魔法使いの女子高生結衣の日常の一幕。
遮光カーテンのわずかな隙間から差し込む街灯の光さえ、この部屋ではひどく暴力的に感じられた。
結衣は息を潜め、暗闇の中でそっと右手を持ち上げる。
白く細い人差し指が虚空をなぞった、その瞬間。
チリッ、と小さな火花が散った。鼻先をかすめる焦げたの匂い。
結衣の瞳は、何もないはずの空間に張り巡らされた、途方もなく複雑で精緻な幾何学模様をはっきりと捉えていた。
――魔法。
それはつまり、世界を書き換える力だ。
堅牢な物理法則に無理やり割り込み、自分に都合のいいように現実を上書きする、傲慢な奇跡。
莫大な魔力さえ注ぎ込めば、空間を歪めて爆発を起こすような、乱暴な「書き換え」は難しくない。
けれど今、結衣がこの四畳半の暗闇で行っているのは、そんな野蛮な破壊ではなかった。
分子スケールで空間の導電率を書き換え、目に見えない「抵抗」の結び目をひとつずつ配置していく。
何千億という気の遠くなるようなパラメータを、三次元のキャンバスに直接刻み込む作業。
巨大な重みの行列。
それらを繋ぐのは、髪の毛の数百分の一という細さで編み上げられた、極細のプラズマ流路だった。
こうした魔法は、誰にでも扱えるものではない。
現実を支配する法則に干渉するには、生まれつき備わった魔力器官が必要となる。
そこには、努力だけでは絶対に越えられない才能の壁がある。
だから、この力を持つ者は全人口のほんの一握りにすぎない。
その中でも、結衣の魔力量は驚くほど少ない。
マッチ一本に火をつけるだけでも苦労するほどだ。
それでも。
世界を書き換える、その極限の繊細さにおいてだけは、彼女の右に出る者はいない。
結衣は小さく瞬きをひとつすると、最後の仕上げに取りかかった。
回路の中心へ、「閾値」となる非線形の歪みをそっと落とし込む。
準備は整った。
机の上のキーボードを叩き、ごくわずかな電圧を入力の起点へ流し込む。
次の瞬間、暗い部屋の中に青白い光の網目が一瞬だけ浮かび上がった。
水が高いところから低いところへ流れるように、電気は自然の摂理に従って、結衣が用意した何千億もの分岐を光の速さで駆け抜けていく。
複雑怪奇な計算の連鎖は、ただ「そこを電気が通った」という物理現象へと置き換えられ、瞬きをする間もなく、たったひとつの正解として終端へたどり着いた。
モニターに表示されたのは、巨大な国家研究施設が何日もかけてようやく導き出すような解析結果だった。
それが、あまりにもあっけなく、そこに出ている。
完璧だった。
世界で最も美しく、そして最も孤独な星空。
結衣は熱を帯びた息をふうっと吐き、椅子の背もたれに深く身を預けた。
世界を書き換えるという奇跡の箱庭。
ここには彼女のすべてがある。
それはもう、彼女の魂の形そのものだった。
しばらくのあいだ、結衣はただ静かに、その余韻に浸っていた。
張り詰めていた神経が、少しずつほどけていく。
冷却ファンのかすかな駆動音だけが、暗い部屋の静寂をゆっくりとなぞっていた。
だからこそ、その小さな光に必要以上に驚いた。
視界の隅で、スマートフォンの画面が淡く点る。
ニュースアプリのプッシュ通知だった。
『旧世紀の遺物か。都内で発生した連続器物損壊、魔法使いの関与を視野に捜査』
無意識に奥歯を噛みしめたまま、彼女は画面に触れる。
SNSのタイムラインを開けば、そこには見慣れているはずなのに、決して慣れることのない冷たい言葉が濁流のように流れてきた。
『やっぱり魔法使いなんてろくなもんじゃない』
『何するかわからない連中が普通に紛れてるとか怖すぎる』
『見つけ次第、ちゃんと管理してほしい』
『ああいうのがいるだけで迷惑なんだよ』
『関わりたくない。近くにいたら最悪』
白い画面の光が、結衣の顔からじわじわと血の気を奪っていく。
現代社会において、魔法とはすなわち、忌避される過去の遺物だった。
かつて国家の英雄と呼ばれ、同時に凄惨な戦争の道具として消費された力。
魔法を使えない人々は、理解の及ばない力を持つ者たちを本能的に恐れた。
専門の研究者たちでさえ、魔法というブラックボックスを完全には解明できない。
だからこそ、「得体の知れない異物は排除すべきだ」という空気だけが、静かに、けれど確実に社会へ広がっている。
結衣は逃げるようにスマートフォンを伏せ、両腕で自分の身体を強く抱きしめた。
視線が、部屋の隅にある本棚の最下段へ向く。
そこには二列に並べたコミックの裏側に隠すようにして、分厚い『近代呪術史』が息を潜めていた。
表舞台から消し去られた、少数の異能者たちの沈黙の記録。
(私の能力は、絶対に誰にも知られちゃいけない)
どれほど美しい計算回路を空間に編み上げられたとしても、一歩この部屋の外へ出れば、それはただの「気味の悪い異端の力」でしかない。
人々が思い描く魔法は、街を焼き払い、無秩序に破壊を撒き散らす野蛮な火球だ。
結衣が指先で紡ぐように生み出す、この極小の宇宙を理解できる同類など、この世界には限りなくゼロに近い。
喉の奥に、苦いものがせり上がってくる。
自分と同じ景色を見ている人間は、どこにもいない。
数万人に一人という才能の壁で隔てられた側にいること。
その事実そのものが、結衣にとっては呪いだった。
大勢の人々の中で少しでも波風を立てれば、たちまち異物として呑み込まれ、息の根を止められる。
だから、隠さなければならない。
世界をハッキングできるほどの力を持ちながら、結衣は世界そのものをひどく恐れていた。
誰の役にも立たない。
誰にも望まれていない。
この息苦しいクローゼットのような部屋の中だけで、ただ自分の知的好奇心を満たすためだけに使われるべき力。
そうやって彼女は、自分の心に重く冷たい南京錠をかける。
大勢の人々の視線に怯えながら、息を潜めて生きていくしかないのだ。
結衣は乱れた呼吸をゆっくり整え、再び暗闇の中で青白く光るモニターへ向き直った。
外の世界の残酷な喧騒から逃げ込むように、冷たいキーボードの上へ細い指を這わせる。
部屋の中には、ただ冷却ファンのかすかな駆動音だけが、空虚に響いていた。