神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
朝は、来なかった。
少なくとも、ヒッポリュテにはそう感じられた。
窓の外はわずかに白み始めている。夜の底に薄い光が滲み、遠くで車の音が聞こえ、街は目を覚ます準備をしていた。
だが、この部屋の中だけは違う。
夜のままだった。
古い空き部屋。
埃の積もった床。
剥がれかけた壁紙。
壊れたカーテン。
その隅で、桜は浅く眠っている。
顔色は悪い。
右手の令呪は、眠っていても薄く熱を持っているように見えた。
ペンテシレイアは霊体化したまま、部屋の気配に溶けている。
姿は見えない。
だが、いる。
ヒッポリュテには分かる。
「姉上」
声だけが落ちた。
「限界だ」
ヒッポリュテは窓の外を見たまま、答えた。
「分かっている」
「この子は、これ以上逃げられない」
「ああ」
「分かっているだけか」
責める声。
だが、その責めは正しい。
逃げ続ければ桜が壊れる。
立ち止まれば追いつかれる。
ペンテシレイアを出し続ければ桜の魔力が削られる。
霊体化させれば防衛力が落ちる。
どれも正しくない。
どれも間違っている。
「拠点がいる」
ヒッポリュテは呟いた。
「寝られる場所。食べ物。追跡を切る手段。桜の負担を減らす方法。それから情報」
「ようやくか」
「逃げるだけでは守れない」
口に出した瞬間、その言葉は思ったより重く響いた。
桜を間桐へ渡さないために奪った。
龍之介から子供を守ろうとして、ジルを呼んだ。
ペンテシレイアを引き寄せ、桜をマスターにした。
港では退いた。
桜は生きている。
だが、視線が増えた。
切嗣。
遠坂。
間桐。
キャスター。
金色のアーチャー。
逃げた先に、安全などなかった。
その時、桜が小さく身じろぎした。
目を開ける。
ぼんやりとした視線が、ヒッポリュテを探す。
「……おはよう、ございます」
「ああ」
桜は起き上がろうとして、少しふらついた。
ヒッポリュテが支えるより早く、ペンテシレイアの声が飛ぶ。
「急に起きるな」
桜がびくりとする。
姿は見えないのに、声だけが近い。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
「……はい」
そのやり取りに、ヒッポリュテはわずかに息を吐いた。
少しずつ形になっている。
危ういが、確かに。
その時だった。
外の気配が揺れた。
ヒッポリュテは顔を上げる。
足音。
魔術師ではない。
いや、魔術の匂いはある。
だが、それ以上に感情が先に来ている。
焦り。
怒り。
後悔。
そして、桜の名を呼ぶような気配。
「来たか」
ペンテシレイアが低く言う。
「斬るか」
「まだだ」
「また待つのか」
「誰かを確かめる」
ヒッポリュテは桜へ向き直る。
「ここにいろ」
「……はい」
言いかけて、桜の目が揺れた。
その声に気づいたのだ。
遠くから近づいてくる、荒い呼吸。
階段を上がる音。
そして。
「桜ちゃん!」
桜の表情が変わった。
「雁夜……おじさん?」
ヒッポリュテは、扉の前に立った。
次の瞬間、扉が開かれる。
そこにいたのは、痩せた男だった。
顔色は悪い。
目は血走り、頬はこけ、全身に疲労が刻まれている。
だが、狂ってはいない。
少なくとも、今この瞬間、男の中心にあるのは一つだった。
桜を助けたい。
その一点だけで、ここまで来た顔だった。
「桜ちゃん……!」
間桐雁夜。
その名を、ヒッポリュテは知っている。
原作知識として。
そして今、目の前の男として。
雁夜の視線が桜に向く。
安堵が走る。
だが次に、桜の右手を見た。
赤い令呪。
その瞬間、雁夜の顔から血の気が引いた。
「なんで……」
声が掠れる。
「なんで君が、それを……」
桜は反射的に右手を隠した。
その動きが、雁夜をさらに傷つけた。
ヒッポリュテは一歩前に出る。
雁夜の視線が、ようやくこちらへ向いた。
安堵が怒りに変わる。
「お前か」
低い声。
「お前が、桜ちゃんを連れ出したのか」
「ああ」
「戦争に巻き込んだのも、お前か」
ヒッポリュテは一瞬だけ黙った。
否定できる部分はある。
召喚は事故だった。
令呪は想定外だった。
ペンテシレイアを呼んだのは意図ではない。
だが、結果としては。
「……結果として、そうだ」
雁夜の顔が歪んだ。
「ふざけるな……!」
踏み込む。
ヒッポリュテは動かない。
しかし、空気が裂けた。
ペンテシレイアが現界する。
桜の前に。
ヒッポリュテの横に。
黒い魔力を纏い、怒りを抑えた戦士の姿で。
「触るな」
短い一言。
それだけで部屋の温度が下がった。
雁夜は一瞬、恐怖に肩を震わせた。
それでも退かなかった。
「お前たちこそ、桜ちゃんから離れろ」
「離れる理由がない」
「その子を戦争に巻き込んでおいて、よく言えるな!」
「巻き込んだのは、姉上だ」
ペンテシレイアが吐き捨てるように言った。
ヒッポリュテは否定しない。
雁夜は混乱したように二人を見る。
「なら、なおさらだ……!」
雁夜の手が震える。
魔術の気配。
不安定で、歪で、本人の身体を削るような魔力。
それと同時に、別の気配が床を這った。
ヒッポリュテの目が細くなる。
虫。
細く、湿った、悪意を持たない悪意。
雁夜の背後。
壁の隙間。
床板の下。
雁夜本人も気づいていない。
桜へ向かっている。
ペンテシレイアも気づいた。
動くより早く、ヒッポリュテが踏み込む。
足裏で床を叩く。
床板が割れ、這い出そうとしていた虫が潰れる。
さらに腕を振るい、壁際に張りついていた数匹を叩き落とした。
雁夜が息を呑む。
「……爺さん」
理解したのだろう。
自分が追ってきたのではない。
追わされた。
桜へ近づく感情を利用され、位置を探るための餌にされた。
雁夜の顔に、怒りと屈辱が浮かぶ。
「くそっ……!」
その隙に、ペンテシレイアが一歩前に出る。
「まだいる」
「分かっている」
ヒッポリュテは桜を背に庇う。
部屋の空気が張り詰める。
雁夜は桜へ手を伸ばしかけ、止めた。
桜は震えている。
ヒッポリュテも、ペンテシレイアも、雁夜も。
全員が桜を見ている。
全員が桜を守ろうとしている。
なのに、その中心にいる桜は、誰よりも苦しそうだった。
「やめて!」
桜の声が響いた。
小さい身体から出たとは思えないほど、はっきりした声だった。
全員が止まる。
桜は肩を震わせていた。
目に涙が浮かんでいる。
それでも、言った。
「私のことで、喧嘩しないでください」
静寂。
雁夜の顔が崩れた。
ペンテシレイアの眉が歪む。
ヒッポリュテは、言葉を失った。
桜は自分を守ってもらっているとは思っていない。
自分のせいで争いが起きていると思っている。
守られる権利ではなく、迷惑をかけている罪として受け取っている。
それが、痛かった。
「……桜」
雁夜が呼ぶ。
桜は雁夜を見た。
懐かしさ。
安心。
でも、そこに恐怖も混ざっている。
「雁夜おじさん」
「俺は……君を助けに」
言いかけて、雁夜は止まった。
助ける。
その言葉が、今の桜にどう響くのか、分からなくなったのだろう。
ヒッポリュテは静かに言った。
「お前も桜を守りたいなら、今ここで争うな」
雁夜が睨む。
「信用できると思うのか」
「思わない」
「なら」
「だが、今は信用ではなく利害で十分だ」
雁夜は黙った。
ペンテシレイアが横で不満そうに息を吐く。
「姉上はすぐそういう言い方をする」
「必要だからだ」
「気に入らない」
「私もだ」
それでも、ペンテシレイアは槍を下げた。
雁夜はそれを見て、少しだけ力を抜く。
完全な休戦ではない。
ただ、今この瞬間に殺し合わないと決めただけだ。
それでも、桜の肩からわずかに力が抜けた。
その時、遠くで空気が濁った。
ヒッポリュテは窓の外を見た。
ペンテシレイアも反応する。
雁夜も、魔術師としてその異常に気づいた。
黒い気配。
昨日の倉庫で感じたものと似ている。
だが、さらに広い。
さらに深い。
キャスター。
ジル・ド・レェ。
あの狂気が、街のどこかで膨らみ始めている。
桜が小さく震えた。
「……また」
「ああ」
ヒッポリュテは頷く。
放置すれば、あれは広がる。
子供を狙う。
恐怖を集める。
桜も例外ではない。
逃げ続けても、あの狂気は闇ごと追ってくる。
ならば。
ヒッポリュテは、雁夜を見る。
雁夜もこちらを見ていた。
敵意は消えていない。
だが、同じものを見た。
桜を狙うもの。
放置できないもの。
初めて、敵が重なった。
「逃げるだけでは、守れない」
ヒッポリュテは言った。
ペンテシレイアが反応する。
桜も顔を上げる。
雁夜は歯を食いしばった。
「まず、あの狂気を潰す」
その言葉に、ペンテシレイアの気配が変わる。
待っていた、と言わんばかりに。
雁夜は低く問う。
「俺に、協力しろと言うのか」
「今はな」
「信用できない」
「それでいい」
「……本当に、桜ちゃんを守るつもりなんだな」
ヒッポリュテは桜を見た。
桜は震えている。
疲れている。
それでも、目を逸らしていなかった。
「ああ」
短く答える。
それ以上の言葉は、まだ軽すぎる。
◇
遠く離れた場所で、衛宮切嗣はスコープ越しにその一部始終を見ていた。
距離はある。
音は拾えない。
だが、動きで分かる。
間桐雁夜が接触した。
子供は雁夜を知っている。
バーサーカーは桜の前に出た。
正体不明の女は戦闘を避けた。
そして、虫。
間桐の干渉。
「舞弥」
「はい」
「あの子供が、制御点だ」
切嗣の声は冷たかった。
桜を中心に、全員が止まる。
バーサーカーも、雁夜も、正体不明の女も。
つまり桜を動かせば、陣営が動く。
桜を狙えば、防衛が崩れる可能性がある。
桜を守れば、交渉材料にもなる。
子供。
被害者。
マスター。
制御点。
その全てを、切嗣は同時に並べた。
感情ではなく、戦争の情報として。
「接触しますか」
「まだだ」
切嗣はスコープを下ろす。
遠くで、キャスターの魔力が濁り始めている。
「先に動くのは、キャスターだ」
◇
地下で、間桐臓硯は笑っていた。
雁夜が怒ることも。
桜が震えることも。
虫が潰されたことも。
すべて、想定の範囲だった。
「よい。よい」
虫が壁を這う。
「あの女、やはり面白い」
神代の匂い。
正規のサーヴァントではない異物。
そして、桜に繋がった狂戦士。
臓硯は目を細める。
「逃げてもよい。戦ってもよい。いずれ器は戻ってくる」
湿った笑いが地下に響く。
◇
闇のどこかで、ジル・ド・レェは祈っていた。
「来るでしょう」
その声は恍惚としていた。
「聖女も、奇跡も、怒りも、幼き器も」
雨生龍之介が隣で笑う。
「みんな来るの?」
「ええ。来ますとも」
ジルは両手を広げる。
「恐怖は灯火です。迷える者は、必ず光へ寄ってくる」
「へえ。じゃあ、もっと明るくしなきゃね」
龍之介の声は軽い。
どこまでも軽い。
ジルは満足げに頷いた。
「ええ。舞台を整えましょう」
◇
空き部屋へ戻ると、桜は座り込んだ。
疲労が限界だった。
雁夜は距離を取って立っている。
近づきたい。
だが、近づけない。
桜の右手の令呪を見るたび、自分の無力さを突きつけられるからだ。
ペンテシレイアは現界したまま、壁際で腕を組んでいる。
ヒッポリュテは窓際に立ち、濁った魔力の方角を見ていた。
守るために逃げた。
けれど、逃げ道を塞ぐものがいるなら。
今度は、こちらから狩るしかない。
ヒッポリュテは静かに息を吐いた。
「夜までに動く」
ペンテシレイアが笑う。
鋭く、戦士の顔で。
「ようやくか」
雁夜は何も言わない。
ただ、桜を見ている。
桜は震えながら、それでも顔を上げた。
「……私も」
小さな声。
ヒッポリュテが振り向く。
桜は言葉を探していた。
怖い。
行きたくない。
でも、知らないまま守られるのも怖い。
その全部が、幼い顔に浮かんでいる。
「私も……知りたいです」
ヒッポリュテはすぐには答えなかった。
ペンテシレイアも黙った。
雁夜が苦しそうに顔を歪める。
また桜が選ぼうとしている。
選ばせるには、世界は残酷すぎる。
だが、選ばせないこともまた、残酷だった。
ヒッポリュテは、ゆっくりと頷いた。
「なら、見ろ」
桜が息を呑む。
「ただし、無理はするな。怖ければ怖いと言え。逃げたいなら逃げたいと言え」
「……はい」
「それを言うことは、弱さではない」
桜の目が揺れる。
ペンテシレイアが、ほんの少しだけ視線を逸らした。
雁夜が拳を握る。
外では、朝が完全に始まろうとしていた。
だが冬木の闇は、まだ晴れない。
次に向かう先には、狂気が待っている。
そして今度は、逃げるためではない。
守るために、狩りに行く。