墓場の子   作:地図ヶ原

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物探しの娘 3

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 白布の下は、思っていたよりも暗かった。

 

 外から見れば薄い布一枚にすぎない。だが、くぐると、町の音がそこで一度削がれた。車輪の軋みも、馬の鼻息も、川へ向かう男たちの声も、布の外で少し鈍くなる。代わりに、板床の沈む音、衣擦れ、香の煙が喉に触れる重さ、押し殺した泣き声の余りが近くなった。

 

 戸口の女が先に入った。

 

 まだ納得はしていない。白布を持ち上げる手の甲に、怒りが筋のように浮いている。けれど、その背はもうロッカを押し返す壁ではなかった。

 

 奥へ進む。

 

 磨かれた床板に、古い水の匂いが残っている。川沿いの家の床だった。晴れの日にも雨の日にも、荷が上がり、人が入り、濡れた草履が通った床。柱の根元には、何度も拭かれた跡が黒ずみとなって沈んでいる。壁には小さな木札が束ねて掛けられ、荷の名、日付、数を記した跡があった。

 

 壁際には、使われなくなった帳面台が伏せて置かれていた。天板の角だけが妙に滑らかで、紙束や肘に擦られた跡がある。柱の脇には短い縄が巻かれ、使い古した木箱が二つ、葬儀の邪魔にならない場所へ押し込まれている。白い布を掛けられても、物の置き方だけは商いの家のままだった。

 

 人は弔いのために場所を変えようとする。だが、家はすぐには変わらない。数えた物、預かった物、運んだ物の癖が、床の端や柱の根に残っている。

 

 廊下の先で、人の流れが左右へ割れた。

 

 親族らしい女。倉の者らしい男。白い布を胸に当てた年配の者。顔はそれぞれ違っていたが、疲れの色だけは似ていた。悲しみのために疲れた顔。探し疲れた顔。疑われる前に何かを見つけたい顔。

 

 誰も、ロッカを歓迎していなかった。

 

 薄汚れた外套。擦り切れた袖。泥を吸った靴。喪の白布も持たず、香へ頭を下げるでもなく、見知らぬ者の葬儀の奥へ入っていく。自分の姿が、この家にとってどんなものに見えているかは、ロッカにも分かった。

 

 奥の部屋の前で、白布を押さえていた女の足が止まる。

 

 そこが、死者の部屋の入口だった。

 

 敷居の内側には、香の煙が低く溜まっている。白布のかかった台、花を入れた器、畳まれた布、葬儀人の道具。その奥に、棺の縁が見えた。

 

 テオは、その一歩手前で足を止めた。

 

 小さな記録板を胸の前に置き、鉄筆の先だけをわずかに浮かせている。部屋の幅、白布の結び目、ロッカの靴先、女の指。視線はそれぞれを短く拾い、板の上へ置く場所を探していた。

 

 テオの靴先は、敷居の線を踏まなかった。ほんの指一本分、手前で止まっている。偶然ではないのだろう。葬儀の部屋、家の許し、王印の見習いとしての立場。そのどれにも、足先だけで線を引いているようだった。

 

 中を見ようとすれば見える。だが、見えたものすべてへ入っていくわけではない。テオはそういう立ち方をしていた。

 

「僕はここで記録します。中へ入るかどうかは、家の方の許しが要ります」

 

 白布を押さえていた女の顔が、わずかに硬くなった。

 

「ここからは、勝手に触らないで」

 

 繰り返された言葉は、ロッカへ向けたものというより、部屋の中と廊下の両方へ置くためのものだった。家の者たちが聞いている。葬儀人が聞いている。敷居の外で、テオも聞いている。

 

「動かした物があれば、それも書きます。触る前に言ってください」

 

「分かっています」

 

 ロッカの声は、布の内側で少し小さくなった。

 

 分かっている、という返事ほど怪しいものはない。テオの顔にはそう書いてあった。けれど、それ以上は何も言わなかった。

 

 白布の端が半身分だけ開いた。許したというより、目の前から退いただけだった。女の指はまだ布を握り、爪の先だけが白くなっている。見るだけだ、と口にしなくても、その肩の固さが同じことを言っていた。

 

 窓には薄い布が下ろされ、昼の光はそこを通って、粉を混ぜたように広がっていた。床には打ち水の湿りが残り、部屋の隅には香炉が置かれている。花は多すぎた。白い花、薄紫の花、まだ青い葉。花の匂いは香に負け、香は湿った布の匂いに押され、すべてが混じると、死者を隠すために生きている者が積み上げた匂いになった。

 

 棺は部屋の中央に置かれていた。

 

 まだ閉じられていない。

 

 蓋は壁際に立てかけられ、内側には白布が敷かれている。棺の周りには、葬儀人の道具、花の籠、小さな油皿、折り畳まれた布が並ぶ。すべて、整っていた。

 

 棺の足元に、小さな空きが作られていた。

 

 花籠でも、布でも、油皿でもない。誰かがそこを空けておいたのだと分かるほど、周囲の物はきちんと寄せられている。葬儀人の手は、そこを避けて動いたのだろう。花の茎も、白布の折り目も、その場所だけを空白として残していた。

 

 指輪のための場所だった。

 

 そこには何もない。何もないのに、部屋の中で一番目立っていた。

 

 サレア・セントは、棺の中に横たわっていた。

 

 顔は白い布で半ば隠されている。年老いた女だった。髪は丁寧に撫でつけられ、頬の肉は落ち、口元は小さく閉じられている。死者の顔は、生きていた時の形を残しながら、少しずつ誰のものでもなくなっていく。けれどサレアの顔には、まだ家の者たちが知る誰かの輪郭が残っていた。

 

 怒る顔ではない。強い顔でもない。特別な才を持つ女の顔でもない。

 

 ただ、長いあいだ家の中にいた者の顔だった。湯を出し、布を替え、人を迎え、何かを言いかけてやめ、誰かの帰りを待った顔。目立つものはない。だが、家の内側に触れてきた細い跡が、口元や頬の沈み方に残っていた。

 

 その沈み方を、ロッカは知っていた。

 

 母は、いつも何かを途中で止めていた。

 

 鍋に手を伸ばしかけて、弟の泣き声へ向く。濡れた布を絞りかけて、父の足音を聞く。ロッカの名を呼びかけて、口を閉じる。声にならなかったものは、家の中から消えるわけではなく、母の顔のどこかへ沈んでいった。

 

 サレアの口元にも、似た沈み方があった。

 

 何かを言い残した顔ではない。言わずに済ませてきたものが、長い時間をかけてそこへ集まった顔だった。

 

 ロッカは棺のそばへ近づきすぎない場所で止まった。

 

 問いかけるには遠い。

 見るには近い。

 

 サレア・セント。

 

 名を、もう一度、心の中に置く。

 

 白い部屋の奥で、薄いものがわずかに揺れた。

 

 死者は、すぐに答えない。

 

 名を置く。顔を見る。骨はそこにある。土地もある。執着もある。けれど、部屋に満ちているものの多くは、サレアのものではなかった。

 

 ボードンの固執。家の者たちの恐れ。弔問客の疑い。葬儀人の焦り。それらは死者の残り香ではない。生きている者たちが、この部屋へ持ち込んだものだった。

 

 死者を見るには、それが邪魔になった。

 

 見えるのは、怒りや恐れそのものではない。

 

 ただ、それらが置かれた場所では、サレアの輪郭が乱れた。誰かが強く願った場所では、残り香の縁が滲む。誰かが疑いを飲み込んだ場所では、奥へ伸びる線が途切れる。水に油が浮くように、生きている者の思いは死者の上に残り、ロッカの目を少しずつ逸らした。

 

 だから、部屋をまるごと見てはいけなかった。

 

 見るのは、指輪ではない。家でもない。棺でもない。

 最後にそれを手放した者の、手の向きだった。

 

 師匠の言葉が、ふいに戻った。

 

 ものを見るな。それを持った手を見ろ。

 

 分かったような、分からないような言葉だった。けれど、今なら少し分かる気がした。この家そのものを見てはいけない。家の者たちが騒がせているものを、サレアの声と間違えてはいけない。

 

 指輪を探しているのはボードンだ。

 けれど、指輪を持っていたのは、サレアだ。

 

 棺の縁ではなく、サレアの顔のそばに置かれた白い布へ視線を落とす。皺は少ない。誰かが何度も整えたのだろう。花弁が一枚、布の上に落ちている。濡れたような薄い紫。花そのものは死者に関係ない。ただ、生きている者が供えたものだ。

 

 サレアの残り香は、その花には向いていなかった。

 

 棺の中にも、まっすぐ沈んではいない。

 

 もっと低い。

 もっと奥ではない。

 けれど、外でもない。

 

 視線は、部屋の床をゆっくり滑った。

 

 白布。花籠。香炉。小机。壁際の衣装箱。畳まれた布。小さな踏み台。葬儀人の道具。家の者が探した場所は、見れば分かる。布が少し乱れ、箱の蓋がわずかにずれ、床の埃が細く掻かれている。

 

 しかし、残り香はそこへ向かっていない。

 

 戸口の方で、押し殺した息が落ちた。袖の布が、女の指の中で小さく捻れる。近づくな、触るな、早く済ませろ。その三つが、言葉にならないまま部屋の隅へ置かれていた。

 

 部屋の外で、鉄筆が板を掻く音がした。

 

 テオは見ている。

 

 その音が、ロッカの背後に細く残った。邪魔ではなかった。むしろ、町に入ってから初めて、誰かが物事を形に残している音だった。

 

 棺の前で、足を止める。

 

 どう礼をすればよいのか分からない。村の死者に、そんなことはしなかった。墓石に座り、納屋の隅に立ち、屠場で肉に触れていた。礼は生者のためにある。死者は、たいていそんなものを気にしない。

 

 けれど、この家では違う。

 

 ロッカは、ゆっくりと両手を体の前で揃えた。誰かの真似だった。橋で見た弔問客の真似。戸口の女の目が少し動いた。正しいかどうかは分からない。少なくとも、いきなり棺へ手を伸ばすよりはましだった。

 

 サレア。

 

 声には出さない。

 

 指輪はどこですか、とも問わない。

 

 死者に直接そう聞けば、答えは曲がる。指輪がどこにあるかではなく、指輪について最後に何を思ったかが返るかもしれない。

 

 別のものを待った。

 

 白い布の向こうで、薄い気配が揺れた。

 

 小さな手。

 

 それは言葉ではなかった。

 

 指ではなく、手の小ささだけが来た。大人の手ではない。皺のある手でもない。結婚指輪を受け取る女の手でもない。もっと小さく、柔らかく、指の節がまだ細い手。何かを受け取る時に、両手で包む癖のある手。

 

 部屋の隅へ、視線が動いた。

 

 残り香は棺の中へ沈まず、部屋の外へ細く伸びていた。大人の腰の高さではない。子供の胸の高さ。床に近く、人の足元を避けるように、白布の下をくぐるように、廊下の奥へ続いている。

 

 その高さでは、見えるものが違う。

 

 大人の手なら、香台の上や衣装箱の蓋へ届く。葬儀人の道具も、花籠も、棺の縁も視界に入る。けれど、その細い向きは、そうした場所を選ばなかった。低い机の角。床に落ちた花弁。人の袖の影。椅子の脚。大人が跨いで通るだけの隙間。

 

 そこを、何かが通った。

 

 走ったのではない。隠れたのでもない。大事なものを胸に抱えた子供が、誰にも呼び止められないように歩く時の、短い道筋だった。

 

「この人には、孫がいますか」

 

「いるよ」

 

 返事は短かった。だが、その短さの中に、余計なところへ踏み込むなという棘があった。

 

「小さい子ですか」

 

 女の口が開きかけた。

 

 その時、廊下の奥で小さな咳がした。

 

 大人の咳ではない。喉の奥に引っかかった泣き声を、無理に押し込めたような音だった。

 

 柱の陰に、若い女が立っていた。喪の白布を肩にかけているが、結び方が乱れている。片手は胸元の布を握り、もう片方の手が小さな肩を押さえていた。

 

 その膝のあたりに、子供がいる。

 

 手は、子供を隠しているつもりなのだろう。

 

 肩の上から包むように乗せられた指。少し前へ出れば引き戻せる位置。泣けば抱けるが、走れば止められる距離。母親の手だった。守る手であり、同時に、大人のいる場所へ子供を留める手でもあった。

 

 顔の半分を母親らしい女のスカートに隠し、こちらを見ていた。髪は柔らかく、頬はまだ丸い。年はロッカよりずっと下だ。七つか、六つか。目元が赤い。泣いたのか、眠っていないのか、それとも大人の声ばかり聞かされて疲れたのか。

 

「ミリナ」

 

 戸口の女の声が尖った。

 

 小さな肩が跳ねた。

 

 その名に、サレアの残り香がわずかに揺れた。

 

 ミリナ。

 

 名が繋がった。

 

 ロッカの喉の奥に、乾いた熱が戻った。指輪そのものではない。サレアが向いているのは、その小さな名だった。

 

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 ミリナは母親の布に隠れたまま動かなかった。

 

 大人たちの目が、少女へ集まる。さっきまでロッカへ向けられていた疑いが、今度はそちらへ移りかけている。小さな子供には重すぎる目だった。ロッカは、その重さを知っている。村の屠場で、牝牛の首に手を置いていた時、大人たちの目はいつもああだった。

 

 何か知っているのではないか。

 気味の悪いことを言うのではないか。

 余計なことをするのではないか。

 

 子供は、その目に勝てない。

 

 ミリナの足元を見た。

 

 爪先は母親の方へ向いていない。廊下の奥へ向いている。けれど、膝は動かない。逃げたいのに、逃げる許しを待っている足だった。ロッカはその足を見て、近づかないことにした。

 

 近づけば逃げる。

 

 逃げれば、大人たちは追う。

 

 追われた子供は、自分の持っているものを守るより先に、怒られない返事を探してしまう。

 

 棺のそばから、半歩だけ下がった。

 

「ミリナは、亡くなる前のサレアに会いましたか」

 

 母親らしい女の顔がこわばった。

 

「そんなこと、子供が覚えているはずありません」

 

「覚えていないなら、それでいいです」

 

「ミリナはまだ幼いんです。祖母が亡くなって、怖がっているだけで」

 

 言葉はミリナを守っているようで、同時に何も聞いていなかった。幼い。分別がない。怖がっている。そう言えば、子供の口から出るものはすべて色を失う。

 

 廊下の奥で、男が顔を出した。

 

 ミリナの父だろう。

 

 喪服は乱れていない。襟も袖口も整っていた。だが、出てきた体は戸口の幅を埋めなかった。片足だけが前へ出て、もう片方は敷居の向こうに残っている。体の前で組まれた指が、ほどけかけて、また組まれた。

 

 ミリナが身じろぎすると、指だけが一度浮いた。

 

 伸びる前に戻る。

 

 男の目は娘をかすめ、すぐ奥の椅子の方へ流れた。

 

「ミリナを巻き込まないでください」

 

 声は低いが、強くはない。

 

 その言葉は、部屋の入口で止まった。中へ踏み込むでもなく、娘を抱き寄せるでもない。ミリナの前に立つには足りず、ロッカを退けるには遅かった。

 

 戸口の女が、奥の方を一度見た。

 

 ボードンの姿はここから見えない。だが、この家で誰が許し、誰が止めるのかは、誰もが知っていた。ロッカは、ボードンの言葉でここまで通された。父親も母親も、それを覆すだけの声を持っていなかった。

 

 敷居の外で、鉄筆が小さく動いた。

 

 それもまた、父親の言葉を弱くした。ここで無理にロッカを退ければ、それも記録される。ミリナを庇う言葉さえ、家の中で別の意味を持つかもしれなかった。

 

 母親の手が、ミリナの肩を包み直した。

 

 ロッカはミリナを見た。

 

 少女の目は、廊下の奥へ向いていた。死者を恐れているのではない。指輪を恐れているのでもない。この家の奥にいる、声の低い老人を恐れている。

 

 サレアの残り香は、やはり外へ向いていない。

 

 ミリナの近くで、細く沈んでいる。

 

 ロッカは、膝を折った。

 

 床板が冷たい。濡れた藁を片づけた時の泥が、まだ指先に残っていた。きれいな葬儀の家で膝をつくには、ふさわしい手ではなかった。けれど、立ったまま見下ろすよりはましだった。

 

 ミリナと目の高さが近くなる。

 

「私はロッカ」

 

 ミリナは答えなかった。

 

「物を探しに来ました」

 

 母親の手が、ミリナの肩を少し強く押さえた。

 

「この子は何も知りません」

 

 ロッカは母親を見なかった。

 

「私も、何でも知っているわけではありません」

 

 ミリナの目が少しだけ動いた。

 

「でも、死んだ人が何かを大事にしていた時、それが少しだけ分かることがあります」

 

「ロッカ」

 

 戸口で、テオの声が硬くなった。

 

 警告だった。言いすぎるな、という警告。魔法という言葉を出すな、という警告。あるいは、死者のことを部外者がこれ以上葬儀の場で口にするな、という警告。

 

 記録板へ目を向ける。

 

 鉄筆が止まっている。テオは干渉しない。けれど、見ている。見逃すつもりもない。

 

「物探しです」

 

 ロッカは短く返した。

 

 テオの眉が少しだけ寄った。納得はしていない。だが、それ以上は言わない。

 

 ミリナの目が、ロッカの手元へ落ちた。

 

 泥の残る指。傷のある爪。擦り傷の残る手のひら。

 

 それを見て、ミリナの肩からほんの少し力が抜けた。きれいな大人の手ではなかったからかもしれない。叱る手ではないと見えたのかもしれない。あるいは、子供の手に見えたのかもしれなかった。

 

「おばあさんは、あなたに何か渡しましたか」

 

 ミリナの唇が震えた。

 

 母親の胸元で、白布が小さく持ち上がる。息を吸ったのだろう。すぐ隣から、父親の声も落ちた。

 

「ミリナ」

 

 廊下の空気が狭くなる。

 

 父と母。戸口。白布。奥にいるボードン。どちらへ顔を向けても、大人が答えを待っている。答えれば何かが決まる。答えなければ、もっと多くの目が集まる。どちらを選んでも、ミリナを守るものはまだどこにもなかった。

 

 ロッカは、少しだけ声を落とした。

 

「怒られると思いましたか」

 

 ミリナの視線が、ロッカの前で止まった。

 それだけで十分だった。

 母親の白布に、深い皺が寄った。庇うために置かれていた手が、今度は答えを求める手に変わっている。

 

「何か持っているの」

 

 その声で、廊下の温度が少し変わった。

 幼いから知らない。怖がっているだけ。さっきまでミリナを覆っていた言葉が、そこで剥がれた。残ったのは、家の中で何かが起きたという気配だけだった。

 小さな指が、母親の布を強く掴む。

 

 ロッカは首を振った。

 

「ここで言わなくてもいいです」

 

「言わなければ分からないだろう」

 

 父親の声が苛立つ。

 

 ロッカは初めて父親を見た。

 

「言っても、分からない人がいるでしょう」

 

 場が一瞬、冷えた。

 

 父親の顔に怒りが浮かびかける。けれど、奥にいるボードンの存在がそれを押し留めた。今この場で声を荒らす役を引き受ける勇気は、彼にはない。

 

 ミリナが、ロッカを見ていた。

 

 小さく、ほとんど息だけで、言葉が出た。

 

「おばあさまが」

 

 誰も動かなかった。

 

「くれたの」

 

 母親の手が、ミリナの肩から滑り落ちた。

 

「何を」

 

 父親の声はかすれていた。

 

 ミリナは答えなかった。答える代わりに、体を小さくひねり、廊下の奥を見た。子供部屋か、家族の部屋か。ロッカには分からない。だが、その向きにサレアの残り香が、細く、ほとんどほどけそうになりながら続いている。

 

「宝物入れがありますか」

 

 ミリナが震えるように頷いた。

 

 戸口の女が片手で口を押さえた。

 

 父親の靴先が、床板の上で止まった。

 

 母親の指はミリナの肩へ届く前で浮き、そのまま握り込まれた。盗みなら叱ればいい。落とし物なら探せばいい。けれど、死者が幼い孫娘へ渡したものを、誰の言葉で取り上げればよいのか、誰にも分からなかった。

 

 視線だけが奥へ集まる。

 

 戸口の女が、白布の端を握ったまま一歩退いた。

 

「旦那様」

 

 低い呼びかけが、廊下の奥へ落ちた。

 

 宝物入れ。ミリナへ集まった目。動けなくなった父母。説明はそれだけで十分だった。

 

 少し遅れて、奥から声が来た。

 

「持ってこい」

 

 それだけだった。

 

 ミリナの肩が硬くなる。

 

 ロッカはすぐに立たなかった。

 

「私が一緒に行きます」

 

「勝手に」

 

 戸口の女の声を、テオの鉄筆が遮った。

 

 細い金属音。

 

「誰が行くかも記録します」

 

 テオの声は大きくない。だが、その場に残った。

 

「ミリナ、お母上、ロッカ。家の者が一人ついてください。見つけた物には、触る前に声をかけてください」

 

「王印の見習いが、そこまで」

 

「命じていません。記録するだけです」

 

 それ以上、誰も言わなかった。

 

「行けますか」

 

 ミリナは母親を見上げ、それからロッカを見た。

 

 小さな頷きが返った。

 

 廊下を進む。

 

 ミリナの歩き方は、家の中に慣れた子供のものだった。けれど今日は、床板の節を避ける余裕も、壁の角へ手を触れる癖も消えている。背後では、母親の息が何度も言葉になりかけ、そのたびに途切れた。家の者の一人として、窓際にいた女がついてきた。彼女の視線はロッカではなく、ミリナの小さな背に向いている。

 

 部屋は、奥の階段の脇にあった。

 

 子供の部屋というより、大きな家の余った一室に、子供のものを置いた部屋だった。壁際に小さな寝台。窓の下に低い机。布で作った人形。割れた貝殻。色の薄れた紐。欠けた木馬。大人なら分けるものが、ここでは同じ場所に並んでいた。

 

 部屋の隅に、背の低い椅子があった。

 

 片方の脚だけが短く、下に折った布が挟まれている。机の上には、使い終えた蝋の欠けと、短くなった糸が置かれていた。窓辺には、小さな石が三つ並んでいる。誰かが掃除の時に捨てようとして、また置き直したのかもしれない。大人の部屋なら片づけられるものが、ここではまだ残されていた。

 

 家の中で一番弱い場所だった。

 

 けれど、ミリナにとっては、たぶん一番失いたくない場所だった。

 

 ミリナは寝台の下へ膝をついた。

 

 母親が息を吸った。

 

「そんなところに」

 

 責める声ではない。だが、責める一歩手前だった。

 

 寝台の下から、布のかかった小さな箱が引き出された。

 

 木箱だった。蓋の角が少し欠け、表面には稚拙な花の絵がある。高価な箱ではない。けれど、何度も開け閉めされた艶があった。子供の指が、毎日触れていた箱だった。

 

 ミリナは蓋に手を置いたまま、動かない。

 

 ロッカは横から覗かなかった。

 

「見せたくないものは、見せなくていいです」

 

 ロッカは箱ではなく、ミリナを見た。

 

「全部じゃなくていい。おばあさんが、あなたにくれたものだけでいいです」

 

 箱の蓋にかかった小さな指が止まった。

 

「取るためじゃありません」

 

 その言葉だけは、先に置いておく必要があった。大人たちは指輪を探している。棺へ入れるために、家へ戻すために、誰のものかを決めるために。けれど、ミリナにとって箱の中は、探される場所ではない。隠していた場所でもない。自分のものを、自分の順番で並べておく場所だった。

 

 すぐには開けなかった。開け方を知らないわけではない。むしろ、何度も開けてきた手つきだった。だからこそ、今だけ遅い。箱の中身を見せることは、ただ物を見せることではない。どれを大事にしていたか、どれを隠していたか、どれを誰にも触らせたくなかったかを、まとめて差し出すことだった。

 

 小さな唇が、ぎゅっと結ばれた。

 

 木の蓋が擦れる。

 

 中には、宝物が詰まっていた。

 

 青い石。欠けた陶片。金色の糸。小さな貝殻。木の実の殻。古いボタン。薄い布で包んだ何か。乾いた花。人形の目だったらしい丸い玉。どれも、大人なら捨てるか、どこかへ片づけるかするものだった。けれど、ミリナの箱の中では、それぞれがきちんと自分の場所を持っている。

 

 ロッカは、その箱を見て、少し息を止めた。

 

 村を出る時の自分の荷を思い出した。替えの衣。古い布。針。小さな木片。母が持たせた硬いパン。たいしたものは何もなかった。けれど、持っていくものを選ぶ時、どれを捨ててどれを残すかは、自分で決めたかった。

 

 ミリナの指が、薄い布の包みに触れた。

 

 サレアの残り香が、そこで静かに濃くなった。

 

 強くはない。叫びもしない。けれど、そこにあった。外を追っていない。盗まれたものを呼び戻そうとしていない。小さな箱の中で、誰かの手に包まれたまま、沈んでいる。

 

「触ってもいいですか」

 

 ロッカはミリナに尋ねた。

 

 母親ではなく、家の女でもなく、ミリナに。

 

 少女はしばらく迷い、それから小さく頷いた。

 

 布を開く。

 

 指輪があった。

 

 小さな金の輪だった。

 

 飾りは少ない。宝石もない。けれど、軽いものではなかった。外側には細かな傷が重なり、内側は指に触れていたところだけが柔らかく光っている。長いあいだ、同じ指に収まっていた輪だった。人に見せるための光ではなく、肌の内側で少しずつ磨かれた光が残っていた。

 

 ロッカは、そこに指を置かなかった。

 

 母親がその場で膝をついた。

 

「ミリナ」

 

 声が震えていた。

 

「あなた、これを」

 

「おばあさまが、くれたの」

 

 ミリナの声は小さかった。

 

「おじいさまには」

 

 そこで止まる。

 

 ロッカは待った。

 

 箱の縁に、小さな指がかかる。

 

「怒られると思って」

 

 母親の顔が崩れた。

 

 家の女は、口元を押さえたまま戸口の方へ半歩下がった。廊下の奥へ知らせに行くべきか、それともここにいるべきか。その迷いが、足元に残った。

 

 薄い布の包みは、まだ箱の中にある。

 ロッカは指輪へ手を伸ばさなかった。

 取るためではない、と言った。ならば、それを破るわけにはいかなかった。

 

「このまま、見せに行けますか」

 

 ミリナの指が、箱の縁に沈んだ。

 

「取らない?」

 

 声は細い。けれど、その問いだけははっきりしていた。

 

「取りません」

 

 ロッカは箱ではなく、ミリナを見た。

 

「あなたが持っていくんです。私は、横にいます」

 

 箱の中で、布に包まれた輪は動かなかった。

 

 見つけた。

 

 けれど、ここからが難しい。

 

 見つけるだけなら、これで終わりだった。ボードンへ渡し、報酬を受け、食事と寝床をもらえばいい。町はロッカを役に立つ者として見るかもしれない。テオも記録する。家の者たちも、盗難でないことに安堵する。

 

 だが、ミリナの問いが箱の中に残った。

 

 取らない?

 

 サレアの残り香は、指輪を棺へ戻せとは言っていない。外へ追えとも言っていない。ミリナの小さな箱の中で、静かに沈んでいる。

 

 ロッカは、薄い布をもう一度そっと閉じた。

 

「閉めてもいいです。開けたままでもいいです。ミリナが決めてください」

 

 小さな手が、迷いながら蓋へ移った。

 

 箱は閉じられなかった。

 

 けれど、蓋は少しだけ下ろされた。中身を隠しきらず、すぐ取り出されもしない、半分だけ守る形だった。

 

 廊下へ戻る時、ミリナは母親の手を握っていなかった。自分の箱を両手で抱え、胸へ押し当てている。隣に並ぶ母親の指は、何度も娘へ伸びかけ、そのたびに戻った。

 

 大人たちのいる部屋へ戻ると、空気はさらに重くなっていた。

 

 ボードンは椅子に座ったままだった。

 

 だが、先ほどより少し前へ体が傾いている。肘掛けに置かれた指は動かない。親指の腹も白くない。すべての力が、目の奥へ集まっているように見えた。

 

 ミリナの箱へ、視線が落ちる。

 

「見つけたのか」

 

 ロッカは頷かなかった。

 布に包んだ指輪を、箱の中に置いたまま示した。

 

「ここにありました」

 

 テオの鉄筆が板を掻いた。

 

「場所を」

 

「ミリナの宝物入れです」

 

 ざわめきが起きた。

 

「宝物入れ?」

 

「子供が」

 

「まさか」

 

「盗ったのか」

 

 最後の言葉に、ミリナが縮んだ。

 箱の蓋に、ロッカの手が触れた。

 

「盗んでいません」

 

 声が思ったより強く出た。

 部屋が止まった。

 

「サレア夫人が渡しました」

 

 誰かが息を呑む。

 母親がすぐに口を開きかける。父親も同じだった。だが、その前にミリナの声が出た。

 

「おばあさまが、くれたの」

 

 小さかったが、部屋の全員に届いた。

 

「これは、ミリナの宝物にしていいって」

 

 ボードンの顔は変わらなかった。

 変わらないことが、かえって恐ろしかった。

 廊下の奥で泣いていた者の声が止まる。香の煙が細く揺れる。白布の端が、誰かの指の中でしわになる。

 

「サレアが」

 

 ボードンの声は低かった。

 

「その指輪を」

 

 ミリナは箱を抱いたまま、頷くこともできない。

 父親がようやく口を開いた。

 

「父さん、子供の言うことです。きっと、意味を取り違えて」

 

「黙れ」

 

 大きな声ではなかった。

 それでも口を閉じた。

 ボードンの皺だらけの眼窩の奥で、視線だけが動いた。

 

 叱責は来なかった。許しも、まだ来ない。小さな顔の輪郭を、今になって確かめるような間だけがあった。

 

 涙で湿った睫毛。箱を抱えたまま曲がった指。祖父を見上げることも、目を伏せきることもできずに揺れる視線。ミリナはそこにずっといたはずだった。けれど、ボードンの目がそこへ届いたのは、その時が初めてのように見えた。

 

 皺の奥で、何かが遅れて動いた。

 誰も声を出さなかった。

 

 肘掛けから、ボードンの手が離れた。

 太く、節の張った手だった。幼い子供を抱くには硬すぎる手だった。

 

 その手は、途中で止まった。

 

 荷を掴むなら、迷わなかっただろう。綱を引くなら、力の入れ方を知っている。人へ命じる時も、書付を受け取る時も、その手は遅れないはずだった。

 

 だが、ミリナの肩は荷でも綱でもない。

 

 触れれば壊れるほど弱くはない。けれど、力を入れれば怯える。どれほど近づけばよいのか、ボードンの指は、その距離を知らなかった。

 

 やがて、指が少し曲がる。

 壊れものを扱うように、ぎこちなく、ミリナを引き寄せた。

 

 箱が二人の間で小さく軋んだ。

 ミリナの体は初め、板のように硬かった。だが、ボードンの胸元に頬が触れた瞬間、小さな肩が震えた。泣き声は出なかった。声を出してよいのか分からない子供の泣き方だった。

 

「サレアが渡したなら」

 

 ボードンの声は、布を何枚も通したようにかすれていた。

 

「それは、お前のものだ」

 

 ミリナの指が、箱を強く抱いた。

 

「棺には」

 

 父親が言いかけた。

 

 その続きは、喉元で止まった。

 

 ボードンが何かを言ったわけではない。椅子のそばから届いたのは、ただ一つの視線だった。父親の唇は続きを持ったまま閉じ、部屋の中から、指輪の行き先を言い直す声が消えた。

 

 だが、その視線はすぐに息子を離れた。

 

 ミリナの箱へ落ちる。

 

 小さな木箱。欠けた蓋。幼い指。指輪を包んでいた布。どれも、ボードンが見てこなかったものだった。

 

 ボードンの喉が、一度だけ動いた。

 

 何かを飲み込んだようにも、ようやく息をしたようにも見えた。

 

「子供の宝物を持っていくものではない」

 

 部屋の中で、誰かが泣き始めた。

 

 それが誰か、ロッカには分からなかった。息子の妻か、弔問の女か。泣き声はすぐに布で押さえられたが、もう先ほどまでの詰まった沈黙ではなかった。

 

 家の者たちは互いを見た。弔問客の手前、騒ぐことはできない。けれど、目の中にあった疑念が少しずつ後ろへ引いていく。誰かが持ち出したのではない。子供が盗んだのでもない。死者が、最後に渡した。それをどう受け止めるかは別として。

 

 ロッカの腹が、そこで小さく鳴った。

 

 ひどい場所で、ひどい音だった。

 

 誰にも聞こえなかったと思いたかった。

 

 テオの鉄筆が止まった。

 

 聞こえたらしい。

 

 ロッカは彼を見ないことにした。

 

---

 

 棺の蓋は、夕方近くになって閉じられた。

 

 指輪は、棺には入らなかった。

 

 代わりに、サレアの手元には小さな布が置かれた。ミリナの宝物入れに入っていた、指輪を包んでいた布だった。ミリナが自分で差し出した。誰かに言われたわけではない。指輪は箱へ戻し、布だけを祖母へ返す。それが何の正しい作法なのか、ロッカには分からなかった。だが、部屋の者たちは誰も止めなかった。

 

 ボードンも止めなかった。

 

 蓋が下ろされる時、家の者たちは頭を下げた。ボードンは椅子から立ち上がっていた。立つ時、膝が少し揺れた。だが、誰も手を貸さなかった。貸せなかったのではない。貸せば、彼が崩れることを認めることになる。だから、皆、見ないふりをした。

 

 棺の木が、静かに合わさる。

 

 その音で、サレアの残り香が少し遠くなった。

 

 完全に消えるわけではない。

 

 ロッカは、村の梁を思い出した。

 

 祖父の残り香は、死んだ後もしばらくそこにあった。声ではない。顔でもない。囲炉裏のそばで手を動かしていた癖だけが、煤の奥に薄く残っていた。死者は、いつも言葉で残るわけではない。場所の端、物の癖、誰かの手が何度も触れたところに、ほんの少し遅れて残ることがある。

 

 サレアも、すぐには消えなかった。

 

 棺の中に薄く残り、ミリナの箱にも細く残った。指輪そのものではなく、それを包んでいた布と、小さな手の方へ、まだ少し向いている。

 

 サレアは、外へ向かなかった。

 

 ロッカは部屋の隅でそれを見ていた。

 

 テオは戸口近くで記録板を閉じた。長く書き続けていたせいで、鉄筆を持つ指が少し赤くなっている。疲れた顔をしていたが、気を抜いた顔ではない。

 

 ロッカの仕事は終わったが、彼はまだ仕事の途中にいる。何を記録し、何を記録しないか。どこまで番所へ持っていくか。師へ話すべきか。王印見習いの頭の中では、この後の面倒がいくつも並んでいるのだろう。

 

 この少年は、疲れる時まで手順を守る。

 

「ロッカ殿」

 

 その呼び方に、家の者の何人かが顔を上げた。

 

 ボードンは構わなかった。

 

 ロッカの肩が、わずかに跳ねた。

 

 椅子には戻っていない。棺の近くに立ったまま、深い皺のある顔をこちらへ向けている。彼の表情は、もうほとんど分からない。けれど、まったく消えてはいなかった。皺の一本が、わずかに湿っていた。

 

「はい」

 

「約束通り、食事と寝床を用意する。それとは別に、礼を言う。サレアを送れる」

 

 部屋の者たちの視線が、またロッカへ集まった。

 

 今度は、最初の視線とは違っていた。怪しむ目はまだある。王印もなく、家名もなく、死者の指輪を見つけた旅の娘。疑わない方が難しい。だが、先ほどまでのように、ただ追い払うための視線ではなくなっている。

 

 情けではない。施しでもない。契約の履行だった。ロッカには、その方がありがたかった。

 

「ありがとうございます」

 

 言ってから、少し遅れて頭を下げた。

 

 正しい角度かどうかは分からない。だが、橋番にも宿の女にも商人にも向けなかった礼だった。自分の力で得たものへ向ける礼。そう思うと、首の後ろが少し熱くなった。

 

 ボードンの目が、テオへ移った。

 

「テオ・ブレン殿」

 

 テオの背筋が、少し伸びた。

 

「はい」

 

「セントの家の不始末に、王印の見習いを立ち会わせた」

 

 ボードンは、深い皺の刻まれた顔をわずかに伏せた。頭を下げた、というほどではない。だが、この老人が礼を形にするには、それで足りた。

 

「本来なら、家の内で収めるべきことだった。巻き込んだことを詫びる」

 

 テオの顔に、困った色が出た。

 

「僕は、立ち会っただけです。裁いたわけではありません」

 

「十分だ」

 

 ボードンの指が、棺の縁に置かれた。

 

 ロッカは、ミリナの方を見た。

 

 少女は母親の横に立ち、箱を抱えている。ボードンに抱き寄せられた後も、まだどこか怯えている。すべてが急に変わるわけではない。厳しく無口な祖父が一度抱きしめたからといって、子供の恐れがすぐに解けるわけではない。

 

 けれど、ミリナはもう箱を隠していなかった。

 

 それだけは違っていた。

 ボードンが、ミリナをもう一度見た。

 今度は、目を逸らさなかった。

 

「ミリナ」

 

 少女の肩が小さく動く。

 

「はい」

 

 その声は、まだ細い。

 

「それを、大事に持て」

 

 ミリナは頷いた。

 

 母親が口元を押さえた。父親は何か言いかけ、やはりやめた。ボードンの言葉に逆らえないからではなく、今は何を言っても余計になると、ようやく分かったのかもしれない。

 

 外で鐘が鳴った。

 

 今度の鐘は、先ほどと違って聞こえた。棺を閉じた知らせか、弔いを進める合図か。鈍い音が川沿いの倉屋敷の壁を揺らし、白布を少しだけ震わせる。

 

 葬儀が、ようやく動き出した。

 

 ロッカはその音を聞きながら、空腹を思い出した。

 

 思い出したというより、もう無視できなくなった。まともに食べていない。口銭を払い、宿で断られ、荷運びも断られ、濡れた藁を片づけても報酬はもらえなかった。それから葬儀の家へ入り、死者の残り香を追い、子供の宝物入れから指輪を見つけた。

 

 体が、急に重くなった。

 

 テオが近づいてきた。

 

 近づくといっても、棺の前へは入らない。葬儀の場を乱さない距離で止まる。記録板は閉じられていたが、手から離してはいなかった。板を抱える指には、長く鉄筆を持っていた赤みが残っている。

 

「大丈夫ですか」

 

「何がですか」

 

「唇が白い。指先も少し落ち着かない。それから、さっきから立ち方を何度も直しています」

 

 ロッカは、自分の足元を見た。

 

 言われてみれば、爪先の向きを何度も変えていた。棺の前では止まっていた体が、終わった途端に置き場を失っている。肩も重い。腹の底は、もう空いているというより、内側から固くなっていた。

 

「お腹が空いているんです」

 

 テオは一瞬だけ黙った。

 

「……それだけですか」

 

「大真面目です」

 

 葬儀の家で口にするには、あまりにそのままの答えだったのだろう。テオの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。すぐに戻る。癖のようなものだ。真面目な顔に戻すのが早すぎるようだった。

 

 だが、報酬の約束を曖昧にしなかったことは、彼にとって悪いことではなかったらしい。記録板の角を押さえる指が、少しだけ動いた。食事と寝床。約束。誰が聞いたか。誰が認めたか。テオの頭の中では、それらがすでに同じ線の上に並んでいるのだろう。

 

 戸口の女が戻ってきた。

 

 先ほどまでより、顔の険しさがわずかに薄れている。完全に消えたわけではない。けれど、ロッカを見ても、すぐに追い払う目ではなくなっていた。白布を握っていた時の指の強張りも、少しだけほどけている。

 

「食事を用意するよ。部屋も、空きがあるか聞いてくる」

 

 言い方は硬い。

 

「ありがとうございます」

 

「礼は旦那様に言いな」

 

 女はそう返し、それから少しだけ目を伏せた。

 

 視線の先には、もうミリナはいなかった。だが、女が見ているのは、さっきまで少女が抱えていた小さな箱なのだと分かった。欠けた蓋。子供の手。大人なら値をつけないものばかりが詰まった宝物入れ。その中に、家の誰も探そうとしなかった指輪があった。

 

「誰も、あの箱を見なかった」

 

 ロッカは黙った。

 

「子供の箱だからね。まさか、そんなところにあるとは思わない」

 

 女の声は、誰かを責めているようで、自分を責めているようでもあった。

 

 ロッカは、ミリナの箱の中を思い出した。

 

 青い石。欠けた陶片。金色の糸。古いボタン。乾いた花。大人には価値のないもの。子供には捨てられないもの。その中に、若いボードンが贈った指輪が入っていた。

 

 物の価値は、一つではない。

 

 金の輪。結婚指輪。棺へ入れるべき品。最初の贈り物。最期に渡したもの。ミリナの宝物。

 

 どれも同じ指輪だった。

 

 師匠なら、どうだろう。

 

 名が多すぎる物は、よく迷う。

 

 そんなことを言うのかもしれない。

 

「指輪は、外へ行っていないと思いました」

 

「どうして分かったの」

 

 戸口の女が言った。

 

 テオの記録板が、わずかに上がった。鉄筆はまだ下りない。女は問いただしただけだった。だが、ロッカがまともに答えれば、テオは書くしかない。

 

 死者が外を見ていなかったから。

 

 それを言えば、物探しでは済まない。

 

 テオの目が、ロッカに止まっていた。聞きたい目ではなかった。

 

「物探しですから」

 

 ロッカは言った。

 

 女はしばらくロッカを見ていた。

 

 信じたわけではない。理解したわけでもない。けれど、今はそれ以上を問わなかった。葬儀が進み、主人が礼を言い、指輪が見つかった。人は、説明できないものでも、結果が役に立てば一度棚へ置くことがある。

 

「食事は、あとで台所へ。寝床は、倉の上の客部屋になるかもしれない。上等な部屋ではないよ」

 

「虫が出ますか」

 

 女の眉が上がったが、ロッカは真剣だった。

 

 旅の寝床には、たいてい先客がいた。藁の奥、湿った布の縫い目、崩れた板の隙間。夜中に羽音が耳へ入り、脚の細いものが首筋を渡る。そういうものに何度も起こされると、屋根の有無より先に虫の有無を聞くようになる。

 

「出ないようにはしてある」

 

「なら十分です」

 

 テオがこちらを見た。

 

 その目に、少しだけ何かがあった。笑いではない。憐れみでもない。部屋に泊まれるかどうか、虫が出るかどうかを真剣に気にしている娘を、どう受け取ればよいか分からないような顔だった。

 

 ロッカはその目を見返した。

 

「何ですか」

 

「いえ」

 

 外では夕方の光が川へ傾き始めていた。倉屋敷の白布は、昼より少し灰色に見える。弔問客はまだ出入りしているが、先ほどまでの詰まった気配は薄れている。人の流れが動き始める。葬儀が動き、家が動き、町が動く。

 

 ロッカの腹が、また鳴った。

 

 今度は、テオは何も言わなかった。

 

 ただ、記録板を小脇に抱え直し、戸口の方へ一歩下がった。彼の仕事は、ここで一度終わるのだろう。

 

「ロッカ」

 

 呼ばれて、顔を上げた。

 

「食事の前に、手を洗った方がいいですよ」

 

 ロッカは自分の指を見た。

 

 泥。藁の汁。木箱の埃。香の煙。その痕跡。死者の家の白布に触れないよう気をつけていたが、きれいな手ではなかった。

 

「分かっています」

 

 声は少し硬く出た。

 

 分かっている。自分でもそうするつもりだった。言われると腹が立つ。手が汚れていることではなく、指摘を受けたことが不本意だった。飢えた子供のように扱われた気もした。実際、食事の前に手を洗えと言われる程度には、今の自分はその通りの姿をしている。

 

 テオはさらに何か言いかけたが、やめた。

 

 代わりに、記録板を抱え直す。

 

「では、僕は戻ります」

 

「番所へ?」

 

「はい。今日のことは、今日のうちに整理しないと」

 

 いかにも彼らしい、と思った。

 

 白布の向こうで、戸口の女が台所の方へ声をかけている。食事。手水。客部屋。硬い声で指示が流れ、家の中の誰かが返事をした。ロッカはもう追い出される者ではなかった。少なくとも、今夜だけは。

 

 白布の内側に残ることを、誰も止めなかった。

 

 それが妙だった。さっきまで、ロッカの靴先ひとつが部屋に入るだけで、いくつもの目が動いた。今は違う。女が台所へ声をかけ、誰かが手水の桶を用意し、別の者が階段の方へ向かっている。家の中の小さな用事の一部に、ロッカの名が混じっていた。

 

 追い出される者ではなく、支度される者になった。

 そのことが、食事より先に喉の奥へ引っかかった。

 

 テオは敷居を越え、外へ出た。

 

 夕方の町の音が、その背中へ流れ込む。川へ向かう荷車。馬の鼻息。遠くの酒場の笑い声。誰かが鍋を叩く音。生きている者たちの音だった。そこに、弔いの鐘の余韻が薄く混じっている。

 

 ロッカは白布の内側に立ったまま、その背を見送った。

 

 外へ出る必要はなかった。

 

 今日は、食事がある。

 今日は、寝床がある。

 

 それを、自分で得た。

 

 明日になれば、また疑われるかもしれない。追い払われるかもしれない。

 

 それでも、今日だけは違う。

 

 ロッカは、物探しの娘として、死者の家の客人になった。

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