最初に来た学園はトリニティだったが…
バシャン!
汚い水が私の膝から下を濡らした。
モップがけ中の私が後ろを向いている隙に、誰かがバケツを蹴飛ばしたのだろう。
犯人らしき人影はすぐに走り去って行き、楽しそうな笑い声だけが遠くで聞こえた。
私はモップを握りしめたままで、少しの間突っ立って動けなかった。
水がしみて急速に増していく足下の不快感を頑張って無視しながら、涙をこらえるのに必死だった。
矯正局から出た私は、所属だけは生徒会に置かれた。
しかし、そこで与えられた職務は、各学校でおよそ一ヶ月掃除や草刈りなどの雑務を行う期限付きの奉仕活動だった。
最初に奉仕活動をすることになったのが、このトリニティだった。
今日で、まだ一週間だ。
午前の掃除を終わらせた私は、着替えるために掃除倉庫へ向かった。
私に割り当てるロッカーなんてない、当然だろう。
替えの服と靴を持ってきておいて良かったと、心底思った。
午前中の掃除はこれで終わり、この後は食堂で昼食をとる。
私はこの昼食の時間が一番嫌いだ。
着替えが終わって倉庫から出ようとしたとき、ホウキの束に足を取られてコケてしまった。
手をついたが、地面から突き出ていた釘で右手を怪我してしまった。
「いった…」
たいした怪我ではない、情けなさで心の方が痛い。
血を拭いてから適当に絆創膏を貼って、私は食堂へ向かった。
食堂は広々としていて座席にも十分に空きがある。
今日はバイキング形式ではなく、用意された一人分のトレーを持って行くようだ。
バイキング形式だとまた料理を取れない可能性があったため、少し安心した。
何事もなく厨房前からトレーを取って席に向かおうとした時、突然背中に衝撃が走った。
「あ ごめん当たっちゃった」
ぶつかってきたであろう生徒が、わざとらしくそう言った。
衝撃を抑えきれずトレーの上のパンが地面に落ちてしまった。
「あー、ごめんね。パン落ちちゃったけどもったいないよね」
そう言って、地面に落ちたパンを手で掴んでトレーに乗っけてきた。
私が何か言う前に、その生徒は手を拭きながらどこかへ行ってしまった。
私はすこしだけトレーを眺めたあと、すぐに席へ向かった。
席に座って、料理を食べ始める。
パンに少しジャリジャリとした食感がある。
「(朝掃除したばかりなのになあ、地面に砂残ってたのかな)」
そんなことを思いながら、少しずつ食べ進めていると。
ドスン。
私のすぐ左の席に、無遠慮に誰かが座った音がした。
私は手を止めて、ゆっくり左を向いてその誰かを確かめた。
そこに居たのはシャーレの先生だった。
「やぁ、カヤ。元気?」
驚いたなんてものじゃない。思わず手からフォークが落ちたほどだ。
もう会うことはないと思っていたのに、まさか向こうから来るなんて。
「なんでここにいるかなんて聞きません。早くどこかへ行ってください。」
不機嫌に私がそう言うと、
「いやー、カヤが矯正局から出てきてトリニティで奉仕活動してるって聞いたからさ、見に来た」
先生は飄々と答えた。
「私は見世物じゃありません。見に来ただけならもう十分でしょう、早く帰っ…。」
「ところでさ」
先生が私の言葉を遮った。
「その手、どうしたの?」
先生は私の宙に浮いたままの右手を見ながら、真剣な顔でというより少し怖い顔でそう言った。
「な、なんでもありません、少し怪我をしただけです」
さすがに”コケただけ”なんて言えなかった。
「ほんとにぃ?結構血出てるよ、急いで治療しよう!」
そう言うやいなや、先生は私の手を掴んで無理矢理立たせた。
「ちょっと!いきなり何するんですか!?」
私は先生の手を振り払おうと抵抗した。
「実はこの後、ゲヘナの救急医学部に用事があってね。一緒に行って診てもらおう」
先生は一向に手を離す気がなさそうだった。
「必要ありません、このくらいの傷ならすぐに治ります。それに、私にはこの後仕事があるんです。」
先生は構わず私の手を引いてつかつか歩いていく。
「ちょっと、誰k…」
―――私はいったい何を言おうとしたのだろう。この場に私を助けてくれる誰かなんていないのに。
先生は厨房の方へ歩いて行き、配膳係の生徒の一人に言った。
「ねぇ君ごめんね、あそこの席のトレー片づけておいてくれないかな」
なぜかパンが入ったお皿を持って立っていたその生徒は、
「あ、はい!」
と呆気にとられながら返事をした。
私は掃除倉庫の荷物を取った後に結局そのまま連れ出され、ゲヘナへ向かうことになった。
ゲヘナへ連れてこられた私は、救急医学部で簡単な治療を受けた後、そのまま先生と給食部で食事をした。
先生は、移動中や食事中にときおり端末で誰かと連絡を取っている様子だった。
その後も結局夕方まで先生に連れ回され、帰りは私の最寄り駅まで送るということになった。
私がいくら断っても後を付いてくるので、諦めた。
私が電車の座席に座ると、先生は当然のように私の隣に座ってきた。
人の少ない電車の中、後ろから夕日に照らされた二人の影はやけに目立った。
私たちは、正面を向いたままで顔を動かさずに会話をした。
「今日はごめんね、けっきょく遅くまでいろいろ連れ回しちゃって」
「お互い、サボった分は働くことになるだけなので構いません」
「あ、あはは。確かにそうだね…」
会話が止まり、しばらく電車の動く音だけが聞こえていた。
すると突然、
「私は、カヤを嫌ってないよ」
先生が正面を向いたままでそんなことを言ってきた。
私のまばたきが止まり、瞳孔が開くのを感じた。
「そうですか、私はあなたの事が嫌いです」
私は目を少し伏せながら、冷静を装ってそう答えた。
「えぇ、そんなこと言わずに仲良くやろうよ」
先生はいつもの調子でまた言った。
「お断りします。あなたの顔はもう二度と見たくありません。もし次、今日みたいに会いに来たら今度は撃ちますから」
私は少し強い口調で言ったが、
「そっか、それは残念だなぁ」
そう言って、先生はまるで気にしていない様子だった。
それから先生は、ずっと端末で何か操作し続けた。
目的に付くまで、車内で聞こえる声はアナウンスだけになった。
長く感じた帰り道が終わり、やっと最寄り駅についた。
私は黙って席を立ち、ホームへ降りた。
その瞬間、私の端末が震えた。
どうやら生徒会からメールが届いたようだ、どうせ今日の仕事のをサボった件だろう。
件名は―――。
『不知火カヤのシャーレへの転籍について』
「は?」
思わず声が出た。
私は急いで振り返り、先生を探した。
先生は電車の中の扉付近に立っており、こちらに手を振っていた。
急いで電車に戻ろうとしたが、扉が閉まってしまい間に合わなかった。
「先生!?これどういうことですか!」
私の声など聞こえてないかのように先生はゆっくり端末を操作した。
するとすぐに私の端末にモモトークでメッセージが来た。
なぜアドレスを知っているのかと思いながら送られたメッセージを見ると。
『「また顔見れそうだね^^」』
とだけ書かれていた。
私が眉間にしわの寄った顔を上げると、すでに電車は走り出しており先生は見えなくなっていた。
私が立ち尽くしていると、端末が震えてまた先生からメッセージが送られてきた。
『「急な事で本当に申し訳ないけど、明日からシャーレに出勤よろしくね」』
メッセージで何か文句を送ってやろうかとも思ったが、やめておいた。
明日から嫌でも会うはめになるのだから、どうせなら直接文句を言ってやらないと気が収まらない。
私は深くため息をついて、ホームを歩き始めた。
歩きながら、ゲヘナで救急医学部の子に巻いてもらった右手の包帯をさすった。
こんな大層な治療は必要なかったのに、と思った。
元々かすり傷だったため、包帯をつける意味は無い。
それでも、この包帯は取るつもりはなかった。
私は包帯のやさしい手触りを感じながら、家へ帰った。
Fin
ここからは二次創作の「不知火カヤの転籍について」の補足説明になります。
先に本編を読むことを推奨します。
・バケツを蹴った生徒と食堂でぶつかってきた生徒は同一人物
・トリニティで↑の生徒とその取り巻きだけがカヤをいじめていた。他の生徒はそのいじめを問題視している
・ロッカーは実際は割り当てがあるのだがカヤが気が付いてない+他の生徒はいじめられているから使用を避けていると考えていた。
・トリニティの食堂は通常バイキング形式だったが、一度カヤがいじめっ子に妨害されてまともに食事が出来なかった事件があり食堂係が話し合って配膳方法を変えた
・パンを持っていた配膳係はカヤの落ちたパンを交換しようとしていた
・このSSのカヤが弱々しい・幼い理由は、超人に憧れて必死に努力した結果のクーデター失敗だったため、ショックで憧れる前の精神年齢に少し戻っているから
・先生はカヤを連れまわしながら転籍のための手続きを行っていた
電車に乗った時点でカヤがシャーレへ転籍することはほぼ確定していた。
・カヤは「味方なんていない」と強く意識していたが、実際はトリニティ内でもカヤを助けようとする人はいた。
先生からの「君を嫌ってない」という言葉で善意を向ける人もいると気が付き、緊急医療部からの”意味のない包帯”も”優しい(手触りの)包帯”に変わり捨てることはなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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