墓場の子   作:地図ヶ原

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第一章 物探しの娘
物探しの娘 1


 ロッカが村を出てから、二週間が過ぎていた。

 

 旅の人、と呼ぶには、もう近すぎた。かといって、名を呼ぶこともできなかった。ロッカはまだ、その人の名を聞いていない。聞けば答えるのかもしれないが、今の名が返るとは限らなかった。

 

 だから、師匠と呼ぶことにした。

 

 そう呼べば、自分は買われた子供ではなく、弟子でいられる。師匠がその呼び方を認めたのか、ただ気にしていないだけなのかは分からなかった。けれど、否定はしなかった。

 

 二週間という日数は、何かを忘れるには短く、何かに慣れるには長かった。母の指が髪に触れた感触も、父が目を伏せた顔も、弟妹の泣き声も、まだ体のどこかに残っている。けれど、それらは日ごとに薄まり、代わりに別のものが積もっていった。濡れた外套の重み。火のつきにくい枝。泥を吸った靴。背中に触れる土の硬さ。腹の内側で鳴る、空っぽの音。

 

 村を出る前、魔法使いの旅というものを、もう少し特別なものだと思っていた。道なき道を歩くにも術があり、夜を越すにも見知らぬ便利な方法があり、食べ物にも困らないのだろうと考えていた。師匠というものも、もっと整った存在だと思っていた。大きな書物を持ち、難しい名の薬草を選び、夜には火のそばで術理を語り、弟子には順序立てて課題を与える。旅をするにしても、宿や町に古い知人の一人や二人がいて、ロッカの知らない扉を開けるものだと思っていた。

 

 その考えは、最初の三日でほとんど消えた。

 

 師匠は、そのどれにも当てはまらなかった。書物は持たない。薬草は名ではなく、食べられるか腹を下すかで分ける。術理は語るが、いつの間にか古い死者の話と混ざる。課題は与えるが、どこまでが課題でどこからが独り言なのか分からない。宿にも町にも顔は利かない。そもそも入ろうともしない。扉を開ける代わりに、墓地の裏手や崩れた石塚や、とうに途絶えた道ばかりを選んで歩く。

 

 それでいて、師匠は間違えなかった。

 

 二週間の旅の間、ロッカはそのことを何度も思い知らされた。道が三つに分かれた時、師匠は一番荒れた細道を選び、その先に古い石橋を見つけた。雨の気配もない朝に低地を避け、翌日そこが水で塞がった。夜の廃屋では、床板の下に残った死者へ問い、腐った梁の落ちる場所を言い当てた。

 

 ロッカには、師匠が何を見ているのか分からないことの方が多かった。

 

 だが、結果だけはいつも残った。師匠が避けろと言った場所は崩れ、渡るなと言った道は消えた。魔法らしい光も、呪文らしい声も、ほとんどなかった。ただ、世界の見えない継ぎ目を、当然のように跨いでいく。

 

 言うことは分からない。生活には役に立たない。けれど、師匠の見ているものは確かだった。

 

 それが、ロッカにはかえって扱いづらかった。

 

 師匠を軽んじることはできない。疑うこともできない。だが、尊敬できることと、理解できることは同じではなかった。

 

 師匠は、人間の暮らしにほとんど関心がなかった。

 

 食事のことも、そうだった。

 

 何も知らない子供ではなかった。村で生きる程度のことは知っている。火を起こすことも、濡れた薪を削って芯を出すことも、粗末な汁を作ることもできた。家畜の腹を壊す草と、人間が腹の足しにできる草の違いも、裂けた衣を繕う針の使い方も、風を避けて眠る場所の探し方も知っていた。

 

 ただ、師匠の基準は、そのどれとも違っていた。

 

「食べられる」

 

 ある日、師匠は道端の低い茂みを指して、そう言った。

 

 赤黒い小さな実がいくつもついていた。見覚えはある。村の子供が摘むこともあったが、好んで食べるものではない。熟しきる前は渋く、熟しすぎれば虫が入る。腹の足しにはなるが、食事とは言いがたい。

 

 一つ取って、袖で拭い、口に入れた。ひどく苦く、渋かった。舌の端が縮むような味がした。飲み込めないほどではないが、もう一つ食べたいとはとても思えなかった。

 

「これが食べられるものなんですか」

 

「死にはしない」

 

「そういう意味で言ったんですか」

 

「食べられる」

 

 師匠はそれ以上説明しなかった。

 

 知りたいのは、死ぬかどうかではなかった。どの実ならまだましなのか、どれくらい食べれば腹を壊すのか、火を通せば渋みが抜けるのか、ほかにまともなものはないのか。人が一日を越すためには、それくらいの区別が要る。

 

 師匠の答えには、その区別がなかった。

 

 別の日には、倒木の陰に黄色い茸が群れていた。雨上がりの土の匂いの中で、そこだけ妙に明るく見えた。足を止める。村で見た食べられる茸に似ていたが、傘の縁が少し違う。柄も細すぎる。採ってよいものか、少し迷った。

 

 師匠は、尋ねる前に言った。

 

「それはやめろ」

 

「毒ですか」

 

「腹を下す」

 

「どれくらい」

 

「歩けなくなるほどではない。だが、三度は戻す」

 

「それを最初から教えてください」

 

 言ってから、口を閉じた。

 

 師匠は怒らなかった。そもそも、責められたとも思っていないようだった。薄い灰色の眼を一度だけ向け、また道の先を見た。

 

「食べる前に言った」

 

「そうですが」

 

 そういうことではない、と言いたかった。

 

 師匠が間違っているわけではない。赤黒い実は食べられる。黄色い茸は避けた方がいい。

 正しい。だが、その正しさは、人間の食事には届いていなかった。

 

 死なないことと、食べることは同じではない。

 

 それは村で知っていた。働くには腹を満たさなければならない。歩くには塩気がいる。冷えた体には温かい汁が要る。夜を越すには、ただ眠れる場所ではなく、朝に起き上がれる場所が要る。

 

 師匠には、そのあたりの感覚が薄かった。

 

 旅を始めて、まだ二週間しか経っていない。

 

 村に戻ることはできない。師匠なしで道を行くこともできない。師匠の機嫌を損ねたところで何が起きるのか、まだ分からない。そもそも、この人に機嫌というものがあるのかどうかもよく分からなかった。

 

 だから、飲み込んだ。

 

 死者のことも似ていた。

 

 死んだものについて、幼い頃からそこにいるものを見てきた。だが、多くの残り香はぼんやりとしていて、問いかけなければ答えない。答えたとしても、欠けた言葉が返るだけだった。まれに、強い未練だけがいつまでも口を開きたがることはあったが、それは訴えではなく、傷から滴る血のようなものだった。

 

 死者から聞いたことも、村で覚えたことも、どれも断片にすぎない。

 

 それでも、暮らしの基準はあった。食べられるだけの実を食事とは呼ばない。腹を下しても歩ける茸を、食べ物とは数えない。墓地の外れで外套にくるまることを、宿とは呼ばない。

 

 師匠は、そういうところをほとんど気にしなかった。

 

 無口ではなかった。聞けば答える。死者のことでも、魔法のことでも、道のことでも、草や獣のことでも、驚くほど多くのことを知っていた。だが、その答えはしばしば、求める形ではなかった。

 

---

 

「死んだものを、もっとはっきり見るにはどうすればいいんですか」

 

 四日目の夜、ロッカはそう尋ねた。

 

 その晩、二人は古い石塚のそばで休んでいた。かつて誰かが道の守りとして置いたらしい石が、半ば草に埋もれて並んでいる。近くに家はなく、火を焚くための乾いた枝も少なかった。師匠は外套にくるまり、背の低い石の横に座っていた。眠っているのかと思えば、突然、誰かに返事をするように短く言葉を落とす。それが誰へ向けたものなのかは分からない。

 

 その土地には、古い通行人の残り香が散っていた。病で倒れた者、夜道で獣に追われた者。ほとんどは薄く、名も顔も失っていた。ただ、恐怖や疲労だけが地面に染みのように残っている。

 

 ロッカはそれらを見ようとした。見えるものもあれば、見えないものもある。焦点を合わせようとすると、別の死が混じる。石塚に触れると、もたれていた誰かの飢えがあった。土に手を置くと、そこで倒れた誰かの渇きが来た。全部が薄く、全部が邪魔だった。

 

 師匠はすぐに答えた。

 

「名、顔、骨、土地、執着の順に焦点を合わせる。しかし、土地の死が濃い時は名を探すべきではない」

 

 ロッカは黙った。

 名と顔までは、まだ分かる気がした。けれど、骨、土地、執着と続くほど、それらは手順ではなく、別々の入口のように思えてきてならなかった。

 

「分かりません」

 

「何が」

 

「……半分ほどです」

 

「全部か」

 

 師匠は少し考えたようだった。

 

「名は呼び紐だ。顔は枠だ。骨は帰る場所だ。土地は器だ。執着は火だ。火が強い時、器を先に見ると紛れる。紐が腐っている時、引けば別のものが来る。顔が欠けている時は、骨を支えにする。骨もなければ、死んだ場所を使う。死んだ場所が遠ければ、持っていたものを探す。しかし、ものを見るな。それを持った手を見ろ」

 

 前より長くなった。

 そして、前より分からなくなった。

 

 師匠は嘘を言っていない。むしろ、必要なことを言っているのだろうということは分かった。言葉の奥に、確かな重みがある。聞き流してよいものではない。だが、ロッカの手元に落ちてくる頃には、もう形が崩れていた。何を最初に試せばいいのか、どこで間違えているのか、どう直せばよいのかが分からない。

 

「もっと、順番に教えてください」

 

「今、順番に言った」

 

「私ができる順番で」

 

 師匠はロッカを見た。

 

 薄い灰色の眼は、少しも揺れなかった。責めているわけではない。呆れているわけでもない。ただ、そこにあるものを見ていた。その眼で見られると、ロッカは自分がまだ何も知らない子供なのだと突きつけられるようだった。反発したい気持ちはあった。だが、師匠の言葉が空疎ではないことも分かっていた。そのことが、何より不本意だった。

 

「お前ができる順番は、お前が覚えるしかない」

 

 師匠は言った。

 

「死者は皆、同じ向きに残らない」

 

「それは、そうでしょうけど」

 

「だから、同じ順で教えることはできない」

 

 この人は教えないのではない。

 教えるということが分かっていない。

 

 その考えは、この二週間で何度も浮かんだ。師匠は知識を惜しまない。何を聞いても答える。だが、その答えは深い井戸から水を汲み上げ、いきなり顔にかけられるようなものだった。水は本物だ。必要なものだ。けれど、それを飲む器がない。

 

 ロッカは師匠を愚かだと思ったことはない。あまりにも多くを知りすぎていて、知らない者がどこで足を止めるのかを分かっていないのだと思った。

 

 師匠はとてつもない魔法使いだ。

 それは間違いなかった。

 

 道を選ぶ時、師匠は地図を見ない。道端の古い墓標や、朽ちた祠や、誰にも読めない石の欠けから、昔の道の流れを読んだ。森へ入る時には、鳥よりも先に獣の通り道を避けた。雨が来る前には、死んだ旅人の残り香がどの窪みに集まるかを見て、濡れにくい場所を選んだ。夜、ロッカが眠れずにいると、どこからか聞いた古い道の名を呟き、その道がもう存在しないことまで知っていた。

 

---

 

 ある晩、山裾の廃屋に泊まった時のことだった。戸は腐り、屋根の半分は抜け、床には獣の糞が乾いていた。ロッカはそこに入りたくなかったが、師匠は迷わず中へ入った。

 

「ここは駄目です」

 

「なぜ」

 

「臭いし、床が抜けそうです」

 

「床は右が抜ける。左に寝ればよい」

 

「そういう問題ではありません。獣が戻ってくるかも」

 

「戻らない」

 

 師匠がそう言うと、本当に獣は戻らなかった。

 

 夜半、外で狼の声がした。近い。ロッカは外套を握り、息を潜めた。だが、狼は廃屋の前まで来て、しばらく鼻を鳴らし、それから逃げるように去った。虫も、師匠の周囲には近づかない。火も焚いていないのに、蚊も羽虫もそこだけ避ける。

 

 ロッカの方には来た。

 

 耳元を飛ぶ羽音を払いながら、ロッカは師匠を睨んだ。師匠は外套にくるまり、壁にもたれて目を閉じていた。眠っているように見えた。だが時々、廃屋の奥へ短く返事をした。そこには、かつてここで死んだ者の残り香がいるのだろう。ロッカには薄くしか見えなかった。誰かが戸口の方を見ていた気配だけが残っていた。名も顔もない。ただ、待っていたという形だけがあった。

 

 師匠はそれと話していた。

 

 死者と話せば、師匠には十分なのだ。

 

 道を聞くのも死者。土地の危うさを確かめるのも死者。古い井戸の場所を知るのも死者。今日の風がどこから来るかさえ、死んだ羊飼いに尋ねればよいと思っている。生きている人間に道を尋ねる必要がない。宿に泊まる必要もない。町へ入る必要もない。

 

 師匠の見ているものを、ロッカは疑えなかった。この人について行けば、死者のことは学べる。古い名も、土地に残る死も、残り香の扱いも知ることができる。村にいれば、ロッカはいつまでも墓場の子だった。死んだものに話しかける気味の悪い娘として、働かされ、嫁がされ、いつか何もない家の中で口を閉じるしかなかっただろう。師匠はそこからロッカを出した。墓場の子の中にあるものを、ただの不気味さではなく、磨くべきものとして見た。

 

 だが、ただ後ろを歩いているだけでは、自分の欲しいものには届かない。師匠のようになれば、人間の町などいらなくなる。温かい食事も、屋根も、清潔な寝床も、店の灯りも、人の声も、貨幣も、名前も、必要なくなる。死者と荒野だけで完結する人生が待っている。それは力かもしれない。自由かもしれない。けれど、ロッカには、ゆっくりと人間から外れていくことのように思えた。

 

 ロッカは、そうなりたくなかった。

 

 名声が欲しかった。金が欲しかった。綺麗な服が欲しかった。人の集まる町で、自分の名を呼ばれたかった。死んだものと話せるだけの子供ではなく、何かの役に立つ魔法使いとして見られたかった。

 

 そのためには、師匠のそばにいるだけでは駄目だった。

 

 二週間の旅で、そのことだけはよく分かった。

 

---

 

 ある朝、ロッカは空腹で目を覚ました。

 

 寝ていたのは、石の囲いだけが残った古い墓所のそばだった。夜のうちに風が強くなり、外套の端には砂が入っていた。師匠は少し離れた場所に座っており、朝日を受けても表情を変えなかった。薄い灰色の髪が風で乱れていたが、本人は気にしていない。虫はやはり寄りつかない。

 

 ロッカは口の中の砂を吐き、外套を払った。

 

「今日は町へ入りますよね」

 

 師匠は答えなかった。

 

 代わりに、墓所の一番奥、傾いた石の前を見ていた。そこに何かいるのだろう。ロッカにも薄く見えた。荷を背負った男の残り香だった。古い。顔は見えない。足元ばかり気にしている。道を間違えたのか、誰かを待っていたのか、同じ場所を何度も振り返る気配があった。

 

「師匠」

 

「南の道は崩れている」

 

「私は町の話をしています」

 

「この者は、橋を渡らなかった。川が増していた」

 

「この者って誰ですか」

 

「荷運びだろう。名は残っていない」

 

「じゃあ、あてにならないじゃないですか」

 

「道は覚えている」

 

 師匠は立ち上がり、何の疑いもなく東へ歩き出した。

 

 ロッカは少し遅れて荷を背負った。荷といっても、大したものはない。替えの衣、布、針、硬くなったパンの残り、小さな木片。村を出る時に持たされたものは、もうほとんど減っていた。パンは昨夜で最後だった。師匠はそれを知っているのかどうかも怪しい。

 

 歩きながら、ロッカは何度か口を開きかけた。

 

 食べるものがない。町で買わなければならない。そのためには金がいる。師匠が金を持っていないはずはなかった。ロッカを買ったのだから、少なくとも人ひとりの値を払えるだけのものは持っていた。

 問題は、それが今の町で使える金なのか、そして宿や食事に使う気があるのかだった。師匠なら、古い国の貨幣を当然のように出してもおかしくない。あるいは、そもそも宿をとる必要を感じていないかもしれなかった。

 

 どれも聞くべきことだった。けれど、聞いたところでまともな答えが返ってくる気がしなかった。

 

 師匠は、道端に生えていた細い草を指した。

 

「それは噛める」

 

「食べ物ではなく?」

 

「噛める」

 

 ロッカはもう返事をしなかった。

 

 別の低木の実を見て、師匠は続けた。

 

「青いものは腹を下す。黒くなったものは虫が先に食う。赤い間なら、苦いが食べられる」

 

「おいしいものはないんですか」

 

「ある」

 

 ロッカは少しだけ声を高くした。

 

「どこに」

 

「季節が違う」

 

 期待した自分が悪かったのだと、ロッカは思った。

 

 道は緩やかに下っていた。遠くに川の音が聞こえる。初めは風の音かと思ったが、しばらく歩くと、木々の間に水面の光がちらついた。街道は川沿いへ降り、そこから東へ曲がっている。人の通る道らしく、轍がはっきりしていた。荷車の跡、馬の蹄、靴跡。新しいものも、古いものもある。

 

 生者の痕跡だった。

 

 ロッカは少しだけ息をしやすく感じた。死者の残り香とは違う。靴底に挟まった泥、こぼれた麦、馬の汗、荷車の軋み。人が通り、人が運び、人が食べ、人が金を払う道。ロッカが欲しいものは、こちらにあるはずだった。

 

 師匠はその痕跡にほとんど関心を示さなかった。

 

 道端に半ば傾いた石の道標があり、そこでだけ足を止めた。苔に埋もれた表面には、欠けた文字がわずかに残っている。今の街道からは少し外れており、道標としてはもう役に立っていなかった。

 

 師匠は指で石の表面をなぞり、三つの名を呟いた。どれもロッカの知らない響きだった。一つは祈りのように古く、一つは王の布告のように硬く、一つは荷運びたちの悪口のように崩れていた。

 

「三つとも、町の名ですか」

 

「そうだ」

 

「今の名は」

 

「知らない」

 

「昔の名を三つも知っていて、今の名は知らないんですか」

 

「今の名は、生きている者に聞けばよい。古い名は、死んだ者に聞くしかない」

 

 ロッカは返事をしなかった。

 

 師匠の知識は、いつもこうだった。深い。正しい。おそらく誰よりも古いところへ届いている。だが、今の宿で飯を買う時には何の役にも立たない。今の町の名を知らずに、もう誰もが忘れ去った呼び名を三つも知っている。その名で死者は呼べるのだろう。土地も応えるのだろう。けれど、その名では宿を取れない。パンも買えない。道を聞くこともできない。

 

---

 

 昼近くになると、空腹は腹の底に沈み、言葉にならない腹立ちになった。

 

 ロッカは黙って歩いた。師匠の背を見ながら、何度も文句を考えた。食べ物が欲しい。町に入りたい。宿に泊まりたい。せめて、どこへ向かっているのか説明してほしい。だが、どの文句も口に出す前に形を失った。

 

 喧嘩をするには、まだ早い。

 

 師匠はロッカを買った。師匠はロッカを村から連れ出した。師匠はロッカの見えるものを見た。師匠の力は本物で、ロッカはまだその足元にも届かない。今ここで言い募ったところで、何が変わるのか。師匠は怒らないかもしれない。困りもしないかもしれない。ただ、ロッカだけが余計に惨めになるかもしれなかった。

 

 だから、飲み込んだ。

 

 そういう飲み込み方を、この二週間で覚え始めていた。村で覚えた沈黙とは違う。村では、言っても分からないから黙った。師匠の前では、分からないのは自分の方かもしれないから黙った。

 

 その違いが、ロッカには不本意だった。師匠の前では、反発するより先に、自分がまだ何を知らないのかを考えなければならなかった。

 

 午後になると、道の先が開けた。

 

 林が途切れ、緩やかな丘の上に出る。風が強くなり、ロッカの髪を乱した。灰色の雲の切れ目から、薄い光が差している。下方には川が流れ、その川に石造りの橋がかかっていた。橋のたもとに家々が集まり、煙が何本も上がっている。街道は橋を渡り、家並みの中央へ吸い込まれていた。

 

 宿場町だった。

 

 坂を下ろうとしていた靴先が、草の中で止まった。肩の荷が遅れて背に当たり、乱れた髪が頬へかかる。ロッカの目は、橋と煙と家並みの間をゆっくり往復した。

 

 思っていたよりも大きかった。村とは違う。家の数が多い。屋根の色もばらばらで、馬小屋らしい長い建物があり、荷車が並んでいる。広場らしい場所には人影が動き、川沿いには洗い場が見える。橋の脇には小さな番所のような小屋があり、その近くで男が何かを書きつけていた。風に乗って、煙、馬、煮込み、川泥、汗、干し草の匂いが混じって届いた。

 

 生きている匂いだった。

 

 空いた腹が、匂いに遅れて小さく鳴った。

 

 師匠の視線は、そこにはなかった。

 

 薄い灰色の目は、家並みを越えず、丘の北側へ滑っている。町から少し外れた場所に、古い墓地が広がっていた。低い石がいくつも並び、奥には崩れかけた小屋がある。葬送小屋か、墓守の小屋かもしれない。新しい墓もあるが、その向こうにはもっと古い石塚が混じっている。道から外れ、草に埋もれた一角には、誰のものとも知れない無縁墓が寄り集まっていた。

 

 師匠はそちらへ歩き出した。

 

 ロッカは最初、見間違いだと思った。

 

「町は、あっちです」

 

 師匠は足を止めなかった。

 

「知っている」

 

「知っているなら、なぜそっちへ行くんですか」

 

「墓地がある」

 

「見れば分かります」

 

「静かだ」

 

 ロッカは丘の上で立ち尽くした。

 

 町が見えている。煙が上がっている。食べ物の匂いがする。人がいる。橋がある。宿があるはずだ。金が必要だとしても、何かしら方法はある。少なくとも、墓地よりはましだ。

 

 師匠は、そうは思わないらしい。

 

「師匠」

 

 ロッカは声を抑えた。

 

「まさか、あそこで寝るつもりですか」

 

「小屋が残っている」

 

「残っているから何ですか」

 

「屋根がある」

 

「宿にも屋根があります」

 

「宿は騒がしい」

 

「人がいるからです」

 

「そうだ」

 

 師匠は淡々と言った。

 

 会話になっているようで、何も通じていない。

 

「私は、町に入りたいです」

 

「入ればよい」

 

 あまりに簡単に言われて、ロッカは言葉を失った。

 

 逃げたらどうするつもりなのだろう、と一瞬思った。町へ入れば、人はいる。道もある。荷車に紛れることも、誰かに助けを求めることも、どこかの家の裏へ隠れることもできる。師匠はそれを考えていないのか。それとも、考えるまでもないと思っているのか。

 

 どちらにせよ、気分のよいものではなかった。逃げられないと思われているのなら屈辱だった。逃げても構わないと思われているのなら、自分はそれほど軽いものなのかと思わずにはいられなかった。

 

 師匠は振り返った。薄い灰色の眼が、いつものように変わらずそこにあった。止めるつもりはないらしい。心配するつもりもないらしい。ただ、ロッカがそう言ったから、そうすればよいという顔だった。

 

「一人で?」

 

「町は生者が多い。お前にはそちらの方がよいだろう」

 

「師匠は」

 

「私はここで足りる」

 

「何が足りるんですか」

 

「道を知る者がいる。死んだ者もいる。土地の名も残っている」

 

「食事は」

 

「墓地の裏に草がある。赤い実なら食べられる」

 

「またそれですか」

 

 ロッカは口を閉じた。

 

 声を荒げそうになったが、そうはしなかった。

 

 師匠は町に入らない。生者の宿も、食事も、噂も、金も、関心がない。死者と話せば十分だと思っている。墓地で外套にくるまれば眠れる。虫も獣も寄りつかない。そういう存在なのだ。

 

 けれど、ロッカは違う。

 

 虫は寄る。腹は減る。寒ければ眠れない。人の中でどう見られるかが気になる。金がなければ食べられない。名前を呼ばれなければ、何者にもなれない。

 

 師匠の背後で、町の煙が揺れていた。

 

 ロッカはその煙を見た。橋を渡る荷車を見た。広場へ向かう人影を見た。どこかで鐘が鳴り、犬が吠え、誰かが大声で笑った。村とは違う声だった。けれど、完全な自由の音でもない。あの中へ入れば、値踏みされる。誰の娘か、どこから来たか、何ができるか、誰の許しを得ているかを問われる。

 

 それでも、墓地よりはよかった。

 

「では、行ってきます」

 

 ロッカは言った。

 

 師匠は頷いた。

 

「待ち合わせは」

 

 言ってから、ロッカは自分で少し情けなくなった。そんなことまで、こちらから決めなければならないのかと思った。

 

 師匠は不可解なものを眺めるようにロッカを見た。

 

「待ち合わせ」

 

「私が町に入るんです。戻る場所と時刻を決めないと困ります」

 

「私は墓地にいる」

 

「いつまでですか」

 

「用が済むまで」

 

「私の用が済むまでではなく?」

 

 師匠は少し黙った。問いの意味を探しているのか、墓地に残る死者の数を数えているのか、ロッカには分からなかった。

 

「町に泊まるなら、明日の朝でよい」

 

 あまりにあっさりと言われて、ロッカはまた言葉を失った。

 

 師を墓地に置いて、弟子の自分だけが町に泊まる。それは不遜ではないのか、と少し思った。村にいた頃なら、年長の者を外に置いて自分だけ屋根の下へ入るなど、叱られて当然だった。まして相手は、自分を買い、村から連れ出し、死者の見方を教える魔法使いである。

 

 だが、師匠を見て、その考えはすぐに薄れた。

 

 この人は、そんなことを気にする人間ではない。

 

 師匠にとって、墓地は不便な場所ではない。静かで、死者がいる。ロッカが宿を欲しがることも、弟子の不忠ではなく、生者の都合として処理しているだけなのだろう。

 

 それは寛大さではなかった。

 ただ、気にしていないだけだった。

 

「では、明日の朝に戻ります」

 

 ロッカは自分でそう決めた。

 

 師匠は頷いた。師弟の礼を許したというより、ロッカがそう言ったことを聞き取っただけの頷きだった。

 

「戻らなかったら」

 

 ロッカは言いかけて、少し迷った。

 

「戻らぬなら、その時に考える」

 

「探しに来るんですか」

 

「戻れぬならな」

 

「私が逃げたら」

 

「それも、その時に分かる」

 

 ロッカは返事をしなかった。

 

 安心してよいのか、反発してよいのか、判断がつかなかった。師匠はロッカを心配しているわけではない。戻らなければ、その時に何かが起きる。それだけのこととして受け取っているのだろう。

 

 ひどく曖昧な答えだった。

 そして、人としては少しも頼りにならなかった。

 

 それでも、魔法使いとしての師匠を疑うことはできなかった。町の中で何が起きたとしても、きっと見つけるのだろう。助けるかどうかは分からない。心配するかどうかも分からない。ただ、見つけられないということだけは、なぜか想像できなかった。

 

「橋では左を歩け」

 

 師匠は言った。

 

「なぜですか」

 

「右は一度落ちている」

 

「いつ」

 

「古い」

 

「直っているでしょう」

 

「直っていても、落ちたことは残る」

 

 ロッカは返事をしなかった。

 

 分かるような、分からないようなことをまた言う。だが、橋では左を歩こうと思った。従わない理由もまた、ない。

 

 師匠は墓地へ向かって歩いていった。外套の裾が草を撫でる。草の上に留まっていた虫は慌てて飛び去った。墓地の方から、薄い残り香がいくつも立ち上がるのがロッカには見えた。新しい死者、古い死者、名のある者、名のない者。師匠が近づくと、それらは騒ぐでもなく、怯えるでもなく、ただ少しだけ静まった。

 

 あの人には、それで足りるのだ。

 

 ロッカは町の方へ向き直った。

 

 宿場町の名は、道標に刻まれていた。古いものではない。読みやすい字で、橋の手前に立っている。

 

 カラネ宿。

 

 その名を見た時、ロッカの腹がもう一度鳴った。羞恥より先に、現実が来た。腹が減っている。金はほとんどない。保護者は墓地へ行った。師匠はすさまじい魔法使いだが、宿代を払ってくれる気配も、食事を用意してくれる気配もない。

 

 なら、自分でどうにかするしかない。

 

 ロッカは橋へ向かって歩き出した。

 

 左側を歩いた。

 

 橋の石は、言われてみれば右側だけ色が少し違っていた。新しく積み直された跡がある。いつ落ちたのかは分からない。ロッカには、橋から落ちた者の残り香は見えなかった。ただ、水の匂いと、濡れた木と、荷車の車輪が石を擦った音の名残があった。

 

 生者の町が近づいてくる。

 

 ロッカは外套の前を直し、乱れた髪を指で押さえた。村を出て二週間、鏡など見ていない。どんな顔をしているのか、自分でも分からなかった。けれど、少なくとも墓場の子として入るつもりはなかった。

 

 仕事なら、探せるはずだった。

 

 村と同じだろう。水を運ぶ手。藁を替える手。桶を起こす手。汚れた床を拭く手。火を見張り、荷を寄せ、散らばったものを片づける手。町には村よりも人が多い。人が多ければ、手の足りない場所も多いはずだった。

 

 死者のことを言う必要はない。

 

 残り香が見えるとも、死んだものと話せるとも言わない。働くと言えばいい。今日一晩の食事と寝床をもらえるだけの仕事を探す。王印も、師匠の名もいらない。自分の手で、何かを得られるかもしれない。

 

 橋を渡りきると、宿場町の門が見えた。

 

 門と呼ぶには低く、砦と呼ぶには粗末だった。木の柱と簡単な柵。その内側に、人の声が満ちている。荷車の軋み。馬の鼻息。鍋をかき回す音。怒鳴り声。笑い声。どこかで泣いている子供の声。誰かを弔う鐘の音。

 

 その鐘の音だけが、少し遅れてロッカの胸に触れた。

 

 町の中にも、死者はいる。

 

 それでも、そこには生きている者が多かった。

 

 ロッカは一歩、門の内側へ入った。

 

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