神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す   作:あかちゅきぼちゃん

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9話 見つかったものたち

 

 港から離れても、夜は終わらなかった。

 

 むしろ、遠ざかるほどに静けさが増していく。

 

 さっきまで響いていた金属音も、雷鳴のような戦車の音も、王たちの声も、今は背後の闇に沈んでいる。

 

 それでも、耳の奥には残っていた。

 

 赤い槍。

 

 見えない剣。

 

 空を割る戦車。

 

 高所から見下ろす黄金。

 

 そして、桜の横を抜けてコンテナを抉った宝具の軌跡。

 

 ヒッポリュテは歩きながら、痺れる腕を軽く握った。

 

 痛みはある。

 

 だが、動く。

 

 骨は折れていない。

 

 筋も切れていない。

 

 ならば問題はない。

 

 そう判断したところで、後ろから声が飛んだ。

 

「嘘だな」

 

 ペンテシレイアだった。

 

 ヒッポリュテは振り返らない。

 

「何がだ」

 

「その腕だ」

 

「動く」

 

「動くことと、無事であることは違う」

 

「戦うには足りる」

 

「そういうところだ」

 

 呆れた声だった。

 

 だが、その底には怒りがある。

 

 桜は二人の間で、黙って歩いていた。

 

 右手を胸元に寄せている。

 

 令呪の熱は、さっきより落ち着いているように見える。

 

 だが、顔色が悪い。

 

 港で受けた魔力の圧。

 

 逃走の疲労。

 

 ペンテシレイアを現界させている負荷。

 

 全部が、小さな身体に乗っている。

 

 それでも桜は何も言わない。

 

 大丈夫です、とも言わない。

 

 言えば叱られると覚えたのかもしれない。

 

 少しだけ進歩だ。

 

 少しだけ、悲しい進歩だった。

 

「ここだ」

 

 ヒッポリュテは足を止めた。

 

 古い建物。

 

 空き店舗か、使われなくなった小さな宿泊施設か。

 

 看板は剥がれ、窓の一部には板が打ちつけられている。

 

 人の気配はない。

 

 ただ、完全な安全地帯ではない。

 

 そんなものは、この街にはもうない。

 

「入る」

 

 ヒッポリュテが扉に手をかける。

 

 鍵は壊れていた。

 

 中は暗い。

 

 埃の匂い。

 

 湿った壁。

 

 古い布の匂い。

 

 だが、外よりはましだ。

 

 桜を奥の部屋へ誘導する。

 

 ペンテシレイアは最後まで入口に立ち、周囲の気配を探っていた。

 

「追跡は」

 

「近くにはない」

 

「近くには、か」

 

「遠くにはある」

 

 ペンテシレイアが目を細める。

 

「どれだ」

 

「多い」

 

「……面倒だな」

 

「ああ」

 

 短く返す。

 

 今夜、こちらを見た者は少なくない。

 

 港にいた全ての陣営。

 

 高所からの視線。

 

 虫の気配。

 

 それに、あの金色の男。

 

 逃げた。

 

 だが、見つからなかったわけではない。

 

 ただ、まだ追われていないだけだ。

 

 ヒッポリュテは桜を壁際に座らせた。

 

「手を見せろ」

 

 桜は素直に右手を差し出した。

 

 令呪は赤く沈んでいる。

 

 先ほどのように脈打ってはいない。

 

 だが、熱はまだある。

 

 触れようとして、ヒッポリュテは手を止めた。

 

 桜が不思議そうに見上げる。

 

「……触っても、大丈夫です」

 

「そうか」

 

 指先で軽く触れる。

 

 熱い。

 

 魔力の流れが乱れている。

 

 未熟な回路に、無理やり太い管を繋いだような状態だ。

 

 このままペンテシレイアを常時現界させれば、桜が保たない。

 

「ペンテ」

 

「嫌だ」

 

 即答だった。

 

 まだ何も言っていない。

 

 ヒッポリュテは息を吐く。

 

「霊体化しろ」

 

「嫌だ」

 

「桜の負担を減らす」

 

「私は消えない」

 

「消えるわけではない」

 

「同じだ」

 

 ペンテシレイアの声が硬くなる。

 

「姉上の前から消えるのは、もう嫌だ」

 

 ヒッポリュテは言葉を失った。

 

 その一言は、想定していなかった。

 

 いや、想定していなかったというより、考えないようにしていた。

 

 自分にとっては一瞬だった。

 

 ペンテシレイアにとっては、置き去りにされた時間だった。

 

 姿を消す。

 

 たったそれだけのことが、彼女の中では別の意味を持つ。

 

「……霊体化しても、近くにいる」

 

「見えない」

 

「気配は残る」

 

「見えない」

 

 子供のような言い方だった。

 

 だが、今のペンテシレイアは子供ではない。

 

 英霊だ。

 

 戦士だ。

 

 バーサーカーだ。

 

 それでも、そこだけが幼いまま残っている。

 

 桜が二人を見ていた。

 

 おずおずと口を開く。

 

「あの……」

 

 ペンテシレイアが視線を向ける。

 

 桜は少しだけ怯えた。

 

 それでも、言った。

 

「お願いします」

 

 空気が止まる。

 

 ヒッポリュテは桜を見る。

 

 桜は自分の手を押さえたまま、ペンテシレイアを見ていた。

 

「私が……苦しいから、じゃなくて」

 

 一度、言葉が途切れる。

 

 それでも続ける。

 

「あなたが、苦しそうだから」

 

 ペンテシレイアの表情が変わった。

 

 ほんのわずか。

 

 怒りが抜けたわけではない。

 

 警戒が消えたわけでもない。

 

 ただ、予想していなかった言葉を受けた顔だった。

 

「……私は苦しくない」

 

「でも、怒ってます」

 

「怒っているだけだ」

 

「それも、苦しそうです」

 

 桜の声は小さい。

 

 だが、逃げていなかった。

 

 ペンテシレイアはしばらく黙った。

 

 やがて、苦々しげに目を逸らす。

 

「……少しだけだ」

 

 身体が薄くなる。

 

 完全な霊体化ではない。

 

 輪郭だけがほどけ、気配が部屋の中に残る。

 

 見えなくなったわけではない。

 

 見ようとすれば、そこにいると分かる。

 

 桜がほっと息を吐いた。

 

 令呪の熱が、少しだけ和らぐ。

 

 ヒッポリュテはそれを確認して、ようやく壁にもたれた。

 

 腕が痛む。

 

 今度は隠せなかった。

 

 桜がすぐに気づく。

 

「怪我……してます」

 

「問題ない」

 

「嘘だ」

 

 霊体化したはずのペンテシレイアの声が、部屋に落ちる。

 

 桜が少し驚いて周囲を見る。

 

 ヒッポリュテは苦く息を吐いた。

 

「お前は本当に、そういうところだけよく見ている」

 

「姉上が隠すからだ」

 

「隠すほどではない」

 

「だから嘘だと言っている」

 

 姿は見えない。

 

 だが、声だけで表情が分かる。

 

 怒っている。

 

 呆れている。

 

 心配している。

 

 その全部を、怒りという形にしている。

 

 ヒッポリュテは傷のある腕を見下ろした。

 

 皮膚が裂け、薄く血が滲んでいる。

 

 神秘に触れたせいか、治りが鈍い。

 

 桜が近づいてくる。

 

「何か、巻くもの……」

 

「触るな。血がつく」

 

「でも」

 

「いい」

 

 言ってから、少し強すぎたと気づいた。

 

 桜が肩を縮める。

 

 ヒッポリュテは短く息を吐く。

 

「……すまない」

 

 桜が目を丸くした。

 

 謝られると思っていなかった顔だ。

 

 それがまた、胸に刺さる。

 

「布ならある」

 

 棚に残っていた古いシーツを裂く。

 

 桜がそれを受け取った。

 

 巻き方は拙い。

 

 それでも、丁寧だった。

 

 小さな手が震えながら、傷を避けて布を通す。

 

 ヒッポリュテはそれを黙って見ていた。

 

 守るとは、難しい。

 

 戦場で敵を斬る方が簡単だ。

 

 退路を読む方が簡単だ。

 

 誰かを背に庇う方が、まだ分かりやすい。

 

 だが、目の前の小さな手に何を選ばせるべきか。

 

 どこまで知らせるべきか。

 

 どこから先を奪ってはいけないのか。

 

 それが分からない。

 

 守るとは、相手の選択を奪うことではない。

 

 けれど、選ばせるには世界が残酷すぎる。

 

 桜が布を結び終える。

 

「できました」

 

「ああ」

 

「痛くないですか」

 

「痛い」

 

 正直に言うと、桜が少し困った顔をした。

 

 ペンテシレイアの気配が、ほんのわずかに揺れた。

 

「珍しいな」

 

「何がだ」

 

「姉上が痛いと言った」

 

「言わなければ怒るだろう」

 

「言っても怒る」

 

「理不尽だな」

 

「姉上ほどではない」

 

 桜が小さく瞬いた。

 

 少しだけ、ほんの少しだけ、口元が緩んだ。

 

 それを見て、ヒッポリュテは目を伏せた。

 

 この一瞬だけでも、守れたのなら。

 

 そう思いかけて、すぐに打ち消す。

 

 一瞬で満足するな。

 

 まだ何も終わっていない。

 

     ◇

 

「保護対象ではない。移動する陣営だ」

 

 衛宮切嗣は、低く言った。

 

 車内に街灯の光が流れていく。

 

 運転席の久宇舞弥は、前を見たまま答える。

 

「子供がマスターである可能性は」

 

「高い。右手の反応は令呪と見ていい」

 

「遠坂桜ですか」

 

「おそらく」

 

 切嗣は短く答える。

 

 遠坂の次女。

 

 間桐へ養子に出されたはずの少女。

 

 その少女が、港にいた。

 

 バーサーカー級のサーヴァントを伴って。

 

 そして、正体不明の女に守られて。

 

「間桐陣営ですか」

 

「断定はできない」

 

「理由は」

 

「あの女が間桐の手駒には見えない」

 

 切嗣は、アーチャーの宝具を逸らした動きを思い返す。

 

 人間ではない。

 

 だが、サーヴァントとも違う。

 

 戦闘訓練を受けた者の動きではある。

 

 しかし、それだけでは説明できない。

 

 力よりも、場の読み方が異常だった。

 

 桜を中心に置き、バーサーカーを後方に置き、自分は射線を切る位置に立つ。

 

 戦場を知っている。

 

 守る戦いを知っている。

 

「接触しますか」

 

「しない」

 

 即答。

 

「まずは追跡する。バーサーカーの制御状態を確認する。子供が本当にマスターなら、他陣営も狙う」

 

「利用できますか」

 

「状況次第だ」

 

 子供だから救う。

 

 そんな選択肢は、切嗣の中にはない。

 

 子供だから危険であり、子供だから弱点であり、子供だから利用される。

 

 ならば先に評価する。

 

 守るべきか。

 

 切り捨てるべきか。

 

 利用すべきか。

 

 それは感情ではなく、戦争の判断だった。

 

     ◇

 

 遠坂邸。

 

 時臣は報告を聞き終えた後、しばらく無言だった。

 

 港での異常な魔力反応。

 

 予定外のバーサーカー級反応。

 

 子供のマスターらしき存在。

 

 そして、桜の失踪。

 

 繋がらないはずの点が、繋がり始めていた。

 

「……桜がマスターとなった可能性がある、か」

 

 口にしても、感情は揺れなかった。

 

 いや、揺らさなかった。

 

 魔術師としての判断が先に来る。

 

 桜は遠坂の娘だった。

 

 しかし、すでに間桐へ渡すと決めた存在でもある。

 

 ならば今、彼女が聖杯戦争に関わったなら、それは家族の問題ではない。

 

 戦争の問題だ。

 

「桜がマスターとなったなら、それは遠坂の問題ではなく、聖杯戦争の問題だ」

 

 静かに言う。

 

 その言葉を、廊下の向こうで小さな影が聞いていた。

 

 凛だった。

 

 意味は分からない。

 

 マスター。

 

 聖杯戦争。

 

 桜。

 

 単語だけが胸に刺さる。

 

「桜が……戦うの?」

 

 誰にも聞こえない声で、凛は呟いた。

 

 答える者はいない。

 

 ただ、屋敷の奥で、大人たちの足音が忙しなく動き始めていた。

 

     ◇

 

 地下で、間桐臓硯は笑っていた。

 

「救うつもりで、戦場へ連れてきたか」

 

 湿った声。

 

 虫が壁を這う。

 

 その前で、間桐雁夜は顔を歪めていた。

 

「桜が……マスター?」

 

「そうらしいのう」

 

 臓硯は楽しげだった。

 

 それが雁夜の神経を逆撫でする。

 

「ふざけるな……!」

 

「ふざけてなどおらん。むしろ都合がよい」

 

「都合がいいだと?」

 

「器が戦争へ繋がった。回収すれば、使い道は増える」

 

 雁夜の拳が震える。

 

「桜は道具じゃない」

 

「ならば、誰がそう扱っておる?」

 

 臓硯の声が、ぬるりと落ちる。

 

「わしではないぞ。少なくとも今、あれを連れ歩いておるのは別の誰かじゃ」

 

 雁夜の表情が固まる。

 

「その誰かが、救うつもりだったのかもしれぬ。間桐へ渡される前に奪った。地獄から遠ざけた。美しい話ではないか」

 

「黙れ」

 

「だが結果はどうじゃ。桜は令呪を得た。バーサーカーに繋がった。聖杯戦争の駒となった」

 

 臓硯が嗤う。

 

「救うつもりで、戦場へ連れてきたのは誰かのう」

 

 雁夜は何も言えなかった。

 

 怒りはある。

 

 憎しみもある。

 

 だが、その向け先が定まらない。

 

 臓硯。

 

 遠坂。

 

 自分。

 

 そして、桜を連れて逃げた何者か。

 

「……会わせろ」

 

 雁夜が低く言った。

 

「誰にじゃ」

 

「桜を連れている奴にだ」

 

「会ってどうする」

 

「連れ戻す」

 

 臓硯の目が細くなる。

 

「どこへ?」

 

 雁夜は答えられなかった。

 

 間桐へ戻す?

 

 そんなはずがない。

 

 では、どこへ。

 

 どうやって。

 

 何から救う。

 

 答えがない。

 

 それでも雁夜は言った。

 

「あの子を、戦争から離す」

 

「よい。やってみるがいい」

 

 臓硯は楽しそうに頷いた。

 

「お前の怒りも、少しは役に立つやもしれん」

 

     ◇

 

「聖女は戦場に」

 

 暗い部屋で、ジル・ド・レェは両手を広げていた。

 

 雨生龍之介は床に座り、興味深そうに彼を見ている。

 

「奇跡は闇に」

 

 ジルの声は祈りのようだった。

 

 だが、その祈りはどこまでも歪んでいる。

 

「幼き器は怯え、怒れる女神は牙を剥き、死に損ないの王はそれを守る。ああ、龍之介。なんと美しい夜でしょう」

 

「旦那、楽しそうだね」

 

「楽しいのではありません。これは啓示です」

 

「けいじ?」

 

「舞台を作らねばならない、ということです」

 

 龍之介は首を傾げる。

 

 ジルは恍惚とした顔で続けた。

 

「聖女には嘆きを。奇跡には試練を。器には恐怖を。怒りには、さらに深い怒りを」

 

「それって、また会いに行くってこと?」

 

「いずれ」

 

 ジルは笑う。

 

「まずは、この街に祈りを満たしましょう。彼女たちが逃げ込む闇ごと、舞台へ変えるのです」

 

 龍之介は楽しそうに笑った。

 

「いいね。なんか、すごそう」

 

 軽い声。

 

 空っぽの笑顔。

 

 その二つが重なって、部屋の闇が濃くなった。

 

     ◇

 

 金色のアーチャーは、遠坂邸の高みにいた。

 

 時臣が恭しく控えている。

 

 港の戦闘について語る必要など、本来ならない。

 

 雑種どもの小競り合い。

 

 騎士気取り、征服者気取り、槍兵。

 

 それらは退屈しのぎにはなったが、王自ら心を砕くほどのものではない。

 

 だが、一つだけ。

 

 視界の端に引っかかったものがあった。

 

「時臣」

 

「は」

 

「貴様の戦場には、妙な塵が紛れているな」

 

「塵、でございますか」

 

「神代の残り香だ」

 

 金色の男は薄く笑った。

 

「しかも、女の獣が二匹」

 

 時臣の表情がわずかに動く。

 

「それは、サーヴァントでございましょうか」

 

「一匹はな。もう一匹は違う」

 

「違う……?」

 

「肉を持ちながら、死の匂いを纏う。神代の影を引きずり、なお現世に立つ。気に入らんな」

 

 時臣は深く頭を下げる。

 

「調査いたします」

 

「好きにしろ」

 

 アーチャーはつまらなさそうに視線を外した。

 

「我の前に出てくるなら、裁く。それだけだ」

 

     ◇

 

 空き部屋の中で、桜は眠っていた。

 

 浅い眠りだった。

 

 時折、指が震える。

 

 そのたびに令呪がわずかに赤く沈む。

 

 ヒッポリュテは窓際に立ち、外を見ていた。

 

 ペンテシレイアの気配は部屋の隅にある。

 

 姿は見えない。

 

 だが、いる。

 

 桜の呼吸。

 

 外の風。

 

 遠くを走る車の音。

 

 そして、そのさらに奥。

 

 視線。

 

 まだ遠い。

 

 だが、こちらへ向かっている。

 

「見られているな」

 

 ペンテシレイアの声がした。

 

「ああ」

 

「斬るか」

 

「まだだ」

 

「また待つのか」

 

「今動けば、場所を教える」

 

「逃げるだけでは守れない」

 

「分かっている」

 

 ヒッポリュテは静かに答えた。

 

 本当に、分かっている。

 

 港で退いた。

 

 桜は生きている。

 

 だが、退いたことで視線が増えた。

 

 切嗣。

 

 間桐。

 

 遠坂。

 

 キャスター。

 

 金色のアーチャー。

 

 誰も、もう見逃してはいない。

 

 桜が眠りながら、小さく呻いた。

 

 ヒッポリュテは振り返る。

 

 小さな身体。

 

 赤い令呪。

 

 巻き込んでしまった子供。

 

 守るとは、難しい。

 

 その言葉が、胸の奥に沈む。

 

 やがて桜が目を開けた。

 

 眠りが浅かったのだろう。

 

 ぼんやりとこちらを見る。

 

「……また、逃げるんですか」

 

 小さな問いだった。

 

 怯えだけではない。

 

 そこには、わずかな疑問があった。

 

 逃げ続ければ助かるのか。

 

 逃げ続ければ終わるのか。

 

 ヒッポリュテは答えに詰まった。

 

 嘘なら言える。

 

 大丈夫だ。

 

 助ける。

 

 守る。

 

 だが、そのどれも、今は軽い。

 

「……今は」

 

 ようやく出た声は、ひどく曖昧だった。

 

「逃げる」

 

「今は……?」

 

「ああ」

 

 桜はしばらく黙っていた。

 

 そして、小さく頷いた。

 

 納得したのではない。

 

 ただ、今はそれ以上を聞かなかっただけだ。

 

 ヒッポリュテは窓の外を見る。

 

 夜の冬木は、変わらず静かだった。

 

 静かすぎるほどに。

 

 その静けさの奥で、いくつものものが動き出している。

 

 銃を構える者。

 

 虫を放つ者。

 

 舞台を作る狂人。

 

 神代の匂いを覚えた王。

 

 救うために怒りを向ける男。

 

 すべての視線が、少しずつこちらへ集まっている。

 

 夜の冬木で、彼女たちは隠れていた。

 

 けれどもう、誰も彼女たちを見逃してはいなかった。

 

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