神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す   作:あかちゅきぼちゃん

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10話 追跡者たち

 

 

 朝は、来なかった。

 

 少なくとも、ヒッポリュテにはそう感じられた。

 

 窓の外はわずかに白み始めている。夜の底に薄い光が滲み、遠くで車の音が聞こえ、街は目を覚ます準備をしていた。

 

 だが、この部屋の中だけは違う。

 

 夜のままだった。

 

 古い空き部屋。

 

 埃の積もった床。

 

 剥がれかけた壁紙。

 

 壊れたカーテン。

 

 その隅で、桜は浅く眠っている。

 

 顔色は悪い。

 

 右手の令呪は、眠っていても薄く熱を持っているように見えた。

 

 ペンテシレイアは霊体化したまま、部屋の気配に溶けている。

 

 姿は見えない。

 

 だが、いる。

 

 ヒッポリュテには分かる。

 

「姉上」

 

 声だけが落ちた。

 

「限界だ」

 

 ヒッポリュテは窓の外を見たまま、答えた。

 

「分かっている」

 

「この子は、これ以上逃げられない」

 

「ああ」

 

「分かっているだけか」

 

 責める声。

 

 だが、その責めは正しい。

 

 逃げ続ければ桜が壊れる。

 

 立ち止まれば追いつかれる。

 

 ペンテシレイアを出し続ければ桜の魔力が削られる。

 

 霊体化させれば防衛力が落ちる。

 

 どれも正しくない。

 

 どれも間違っている。

 

「拠点がいる」

 

 ヒッポリュテは呟いた。

 

「寝られる場所。食べ物。追跡を切る手段。桜の負担を減らす方法。それから情報」

 

「ようやくか」

 

「逃げるだけでは守れない」

 

 口に出した瞬間、その言葉は思ったより重く響いた。

 

 桜を間桐へ渡さないために奪った。

 

 龍之介から子供を守ろうとして、ジルを呼んだ。

 

 ペンテシレイアを引き寄せ、桜をマスターにした。

 

 港では退いた。

 

 桜は生きている。

 

 だが、視線が増えた。

 

 切嗣。

 

 遠坂。

 

 間桐。

 

 キャスター。

 

 金色のアーチャー。

 

 逃げた先に、安全などなかった。

 

 その時、桜が小さく身じろぎした。

 

 目を開ける。

 

 ぼんやりとした視線が、ヒッポリュテを探す。

 

「……おはよう、ございます」

 

「ああ」

 

 桜は起き上がろうとして、少しふらついた。

 

 ヒッポリュテが支えるより早く、ペンテシレイアの声が飛ぶ。

 

「急に起きるな」

 

 桜がびくりとする。

 

 姿は見えないのに、声だけが近い。

 

「……ごめんなさい」

 

「謝るな」

 

「……はい」

 

 そのやり取りに、ヒッポリュテはわずかに息を吐いた。

 

 少しずつ形になっている。

 

 危ういが、確かに。

 

 その時だった。

 

 外の気配が揺れた。

 

 ヒッポリュテは顔を上げる。

 

 足音。

 

 魔術師ではない。

 

 いや、魔術の匂いはある。

 

 だが、それ以上に感情が先に来ている。

 

 焦り。

 

 怒り。

 

 後悔。

 

 そして、桜の名を呼ぶような気配。

 

「来たか」

 

 ペンテシレイアが低く言う。

 

「斬るか」

 

「まだだ」

 

「また待つのか」

 

「誰かを確かめる」

 

 ヒッポリュテは桜へ向き直る。

 

「ここにいろ」

 

「……はい」

 

 言いかけて、桜の目が揺れた。

 

 その声に気づいたのだ。

 

 遠くから近づいてくる、荒い呼吸。

 

 階段を上がる音。

 

 そして。

 

「桜ちゃん!」

 

 桜の表情が変わった。

 

「雁夜……おじさん?」

 

 ヒッポリュテは、扉の前に立った。

 

 次の瞬間、扉が開かれる。

 

 そこにいたのは、痩せた男だった。

 

 顔色は悪い。

 

 目は血走り、頬はこけ、全身に疲労が刻まれている。

 

 だが、狂ってはいない。

 

 少なくとも、今この瞬間、男の中心にあるのは一つだった。

 

 桜を助けたい。

 

 その一点だけで、ここまで来た顔だった。

 

「桜ちゃん……!」

 

 間桐雁夜。

 

 その名を、ヒッポリュテは知っている。

 

 原作知識として。

 

 そして今、目の前の男として。

 

 雁夜の視線が桜に向く。

 

 安堵が走る。

 

 だが次に、桜の右手を見た。

 

 赤い令呪。

 

 その瞬間、雁夜の顔から血の気が引いた。

 

「なんで……」

 

 声が掠れる。

 

「なんで君が、それを……」

 

 桜は反射的に右手を隠した。

 

 その動きが、雁夜をさらに傷つけた。

 

 ヒッポリュテは一歩前に出る。

 

 雁夜の視線が、ようやくこちらへ向いた。

 

 安堵が怒りに変わる。

 

「お前か」

 

 低い声。

 

「お前が、桜ちゃんを連れ出したのか」

 

「ああ」

 

「戦争に巻き込んだのも、お前か」

 

 ヒッポリュテは一瞬だけ黙った。

 

 否定できる部分はある。

 

 召喚は事故だった。

 

 令呪は想定外だった。

 

 ペンテシレイアを呼んだのは意図ではない。

 

 だが、結果としては。

 

「……結果として、そうだ」

 

 雁夜の顔が歪んだ。

 

「ふざけるな……!」

 

 踏み込む。

 

 ヒッポリュテは動かない。

 

 しかし、空気が裂けた。

 

 ペンテシレイアが現界する。

 

 桜の前に。

 

 ヒッポリュテの横に。

 

 黒い魔力を纏い、怒りを抑えた戦士の姿で。

 

「触るな」

 

 短い一言。

 

 それだけで部屋の温度が下がった。

 

 雁夜は一瞬、恐怖に肩を震わせた。

 

 それでも退かなかった。

 

「お前たちこそ、桜ちゃんから離れろ」

 

「離れる理由がない」

 

「その子を戦争に巻き込んでおいて、よく言えるな!」

 

「巻き込んだのは、姉上だ」

 

 ペンテシレイアが吐き捨てるように言った。

 

 ヒッポリュテは否定しない。

 

 雁夜は混乱したように二人を見る。

 

「なら、なおさらだ……!」

 

 雁夜の手が震える。

 

 魔術の気配。

 

 不安定で、歪で、本人の身体を削るような魔力。

 

 それと同時に、別の気配が床を這った。

 

 ヒッポリュテの目が細くなる。

 

 虫。

 

 細く、湿った、悪意を持たない悪意。

 

 雁夜の背後。

 

 壁の隙間。

 

 床板の下。

 

 雁夜本人も気づいていない。

 

 桜へ向かっている。

 

 ペンテシレイアも気づいた。

 

 動くより早く、ヒッポリュテが踏み込む。

 

 足裏で床を叩く。

 

 床板が割れ、這い出そうとしていた虫が潰れる。

 

 さらに腕を振るい、壁際に張りついていた数匹を叩き落とした。

 

 雁夜が息を呑む。

 

「……爺さん」

 

 理解したのだろう。

 

 自分が追ってきたのではない。

 

 追わされた。

 

 桜へ近づく感情を利用され、位置を探るための餌にされた。

 

 雁夜の顔に、怒りと屈辱が浮かぶ。

 

「くそっ……!」

 

 その隙に、ペンテシレイアが一歩前に出る。

 

「まだいる」

 

「分かっている」

 

 ヒッポリュテは桜を背に庇う。

 

 部屋の空気が張り詰める。

 

 雁夜は桜へ手を伸ばしかけ、止めた。

 

 桜は震えている。

 

 ヒッポリュテも、ペンテシレイアも、雁夜も。

 

 全員が桜を見ている。

 

 全員が桜を守ろうとしている。

 

 なのに、その中心にいる桜は、誰よりも苦しそうだった。

 

「やめて!」

 

 桜の声が響いた。

 

 小さい身体から出たとは思えないほど、はっきりした声だった。

 

 全員が止まる。

 

 桜は肩を震わせていた。

 

 目に涙が浮かんでいる。

 

 それでも、言った。

 

「私のことで、喧嘩しないでください」

 

 静寂。

 

 雁夜の顔が崩れた。

 

 ペンテシレイアの眉が歪む。

 

 ヒッポリュテは、言葉を失った。

 

 桜は自分を守ってもらっているとは思っていない。

 

 自分のせいで争いが起きていると思っている。

 

 守られる権利ではなく、迷惑をかけている罪として受け取っている。

 

 それが、痛かった。

 

「……桜」

 

 雁夜が呼ぶ。

 

 桜は雁夜を見た。

 

 懐かしさ。

 

 安心。

 

 でも、そこに恐怖も混ざっている。

 

「雁夜おじさん」

 

「俺は……君を助けに」

 

 言いかけて、雁夜は止まった。

 

 助ける。

 

 その言葉が、今の桜にどう響くのか、分からなくなったのだろう。

 

 ヒッポリュテは静かに言った。

 

「お前も桜を守りたいなら、今ここで争うな」

 

 雁夜が睨む。

 

「信用できると思うのか」

 

「思わない」

 

「なら」

 

「だが、今は信用ではなく利害で十分だ」

 

 雁夜は黙った。

 

 ペンテシレイアが横で不満そうに息を吐く。

 

「姉上はすぐそういう言い方をする」

 

「必要だからだ」

 

「気に入らない」

 

「私もだ」

 

 それでも、ペンテシレイアは槍を下げた。

 

 雁夜はそれを見て、少しだけ力を抜く。

 

 完全な休戦ではない。

 

 ただ、今この瞬間に殺し合わないと決めただけだ。

 

 それでも、桜の肩からわずかに力が抜けた。

 

 その時、遠くで空気が濁った。

 

 ヒッポリュテは窓の外を見た。

 

 ペンテシレイアも反応する。

 

 雁夜も、魔術師としてその異常に気づいた。

 

 黒い気配。

 

 昨日の倉庫で感じたものと似ている。

 

 だが、さらに広い。

 

 さらに深い。

 

 キャスター。

 

 ジル・ド・レェ。

 

 あの狂気が、街のどこかで膨らみ始めている。

 

 桜が小さく震えた。

 

「……また」

 

「ああ」

 

 ヒッポリュテは頷く。

 

 放置すれば、あれは広がる。

 

 子供を狙う。

 

 恐怖を集める。

 

 桜も例外ではない。

 

 逃げ続けても、あの狂気は闇ごと追ってくる。

 

 ならば。

 

 ヒッポリュテは、雁夜を見る。

 

 雁夜もこちらを見ていた。

 

 敵意は消えていない。

 

 だが、同じものを見た。

 

 桜を狙うもの。

 

 放置できないもの。

 

 初めて、敵が重なった。

 

「逃げるだけでは、守れない」

 

 ヒッポリュテは言った。

 

 ペンテシレイアが反応する。

 

 桜も顔を上げる。

 

 雁夜は歯を食いしばった。

 

「まず、あの狂気を潰す」

 

 その言葉に、ペンテシレイアの気配が変わる。

 

 待っていた、と言わんばかりに。

 

 雁夜は低く問う。

 

「俺に、協力しろと言うのか」

 

「今はな」

 

「信用できない」

 

「それでいい」

 

「……本当に、桜ちゃんを守るつもりなんだな」

 

 ヒッポリュテは桜を見た。

 

 桜は震えている。

 

 疲れている。

 

 それでも、目を逸らしていなかった。

 

「ああ」

 

 短く答える。

 

 それ以上の言葉は、まだ軽すぎる。

 

     ◇

 

 遠く離れた場所で、衛宮切嗣はスコープ越しにその一部始終を見ていた。

 

 距離はある。

 

 音は拾えない。

 

 だが、動きで分かる。

 

 間桐雁夜が接触した。

 

 子供は雁夜を知っている。

 

 バーサーカーは桜の前に出た。

 

 正体不明の女は戦闘を避けた。

 

 そして、虫。

 

 間桐の干渉。

 

「舞弥」

 

「はい」

 

「あの子供が、制御点だ」

 

 切嗣の声は冷たかった。

 

 桜を中心に、全員が止まる。

 

 バーサーカーも、雁夜も、正体不明の女も。

 

 つまり桜を動かせば、陣営が動く。

 

 桜を狙えば、防衛が崩れる可能性がある。

 

 桜を守れば、交渉材料にもなる。

 

 子供。

 

 被害者。

 

 マスター。

 

 制御点。

 

 その全てを、切嗣は同時に並べた。

 

 感情ではなく、戦争の情報として。

 

「接触しますか」

 

「まだだ」

 

 切嗣はスコープを下ろす。

 

 遠くで、キャスターの魔力が濁り始めている。

 

「先に動くのは、キャスターだ」

 

     ◇

 

 地下で、間桐臓硯は笑っていた。

 

 雁夜が怒ることも。

 

 桜が震えることも。

 

 虫が潰されたことも。

 

 すべて、想定の範囲だった。

 

「よい。よい」

 

 虫が壁を這う。

 

「あの女、やはり面白い」

 

 神代の匂い。

 

 正規のサーヴァントではない異物。

 

 そして、桜に繋がった狂戦士。

 

 臓硯は目を細める。

 

「逃げてもよい。戦ってもよい。いずれ器は戻ってくる」

 

 湿った笑いが地下に響く。

 

     ◇

 

 闇のどこかで、ジル・ド・レェは祈っていた。

 

「来るでしょう」

 

 その声は恍惚としていた。

 

「聖女も、奇跡も、怒りも、幼き器も」

 

 雨生龍之介が隣で笑う。

 

「みんな来るの?」

 

「ええ。来ますとも」

 

 ジルは両手を広げる。

 

「恐怖は灯火です。迷える者は、必ず光へ寄ってくる」

 

「へえ。じゃあ、もっと明るくしなきゃね」

 

 龍之介の声は軽い。

 

 どこまでも軽い。

 

 ジルは満足げに頷いた。

 

「ええ。舞台を整えましょう」

 

     ◇

 

 空き部屋へ戻ると、桜は座り込んだ。

 

 疲労が限界だった。

 

 雁夜は距離を取って立っている。

 

 近づきたい。

 

 だが、近づけない。

 

 桜の右手の令呪を見るたび、自分の無力さを突きつけられるからだ。

 

 ペンテシレイアは現界したまま、壁際で腕を組んでいる。

 

 ヒッポリュテは窓際に立ち、濁った魔力の方角を見ていた。

 

 守るために逃げた。

 

 けれど、逃げ道を塞ぐものがいるなら。

 

 今度は、こちらから狩るしかない。

 

 ヒッポリュテは静かに息を吐いた。

 

「夜までに動く」

 

 ペンテシレイアが笑う。

 

 鋭く、戦士の顔で。

 

「ようやくか」

 

 雁夜は何も言わない。

 

 ただ、桜を見ている。

 

 桜は震えながら、それでも顔を上げた。

 

「……私も」

 

 小さな声。

 

 ヒッポリュテが振り向く。

 

 桜は言葉を探していた。

 

 怖い。

 

 行きたくない。

 

 でも、知らないまま守られるのも怖い。

 

 その全部が、幼い顔に浮かんでいる。

 

「私も……知りたいです」

 

 ヒッポリュテはすぐには答えなかった。

 

 ペンテシレイアも黙った。

 

 雁夜が苦しそうに顔を歪める。

 

 また桜が選ぼうとしている。

 

 選ばせるには、世界は残酷すぎる。

 

 だが、選ばせないこともまた、残酷だった。

 

 ヒッポリュテは、ゆっくりと頷いた。

 

「なら、見ろ」

 

 桜が息を呑む。

 

「ただし、無理はするな。怖ければ怖いと言え。逃げたいなら逃げたいと言え」

 

「……はい」

 

「それを言うことは、弱さではない」

 

 桜の目が揺れる。

 

 ペンテシレイアが、ほんの少しだけ視線を逸らした。

 

 雁夜が拳を握る。

 

 外では、朝が完全に始まろうとしていた。

 

 だが冬木の闇は、まだ晴れない。

 

 次に向かう先には、狂気が待っている。

 

 そして今度は、逃げるためではない。

 

 守るために、狩りに行く。

 

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