを見ている時には、相手が生きているのか死んでいるのかを区別していないように見えた。

 

 男の視線は、村人のものとは違っていた。気味悪がる視線ではない。怒る視線でもない。そこにあるものを測ろうとする視線だった。その視線は少しだけ不快だった。村人の嫌悪は分かりやすい。だが、この男の視線は、ロッカを人として見ているのか、獣や石と同じように見ているのか、判然としなかった。

 

「死んだ牛が見えたのか」

 

「見えたというか、いた」

 

「どこに」

 

 少し考えた。

 

「肉の近く。首のあたり。あと、鈴のあたり」

 

 母が小さく息を吸った。

 

 男は母を見ずに、続けた。

 

「牛は何と言った」

 

「何も」

 

「何も言わないのに、鈴を欲しがっていると分かったのか」

 

「首を気にしてたから」

 

 男の眉が、ほんの少し動いた。

 

「いつからそういうものが分かる」

 

「ずっと」

 

「誰に教わった」

 

「誰にも」

 

「墓場へよく行くのか」

 

「行かなくてもいる」

 

 父が低く唸った。

 

「先生」

 

 男は片手を上げ、父を黙らせた。

 

 ここで何かが決まるのだと、ロッカには分かった。何が決まるのかは分からない。ただ、男は何かを見つけかけていた。そして、見つけたくないのだということも、何となく分かった。

 

 男の手が、腰の革包みに触れた。そこには簡易の記録板が入っているはずだった。管区の異常を記すためのものだ。だが、取り出さなかった。指先だけが革の縁を撫で、すぐに離れた。

 

 大人たちはよくそういう顔をした。

 

 畑に病が出た時。家畜が変な鳴き方をした時。近くの森で子供が迷った時。知りたくないものを知りかけた時、彼らは一度だけ目を細める。それから、別の言葉を探す。

 

 男も同じ顔をした。

 

「死に近づけすぎている」

 

 父と母は、同時に男を見た。

 

「子供は、見聞きしたものを妙に覚えることがある。屠場や墓場、病人の寝所に近づけるな」

 

「魔法では、ないのですか」

 

 母が尋ねた。

 

 その声には、恐れよりも、わずかな期待が混じっていた。魔法であれば、どこかへ持って行ってもらえる。そういう期待だった。母自身が気づいているかは分からなかった。

 

 男は答えるまでに、また間を置いた。

 

「少なくとも、私の管区で報告する段階ではない」

 

 その言葉で、父は安堵した。母は少しだけ失望した。ロッカは男を見ていた。

 

 報告する段階ではない。

 

 それは、何もないという意味ではなかった。あるが、見ないという意味だった。

 

 男は立ち上がった。

 

「しばらく様子を見ろ。妙なことを言っても、相手にするな。死んだものに近づけるな。村で騒ぎにするな」

 

「はい」

 

 父が答えた。

 

 ロッカは何も言わなかった。

 

 男が戸口へ向かう時、彼は一度だけ振り返った。そこには憐れみも嫌悪もなかった。ただ、面倒を避けた者の、かすかな後ろめたさがあった。

 

 その顔を覚えた。

 

 王印魔法使いが帰ると、家の中は妙に静かになった。

 

 父は外へ出るなと言った。母は夕食の支度を始めた。弟妹はまだ泣き疲れた顔をしていた。誰も牝牛の話をしなかった。死んだ獣は肉になる。処分された異常は、もう異常ではない。男が報告しないと言った以上、村ではそういうことになる。

 

 そういうところが嫌いだった。

 

 村では、見なかったことにしたものは、なかったことになる。言わなかったことは、起きなかったことになる。泣いても働く。死んでも肉にする。嫁げと言われれば嫁ぐ。生まれれば増える。老いれば減る。畑を耕し、獣を飼い、血を拭き、また明日同じことをする。

 

 自分がその中に入ることを想像した。

 

 誰かの妻になる。子を産む。朝から晩まで働く。泣く子を抱き、病んだ親を看る。死んだ者が部屋の隅にいても、見ないふりをする。見えても言わない。言えば叱られる。叱られれば黙る。黙れば、いずれ自分も同じように死ぬ。

 

 それは死ぬより先に、死んでいるようなものだった。

 

 囲炉裏の灰の中に、昨夜燃え残った枝の黒い芯があった。表面は白く崩れているのに、中だけはまだ形を保っている。触れれば折れる。息を吹けば崩れる。それでも、枝だったことだけは分かる。

 

 死んだ者も似ている。

 

 ただ、村の者はそれを見ようとしない。

 

日が傾き、家々に夕餉の煙が立つ頃、村の外れに一人の旅人が現れた。

 

 最初に気づいたのは犬だった。村の犬たちは吠えなかった。ただ、鼻を地面に近づけ、尾を下げ、道の端へ退いた。吠える相手と、吠えてはいけない相手を、犬は人より先に知ることがある。

 

 次に気づいたのは、井戸端にいた老人だった。老人は水桶を抱えたまま旅人を見て、何か言いかけた。だが、口を開いたまま言葉を失い、そのまま桶を地面へ下ろした。近くにいた子供が不思議そうに老人を見たが、老人は何も説明しなかった。

 

 旅人は、何も持っていないように見えた。

 

 正確には、小さな荷はあった。だが、魔法使いに見える者が持つには少なすぎた。杖もない。大きな書物もない。薬箱もない。護符や鈴や、見せびらかすための飾りもない。外套は古く、雨を何度も吸っては乾いた布の色をしていた。

 

 髪は薄い灰色だった。

 

 老人の白髪にも、若い者の銀髪にも見えた。顔には年齢がなかった。老いているようにも、若いようにも見える。男にも女にも見える。背は高いようでもあり、近づくと思ったほど大きくもなかった。顔立ちは整っているわけでも、崩れているわけでもない。ただ、見る側が何かを決めようとすると、その前に輪郭がずれるようだった。

 

 老人の皺も、若者の張りも、男の骨ばった硬さも、女の柔らかさも、どれも少しずつあるようで、どれも最後までは残らない。村の老人には老いがあり、働く者には働いた身体があり、王印魔法使いには疲労があった。けれど、その旅人にはひとつの人生に属する履歴が見えなかった。

 

 代わりに、手つきや歩き方だけが多すぎた。

 

 一歩ごとに違う人間の歩き方をしているように見えた。ある時は杖を持つ老人のように、ある時は戦場を渡る者のように、またある時は書庫の床を静かに踏む者のように。身体は一つなのに、想起させるものが多すぎる。その時のロッカには、そういう言葉はなかった。ただ、見ていると目が疲れると思った。

 

 それでも、眼だけは変わらなかった。

 

 薄い灰色の眼だった。髪と同じ色をしていた。表情が揺れても、声の調子が変わっても、歩き方に別人の癖が混じっても、眼だけは同じ場所にあった。深くも浅くもなく、優しくも冷たくもない。ただ、こちらを見ていた。生きている者を見る目とも、死んだものを見る目とも、少し違っていた。

 

 ロッカはその眼を見て、ようやく思った。

 

 この人には、見えている。

 

 胸元に、黒い石の留め金があった。摩耗していた。何かの形を彫ってあったのかもしれないが、今では角も線も丸くなり、意匠は分からなかった。黒い石は光を受けてもほとんど返さず、ただそこに沈んでいるように見えた。

 

 なぜか、その留め金から目を離せなかった。

 

 美しいわけではない。高価そうでもない。何かの印が読めるわけでもない。けれどその黒さは、泥や煤の黒さとは違った。長く触れられ、長く忘れられ、なお捨てられなかったものの黒さだった。

 

 旅人は、村の者に道を尋ねなかった。

 

 牝牛を処分した屠場へ向かった。

 

 家の戸口の影から、その背を見た。誰も止めなかった。誰も声をかけなかった。旅人が通ると、村の者たちは仕事の手を止め、それからすぐに目をそらした。

 

 旅人は屠場の前で立ち止まった。

 

 牝牛の肉はもう運ばれていた。血のついた土と、処分しきれなかった骨片が残っているだけだった。村の者は、明日にはそこも洗い流すつもりでいた。

 

 けれど牝牛の残り香は、まだ薄く残っていた。

 

 納屋へ帰りたがる気配は弱まり、ほとんど消えかけていた。それでも、完全には消えていない。ロッカには見えた。

 

 旅人が屠場に立つと、牝牛の残り香が揺れた。

 

 それは怯えではなかった。慰められたのでもない。ただ、煙が風に一瞬だけ揺らされるように、そこに残っていたものが気が付いた。

 

 その時、家の奥で鈴が鳴った。

 

 小さな音だった。だが、屠場にいた者は皆、それを聞いた。父が昨夜、牝牛の首から外した古い鈴だった。今は戸棚の上に置かれているはずだった。誰も触れていない。鳴るはずがなかった。

 

 父の顔から血の気が引いた。母が戸口の方を振り返る。弟妹が泣き止む。村の男たちが、互いの顔を見た。

 

 旅人は鈴の方を見なかった。

 

「首から外したのだな」

 

 父は答えなかった。

 旅人は、屠場の土を見下ろした。

 

「まだ納屋へ帰るつもりでいる」

 

 誰も何も言わなかった。

 

 それは、ロッカがさっき言ったことと同じだった。だが今度は、死んだものに触れている子供の言葉ではなかった。見知らぬ旅人の言葉だった。鈴を見ず、死骸にも触れず、それでも同じものを見ている者の言葉だった。

 

 その沈黙の中で、村人たちはようやく理解した。

 

 この旅人は、本物だ。

 

 旅人は顔を上げ、ロッカを見た。爪先から髪の先まで、見落としの許されない品の来歴を読むように、静かに眺めた。

 父が家の奥から出てきて、誰何するより早く、旅人はロッカの前で足を止めた。

 

「誰に教わった」

 

 最初の言葉がそれだった。

 

 答えようがなかった。

 

 旅人は、もう一度言った。

 

「死んだものに、手を差し出すことを」

 

「教わることなの」

 

 旅人は、しばらく黙った。それから、ほんのわずかに笑ったように見えた。嬉しそうではなかった。悲しそうでもなかった。遠い昔に失くしたものが、別の場所に落ちているのを見つけたような顔だった。

 

「そうでない者の方が多い」

 

「死んでるだけでしょ」

 

 ロッカは言った。

 

「いなくなったわけじゃない」

 

 旅人は見ていた。村人のように気味悪がる目ではなかった。王印魔法使いのように、見つけたものから逃げる目でもなかった。

 

 その人は、見ていた。

 

 背後で、父が声を出した。

 

「あんたは」

 

「魔法使いだ」

 

 村の者たちが動揺した。王印魔法使いが去った後に、また魔法使いが来る。しかも今度の者は、王印証を見せなかった。

 

 父は一歩下がった。

 

「王印の」

 

「違う」

 

 短い返答だった。

 

 空気が冷えた。

 

 印なしの魔法使い。

 

 その言葉は村ではあまり口にされない。だが、誰も知らないわけではない。王印を受けた魔法使いだけが魔法を使うのではない。野にいる。街にいる。旅にいる。たいていは小さな手品しかできない。火花を出す。風を揺らす。失せ物を当てる。家畜の病を妙に見抜く。そんな程度の者は、どこにでもいる。

 

 だが、徒弟を取る魔法使い、人を買う魔法使い、名を持たず長く生きる魔法使いは別だった。ただの印なしではない。印外れと呼ぶにも軽い。王知らず。誰かがそう言いかけたが、声にはならなかった。

 

 村の者は、そこまで詳しく知っていたわけではない。

 それでも、危ういものは分かる。

 

 父の顔が強張った。

 

「何の用です」

 

 旅人は父を見た。見たが、ほとんど関心はなかった。

 

「その子を買う」

 

 母が、奥で何かを落とした。

 

 椀だった。割れなかったが、床を転がる音がやけに長く響いた。

 

 買う。

 

 その言葉は、思っていたほど恐ろしくなかった。

 

 もちろん、屈辱はあった。ロッカは家畜ではない。牝牛でもない。屠られて分けられる肉でもない。だが、村にいれば、いずれ別の形で売られることも知っていた。嫁がされる。働かされる。産まされる。誰かの家に入れられ、誰かの名前の下に置かれる。

 

 ならば、魔法使いに買われることと、どれほど違うのか。

 

 父は何かを言おうとして、言葉を失った。母は戸口に出てきていた。顔は白かった。弟妹はその後ろで、母の衣を握っていた。妹はロッカの小さな荷包みに手を伸ばしかけ、母に止められた。弟は母の陰からこちらを見て、泣き声をこらえようとして、かえって喉を鳴らした。

 

「この子は」

 

 母は言った。

 

「魔法の子なのですか」

 

 旅人はロッカを見たまま答えた。

 

「そうだ」

 

 その一言で、胸の奥に熱のようなものが起きた。

 

 王印魔法使いは言わなかった。

 村人は言わなかった。

 父も母も、ただ困ったようにしか見なかった。

 

 だが、この旅人は言った。

 

 そうだ、と。

 

 その言葉だけを欲しかったのかもしれなかった。誰かに、自分がただ気味悪いのではなく、何かであると言ってほしかったのかもしれなかった。

 

 けれど同時に、理解した。

 

 旅人が見ているのは、ロッカ自身ではない。

 

 ロッカの中にあるものだ。

 死んだ牝牛に手を差し出せる何かだ。

 村人が嫌がり、王印魔法使いが避けた何かだ。

 

「何をするつもりです」

 

 父が問うた。

 

「磨く」

 

 旅人は答えた。

 

「何を」

 

「この子にあるものを」

 

 父は沈黙した。

 

 村では、その後に長い話し合いがあった。金の話。法の話。王印魔法使いに知られたらどうなるかという話。この子を村に置いておけばどうなるかという話。嫁ぎ先の話。弟妹の話。冬の蓄えの話。村の評判の話。

 

 そして、誰もはっきりとは言わなかったが、違法の話。

 

 子供を買うことは、正しいことではない。少なくとも、役所の前で堂々と話せることではなかった。けれど、魔法使いが才能を見つけた時、その正しさはしばしば外へ追い出された。王印魔法使いですら見なかったものを、印なしの魔法使いが見た。その事実が、村人たちを黙らせていた。

 

 先ほどの鈴の音を聞いていなければ、誰かが詐欺師だと怒鳴ったかもしれない。子供を買うふりをして連れ去る者も、金で家を黙らせる人買いも、この世にいないわけではない。だが、戸棚の上の鈴が勝手に鳴り、旅人がそれを見ずに言い当てたことを、村の者はもう知っていた。あれはただの旅人ではない。火花を散らして銭を取る野良の手品師でもない。

 

 父は何度も王印魔法使いの去った方角を見た。

 

 呼び戻せばよいのか。知らせるべきなのか。知らせた時、なぜ見逃したのかと問われるのは誰なのか。牝牛の兆候を正式に報告しなかったことまで掘り返されるのではないか。

 

 そうした考えが、父の顔に出ていた。

 

 旅人は急かさなかった。金額も大きく吊り上げなかった。ただ、待った。その静けさが、かえって父母を追い詰めた。

 

 ロッカはそのすべてを聞いていた。

 

 母は泣かなかった。父も怒鳴らなかった。村人たちは遠巻きにし、口を出したり引っ込めたりした。誰も、ロッカにどうしたいかを聞かなかった。

 

 当然のことだった。

 

 ロッカは子供だ。農村の娘だ。死んだものに話しかける気味の悪い子供だ。決めるのは大人で、働くのも大人で、払うのも受け取るのも大人だ。

 

 だが、最後に旅人だけがロッカを見た。

 

「来るか」

 

 その問いは、優しくなかった。

 逃げ道のない問いでもなかった。

 

 父を見た。母を見た。弟妹を見た。家の梁を見た。囲炉裏を見た。戸口から見える畑を見た。屠場の方角を見た。

 

 牝牛の残り香は、もうほとんど消えていた。納屋へ帰りたがっていた気配は薄れ、鈴の重みも、餌桶の匂いも、ほどけて土に沈みつつあった。

 

 村は明日も同じだろう。

 

 血を洗い、肉を煮て、畑へ出る。父は働き、母は働き、弟妹は泣き、ロッカは見えてはいけないものを見る。そして、誰かにまた墓場の子と呼ばれる。

 

 旅人についていくのが怖くないわけではなかった。

 

 印なしの魔法使い。名前も年齢も、性別すらわからない。その後ろを歩けば、どこへ連れて行かれるか分からない。戻れる保証もない。買われるということは、選ばれることではなく、持っていかれることでもあった。

 

 それでも、村を見た。

 

 ここに残る方が、もっとはっきり怖かった。

 

「ここよりましなら」

 

 そう答えた。

 

 母が顔を覆った。

 

 父は目を伏せた。

 

 旅人は頷いた。

 

「では、支度をしろ」

 

 ロッカの荷は少なかった。

 

 着替えが少し。古い布。針。小さな木片。母が持たせた硬いパン。父は何も渡さなかった。渡せなかったのか、渡したくなかったのかは分からない。弟妹は泣いたが、それが自分のための涙なのか、ただ母が泣きそうだったからつられた涙なのか、区別がつかなかった。

 

 家を出る時、母が髪に触れた。

 

 母の指は荒れていた。爪は短く、皮膚は水仕事で白く割れていた。その手が触れた時、一瞬だけ、母がこんなに細い手をしていたことに気づいた。いつもは鍋を持ち、洗濯物を絞り、弟妹を抱え、何かを急いで片付けている手だった。

 

「言われたことを聞くのよ」

 

 頷かなかった。

 

「死んだものに、あまり近づかないで」

 

 母はそう言った。

 

 その時だけ、母を見た。

 

 母は何も分かっていない。

 けれど、何かを恐れてはいる。

 

 少し迷い、それから言った。

 

「向こうが近くにいるだけ」

 

 母は顔を歪めた。

 

 そこには恐れと嫌悪と、ロッカの見たことのないものが混じっていた。母は、死んだものの近くに立つ娘を最後まで理解できなかった。それでも、理解できないものを案じることはできた。

 母の荒れた指が、もう一度だけロッカの髪に触れた。何かを言おうとして、言葉にはならなかった。その手はすぐに離れたが、離れる時だけ、ほんの少し遅れた。

 

 それが母との別れだった。

 

 父は戸口の柱のそばに立っていた。大きな手を握ったり開いたりしていたが、結局それ以上は動かなかった。日に焼けた顔はいつもより硬く、目の下の皺だけが深く見えた。ロッカは、父が泣くところを想像できなかった。怒るところと、黙って働くところしか知らなかった。

 

 父は最後まで何も言わなかった。

 

 それが父との別れだった。

 

 家の奥では、弟妹のどちらかが泣いていた。どちらの声なのか、ロッカには分からなかった。

 飯の時にも、眠る前にも、母の手が足りない時にも、泣くばかりの声だった。

 けれど、その時だけは、少し違って聞こえた。ロッカがいなくなれば、あの小さな手はもう少し多く働かされるのだろう。母の声も、父の沈黙も、今までより少しだけ重く、あの子らの上に落ちるのだろう。

 

 村を出る道で、一度だけ振り返った。

 

 家々は低く、畑は暗く、屠場の土はもう灰をかぶっていた。生きている者たちは、皆それぞれの家へ戻ろうとしていた。夕餉の煙が上がり、犬が一匹だけ遠くで吠えた。

 

 死んだ牝牛だけが、まだかすかに納屋の場所を覚えていた。

 

 旅人は先を歩いていた。黒い外套の胸元で、摩耗した石の留め金が鈍く沈んでいる。何の形かは分からない。鳥にも、獣にも、棺にも見えた。あるいは、何にも見えなかった。

 

「あなたは何を教えるの」

 

 旅人は振り向かなかった。

 

「死を」

 

 短い答えだった。

 

 しばらく黙って歩いた。

 

 道の両側には畑が続いていた。村の外へ出る道は、思っていたよりも狭かった。だが、先は見えなかった。見えないことが、少しだけ心地よかった。

 

「死んでるものなら、もう知ってる」

 

 旅人は初めて足を止めた。

 

 振り返った顔には、笑みはなかった。

 

「なら、これからは知らない死を学べ」

 

 そう言って、また歩き出した。

 

 ロッカはその後を追った。

 

 背後で村は小さくなっていった。生きている者の声は遠ざかり、死んだものの気配も薄れていった。

 

 その日、ロッカは村を出た。

 

 村の者は、気味の悪い子供がいなくなったと思っただろう。父母は、厄介な娘を手放したと思ったかもしれない。王印魔法使いは、報告すべきものを見なかったことにした。旅人は、墓場の子を連れて行った。

 

 ロッカだけが、まだ何を失い、何を得たのかを知らなかった。

 

 道の途中で、風が一度だけ村の匂いを運んできた。湿った藁、煮えかけた豆、牛の血を吸った土、囲炉裏の煙。嫌いなものばかりだった。息苦しく、退屈で、いつも同じ場所へ引き戻す匂いだった。

 

 背後で、死んだ牝牛の残り香が薄れていく。納屋の場所も、鈴の重みも、餌桶の木の匂いも、夕暮れの土へ。

 

 別れは言わなかった。

 言えば、自分の中にあの村を残してしまうことになる。

 母の指が髪に触れた感触。父が目を伏せた時の顔。弟妹の泣き声。誰かが囁いた「墓場の子」という声。それらは死者ではない。生きている者たちがロッカの中に置いていった、もっと扱いづらいものだった。

 

 旅人は先を歩いていた。黒い外套の胸元で、摩耗した石の留め金が鈍く沈んでいる。

 

 死んだもの

 に触れる時、自分を見た者がいた。

 

 それが救いなのか、呪いなのか。

 

 その時のロッカには、まだ区別がつかなかった。

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