食事が済んだと見た女が、寝床へ案内すると告げた。
ロッカは頷いた。
椅子から降りる時、足裏に疲れが戻った。食べている間だけ、歩いてきた道の長さを忘れていたらしい。床板へ靴底が触れると、膝の裏が重く、肩の荷を外した後の背中にも、まだ紐の食い込みが残っているようだった。
女は燭台を手に取り、廊下へ出た。
村の家は、低い梁と煤けた天井と、土壁の隙間から入る風でできていた。ここでは、壁がまっすぐ立っている。板は厚く、継ぎ目には細い影が落ちるだけで、外の風を室内へ入れない。廊下の端には川側へ続く暗がりがあり、そこから湿った木と麻縄の匂いがかすかにあった。家の表には香と白布が結ばれ、奥には倉の匂いが沈んでいる。
二階へ上がる階段は、幅が狭かった。
踏板は古いが、軋みは少ない。何度も人が上り下りし、そのたび手入れされてきたようだった。川沿いの湿気に耐えるためか、ところどころに黒い油の跡がある。女の裾が階段を擦り、燭台の火が一段ごとに揺れた。下の方からは、片づけの音が遠く聞こえた。皿の触れ合う音。低い声。誰かが床を拭く音。
二階の奥、通りに面した小さな扉の前で、女は足を止めた。
扉の金具は磨かれていた。高価なものではないだろう。だが、手の触れるところだけ黒ずみ、長く使われていることが分かった。女が扉を押し開けると、わずかに暖かい部屋の空気が廊下へ流れた。
客部屋は小さかったが、整えられていた。
寝台が一つ。壁際に小机。椅子が一脚。窓は小さく、厚い木枠には内側から閉める板戸が付いている。床には薄い敷物が敷かれ、足元の泥を受けるための古布が入口近くに置かれていた。飾りはほとんどない。壁に絵もない。余分な箱も、布も、香炉もない。
だが、足りないものもなかった。
小机の上には洗面鉢が置かれていた。隣に、小さな湯桶。湯は熱くはないが、表面にわずかな白さを浮かべている。乾いた布が二枚、四角く畳まれ、その横に濡れた布を入れる籠があった。香草を少し浮かべた水差しからは、青い匂いが細く立っている。足を拭くための粗い布は床に近い棚へ置かれ、火鉢には赤い炭が少しだけ残っていた。壁には木釘が三本打たれ、服や外套を掛けられるようになっている。
女は一つずつ指し示した。
「顔と体は湯桶で。布は二枚。濡れたものはその籠。服はそっち。火鉢には触りすぎないように」
女は早口で言った。ロッカは、その一つ一つを覚えようとした。湯桶。布。籠。水差し。木釘。火鉢。どれも、村の寝床にはなかったものだ。
「他の部屋には入らないように。下も、奥も」
女の目が、ロッカの顔から荷へ、荷から靴へ移った。
「扉には、内側から閂がかかるから」
短い言葉だった。
閉じ込めるためではないのだと、少し遅れて分かった。外から誰かが入らないため。夜の家で、見知らぬ娘が怯えず眠るため。あるいは、家の者が後で何かを疑わずに済むため。どの意味も、少しずつ混じっていた。
「明日の朝、迎えに来るよ」
女はそう添えた。
扉が閉じた。
足音はすぐには遠ざからなかった。廊下に立ったまま、少しだけ待っていたのかもしれない。それから、床板を踏む音が階段の方へ移っていった。部屋には火鉢の炭が崩れる小さな音だけが残った。
ロッカは、しばらく動かなかった。
寝台は、大人の男がどうにか横になれるほどの大きさだった。幅は広くない。だが、藁を詰めた袋は平らに整えられ、その上に乾いた布が張られている。掛け布は薄いが、湿っていない。枕もある。枕というものを、旅に出てから初めて見た気がした。
窓へ近づき、木枠の隙間から外を見た。
下には街道があった。
昼の騒がしさは、ほとんど消えている。荷車の轍が黒い線になって残り、ところどころに灯りが落ちている。戸口を閉める音が遠くで一つ鳴った。葬儀へ向かっていた人影は、もう見えない。白布を肩にかけた者たちも、家を出たのだろう。川の方から、夜の水の匂いが上がってくる。流れは見えない。ただ、暗がりの底で何かが動き続けている気配だけがあった。
墓地の方角は、窓からは見えなかった。
師匠は、今頃あの古い墓のそばにいるのだろう。外套にくるまり、死者と話しているかもしれない。あるいは、何もせず、石の横で目を閉じているだけかもしれない。虫は寄らない。寒さも、たぶん気にしない。
壁の木釘へ外套を掛けた。
その時、初めて外套のひどさが見えた。
昼の外では、泥の乾いた跡も、裾の擦り切れも、雨を吸って固くなった布も、ただ旅の汚れに見えていた。だが、清潔な壁の前に掛けると、それは急に別のものになった。薄汚れ、ところどころ色が変わり、縫い目には土が入り、裾には枯れ草の小さな欠片が絡んでいる。肩のあたりは荷紐で擦れ、袖口は自分の手の脂と泥で硬くなっていた。
こんなものを着て、葬儀の家へ入ったのか。
よく通されたものだと思った。
すぐに、そうではないとも思った。
通されたのは、許されたからではない。指輪を見つけると言ったからだ。報酬として、食事と寝床を得た。客として迎えられたわけではない。少なくとも、最初からそうだったわけではない。
もし、指輪を見つけられなかったら。
今頃は、町の外の墓地にいただろう。湿った草の上で、外套を抱き、腹を空かせたまま、師匠のそばで夜を越していた。死者の残り香と、土の冷たさと、虫の羽音だけがあったはずだった。
洗面鉢の湯へ、指を入れた。湯気はもうほとんど立っていない。指先を沈めても、肌を驚かせるような熱はなく、ただ水より少しましな温みが爪の際へまとわりついた。
それでも、指先の冷えがゆっくりほどけた。爪の間に入った泥が黒くにじむ。水面に、細い汚れが広がった。村で水を使う時、汚れは当たり前にあった。土のついた手、灰のついた顔、汗の匂い。誰もそれをいちいち見なかった。汚れは暮らしの一部だった。
ここでは、汚れが見えた。
服を脱ぐと、身体のあちこちに旅の跡があった。肩には荷紐の赤い筋。足首には乾いた泥。膝の裏には汗と埃が固まり、肘の内側には小さな引っかき傷がある。首筋を布で拭くと、布の白さがすぐに鈍った。耳の後ろ、脇、指の間、足の甲。拭くたび、湯が濁っていく。
白い布を何度も湯に浸し、絞り、また拭いた。湯はすぐに冷めた。香草の匂いは、泥と汗に負けて薄くなっていく。それでも、肌の表面から一枚ずつ旅が剥がれていくようだった。村を出てからの雨。野宿の土。墓地の草。橋の泥。セント家の床に上がる前に落としきれなかったもの。それらが布へ移り、籠の中へ沈んでいく。
足を拭く粗い布だけは、すぐに使い物にならない色になった。
ロッカはしばらく、それを見ていた。
誰も何も言わなかったのは、礼儀だったのか、指輪の方が大事だったからか。村なら、泥のついた身体はただの身体だった。ここでは違う。清潔であることも、布を持つことも、湯を使うことも、人の前に出るための形なのだ。
丁寧に拭いた。
背中には手が届かなかった。そこは諦めた。髪は水差しの香草水を少しだけ手に取り、指で梳くように整えた。完全には落ちない。けれど、額に張りついていた汗の重さは消えた。
乾いた布で肌を押さえ、服を着直した。
着直した瞬間、汚れた布がまた肌に触れた。
そこで、はっきりと思った。
服が欲しい。
綺麗な服、とまでは言わない。だが、濡れておらず、泥を吸っておらず、人の家の壁に掛けても恥ずかしくない服が欲しい。胸元に何かを留める金具が欲しい。擦り切れた紐ではなく、ほどけないものが欲しい。自分がどこの誰でもない旅の娘ではなく、少なくとも町の中で立っていられる者に見えるものが欲しい。
それは空腹に似ていた。
ただし、腹ではなく、胸のあたりにあった。
寝台に腰を下ろした。
藁袋は沈んだ。硬いが、地面ではなかった。背中を伸ばすと、身体の奥から鈍い重さが上がってきた。疲れていた。思っていたより、ずっと疲れていた。村を出てから二週間。道を歩き、野宿し、腹を空かせ、師匠の分からない言葉を聞き、町に入り、拒絶され、葬儀の家へ入り、死者の残り香を辿った。ようやく腰を下ろした時、それらが全て戻ってきた。
腹は満ちている。
その事実が、眠気を強くした。空腹の夜は、腹の内側がこちらを起こし続ける。今は違う。豆と魚と温かい汁が、身体の内側から重りになっている。火鉢の炭が小さく割れ、赤い点が灰の中で鈍く光った。
天井を見上げる。
梁には煤が少ない。板の継ぎ目は細く、蜘蛛の巣も見えない。どこか遠くで、扉の閂が下りる音がした。家の奥では、まだ人が動いている。死者を送る支度は続いているのだろう。けれど、この部屋だけは静かだった。
ロッカは寝台に手を置いた。
乾いている。そのまま、倒れこんだ。
乾きに、しばらく指を置いていた。
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成し遂げたのだ、と思った。
背中の下には乾いた寝床がある。火鉢には赤い炭が残っている。扉には内側から掛けられる閂があり、窓の下には夜の街道が静まっている。どれも、村では自分のために用意されたことのないものだった。誰かの娘だからでもない。誰かの妻になるためでもない。働き手として当然に与えられた飯でもない。
自分の中にあるものが、これを運んできた。
力がなければ、師匠は村へ来なかった。死者と話す子供は、ただ気味の悪い娘のまま残された。指輪も見つからなかった。
力は、食事になる。
力は、寝床になる。
その事実は、腹の中の温かさよりも遅れて、胸の奥へ沈んだ。
だが、それだけでは足りなかった。
師匠の顔が浮かんだ。薄い灰色の眼。墓地の草の上を音もなく滑る外套。死者の名を古い石から拾い、道の崩れる場所を言い当てる声。師匠は多くを知っている。死者のこと。土地のこと。古い名。骨。執着。見えない道の向き。ロッカがまだ触れられない深いところへ、師匠の言葉は何の苦もなく届く。
知恵は、与えられる。
力の使い方も、たぶん与えられる。
けれど、温かい食事は出てこない。
師匠は道端の赤い実を食べられると言う。墓地の小屋に屋根があると言う。古い死者に道を聞けば足りると言う。
師匠は、それで足りる。
ロッカには足りない。
死者を読むだけでは、生者の町には立てない。
布袋の軽さを思い出した。
橋番の皿へ落とした硬貨の音。宿の女が向けた目。荷車の商人が払った手。馬小屋の男が小銭を出さなかった時の、革紐へ戻っていく指。どれも、死者よりずっと騒がしく、ずっと扱いにくい。
路銀が要る。
道中で稼がなければならない。
師匠の後ろを歩いているだけでは、墓地と廃屋を通り過ぎるばかりだ。町へ入るなら、金が要る。宿へ泊まるなら、信用が要る。物探しと名乗るなら、見つけたものを誰の前で、どの条件で渡すのかを決めなければならない。
料理も要る。
ただ食べられる草を噛むのではなく、腹に残るものを作ること。湯を沸かし、塩を残し、火を保ち、次の日の分を考えること。村で覚えた手順を、旅の道具へ移さなければならない。鍋が欲しい。火口が欲しい。保存できるものが欲しい。水に浸して柔らかくできる豆や、硬くなっても食べられるパンや、雨で駄目にならない袋が欲しい。
裁縫も要る。
外套の裾はすでに擦り切れている。袖口は固く、荷紐の当たる肩は薄くなっている。穴が開いてからでは遅い。針と糸を持ち、布を残し、裂ける前に縫うことを考えなければならない。綺麗な服が欲しいと思った。だが、綺麗な服を手に入れる前に、今ある服を使える形で保たなければならない。
持ち物も、数えなければならない。
布袋の硬貨。針。布。残った食べ物。水を入れるもの。火を起こすもの。死者に関わる物。いつか役に立つかもしれない物。持てるものには限りがある。だが、持たなければ、何も自分の手元に残らない。師匠のように身一つで墓地へ入って眠ることは、ロッカには難しい。
考えるべきことは、いくらでもあった。思うたび、胸の奥に何かが積まれていくようだった。それは重荷ではなかった。一つずつ、手に入れる。それは確かに生まれた熱だった。
火鉢の炭が、灰の下で小さく割れた。
木釘に掛けた外套が、火鉢の赤い光を少し受けて、その輪郭を持った。
みすぼらしい布だった。
けれど、それは今、ロッカのものだった。村から持って出たもの。道を歩いたもの。雨を吸ったもの。捨てれば軽くなる。だが、捨てれば寒くなる。持ち続けるなら、直さなければならない。
手に入れたものを、手元に留めること。
それも、たぶん生きるための技術だった。
師匠は死を教えると言った。
なら、生きている間に必要なものは、自分で覚えるしかない。
身体は重く、瞼は落ちかけている。それでも、頭の奥だけは冴えていた。
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考えているうちに、夜は早く深くなっていた。
窓の外で、ひとつずつ音が減っていく。戸を閉める音。桶を引きずる音。誰かが低く呼ぶ声。馬の鼻息。車輪の軋み。昼のあいだ街道に散っていたものが、家々の内側へしまわれていく。音が消えるたび、部屋の板壁と扉の厚みが少しずつ増していくようだった。
火鉢の炭は、ほとんど灰に沈んでいた。
赤いところはまだある。だが、それも部屋を暖めるほどではない。近づけた手の甲に、わずかなぬくみを返すだけだった。洗面鉢の水は冷え、濡れた布を入れた籠からは、泥と香草が混じった匂いが薄く立っている。木釘の外套は、壁際で重そうに垂れていた。乾ききらない裾が、布自身の重さで少し伸びている。
ロッカは目を閉じた。
外で、猫が鳴いた。
一匹ではなかった。細く裂けた声が路地の方で重なり、すぐに低い唸りへ変わった。何かが倒れる小さな音がして、爪が板を掻く気配が続いた。
それも、やがて離れた。
静かになると、墓地のことがまた浮かんだ。
町はずれの古い墓地。低い石。草の間に沈んだ名。夜になると、石の肩に露が置かれる。昼のあいだ乾いていた土も、夜の底では冷える。墓守の小屋がまだ立っているなら、板の隙間から風が入り、屋根の端では枯れた草がこすれる。虫は草の根元で鳴き、どこかの小さな獣が石のあいだを通る。
その中に、師匠がいる。
きっと平気なのだろう。
そう思った。
かわいそうだとは思わなかった。あの人に、そういう言葉は合わない。墓地に置き去りにされたのではない。自分でそこを選んだ。寒さが嫌なら避けられる。虫が嫌なら近づけないこともできる。死者と古い言葉を、旅の道を知っている。寝床を得る方法だけ知らないはずがない。
知っているのだ。
たぶん、知っている。
それなのに、しない。
そのことが、ロッカには分からなかった。
なぜ温かい食事を求めないのか。なぜ乾いた寝床を選ばないのか。なぜ人の間に入ることを、そこまで避けるのか。
不思議というより、少し怖かった。
死者に近いからではない。
死者を見ている者なら、ロッカも同じだ。けれど師匠は、死者と話せることよりも、人の暮らしから離れていることの方が不気味だった。腹を満たすこと。身体を拭くこと。濡れた服を乾かすこと。戸を閉め、閂を掛け、朝に誰かが迎えに来ること。そういう細い手順から、長い時間をかけて外れてしまった人に見えた。
明日、墓地へ行く。
それだけは決めていた。
戻らないという選び方もあったのかもしれない。けれど、そうは思わなかった。師匠の知っているものは、まだ必要だった。死者のこと。自分の中にある力のこと。師匠のそばにいなければ届かない場所がある。
ただし、黙って後ろを歩くのは違う。
せめて、行き先を聞かなければならない。
どこへ向かうのか。何を学ぶのか。次の町へ行くのか、また墓地や廃道ばかりを選ぶのか。食べるものはどうするのか。路銀はどうするのか。何もかも師匠が決めるのではなく、ロッカも知らなければならない。
街道を、何かが通りすぎて行った気配がした。
音を持たないまま、街道の上を薄く渡った。通り慣れた誰かかもしれない。帰れなかった旅人か、荷を待ったまま消えた者か、ただ道に結びついて残った癖だけか。
ロッカは目を開けなかった。
生きている者の町にも、死者はいる。
家々の内側には眠る者がいて、外の道には薄く残った者がいる。別々の場所にあるものが、同じ夜の中で静かに並んでいた。
怖くはなかった。
ただ、広いと思った。
村の夜は狭かった。家の中の息、納屋の匂い、墓場の方角、母の手、父の沈黙。どこを向いても、同じ場所へ戻された。今夜は違う。窓の下に街道があり、その先に墓地があり、さらにその先にはまだ知らない道がある。死者も生者も、その上に残り、歩き、眠り、消えていく。
火鉢の中で、炭が一度だけ崩れた。
猫の声はもうしない。階下の足音も消えていた。濡れた布の匂いも薄まり、窓の外の気配も、夜の中へほどけていった。
考えることは、まだあった。
乾いた寝台が背中を受け、腹の中の温みが重くなり、まぶたの裏に墓石の白さと街道の暗さが混じった。
音はひとつずつ形を失っていく。
最後に残ったのは、川の方から来る、聞こえるかどうかの低い水の気配だけだった。
それもやがて分からなくなり、ロッカは眠った。