神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す   作:あかちゅきぼちゃん

1 / 44
ZERO編
プロローグ 私は死ぬ女王を知っている


 

 

 目を開けた瞬間、空が近かった。

 

 青い。

 

 ただ青いだけではない。

 

 現代の、薄く霞んだ空ではなかった。

 

 光が濃い。

 

 風が重い。

 

 肺に入ってくる空気の一粒一粒に、知らない熱と匂いが混じっている。

 

 草。

 

 土。

 

 獣。

 

 血。

 

 遠くで馬が嘶いた。

 

 近くで金属の擦れる音がした。

 

 誰かが笑っている。

 

 誰かが叫んでいる。

 

 それら全部が、鮮やかすぎた。

 

 夢だと思った。

 

 夢であってほしかった。

 

 だが、頬に当たる風も、背中に触れる布のざらつきも、腕に残る筋肉の重さも、あまりに現実だった。

 

 身体を起こそうとして、違和感に気づく。

 

 軽い。

 

 いや、違う。

 

 軽いのに、強い。

 

 自分の身体ではない。

 

 腕は細く見える。

 

 けれど、その奥には弓を引くための力が詰まっている。

 

 手のひらには硬い豆があり、指先は武器に慣れていた。

 

 肩から流れ落ちる髪が、見慣れないほど長い。

 

 胸元の重み。

 

 腰の細さ。

 

 呼吸のたびに動く、知らない身体。

 

「……は?」

 

 声が出た。

 

 高い。

 

 いや、高すぎるわけではない。

 

 凛としていて、よく通る。

 

 だが、自分の声ではなかった。

 

 喉を押さえる。

 

 そこにある感触まで、知らない。

 

 何が起きた。

 

 そう思った瞬間、頭の奥に痛みが走った。

 

 記憶が流れ込んでくる。

 

 現代の記憶。

 

 仕事に追われていた日々。

 

 眠気を誤魔化しながら見ていたスマホの画面。

 

 好きだった物語。

 

 英雄たちの名前。

 

 神話。

 

 聖杯戦争。

 

 それから、最後の記憶。

 

 暗い部屋。

 

 倒れた身体。

 

 遠くなる意識。

 

 ああ、そうだ。

 

 死んだ。

 

 自分は、死んだ。

 

 そこまでは分かった。

 

 分かりたくなかったが、分かってしまった。

 

 では、ここはどこだ。

 

 この身体は何だ。

 

 答えを探すより早く、天幕の入口が開いた。

 

 光が差し込む。

 

 そこに、一人の少女が立っていた。

 

 幼い。

 

 けれど、目が強い。

 

 獣の子のように真っ直ぐで、こちらを見るだけで怯みそうになるほど鋭い。

 

 褐色の肌。

 

 短く整えられた髪。

 

 小さな身体には似合わない、戦士の気配。

 

 少女は、こちらを見るなり顔を輝かせた。

 

「姉上!」

 

 姉上。

 

 その言葉が、胸の中に落ちた。

 

 頭の奥で、知らない記憶が反応する。

 

 この少女を知っている。

 

 名前を知っている。

 

 声を知っている。

 

 怒った顔も、笑った顔も、泣くのを堪える癖も。

 

 知っている。

 

 けれど、自分の記憶ではない。

 

 この身体の記憶だ。

 

「……ペンテ」

 

 自然に名前が出た。

 

 少女が一瞬だけ目を丸くする。

 

 それから、むっと眉を寄せた。

 

「なぜ途中で止めるのです。ペンテシレイアです」

 

 その名前で、心臓が強く跳ねた。

 

 ペンテシレイア。

 

 アマゾネスの女王。

 

 アキレウスに討たれる女。

 

 美しさを見られ、侮辱を刻まれ、怒りと誇りのまま戦場に立つ者。

 

 知っている。

 

 知っているはずの名前が、目の前で息をしている。

 

 まだ幼く、まだ未来の悲劇を知らず、こちらを姉と呼んでいる。

 

 喉が渇いた。

 

 目の前が少し揺れる。

 

「姉上?」

 

 ペンテシレイアが近づいてくる。

 

 その小さな手が、こちらの布を掴んだ。

 

「顔色が悪いです。昨夜の傷が痛むのですか」

 

 傷。

 

 言われて、脇腹に痛みを感じた。

 

 布の下に巻かれた包帯。

 

 乾きかけた血。

 

 戦の後。

 

 そう理解した瞬間、また別の記憶が浮かぶ。

 

 馬上。

 

 槍。

 

 叫び。

 

 敵の喉を裂いた手応え。

 

 腕に走る痛み。

 

 自分を王と呼ぶ女たちの声。

 

 アマゾネス。

 

 女だけの戦士の国。

 

 この身体は、その頂点にいる。

 

 いや。

 

 そんなはずがない。

 

 そんな都合の悪い身体であるはずがない。

 

 心が拒む。

 

 だが、拒んでも名前は浮かんでいた。

 

 ヒッポリュテ。

 

 アマゾネスの女王。

 

 神の帯を持つ女。

 

 そして、ヘラクレスに殺される女。

 

 息が止まった。

 

 知っている。

 

 自分は知っている。

 

 この身体がどう語られるか。

 

 この女王がどう死ぬか。

 

 英雄がやって来る。

 

 命じられて。

 

 あるいは、誤解の中で。

 

 この国へ。

 

 この女王の帯を求めて。

 

 そして、ヒッポリュテは死ぬ。

 

 神話の中では、そういう役割だった。

 

 喉の奥が冷える。

 

 役割。

 

 その言葉が嫌だった。

 

 誰かに決められた筋書きの中で、死ぬために存在しているような感覚。

 

 そんなもの、冗談ではない。

 

「姉上、聞いていますか」

 

 ペンテシレイアが顔を覗き込んでいる。

 

 近い。

 

 まだ子どもの顔だ。

 

 けれど、そこには強さがある。

 

 こちらを心配しているのに、弱さを見せまいとしている。

 

 その姿を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。

 

 この子も、死ぬ。

 

 自分だけではない。

 

 この子も、いつか戦場で死ぬ。

 

 英雄の手で。

 

 美しいなどという言葉で、尊厳ごと踏み荒らされるように。

 

 知っている。

 

 知ってしまっている。

 

 なら。

 

 ここで、自分は何をする。

 

 死ぬ運命を受け入れるのか。

 

 神話だからと諦めるのか。

 

 英雄だから仕方ないと笑うのか。

 

 できるはずがない。

 

 目の前の少女が、こちらの袖を掴んでいる。

 

 その手は温かい。

 

 未来の逸話ではない。

 

 伝承の一部でもない。

 

 今、ここにいる。

 

 生きている。

 

「ペンテシレイア」

 

 名前をきちんと呼ぶと、少女は満足そうに顎を上げた。

 

「はい」

 

「私は……少し、変だったか」

 

「変です」

 

 即答だった。

 

「起きてからずっと変です。声も、目も、いつもと違います」

 

 鋭い。

 

 幼いのに、よく見ている。

 

 ヒッポリュテは返答に困った。

 

 自分が本物ではないと言えば、何が起こる。

 

 この身体の本来の魂はどこへ行った。

 

 自分が奪ったのか。

 

 それとも、混ざったのか。

 

 分からない。

 

 分からないことばかりだ。

 

 だが、ペンテシレイアを不安にさせるわけにはいかない。

 

「夢を見た」

 

 ヒッポリュテは言った。

 

 嘘ではない。

 

 現代の記憶の方が、夢のようでもある。

 

「長い夢だ。ずいぶん遠いところの」

 

 ペンテシレイアは眉を寄せた。

 

「悪い夢ですか」

 

「ああ」

 

「誰が出ました」

 

「英雄」

 

 その言葉を出した瞬間、口の中が苦くなった。

 

「強い英雄だ」

 

「姉上よりも?」

 

 ペンテシレイアが不満そうに聞く。

 

 ヒッポリュテは少しだけ笑いそうになった。

 

 この子の中では、姉が一番強いのだ。

 

 その信頼が、眩しくて痛い。

 

「分からない」

 

「姉上が分からないと言うのは嫌です」

 

「そうか」

 

「はい。姉上は勝ちます。いつも」

 

 そうであってほしかった。

 

 だが、知っている物語の中で、ヒッポリュテは勝たない。

 

 ヘラクレスは来る。

 

 その名は、神代の戦場でさえ重い。

 

 ゼウスの子。

 

 十二の試練。

 

 狂気。

 

 怪力。

 

 英雄。

 

 ただの敵ではない。

 

 神話そのものが歩いてくるような相手だ。

 

 勝てるのか。

 

 逃げるか。

 

 帯を渡せばいいのか。

 

 国を捨てるか。

 

 ペンテシレイアを逃がすか。

 

 次々に考えが浮かぶ。

 

 だが、どれもまだ形にならない。

 

 今の自分は、目覚めたばかりの異物だ。

 

 この時代の常識も、周囲の関係も、この身体の力も、まだ掴みきれていない。

 

 焦れば失敗する。

 

 失敗すれば死ぬ。

 

 自分だけではない。

 

 この子も。

 

「姉上?」

 

 ペンテシレイアがまた呼ぶ。

 

 ヒッポリュテはその手を見た。

 

 自分の袖を掴んでいる小さな手。

 

 神話では語られない温度。

 

 誰かの物語では見えなかった細部。

 

 ヒッポリュテは、そっとその手に自分の手を重ねた。

 

 ペンテシレイアが少し驚いた顔をする。

 

「どうしました」

 

「確認しただけだ」

 

「何をですか」

 

「ここにいることを」

 

 ペンテシレイアは意味が分からないという顔をした。

 

 それでいい。

 

 この子はまだ知らなくていい。

 

 姉が、自分の死を知っていることも。

 

 妹の未来まで知ってしまっていることも。

 

 知らなくていい。

 

 少なくとも、今は。

 

 外から声がした。

 

「女王陛下」

 

 天幕の外に、戦士の気配がある。

 

「朝議の準備が整っております」

 

 女王陛下。

 

 その呼び名に、身体の奥が反応した。

 

 背筋が伸びる。

 

 心より先に、身体が王として振る舞おうとする。

 

 この身体に染みついた習性。

 

 ヒッポリュテは息を吸った。

 

 現代人としての自分が震えている。

 

 だが、ヒッポリュテとしての身体は立てる。

 

 なら、立つしかない。

 

「すぐ行く」

 

 声は思ったより落ち着いていた。

 

 ペンテシレイアが嬉しそうに目を輝かせる。

 

「私も行きます」

 

「まだ早い」

 

「早くありません」

 

「傷の確認が先だ」

 

「私の傷は浅いです」

 

「お前ではない。私のだ」

 

 ペンテシレイアは一瞬黙った。

 

 それから、少しだけ口元を緩めた。

 

「姉上が自分の傷を気にするなんて、やっぱり変です」

 

「悪いことか」

 

「いいえ」

 

 ペンテシレイアは首を振った。

 

「その方がいいです」

 

 その一言で、胸が詰まった。

 

 この身体の本来のヒッポリュテは、どんな姉だったのだろう。

 

 自分を削ることに慣れていたのか。

 

 王として平気な顔をすることが多かったのか。

 

 この子は、それを見てきたのか。

 

 分からない。

 

 でも、分かることもある。

 

 この子は姉を見ている。

 

 強い女王ではなく、姉を見ている。

 

 ヒッポリュテは立ち上がった。

 

 身体が少しふらつく。

 

 ペンテシレイアがすぐに手を伸ばした。

 

 反射的に、その手を取る。

 

 小さな手。

 

 けれど、強い手。

 

 離してはいけない。

 

 そう思った。

 

 外へ出る。

 

 光が目を焼く。

 

 天幕の外には、戦士たちがいた。

 

 女たち。

 

 槍を持ち、弓を背負い、馬の手綱を握る者たち。

 

 こちらを見た瞬間、全員が姿勢を正す。

 

 敬意。

 

 信頼。

 

 期待。

 

 それらが一斉に向けられる。

 

 重い。

 

 王とは、こんなに重いものなのか。

 

 現代で画面越しに見ていた神話の名前は、ただの設定だった。

 

 だが、今ここにあるのは違う。

 

 人がいる。

 

 暮らしがある。

 

 傷がある。

 

 笑い声がある。

 

 死ぬかもしれない命がある。

 

 自分の判断一つで、それが動く。

 

 ヒッポリュテは、空を見上げた。

 

 神代の空。

 

 濃すぎる青。

 

 神々がまだ近い時代。

 

 英雄たちが怪物を殺し、王たちが国を奪い合い、女たちが武器を取って生きる時代。

 

 そのど真ん中に、自分はいる。

 

 死ぬ女王として。

 

 殺される役として。

 

 いや。

 

 違う。

 

 役ではない。

 

 ここにいる以上、これは自分の身体だ。

 

 この手で、この息で、この目で、選ぶしかない。

 

 ヘラクレスが来るなら、迎え撃つ。

 

 逃げ道があるなら探す。

 

 誤解で死ぬなら、誤解を潰す。

 

 神話がそう決めているなら、その神話ごと噛み砕く。

 

 ペンテシレイアが隣でこちらを見上げている。

 

「姉上?」

 

 ヒッポリュテは、彼女を見る。

 

 そして、ゆっくり息を吐いた。

 

「ペンテシレイア」

 

「はい」

 

「強くなれ」

 

 少女の目が輝く。

 

「もちろんです」

 

「ただし、死ぬためではない」

 

 ペンテシレイアが首を傾げる。

 

「では、何のために?」

 

 ヒッポリュテは少しだけ考えた。

 

 守るため。

 

 生きるため。

 

 奪われないため。

 

 言葉はいくつもある。

 

 だが、今この子に渡すなら。

 

「帰ってくるためだ」

 

 ペンテシレイアは不思議そうな顔をした。

 

 けれど、その言葉を大切そうに受け取った。

 

「分かりました」

 

「本当に分かったか」

 

「今は分かりません。でも、覚えます」

 

 ヒッポリュテは小さく笑った。

 

 この子は強くなる。

 

 強くなりすぎるほどに。

 

 だからこそ、間違えてはいけない。

 

 怒りだけで進ませてはいけない。

 

 死ぬための強さではなく、帰るための強さを教えなければならない。

 

 それができるかどうかは、分からない。

 

 自分は王として未熟だ。

 

 姉としても未熟だ。

 

 そもそも、この身体に入った自分が何者なのかさえ、まだ分からない。

 

 けれど、決めた。

 

 死ぬ運命を知っているなら、まずそれを拒む。

 

 妹の悲劇を知っているなら、手を伸ばす。

 

 未来が決まっているというなら、変えるために今日を使う。

 

 戦士たちが集まる広場へ歩き出す。

 

 ペンテシレイアが隣を歩く。

 

 その小さな歩幅が、こちらに合わせて少し速くなる。

 

 ヒッポリュテは、もう一度だけ空を見た。

 

 私は知っている。

 

 この身体の名を。

 

 この国の行く末を。

 

 この妹が辿るかもしれない未来を。

 

 そして、いつか私を殺しに来る英雄の名を。

 

 だが、知っているだけでは終わらせない。

 

 神話が私を殺すというのなら。

 

 私は、その前に神話を裏切る。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。