茶柱は、生徒会室に集まった生徒たちを一人ずつ見渡したあと、
感情を挟まない声で言った。
「結論から言う。綾小路清隆を退学にした特定の犯人は存在しない」
その一言に、部屋の空気が凍った。
堀北は瞬きを忘れたように茶柱を見つめ、龍園は目を細め、
坂柳は杖の持ち手に指を添え、一之瀬は胸元で両手を握りしめた。
軽井沢だけは、最初からその言葉を聞きたくなかったように、顔を強張らせていた。
「今回の総合最適化判定は、
個人評価、班評価、クラス損益、保護コスト、代替可能性、他者依存度、
行動履歴、ポイント移動、最終投票の流れを総合して算出された」
真嶋が淡々と続ける。
「その結果、綾小路清隆は排除による全体損失が最も低い生徒として判定された」
「ふざけないでください」
堀北の声は低かった。
怒鳴ってはいない。
だが、その静けさが逆に鋭かった。
「彼がこのクラスにどれだけ貢献してきたか、あなたたちは知らないはずがない」
茶柱は堀北を見た。
「知っている」
その答えは、堀北の胸をさらに抉った。
「だが、試験システムに記録された貢献と、お前たちが後から語る貢献は別だ」
星之宮が珍しく笑みを消したまま言う。
「綾小路くんはね、すごすぎたのよ。自分の手柄を残さないのが上手すぎた。
誰かを助けても、助けた記録を残さない。
誰かを勝たせても、自分が動いた痕跡を薄める。
だからシステムから見れば、彼はいなくなっても集団が壊れにくい生徒に見えた」
一之瀬の顔が歪んだ。
「そんな……そんなの、あんまりです」
彼女は綾小路に何度も助けられていた。
迷ったとき、苦しかったとき、立ち止まりそうになったとき、
彼は決して大げさに手を差し伸べることはしなかったが、
不思議と必要な言葉だけを残してくれた。
それなのに、その優しさは記録されなかった。
点数にならなかった。
価値として認められなかった。
「さらに言えば」
坂上が静かに口を開いた。
「綾小路を守る行動を取った生徒は少なかった」
軽井沢が顔を上げる。
「……違う」
「事実だ」
坂上は揺るがない。
「お前たちは彼を軽視していたわけではない。むしろ逆だ。
彼なら大丈夫だと思っていた。彼なら自分で回避すると思っていた。
彼なら救済を必要としないと思っていた」
軽井沢の唇が震えた。
反論したかった。
けれど、できなかった。
自分もそうだった。
清隆なら大丈夫。
清隆ならどうにかする。
清隆なら平気な顔で戻ってくる。
そう信じていた。
恋人でありながら、一番近くにいたはずなのに、
彼が本当に切られそうになっていることに気づけなかった。
「……なんでよ」
軽井沢は絞り出すように言った。
「なんで、何も言ってくれなかったのよ」
答える者はいなかった。
茶柱が端末を操作し、記録の一部を表示する。
「綾小路は、試験後半の時点で自分が危険圏に浮上していることを把握していた」
生徒会室に、音のない衝撃が走った。
龍園が低く笑う。
だがそれは愉快さからではない。
「やっぱりかよ」
乗り越えるべき壁。
自分に初めて完全な敗北を刻み込んだ男。
その男が、何も知らずに消えたなど、龍園には最初から信じられなかった。
だが、知っていたならなおさら理解できない。
「じゃあ、なんで動かなかった」
龍園の声には怒りがあった。
「俺なら分かる。あいつなら逃げ道を作れた。
誰かを切ることも、点を稼ぐことも、票を誘導することもできたはずだ」
真嶋が言う。
「綾小路には複数の回避手段があった」
堀北の顔から血の気が引いた。
「……あった?」
掠れた声だった。
茶柱は感情を交えず、端末を操作する。
「一つは、他生徒の隠された減点要素を提出し、自分より下位に押し込むこと」
画面には、匿名報告可能項目の一覧が映し出される。
班内で隠されていた規定違反。
ポイント移動時の不正申告。
故意に隠された評価操作。
それらを提出すれば、複数の生徒に大幅減点が発生する仕組みだった。
「その場合、退学候補は最低でも3人入れ替わっていた」
真嶋が淡々と続ける。
「さらに連鎖的に班評価が崩壊し、
最終調整次第では二年全体で7〜8人規模の退学者が発生していた可能性が高い」
生徒会室の空気が凍る。
7〜8人。
綾小路一人ではない。
誰かを告発し、自分が助かる代わりに、複数の生徒をまとめて沈める。
それが第一の回避手段だった。
「一つは、軽井沢恵や堀北鈴音を含む数名の行動履歴を利用し、
自分への保護コストを強制的に引き上げること」
軽井沢が息を呑んだ。
堀北も目を見開く。
「今回の試験では、特定生徒への依存度が数値化されていた」
坂上が静かに言う。
「綾小路は、お前たちとの接触記録、過去試験での介入履歴、
クラス内影響率を提出することで、
自分が退学した場合の損失を大幅に引き上げることができた」
「……つまり?」
龍園が低く問う。
「堀北鈴音の成長補助。軽井沢恵の精神的安定。
須藤健の制御。クラス戦略の裏面支援。
それらをすべて綾小路清隆依存として提出すれば、判定は逆転していた」
堀北の指先が震えた。
それはつまり。
綾小路は、自分たちを自分なしでは成立できない存在として
学校に提出できたということだった。
だが、それをすれば。
「その場合、堀北クラスは綾小路依存クラスとして認定される」
茶柱が言う。
「クラス評価は著しく歪み、
以降の特別試験では綾小路個人への制限・監視が強化される。
同時に堀北、お前自身の自立評価も大幅に下落していた」
堀北は言葉を失った。
それは、彼女が積み上げてきたものを根本から否定する処理だった。
綾小路が生き残る代わりに、堀北鈴音というリーダーは
綾小路に支えられていただけの存在として学校側に定義される。
「一つは、一之瀬帆波のポイント移動を逆利用し、
彼女のクラスに大きな損失を押しつけること」
一之瀬の肩が大きく震えた。
「一之瀬は今回、多数のポイント補助を行っている」
真嶋が続ける。
「綾小路はその流れを逆利用できた。
特定のポイント移動を意図的評価操作として提出すれば、
一之瀬クラス全体に大規模減点が発生していた」
「そんな……」
一之瀬の声が崩れる。
「その場合、クラス順位は即座に転落。
さらに安全圏から外れた生徒が連鎖的に退学候補へ移行し、最悪の場合、
一之瀬クラス単独で4〜5人規模の退学者が発生していた可能性がある」
一之瀬は口元を押さえた。
自分の善意。
自分が守ろうとした行動。
それが逆利用されれば、クラスそのものが崩壊していた。
「一つは、龍園、坂柳の干渉記録を告発し、
他クラス側にペナルティを発生させること」
龍園は舌打ちした。
坂柳は静かに目を伏せる。
「試験中、両者とも規定違反ギリギリの情報干渉を行っていた。
綾小路はそれを把握していた」
南雲が腕を組みながら言う。
「もし提出されていれば、龍園クラス、坂柳クラス双方に大規模ペナルティが発生。
特に坂柳クラスは、クラス順位維持そのものが不可能になっていた可能性が高い」
「……なるほど」
坂柳が小さく呟く。
「つまり彼は、私たち全員を盤面ごと崩すことができたわけですね」
「そうだ」
茶柱は即答した。
「綾小路清隆は、自分が助かるためなら、ほぼ確実に生き残れた。
その代償として、複数クラスを崩壊寸前まで追い込めばな」
沈黙。
誰も言葉を発せなかった。
綾小路は回避できた。
助かる方法はあった。
しかも一つではない。
だが、そのすべてが。
誰かを壊す方法だった。
誰かを切り捨てる方法だった。
誰かの未来を踏み潰す方法だった。
そして。
「もう一つある」
茶柱が静かに言った。
その声で、生徒会室の空気がさらに沈む。
「綾小路は、自分が助かることで、ある目的が不可能になることも理解していた」
堀北が顔を上げる。
「目的……?」
「お前たちは知らないだろうが」
茶柱は短く息を吐いた。
「綾小路清隆は、各クラスを極端に突出させず、
4クラスを拮抗状態に保つことを一つの目標としていた」
龍園の目が細くなる。
坂柳も静かに顔を上げた。
「それは……」
一之瀬が掠れた声を漏らす。
「クラス同士が極端に潰し合わず、互いを競わせ続けるための盤面維持だ」
真嶋が続ける。
「だが、綾小路が自分を救うために回避手段を使えば、
その均衡は完全に崩壊していた」
一之瀬クラスは大量減点。
龍園クラスは違反処理。
坂柳クラスは順位崩壊。
堀北クラスは綾小路依存認定。
そして複数の退学者。
4クラスの均衡。
綾小路が裏で支え続けていた競争できる盤面そのものが壊れる。
「つまり彼は」
坂柳が静かに言った。
「自分一人が残るために、盤面全体を壊すことを拒絶した」
「そういうことだ」
茶柱は答えた。
それが、彼が自らの退学を選んだ最たる理由。
堀北はようやく理解し始めていた。
彼は負けたのではない。
切られたのでもない。
最後の最後で。
自分だけが生き残る選択を拒絶したのだ。
その結果。
彼は、自ら退学を受け入れた。
軽井沢の視界が滲む。
「なんで……」
声が震える。
「なんでそこまでして、何も言わないのよ……」
だが答える者はいない。
綾小路清隆はもうここにいない。
ただ最後まで。
誰も切らず。
誰も告発せず。
誰も壊さず。
自分だけが消えた。
その事実だけが、生徒会室に絶望のように沈んでいた。
「最後の行動記録を開示する」
茶柱はそう言って、端末を操作した。
表示されたのは、試験終了直前の選択ログだった。
綾小路清隆。
選択可能救済措置、4件。
使用、なし。
保有情報提出、なし。
他者評価修正申請、なし。
異議申し立て、なし。
最終判定受諾。
「……受諾?」
坂柳の声が、初めてわずかに揺れた。
倒すべき目標。
自分が証明したかった相手。
自分の存在意義に近いところにいた少年。
その彼が、あまりにも静かに、自分の退場を受け入れていた。
「彼は、私たちとの勝負すら残していかなかったのですね」
坂柳は微笑もうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「酷い方です」
その一言だけが、静かに落ちた。
龍園は椅子の背もたれに身体を預け、天井を睨んだ。
「勝ち逃げどころじゃねえな」
彼の声は、怒りよりも深いところに沈んでいた。
「あいつ、最後まで俺たちを盤面に乗せなかったってことかよ」
龍園にとって、綾小路清隆は乗り越えるべき壁だった。
いつか必ずもう一度ぶつかり、完膚なきまでに叩き潰すか、
あるいは自分がもう一度叩き伏せられるか。
その決着を望んでいた。
だが綾小路は、その勝負を残さなかった。
龍園が手を伸ばす前に、自分で盤面から降りた。
しかもその理由が勝敗ですらなかったことが、龍園にはたまらなく腹立たしかった。
「気に入らねえ……」
誰に向けたものでもない呟きだった。
一之瀬は両手で口元を覆っていた。
「綾小路くんは……誰かを守ったんですか」
茶柱は少しだけ沈黙した。
「教師側が感情的に解釈することはできない」
「でも」
一之瀬の声が震える。
「それでも、そういうことなんですよね」
真嶋が静かに答えた。
「結果だけを見れば、綾小路清隆は
自分が助かるために使えた情報を、誰にも使わなかった」
それが答えだった。
一之瀬の胸に、彼と交わした何気ない会話が蘇る。
大丈夫だと背中を押されたこと。
無理をするなと止められたこと。
自分の弱さを否定せず、ただ静かに受け止めてくれたこと。
あの時と同じだった。
彼は最後まで、大げさな善人として振る舞わなかった。
ただ、誰かを傷つける選択をしなかった。
それだけだった。
だからこそ、苦しかった。
「そんなの……ありがとうも言えないじゃないですか」
一之瀬の声は、ほとんど泣き声だった。
堀北は端末の表示を見つめ続けていた。
大切な戦力。
クラスメイト。
自分を前に進ませた存在。
自分が追いつくべき相手。
それらすべてを、彼女は失った。
だが、それ以上に苦しかったのは、彼が最後に自分を頼らなかったことだった。
「私は……」
堀北の声が小さく漏れる。
「私は、あなたにそんな選択をさせるために、ここまで来たわけじゃない」
誰も答えない。
綾小路はいない。
だから、責めることも、問い詰めることも、謝ることもできない。
「堀北」
茶柱が静かに言った。
「綾小路から、最後に一つだけ記録が残されている」
堀北の顔が上がる。
「記録?」
「退学処理の直前、任意提出されたコメントだ」
軽井沢の肩が震えた。
坂柳も、龍園も、一之瀬も、全員が画面を見つめた。
茶柱は数秒だけ沈黙し、それから表示した。
そこにあったのは、短い文章だった。
『この結果に異議はありません。
この試験の判定は、制度上正しいものです。
ただし、この結果を見た者が、次に同じ構造を許すかどうかは――
残された者たちの問題です』
それだけだった。
あまりにも短い。
あまりにも綾小路らしい。
自分の感情を語らない。
誰かへの恨みも残さない。
助けを求めない。
ただ、残された者たちへ問いだけを置いていく。
「……あいつ」
龍園が低く呟いた。
「最後まで教師みてえなことしやがって」
「違いますよ」
坂柳が静かに言った。
「彼は、私たちに勝負を残したのです」
堀北はその言葉を聞きながら、画面から目を離せなかった。
次に同じ構造を許すかどうか。
綾小路は、誰が自分を退学にしたかを知っていた。
犯人がいないことも。
全員が少しずつ関わっていたことも。
この学校の制度が、それを正当な結果として処理したことも。
その上で、彼は誰も責めなかった。
その代わり、全員に問いを突きつけた。
お前たちはこれを許すのか、と。
「……清隆」
軽井沢が小さく名前を呼んだ。
その声は、誰にも届かないほど小さかった。
彼女の中には、恋人としての彼の記憶があった。
無愛想で、分かりづらくて、何を考えているのか分からなくて、
それでも自分にとっては確かに特別だった人。
急に奪われた。
説明もなく。
別れの言葉もなく。
それでも最後の記録を見れば、彼らしいと思ってしまう。
だから余計に苦しかった。
「なんで……最後までそうなのよ」
涙は流れなかった。
泣けるほど、まだ現実になっていなかった。
ただ胸の奥に、ぽっかりと空いた穴だけが残っていた。
星之宮が珍しく静かな声で言った。
「学校側としては、今回の処理に不正はないわ。
だけど、私たち教師も今回の結果を問題なしとは思っていない」
坂上が続ける。
「制度が正しいことと、教育として正しいことは別だ」
真嶋は腕を組みながら言った。
「お前たちがここまで辿り着いたことには意味がある。
だが、これ以上はお前たちがどう動くか次第だ」
堀北はゆっくりと立ち上がった。
「私は許しません」
その声は震えていたが、折れてはいなかった。
「綾小路くんを退学にした結果ではなく、
その結果を正しいと処理できる構造を、私は許しません」
龍園が笑った。
獰猛で、しかしどこか空虚な笑みだった。
「いいじゃねえか。なら壊すか、このクソみてえな仕組みを」
一之瀬は涙を堪えるように頷いた。
「私も……もう、誰かの善意が誰かを追い込むような試験は嫌です」
坂柳は静かに微笑んだ。
「彼が残した盤面なら、最後まで読まなければなりませんね」
軽井沢は何も言わなかった。
言葉にすれば、何かが崩れてしまいそうだった。
ただ、画面の中の短い文章を見つめ続けた。
――残された者たちの問題です。
綾小路清隆は最後まで、自分を中心に置かなかった。
自分の退学すら、残された者たちが変わるための材料にしてしまった。
その事実が、全員から言葉を奪っていた。
誰が綾小路清隆を退学にしたのか。
答えは出た。
龍園ではない。
坂柳ではない。
一之瀬ではない。
堀北でもない。
七瀬でも、宝泉でも、天沢でも、八神でも、南雲でもない。
だが、誰も無関係ではなかった。
彼を守らなかった者。
彼なら大丈夫だと思った者。
彼の価値を記録できなかった者。
彼の沈黙に甘えた者。
彼の強さに寄りかかった者。
そのすべてが積み重なった先で、綾小路清隆は退学になった。
生徒会室には、長い沈黙が残った。
その沈黙は、敗北の沈黙ではなかった。
後悔の沈黙でもあり、怒りの沈黙でもあり、決意の沈黙でもあった。
堀北は最後に、もう一度だけ端末の文章を見た。
そして、静かに目を伏せた。
綾小路清隆はもういない。
だが、彼が残した問いは、この学校に残り続ける。
誰が彼を退学にしたのか。
その答えを知った者たちは、もう以前のようには戻れない。
何も知らなかった頃には戻れない。
彼なら大丈夫だと、無責任に信じていた頃には戻れない。
そしてその日から、高度育成高等学校の中で、静かに何かが変わり始めた。
綾小路清隆という一人の生徒が消えたことで。
残された者たちは初めて、自分たちが何を見落としていたのかを知った。
その事実だけが、生徒会室の冷たい空気の中に、いつまでも重く残り続けていた。
THE END
■あとがき
「誰が綾小路清隆を退学にしたか?」完結です。
もしも最強の主人公である綾小路が退学したら?をコンセプトに書きました。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
次回作として「美しき敗者たちの特別試験」を投稿します。
よう実のメインヒロインたちが退学の危機に直面するストーリーになります。
途中までですが、第1話「美しさは罪」の試し読みをどうぞ。
◯
朝の教室には、いつもと同じざわめきが満ちていた。
だが、そのざわめきは平穏そのものではない。
高度育成高等学校という閉じた社会の中で、
誰もが互いの表情、声の調子、机に置かれた端末の通知、
昨日から今日にかけて微妙に変わった人間関係の温度までを
無意識に測り合っているような、薄い緊張を含んだ日常だった。
この学校では、何も起きていない時間ほど信用できない。
平穏に見える朝ほど、どこかで誰かが情報を集め、
誰かが裏で交渉し、誰かが気づかぬうちに盤面の端へ追いやられている。
それを知っている生徒ほど、朝の教室に漂う空気の変化に敏感だった。
「なあ、今日って何かあったか?」
池が欠伸混じりにそう言ったのは、
教室前方の電子黒板が普段より早い時間から起動していたからだった。
画面にはまだ何も表示されていない。
ただ、黒い背景の中央に学校の校章だけが浮かび、
その下に小さく「待機中」と表示されている。
たったそれだけのことなのに、教室の空気は少しずつ硬くなっていった。
「定期連絡じゃないの?」
軽井沢が端末を見ながら軽く言ったが、その声にもわずかな警戒が混じっていた。
彼女は表面上、いつも通りに振る舞っている。
髪を整え、友人たちと短く言葉を交わし、クラス内の空気に自然に溶け込んでいる。
だが、軽井沢恵という少女は、
この学校で何も起きないなどという言葉を信じるほど鈍くはなかった。
堀北鈴音は席に座ったまま電子黒板を見つめていた。
その横顔は冷静で、感情の揺れをほとんど見せない。
しかし、ペンを持つ指先がほんの一瞬だけ止まっていた。
「事前通知なしの全体連絡。しかも朝のホームルーム前。普通ではないわね」
「また特別試験か?」
須藤が嫌そうに呟く。
その言葉に、何人かの生徒が小さく反応した。
特別試験。
この学校において、その言葉は単なるイベントではない。
点数が動き、クラスの位置が変わり、
時には生徒一人の人生すら簡単に切り捨てられる。
「まだ決まったわけじゃない」
平田が穏やかに言った。
だが、その穏やかさは教室の不安を消すには弱すぎた。
全員がどこかで理解している。
この学校が事前説明もなく電子黒板を起動させる時、
それは大抵、こちらに選択肢がない時だ。
やがてチャイムが鳴る。
普段なら、その音を合図に生徒たちは会話を止め、教師の入室を待つ。
だが今日は違った。
チャイムと同時に、電子黒板の画面が切り替わった。
そこに表示された文字を見た瞬間、教室内の空気が一段階冷えた。
【特別試験実施告知】
誰も声を上げなかった。
むしろ、一瞬だけ完全な沈黙が落ちた。
そして次の瞬間、あちこちから小さなざわめきが漏れ始める。
「やっぱり……」
「嘘でしょ」
「今月もう試験あったじゃん」
「また退学ありかよ?」
画面の文字は淡々としていた。
感情も、遠慮も、躊躇もない。
この学校の制度そのもののように、ただ必要な情報だけを整然と並べていた。
【名称:風紀最適化特別試験】
その名称が表示された瞬間、堀北の眉がわずかに動いた。
「風紀……?」
誰かが呟く。
その言葉には、拍子抜けしたような響きがあった。
退学、クラス競争、ポイント争奪、裏切り、密告。
そういう言葉に慣れすぎた生徒たちにとって、
「風紀」という言葉は一見すると軽く聞こえた。
だが、オレは画面から目を離さなかった。
この学校がわざわざ最適化という単語を使った時点で、軽い試験で済むはずがない。
最適化とは、何かを効率よく整えることだ。
そして効率よく整えるということは、不要なものを切り捨てることでもある。
画面に次の文章が表示された。
【本試験は、学年内における異性交友、恋愛感情、容姿評価、人気集中、
過度な感情依存が学習環境および集団秩序に与える影響を測定し、
必要に応じて環境の是正を行うことを目的とする】
最初に反応したのは、女子ではなく男子だった。
「は?」
池が間の抜けた声を出した。
山内は口を半開きにしたまま画面を見つめ、
須藤は意味が分からないという顔で眉をひそめた。
女子たちの反応は遅れてやってきた。
軽井沢の表情から笑みが消えた。
佐藤が不安そうに隣の女子と視線を交わし、篠原は「何それ」と低い声で呟いた。
堀北はまだ黙っている。
しかし、その沈黙は無関心ではなく、文章の一語一語を分解し、
そこに隠された危険性を読み取ろうとしている沈黙だった。
【近年、学年内において特定女子生徒への人気集中、
恋愛関係を巡る対立、異性間接触を起因とする学習効率低下、
集団内不和、交友関係の偏りが観測されている】
「……ふざけてるの?」
軽井沢の声は小さかった。
だが、その言葉は教室の空気に鋭く刺さった。
誰も笑わなかった。
笑える内容ではなかった。
画面はさらに続いた。
【本校は、これらの現象を個人の感情問題としてではなく、
学年運営上の構造的リスクとして扱う】
【よって、本試験では各女子生徒の異性影響指数を算出し、
上位者を審査対象とする】
異性影響指数。
その言葉が表示された瞬間、教室の中に別種の沈黙が落ちた。
それは恐怖というより、侮辱に近い感情だった。
人間を数値化することに、この学校の生徒たちは慣れている。
学力、身体能力、協調性、判断力。
それらを試験によって測られ、点数に換算され、
クラス全体の評価として扱われることには、嫌でも順応してきた。
だが、今画面に表示されているのは、それとはまったく違うものだった。
容姿。
人気。
好意。
視線。
噂。
好かれていること。
誰かの感情を向けられていること。
本来なら本人が完全には制御できないはずのものまで、
この学校は測定対象にすると言っている。
「異性影響指数って……何よ、それ」
佐藤が震える声で言う。
「恋愛感情を数値化するってこと?」
平田の声も硬かった。
平田ですら、いつものように場を和ませる言葉を探せていない。
【算出項目】
画面に表が表示された。
【容姿評価値】
【交友集中度】
【異性交友頻度】
【告白・好意申告記録】
【SNS・校内端末上での言及頻度】
【学業・人格評価に基づく理想化傾向】
【恋愛・保護・依存感情誘発係数】
教室の空気が一気に悪くなった。
「何だよこれ……」
須藤が低く唸る。
彼の視線は一瞬、堀北の方へ向き、すぐに逸らされた。
それだけで十分だった。
この試験が誰を傷つけるものなのか、全員が理解し始めていた。
女子生徒は、ただそこにいるだけで評価される。
そして、その評価が高ければ高いほど危険になる。
可愛いから。
優しいから。
成績がいいから。
男子から人気があるから。
頼られるから。
憧れられるから。
それらは普通なら長所として扱われるものだ。
だがこの試験では、すべてが罪状に変わる。
「つまり……人気のある女子を危険人物扱いするってこと?」
篠原が吐き捨てるように言った。
その声には怒りだけではなく、もっと複雑なものが混じっていた。
可愛い女子だけが標的にされる。
そう見える試験でありながら、同時に、
可愛くないと見なされた女子には別の屈辱を突きつける。
評価される者は危険物として扱われ、
評価されない者はそもそも数値の外側に置かれる。
どちらに転んでも、人間として扱われていない。
そこにあるのは、学校が生徒を管理するために作った冷たい分類だけだった。
【第一次審査対象者は、各クラスおよび学年全体のデータ集計により選定される】
【審査対象者は、試験期間中、男子生徒による匿名評価、
女子生徒による環境評価、クラス代表による保全可否判断の対象となる】
【最終的に、学年運営において風紀リスクが高いと
判断された女子生徒五名は退学処分とする】
その一文が表示された瞬間、教室が爆発した。
「退学!?」
「五名って何だよ!」
「女子だけってこと!?」
「こんなの差別じゃん!」
「先生は!?茶柱先生は何か聞いてないの!?」
ちょうどその時、教室の扉が開いた。
茶柱先生が入ってくる。
◯
続きが書かれた第1話の完全版は5月24日午後0時に投稿予定です。
よろしくお願いします。