墓場の子   作:地図ヶ原

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物探しの娘 2

 門の内側へ、靴先が一歩入ったところで、短い棒の先が道を塞いだ。

 

「そこの娘、止まれ」

 

 橋のたもとにある番所は、丸太と粗い石で組まれていた。屋根の板は雨を吸って黒ずみ、窓の下には硬貨を置く浅い皿と、通る者の名を書きつける板が並んでいる。橋番の灰色の上衣には乾いた泥が跳ね、袖口は何度も擦れて白くなっていた。兵というほど整ってはいない。だが、通る者を止め、名を聞き、金を取ることには慣れているようだった。

 

 ロッカは、ただ町へ入りたかった。

 

 何か食べ、宿を探し、今夜だけでもベッドの上で眠る。そのために橋を渡っただけだった。けれど、生きている者の町には、町の口がある。口には歯があり、入る者を一度は挟む。名を出せ。用を言え。どこから来た。誰の者だ。何を持っている。何を払える。

 

 死者なら、問いかけなければ答えないことが多い。生者の町は、こちらが何も聞いていなくても先に問いを並べる。

 

 橋番の視線が、顔から外套の裾まで降りた。泥の乾いた跡、擦り切れた袖、肩にかけた小さな荷。村を出てから鏡など見ていない。どんな顔をしているのか、自分でも分からなかった。立派な旅人に見えないことだけは、たぶん確かだった。

 

 名を求められ、ロッカは名だけを渡した。

 

 家名で、少し止まった。

 

 村では家名など使わなかった。誰の娘か、どこの家か、どの畑に出るかで足りた。名が必要な時はロッカで足りた。必要でない時は、墓場の子と呼ばれた。

 

「ありません」

 

 橋番の眉間に皺が寄った。

 

 後ろでは荷車の馬が鼻を鳴らしている。商人らしい男が、唇の内側だけで早くしろと悪態をついた。門口は、ひとりの娘の身の上を丁寧にほどく場所ではないらしい。家名のないことは面倒でも、荷車を止め続けるほどの大きさではなかった。

 

 出身を問われ、故郷の村の名を口にした。

 

 聞き慣れない名だったのだろう。橋番の顎がわずかに上がり、もう一度、と促された。二度目の村名が板へ書きつけられる。粗い筆先が木の目に引っかかり、黒い線が少し歪んだ。

 

 その板に、自分のことが残る。

 

 奇妙な感じだった。村では、ロッカの名など誰かの口にあれば足りた。ここでは、板の上に歪んだ線として置かれる。通った者として数えられ、金を払った者として扱われる。町へ入るというのは、ただ歩いて門を抜けることではないらしかった。

 

「口銭」

 

 浅い皿が指先で叩かれた。

 

 荷の奥から、小さな布袋を取り出す。中の硬貨は軽かった。村を出る時に持たされたものと、ここまで使わずに済んだものだけ。師匠がロッカを買った時の金とは違う。父の手へ渡った金の重さとも違う。今この場で、ロッカ自身の手から失われる金だった。

 

 一枚、二枚。

 

 皿の上で、硬貨が乾いた音を立てた。

 

 橋番の指がそれを寄せ、目で確かめる。偽物かどうかを見るというより、足りているかを数えるだけの手つきだった。名前も出身も、ここでは最後に硬貨の数に変わる。

 

 荷を少し見られた。

 

 それだけで終わった。荷が小さすぎたからだろう。調べる価値のあるものも、隠す余裕のあるものもない。棒の先が道の脇へ退いた。

 

「町の中で揉めるなよ」

 

「揉めるつもりはありません」

 

 答えた時には、橋番の目はもうロッカを離れていた。後ろの荷車へ顎が向き、馬の手綱、荷台の結び目、商人の差し出す札が順に見られる。浅い皿の硬貨が端へ寄せられ、板に書かれた名の上には、次の通行人の影が落ちた。

 

 ロッカは通された。

 

 師匠のことは、聞かれなかった。

 

 そのことに、わずかに息が落ちた。聞かれても、答えられることは少なかった。名を知らない。王印を持つかどうかも知らない。今は町外れの墓地にいる。正直に並べれば、橋番は道を空けなかったかもしれない。あるいは、誰かを呼びに走ったかもしれない。

 

 嘘をついたわけではない。

 

 ただ、聞かれなかったことを言わなかった。

 

 門の内側へ進むと、音が一度に近くなった。

 

 車輪が石を擦る音。馬が鼻を鳴らす音。濡れた藁を踏む音。戸口で桶が倒れ、水が敷石の溝へ流れていく音。道の端には泥が残り、その上に麦殻と馬糞と踏み潰された青い葉が混じっていた。二階の窓から洗った布が垂れ、軒下では鍋の湯気が白く立っている。煮えた豆、古い酒、汗を吸った革、川泥、火の煙。それらが一つに混じり、腹の奥を直接撫でた。

 

 生きている匂いだった。

 

 腹が鳴った。

 

 小さな音だった。だが、自分には十分すぎるほど近く聞こえた。口銭を払ったせいで、布袋はさらに軽くなっている。食事をすれば宿が遠のく。宿を取れば食事が遠のく。

 

 どちらも欲しい。

 

 どちらも必要だ。

 

 そのためには、金が要る。

 

 広場へ、足が向いた。 

 

---

 

 広場は、村の祭りの日よりも騒がしかった。

 

 川と橋と街道によって膨らんだ町なのだろう。家々は道に沿って詰まり、荷を運ぶ者、泊まる者、売る者、待つ者が入り混じっている。片側には馬小屋。反対側には酒場と宿を兼ねた建物。二階の窓から笑い声が落ち、下では旅人が荷を降ろし、店の者が硬貨を数えていた。

 

 声をかける相手は、いくらでもいるように見えた。

 

 宿の戸口で濡れた布を絞る女。馬の腹帯を締め直す男。荷の数を数えている商人。子供の手を引きながらパンを買う母親。けれど、誰もロッカのために空いてはいなかった。皆、自分の用事の中にいる。町では、立っているだけの者は邪魔だ。用があるなら、用のある顔をしなければならない。

 

 その顔の作り方が、まだ分からなかった。

 

 それでも、立っているだけでは何も変わらない。

 

 宿の入口へ近づいた。濡れた布を絞っていた女の手から、水が敷石へ落ちている。布の端は赤茶け、爪の間には灰が詰まっていた。

 

「働きます」

 

 女の手が止まった。

 

「一晩、寝るところと食べるものをください。水汲みでも、掃除でも、馬小屋でもやります」

 

 視線は、ロッカの後ろに連れがいないことを確かめ、次に腰元の空いたところを見た。宿へ来る者は、先に財布か荷札か紹介状を出す。ロッカには、そのどれも見えなかった。

 

「うちは今、人を雇ってないよ」

 

「一晩だけでいいです」

 

「一晩だけの子供を入れる方が面倒なんだよ。皿を割ったら誰が払う。客の荷がなくなったら誰が疑われる。夜中に逃げたら、誰が探す」

 

 濡れた布が、もう一度絞られた。

 

「それに、馬小屋も台所も、知らない子を入れる場所じゃない」

 

 正しい言葉だった。

 村なら、手が足りなければ子供でも水を運ぶ。藁を替える。火を見張る。けれど宿は村の家ではない。客の荷があり、金があり、酒があり、知らない人間が眠る場所だった。

「物を探すこともできます」

 

 その言葉は、少し遅れて出た。

 

 女の目が細くなった。

 

「何を」

「失くした物を」

「うちで失くなるのは匙と客の財布だよ」

「そういう物ではなく」

 言葉がそこで止まった。

 死んだ者の物。

 形見。

 棺に入れる物。

 墓へ持っていく物。

 

 どれを選んでも、宿の戸口には合わなかった。

「亡くなった人の持ち物なら」

 女の手が止まった。

「宿の前で、縁起の悪いことを言うんじゃないよ」

 水が敷石へ強く落ちた。

「客が飯を食っているんだ。そういう話は、墓のそばでやりな」

 戸の内側へ、女の背中が消えた。

 

 女は間違っていない。ロッカは宿代も持たずに宿の前に立っている。物探しだと言っても、証になるものはない。王印もない。師匠の名も出せない。見た目は、薄汚れた旅の娘にすぎなかった。

 

 二人目は、荷車のそばにいた商人だった。

 

 麻縄を締め直す手が早い。荷にかけた布の結び目を確かめ、脇に置いた革袋へ目をやる。荷は重そうだった。樽が二つ、布包みが三つ、木箱がいくつか。車輪の周りには泥が厚くつき、馬の首には汗が浮いている。

 

「荷運びを手伝います」

 

 商人の目は、すぐにロッカの腕ではなく、腰元と背後へ動いた。

 

 誰の印もない。荷主の札もない。連れもいない。町の者なら、誰かの名を出す。商家の使いなら、荷札を持つ。雇われの荷運びなら、少なくとも顔を知る者が一人はいる。ロッカには、そのどれもなかった。

 

 商人の手は止まらなかった。

 

「荷には触らせられない」

 

「重いものも運べます」

 

「運べるかどうかじゃない」

 

 商人は結び目を強く引いた。

 

 麻縄が軋み、荷布の下で木箱の角が少し沈む。商人の目は、ロッカの腕ではなく、結び目、車輪止め、革袋の口へ動いていた。荷は重いか軽いかではなく、数が合うかどうかだった。ひとつ減れば金になる。傷がつけば責められる。誰が触ったか分からなければ、揉めごとになる。

 

 旅の娘を、荷台のそばへ近づける理由はなかった。

 

 ロッカは黙った。

 

 商人の言葉は、宿の女の言葉と同じところを向いていた。手が足りるかどうかではない。働けるかどうかでもない。知らない子供を入れた時、何かが壊れ、失くなり、揉めたら、誰が責を負うのか。その答えをロッカは持っていなかった。

 

「物を探すこともできます」

 

「失くしてから言え」

 

「亡くなった人の形見なら」

 

 商人の手が、ほんの一瞬だけ止まった。

 

 だが、それだけだった。目は荷台の布と車輪止めへ戻っている。積み荷を守り、次の宿場へ急ぐ者にとって、見知らぬ娘など、足を止めるほどの用ではなかった。

 

「うちの荷は生きている者の荷だ」

 

 手の甲が、蝿でも払うように揺れた。

 

 三度目の声は、向こうから来た。

 

 馬小屋の前で、水桶が倒れていた。敷石の溝へ水が流れ、濡れた藁が泥を吸って重くなっている。馬丁らしい男が、片手で馬の手綱を押さえ、もう片方の手で空の桶を蹴った。人手は足りていないらしかった。

 

「手が空いているなら、そこの藁をどけな」

 

 ロッカは少し迷った。

 

「終わったら、お金をもらえますか」

 

 男の目が、こちらを一度だけ見た。腰元、荷、顔。宿の女や商人と同じ順だった。

 

「終わったらな」

 

 それは約束の形をしていた。

 

 濡れた藁は見た目より重かった。指の間に泥が入り、腐りかけた草の匂いが爪の下へ残った。桶を起こし、藁を道の端へ寄せ、水の流れを溝へ逃がす。馬の蹄がすぐそばで石を叩き、しぶきが外套の裾に飛んだ。

 

 仕事そのものは難しくなかった。

 

 村でも、藁は運んだ。水も汲んだ。泥も掻いた。家畜の腹の下へ手を入れたこともある。人の町であっても、汚れたものは汚れ、重いものは重い。そこは変わらない。

 

 最後の藁を寄せ終える頃には、指先が冷えきっていた。

 

「終わりました」

 

 男は馬の腹帯を締め直していた。こちらを見ず、手綱を引く。

 

「邪魔にならなかっただけ、ましだな」

 

「約束は」

 

「手間賃を出すほどの仕事じゃない。少し片づけただけだろう」

 

 馬が鼻を鳴らした。

 

 男の手は、もう革紐と鐙の方へ戻っている。ロッカの濡れた指も、外套の裾についた泥も、彼の仕事の中には数えられていなかった。倒れた桶も、流れた水も、濡れた藁も、終わってしまえば最初から誰かがやるはずだった雑事になった。

 

 小銭は出てこなかった。

 

 声を上げれば、人が集まる。人が集まれば、また値踏みされる。騒ぎになる。仕事を得る前に、町から追い出されるかもしれない。小銭一枚のために、そこまで危ういことはできなかった。

 

 濡れた指を外套の内側で拭った。

 

 働いても、払われないことがある。

 

 当たり前のことなのかもしれない。けれど、まだ知らなかった。村では、働けば家の飯に混じった。褒められはしなくても、働いたこと自体は家の中へ吸われていった。町では違う。働いた手と、支払われる金の間には、約束と証が要る。誰が頼み、何を終え、いくら払うのか。それを押さえられなければ、働きはすぐにただの手伝いへ変わる。

 

 それは、少し甘かったらしい。

 

 広場の端で、人の流れを見た。

 

 生きている者は忙しい。荷を運び、金を数え、店へ入り、宿へ上がり、馬を引き、子供を叱る。誰もが何かをしている。誰もがどこかへ向かっている。そこに入り込むには、ただ力があるだけでは足りない。信用、肩書き、年齢、紹介、場所。そういうものが要る。

 

 ロッカには、どれもなかった。

 

---

 

 鐘が鳴った。

 

 町の奥、川下の方からだった。高い鐘ではない。厚い金属を、布をかけた槌で叩くような、鈍い音だった。広場の喧騒の中では大きく響かない。だが、ロッカの耳には妙に遅れて届いた。

 

 町の匂いの中に、別の匂いが混じっている。香。湿った布。古い木。閉めきった部屋の中で人が長く泣いた後の、息の重さ。死者そのものの匂いではない。死者を囲んで、生きている者が作る匂いだった。

 

 顔が、川下の道へ向いた。

 

 死者の気配は、町の中にもある。

 

 分かっていたはずだった。けれど、人の声と馬の匂いに満ちた町の中でそれに触れると、墓地や荒野とは違って感じられた。村の死は、土の中や納屋の陰や、墓場の端に押しやられていた。旅の死は、道端の石や崩れた小屋や、名を失った場所に薄く残っていた。

 

 ここでは違う。

 

 白い布を肩にかけた女たちが、川下へ向かっていた。

 

 死者のあるところには、生きている者の困りごともある。

 

 ロッカは、そのことをよく知っていた。村でもそうだった。葬りの前には物がなくなる。形見を探す。死んだ者の言い残したことを気にする。いつもの場所にあるはずのものが、死の前後には別の意味を持つ。

 

 宿には断られた。商人にも断られた。濡れた藁を片づけても、何も渡されなかった。

 

 それでも、どこかに糸口はあるはずだった。

 

 食事と寝床につながるものなら、何でもいい。死の気配に近づくことが、町の中で自分にできる唯一の仕事へつながるかもしれない。

 

 ロッカはすぐには後を追わなかった。

 

 広場の端で、荷車が一台、道を塞いでいた。馬の尻を避けるふりをして足を止め、女たちの背が人の流れに少し紛れるのを待つ。近づきすぎれば、聞いていることが分かる。離れすぎれば、白布を見失う。町の道に慣れたふりをして、ロッカは干し魚を並べた店の前をゆっくり通った。

 

 女たちは振り返らなかった。

 

 声の切れ端だけが、人の肩と荷の隙間から戻ってくる。セントの家。奥方。弔問。指輪。棺。ボードンという名。どれも、ロッカへ向けられた言葉ではない。けれど、死者の名へ続く細い糸のように、川下の道へ伸びていた。

 

 ロッカは、少し遅れて歩き出した。

 

 弔問客の後を追う娘ではなく、川下へ用のある旅の娘に見えるように。店先の籠を一度見て、軒下の水桶を避け、荷を担いだ男の後ろに半身を隠す。白布の女たちが歩みを緩めれば、ロッカも馬小屋の方へ顔を向けた。女たちが進めば、また少しだけ距離を詰めた。

 

 人の家の葬儀へ、見知らぬ娘がついていくのは不自然だ。

 

 だから、ついていかないふりをした。

 

 道幅は少しずつ狭くなったが、人の流れは途切れなかった。荷車は川へ向かい、空の籠を抱えた男たちは倉の方へ急ぎ、白布を肩にかけた弔問客だけが歩みを落としていた。広場の笑い声は背後へ沈み、低く押し殺した話し声が道の両側に増えていく。窓には白い布。戸口の前には水を打った跡。湿った土の匂いの上に、香の煙が薄く重なっていた。

 

 その家は、川沿いの倉屋敷だった。

 

 通りに面した戸口は狭い。けれど、奥へ続く壁は長く、川へ抜ける側には荷揚げ口がある。軒下には麻縄、船鉤、木札の束、古い秤が掛かっていた。戸板の下には、水が引いた後の泥筋が薄く残っている。白布と香に覆われても、穀袋と樽と湿った木の匂いは消えていなかった。荷を受け、数え、預かり、送り出してきた家の匂いだった。

 

 戸口には喪の白布が結ばれていた。

 

 人の出入りは絶えなかった。濡れた靴の跡、帳面を抱えた腕、上等な外套の襟、肩にかけられた白布。誰もがそれぞれの用と顔を持って戸口をくぐり、香の煙の奥へ消えていく。

 

 けれど、戻ってくる時には、どの顔にも同じ薄い困惑が載っていた。

 

 死者を悼むために来た者たちが、何か別のものに足を取られている。

 

 それだけは、外からでも分かった。

 

 白布の脇で、低い声が交わされていた。弔問を終えた者たちが、道へ出る前に声を落とす。家の者ではない。だが、家の中で見聞きしたものを、外へこぼさずにはいられない顔だった。

 

「まだ見つからないらしい」

 

「棺も閉められないままだって」

 

「指輪ひとつで」

 

「そのひとつを、ボードンが譲らないんだろう」

 

 そこで声がさらに細くなった。

 

「誰かが持ち出したなんて話にならなきゃいいけど」

 

 指輪。

 

 その言葉で、ロッカの目が白布の奥へ向いた。

 

 閉じられない棺。見つからない指輪。口にされない盗みの疑い。死者を送るはずの家は、死者の前で何かを探し続けているらしかった。

 

 ロッカは、戸口へ近づいた。

 

 白布の脇にいた女が、最初にロッカへ気づいた。声より先に、視線だけが来た。身内か、近所の者かは分からない。目元は赤く、白布を押さえる指は強張り、口元には、これ以上この家へ面倒を入れまいとする線が出ていた。

 

 喪に入る者の歩き方ではなかったのだろう。白布も持たず、香の前で頭を下げるでもなく、ただ戸口の内側を見ている。女の目は、ロッカの肩、空いた両手、旅で固くなった靴先を順に拾い、どれにも通してよい理由を見つけなかった。

 

「何だい、あんた」

 

「指輪を探しているんですか」

 

 女の目元が、すぐに硬くなった。

 

 近くで香炉を運んでいた男の手が止まる。畳まれた白布を抱えていた若い女が、布の端を胸元へ引き寄せた。戸口の奥で、誰かが小声で話していた気配も途切れる。

 

「誰から聞いたの」

 

「道で」

 

「道で聞いた話を、葬儀の家まで持ってくるんじゃないよ」

 

 白布の端が、女の手の中で少しねじれた。怒鳴るほどではない。だが、弔いの場に入ってよい者と、そうでない者がいる。

 

「帰りな。見世物じゃない」

 

「探せます」

 

 その一言で、戸口の内側にあった動きがまた止まった。

 

 今度の沈黙は、先ほどより細かった。弔問客の沈黙ではない。得体の知れないものを見た時の沈黙だった。

 

 ロッカの背後では、川下へ向かう荷車の音がまだ続いている。けれど、白布の内側では、誰もすぐに動かなかった。香の煙だけが、戸口の上で薄く折れた。家の者たちの視線が、見知らぬ娘の顔ではなく、まずその手元へ集まった。何も持っていない手。

 

 それから、視線は少しずつ顔へ戻った。

 

 子供。旅の娘。弔問客ではない。親族でもない。家の者でもない。

 

 そのどれにも当てはまらない者が、死者の家の入口で、失くした指輪を探せると言っている。

 

 誰かが息を吸った。

 

「そういう子を呼んだ覚えはないよ」

 

「呼ばれたわけではありません」

 

「なら帰りな」

 

 正しい言葉だった。

 

 呼ばれていない。家の者でもない。王印もない。死者の家の入口で、見知らぬ娘が通される理由はなかった。

 

 だが、帰れば終わる。

 

 食事も、寝床も、仕事もない。ロッカはまた広場へ戻り、荷車と馬と商人の間で、誰にも必要とされない娘になる。ここまで来て、何もせずに引き返すことはできなかった。

 

 中に入れないなら、外から見るしかない。

 

 指輪そのものが呼ぶわけではない。金属の輪が、ロッカに場所を教えるわけでもない。探せるとすれば、それを持っていた死者の側からだった。サレア・セントという名。奥の部屋に横たわる残り香。まだ細く保たれている死者の輪郭。

 

 その輪郭が、どこへ向いているか。

 

 棺へ向いているのか。失くした指輪を追って戸口の外へ伸びているのか。それとも、家の内側のどこかへ沈んだまま、誰にも触れられていない場所に引っかかっているのか。

 

 まだ分からない。

 

 けれど、白布の奥にある薄い気配は、完全には閉じていなかった。死者が何かを手放しきれずにいるのなら、その残り方には向きがある。名を置き、顔を思い、死者のそばへ近づければ、もう少し見えるかもしれなかった。

 

 それを辿れるかもしれない。

 

 空腹とは別の熱が、腹の底に生まれた。

 

 初めて、自分の力を生きている者たちの前で試せるかもしれなかった。

 

「中に入れば、探せます」

 

「王印は」

 

「ありません」

 

 女の口元が歪んだ。

 

 その反応は、すでに何度も見たものだった。王印がない。子供。旅人。見知らぬ娘。町の中で仕事をするには、どれも足りない。

 

「魔法を使う気かい」

 

「物探しです」

 

「同じようなものだろう」

 

「違います」

 

 違う、と言い切ってよいのか、自分でも分からなかった。王印魔法使い以外が魔法を使うことは許されていない。けれど、市井には、弱い魔法を使う者がいる。井戸の水を探す者。悪い夢を払う者。火のつきやすい枝を選ぶ者。皆が皆、王印に連れて行かれるわけではない。町の者もそれを知っているはずだった。

 

 ただ、それを葬儀の家で使うとなれば話は別だ。

 

「帰りな」

 

 女の手が戸口の白布を押さえた。布の端に皺が寄り、香の煙がそこで一度細く曲がった。

 

 その時、椅子の肘掛けが軋んだ。

 

 大きな音ではなかった。けれど、家の中の者には十分だった。白布を畳んでいた手が止まり、奥へ向かいかけていた葬儀人の足が床板の上で止まった。戸口に立つ女の肩も、わずかに低くなった。

 

 白布の奥に、椅子に座る男がいた。

 

 深い皺が顔に刻まれている。机の前で老いた者の皺ではない。川風と荷綱と、冬の水の照り返しに削られた皺だった。白髪の混じった髪は後ろへ撫でつけられ、唇は硬く結ばれている。座っていても肩の厚みは隠れず、肘掛けに置かれた指は太く、節が張っていた。

 

 弔問客は、その男の近くで声を落としていた。家の者たちは、彼を見ないようにしながら、彼の反応を待っている。敬意なのか恐れなのか、ロッカには分からなかった。ただ、この家の空気が、その椅子の周りで一度重くなるのは分かった。

 

 ボードン・セント。

 

 名を聞いただけで顔を知るはずはない。だが、誰がこの家を動かしてきたのかは、その場所に立てば分かった。

 

 ボードンの視線が、ロッカへ向いた。

 

 深い皺の奥に沈んだ目だった。怒りで光っているわけではない。疑いで細くなっているわけでもない。見知らぬ娘の値を測っている。

 

 乾いた唇が、ほんの少しだけ開いた。

 

「探せるのか」

「はい」

 ロッカの声は、思ったより小さく出た。

「見つけたら、食事と寝床をください」

 白布の内側で、誰かの息が詰まった。

 葬儀の家で、死者の指輪を前にして、食事と寝床を求める。自分でも、それが礼を外れていることは分かった。けれど、施しを受けに来たのではない。町に入るには金が要る。眠るにも、食べるにも、働いたことを誰かに認めさせるにも、対価が要る。

 女の手が、白布を強く握った。

「こんな時に」

 その先は、言葉にならなかった。

 ボードンの指が肘掛けを二度叩いた。節の張った指。その指が動いただけで、家の中の空気がそちらへ寄った。

「見つけたなら用意する」

 短い言葉だった。

 慰めでも、情けでもない。条件が出され、受けられた。それだけだった。

「入れ」

 

 許しというより、決定だった。

 家の中がざわめいた。

 

「ボードン様」

 

「王印もない子供を」

 

「葬儀の前ですよ」

 

「弔問の方もまだ」

 

 声はいくつも出た。だが、どれも最後まで伸びなかった。ボードンの方へ向かう前に細くなり、白布と香の間で消えていく。誰も彼の正面には立たない。言葉だけが遠巻きに投げられ、すぐに自分の足元へ戻っていた。

 

 戸口の女も、白布を押さえたまま動けなかった。ロッカを追い返したいのだろう。けれど、その手はもう布を閉じるためではなく、開けるのを遅らせるためにそこにあった。

 窓際に立つ女が、何かを言いかけて口を閉じた。葬儀人は袖の中で指を組み直し、家の若い男は床板の目へ視線を落とした。誰も、ボードンの決定を正面から取り消す役を引き受けようとしない。

 

「指輪が要る」

 

 その一言で、ざわめきは途切れた。

 

 誰も、もう反論しなかった。

 

 この家では、声を大きくした者が場を動かすのではない。ボードン・セントは椅子に座ったまま、家の戸口と、奥の棺と、そこにいる者たちの呼吸まで押さえていた。

 

 白布を押さえていた女の指が、ゆっくり緩んだ。

 

 戸口が、半身ほど開いた。

 

 ロッカはすぐに動かなかった。

 開いた隙間から、香の煙が流れてくる。湿った布、古い木、花の青い匂い。その奥に、サレアの残り香がいる。まだ呼んでいない。名を置いただけだった。それでも、薄いものが家の奥でこちらを向いた。

 

 踏み込み方を間違えれば、指輪を見つけても報酬を反故にされるかもしれない。町では、役に立つだけでは足りない。誰の許しで入ったか。誰が見ていたか。あとで誰が証を立てるか。それが必要なのだと、半日も経たないうちに思い知らされていた。

 

 それだけではなかった。

 

 もし本当に盗まれていたのなら、そこで終わりだった。

 

 指輪が誰かの懐に入り、倉の荷に紛れ、川へ下る船へ乗せられていれば、ロッカの手には余る。人と馬と泥と水が、残った痕を裂いていく。町に入ったばかりの娘が、その先まで辿れるはずもない。

 

 見つけられなければ、ただの失敗では済まない。

 

 葬儀の家に入り込んだ、王印も持たない旅の娘。死者の指輪を探せると口にした、得体の知れない子供。そう見られれば、宿も食事も、仕事もなくなる。町に迎え入れられるどころか、門の外へ戻されるかもしれなかった。

 

 胸の内側で、熱が強くなった。だが、同じ場所に冷えたものもあった。

 

 奥に横たわるサレアの残り香は、外へ向いていなかった。

 失われたものを追う気配ではない。奪われたものを呼び戻そうとする揺れでもない。白布の奥に沈んだまま、家の中のどこかへ細く意識を残している。戸口の外ではない。川の方でもない。人の出入りに乱された広間の奥、まだ誰も正しく見ていない場所へ、薄く引っかかっている。

 

 確かなことは何もない。

 

 けれど、ロッカの足は退かなかった。

 

 その時、戸口の外で馬が鼻を鳴らした。

 

 広場の方から、小さな板を抱えた少年が歩いてくる。栗色の髪を後ろで束ね、胸元には布に縫い取られた二つ尾の獅子の印。金属の王印ではない。見習いの印だった。

 

---

 

 少年の靴は、戸口の白布の前で止まった。

 

 視線が早い。

 

 ボードン。戸口の女。集まった親族。白布。香炉。床に散った足跡。最後に、ロッカ。目に入ったものを、あとで思い出せる形に並べているようだった。

 

「何か揉めていますか」

 

「王印の見習いさん」

 

 女の声が、少しだけ変わった。

 

 ロッカへ向けられていた尖りが、そこでわずかに鈍った。王印魔法使いその人ではない。まだ見習いだ。それでも、胸元の二つ尾の獅子は、この場に責任を分けるだけの重さを持っていた。王印側の者が見ていたなら、少なくとも家の者だけで勝手に通したことにはならない。

 

「この子が、指輪を探せると」

 

 少年の目が、ロッカへ戻った。

 

 不審、困惑、注意。それらが順に顔を通った。

 

「旅の物探しです」

 

「旅の」

 

 胸元へ手が入った。

 

 出てきたのは、小さな記録板だった。正式な帳面ではない。薄い木片を革紐で束ね、表に蝋を浅く塗っただけの、持ち歩き用の板だった。角は擦れ、紐の結び目は何度も直した跡がある。だが、粗雑に扱われたものではなかった。縁についた泥は拭われ、短い鉄筆は決まった位置に差されている。

 

 少年は板を胸の高さに構えた。

 

 すぐに書き出しはしない。また全員を順に見た。それから、ようやく鉄筆の先が蝋の上へ下りる。

 

「名前は」

 

「ロッカ」

 

 細い線が、板の上に刻まれた。

 

「家名は」

 

「ありません」

 

 鉄筆が止まった。

 

 ほんの短い間だった。だが、その止まり方には、困惑よりも、どう記録するべきかを考える癖が出ていた。空欄にするか、なしと書くか。後で誰かに聞かれた時、自分が何を聞き、何を聞かなかったのかを説明できるようにしている。

 

 鉄筆の先が、もう一度動いた。

 

「では、ロッカ。僕はテオ・ブレンです。王印魔法使いの見習いです。ここには動物の監査で来ています。紛議を取り仕切る立場ではありません」

 

 ここまではできる。ここから先はできない。その境を、声の中に細く引いていた。

 ロッカの会ったことのない種類の人間だった。

 

「ただ、盗難や揉め事になるなら、番所に記録が必要になります。君が中へ入るなら、誰が許したのか、何を探すのか、どこに触れたのかは残した方がいい」

 

「面倒ですね」

 

「ですが、あとで君が盗人にされるよりはましでしょう」

 

 返す言葉が、喉の手前で止まった。

 

 テオの目は、疑っていた。けれど、疑いだけではなかった。橋番や宿の女のように追い払う目ではない。目の前の事態を、どうにか手におさめようと考えている。

 

「魔法使いですか」

 

 ロッカの視線が、胸元の二つ尾の獅子へ落ちた。

 

「見習いです」

 

「魔法使いではないんですか」

 

「魔法は使えます。ですが、王印魔法使いではありません。だいぶ違います」

 

 訂正が早かった。

 

 師匠なら、そんな違いは気にしない。あるいは、王印という言葉の古い由来を語り始め、途中で死んだ王の話になり、王国の成り立ちを語り、最後には死者の話になるだろう。

 

「私が魔法を使えるかどうか、見れば分かるんですか」

 

 言葉の後で、薄灰色の目が浮かんだ。

 師匠の眼は、死んだ牝牛の残り香を越え、墓石の陰を越え、ロッカの内側のどこかに届いていた。何を見られたのかは、今も分からない。ただ、その後で、ロッカは村から買われ、師匠の後ろを歩くことになった。

 魔法使いには、そういうものが見えるのかもしれない。

 

 テオの目が、一瞬だけ深くなった。

 

 見た、というより、見ようとした。だが、すぐに焦点が外された。

 

「ここですることではありません」

 

「見ないんですか」

 

「見えないわけではありません。けれど、見えてしまうことと、見ようとして探ることは違います。人の魔法の才を勝手に見るのは、少なくとも見習いの仕事ではありません。非礼にもなります」

 

 テオは言葉を続けた。

 

「相手に悟られることもあります。下手に見ると、こちらが見たことまで返ります。僕はそこまで上手くありません」

 

 その言葉の途中で、ロッカの目がテオの胸元から外れた。

 

 いつの間にか、二つ尾の獅子の印ではなく、その奥にあるものを見ようとしていた。呼吸の間。指先に残る緊張。書き付けの板を抱える腕の硬さ。そこからもう少し深く、テオという少年の内側へ焦点を合わせようとしていた。

 

 やめた。

 

 視線を、蝋を塗った記録板の角へ落とす。

 

 見えてしまうことと、見ようとして探ることは違う。テオはそう言った。なら、今ロッカがしようとしたことも、その違う方に入るのだろう。

 

「……そうですか」

 

 ロッカの返事は少し遅れた。

 

 鉄筆が、板の上で止まっている。気づかれたのかどうかは分からない。だが、先ほどよりも少年の肩がわずかに固かった。

 

「今、何かしましたか」

 

「何も」

 

「何も、という返事は、だいたい何かあります」

 

「見ない方がいいと言ったのは、あなたです」

 

 テオは少しだけ眉を寄せた。

 

「そうです。だから、今はそれでいいです」

 

 テオの指が、書き付けの板の縁をなぞった。

 

「それに、君をここで魔法使いだと決める権限も、違うと決める権限もありません。僕にできるのは、見たことを書くことと、必要なら師に話すことです」

 

「では、私は何になりますか」

 

「今は、旅の物探しです。少なくとも、そう名乗るなら」

 

 ロッカは少しだけ目を細めた。

 

「信用するんですか」

 

「いいえ」

 

 周囲の誰かが小さく息をのむ。

 

 テオの眉がわずかに下がった。

 

「言い方が悪かったですね。正確には、まだ信用できる材料がありません。ただ、追い出す材料だけで決めるのも早い。セント氏が入ることを許すなら、僕はそれを記録します。君が何かを見つけたなら、その時も同じです」

 

「記録ばかりですね」

 

「記録がなければ、あとで全員が違うことを言いますよ」

 

 生真面目な声だった。

 

 ロッカは、少しだけ笑いそうになった。

 

 面倒だ。だが、少なくとも師匠よりはずっと話が通じた。

 

 椅子に座ったままの老人の喉から、乾いた音が漏れた。

 

「入れるのか、入れないのか」

 

 テオは一歩横へ退いた。

 

 判断を下したのではない。道を空けただけだった。権限の弱い見習いにできることは、たぶんそこまでなのだろう。けれど、その一歩で、ロッカの前の空気は変わった。

 

「セント氏が許可するなら。ただし、触る前に言ってください。探す場所も、見つけた物も、勝手に動かさないこと。家の方も、彼女を入れた後で、入れていないとは言わないでください」

 

 家の者たちの視線が、互いに動いた。

 

 テオの言葉は命令ではない。けれど、白布の前に置かれた小さな杭のように、その場に残った。

 

 ボードンの指が、椅子の肘を一度だけ叩いた。

 家の者たちは、それを許しとして受け取った。

 

 戸口の女が、渋々と白布を持ち上げた。

 

 ロッカはテオを見た。

 

「あなたも来るんですか」

 

「途中までは。中で何を見るかは、家の者の許しが要ります。僕が葬儀の部屋へ入るのは、別の問題です」

 

「面倒ですね」

 

「その通りです。ですが、葬儀では特に面倒を省かない方がいいですよ」

 

 テオの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

 すぐに真面目な顔へ戻ったが、その一瞬は残った。

 

---

 

 

 白布の内側から、香と湿った布の匂いが流れてきた。

 

 外の町の音が薄くなる。代わりに、板床の沈む音、衣擦れ、押し殺した息、誰かの喉の奥で止まる泣き声が近づいてくる。

 

 敷居は低かった。

 

 けれど、越える前に、靴先が止まった。

 

 ここから先は、死者の家だ。

 

 村の墓場とは違う。荒野の石塚とも違う。ここには生きている者の目がある。疑いがある。報酬の約束がある。王印の見習いが、戸口で書き付けの板を抱えている。

 

 今ここに入るのは、旅の物探しの娘だった。

 

 ロッカは白布の下をくぐった。

 

 奥に、サレア・セントの残り香が横たわっている。

 

 問いかけなければ、死者は答えない。

 棺の奥に横たわる女は、もう何も言わない。

 

 それでも、この家のどこかに、まだ冷えきっていない手の熱があるはずだった。

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