神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
逃げるためではなく、狩るために歩く。
それだけで、足取りは変わった。
冬木の空気は薄い。
神代のそれとは違う。
魔力は乾いていて、地面は眠っている。空も、風も、人の営みの中で削られ、均され、世界そのものが軽くなっている。
だからこそ、濁った魔力はよく目立った。
夜の奥に、黒い染みのようなものがある。
キャスターの気配。
ジル・ド・レェ。
その狂気は、隠れる気がなかった。
むしろ、呼んでいた。
来い、と。
見ろ、と。
守りたいなら踏み込んでみろ、と。
「悪趣味だ」
ペンテシレイアが低く吐き捨てた。
霊体化は解いている。
今は桜の負荷を抑えるより、即応できることを優先していた。
桜の顔色は悪い。
それでも、ここにいる。
雁夜が横に立ち、何度も桜を見ていた。
本当なら置いていきたかったのだろう。
ヒッポリュテも同じだった。
だが、置いていけば安全とは言えない。
臓硯の虫。
切嗣の視線。
遠坂の動き。
そして、キャスター。
この街のどこにも、無条件に安全な場所はなかった。
「桜」
ヒッポリュテは振り返った。
「前には出るな。私とペンテが開いた道を、雁夜と進め」
桜は小さく頷いた。
「はい」
声は震えている。
だが、逃げてはいない。
雁夜が苦しそうに言う。
「本当に、連れていくのか」
「置いていく方が危険だ」
「そんな理屈で……!」
「理屈ではない」
ヒッポリュテは雁夜を見る。
「現状だ」
雁夜は歯を食いしばった。
言い返せないのだろう。
彼も分かっている。
今の桜は、どこに置いても狙われる。
ならば、守る者の目が届く場所に置くしかない。
それが正しいかどうかは別として。
「雁夜」
「……なんだ」
「子どもがいたら逃がせ」
「言われなくても」
「怒るな」
雁夜の目が揺れた。
ヒッポリュテは続ける。
「怒りは後だ。まず、生きている者を出す」
雁夜は黙った。
その沈黙を肯定と受け取り、ヒッポリュテは前を向く。
目の前には、古い倉庫に繋がる地下通路があった。
港湾地区の端。
排水路と廃倉庫が繋がった、誰も近寄らない場所。
そこに、キャスターの魔力が溜まっている。
「戦場の匂いではない」
ペンテシレイアが言った。
「これは、ただの汚れだ」
「ああ」
ヒッポリュテは頷く。
戦場には、まだ秩序がある。
敵がいる。目的がある。生きる意志と殺す意志がぶつかる。
だが、ここにあるのは違う。
命を弄んだ後に残る、濁った湿り気。
子どもの声が、奥から微かに聞こえた。
桜の手が震える。
雁夜の呼吸が荒くなる。
ペンテシレイアの魔力が膨らみかけた。
「抑えろ」
ヒッポリュテが言う。
「突っ込めば楽だ」
「楽な方を選ぶな」
「姉上がそれを言うか」
「言う」
短く返し、ヒッポリュテは歩き出した。
地下へ降りる。
湿った階段。
壁を流れる水。
遠くで何かが擦れる音。
空気が重くなる。
桜が小さく息を呑んだ。
その音だけで、ペンテシレイアが半歩下がる。
自然に桜の後方へ位置を取った。
ヒッポリュテはそれを見て、何も言わなかった。
言えば、きっと怒る。
だが、悪くない。
奥へ進む。
やがて、床に小さな靴が落ちていた。
片方だけ。
その横に、壊れた玩具。
壁には爪で引っ掻いたような跡。
雁夜が息を詰める。
桜が目を伏せる。
ヒッポリュテは立ち止まらない。
立ち止まれば、怒りが先に来る。
怒りは後だ。
まず、生きている者を出す。
「来る」
ペンテシレイアが言った。
次の瞬間、暗闇の奥から異形が這い出した。
肉とも魔力ともつかない塊。
触手のようなものを引きずり、濁った目のようなものを幾つも開いている。
桜が声を上げかける。
雁夜が彼女の肩を抱く。
ペンテシレイアが動いた。
速い。
一撃で異形の上半分が砕ける。
壁に叩きつけられ、黒い魔力が飛び散る。
だが、破片が通路の奥へ飛んだ。
ヒッポリュテが即座に踏み込む。
飛び散る破片を蹴り落とし、桜たちの方へ流れた触手を掴んで引き千切る。
「力を絞れ」
「相手は潰せばいい」
「守るものが近い」
ペンテシレイアが舌打ちする。
だが、次の一撃は変わった。
広げず、絞る。
叩き潰すのではなく、穿つ。
荒いが、方向は制御されている。
ヒッポリュテはその横を抜けた。
異形の関節を折る。
壁に押しつける。
通路を塞ぐ部分だけを壊す。
桜たちの退路を確保する。
ペンテシレイアが破壊し、ヒッポリュテが制御する。
言葉は少ない。
だが、動きは噛み合った。
昔も、こうだったのだろうか。
ヒッポリュテには分からない。
けれど身体は覚えている。
ペンテシレイアがどこへ踏み込むか。
どこに隙が生まれるか。
どこを塞げば、彼女が前へ出られるか。
考えるより先に動ける。
姉妹だから。
戦士だから。
あるいは、その両方だから。
「右!」
ペンテシレイアが叫ぶ。
ヒッポリュテは振り向かずに腕を振るった。
背後から伸びた触手を掴み、床へ叩きつける。
骨のような音がした。
「遅い」
「間に合った」
「遅い」
「うるさい」
桜が、そんな二人を見ていた。
二人は喧嘩していた。
ずっと、言葉をぶつけていた。
なのに、戦う時だけは迷わない。
桜には、それが不思議だった。
怖いのに。
美しいと思ってしまった。
奥の広間へ出る。
そこには、壊れた照明がぶら下がっていた。
床には濁った魔術陣。
壁際には、数人の子どもがうずくまっている。
生きている。
まだ、生きている。
「雁夜!」
ヒッポリュテが叫ぶ。
「分かってる!」
雁夜が桜を連れ、子どもたちの方へ走る。
だが、広間の中央に黒い影が集まった。
異形が形を作る。
一体ではない。
五体。
七体。
さらに奥から増えている。
ペンテシレイアが前へ出る。
「邪魔だ」
「待て」
「待たない」
彼女が踏み込む。
異形を一体、正面から砕く。
続けて二体目。
だが、数が多い。
そして悪いことに、敵は殺されることを怖がらない。
潰しても、裂いても、ただ前へ出る。
守るものがいる戦いでは、それが厄介だった。
「来ましたね」
声が響いた。
広間の奥。
影の中から、ジル・ド・レェが現れる。
両手を広げ、まるで舞台の幕が上がったことを喜ぶ役者のように。
「死に損ないの奇跡」
その目がヒッポリュテを見た。
「怒れる女王」
ペンテシレイアを見る。
「幼き器」
桜を見る。
「そして、救えなかった男」
雁夜を見る。
雁夜の顔が歪む。
ジルは笑った。
「素晴らしい。皆、それぞれの祈りを抱いている。救いたい。守りたい。取り戻したい。ああ、なんと痛ましく、なんと美しい」
「黙れ」
ペンテシレイアが低く言った。
魔力が膨らむ。
ヒッポリュテは制止しようとしたが、間に合わなかった。
ペンテシレイアが突っ込む。
ジルへ向かって一直線。
だが、ジルの前に異形が重なった。
盾ではない。
壁だ。
ペンテシレイアの一撃がそれを砕く。
砕いた瞬間、破片が桜たちの方へ流れた。
「ペンテ!」
ヒッポリュテが叫ぶ。
ペンテシレイアが歯を食いしばる。
遅い。
ヒッポリュテが飛び込む。
破片を受け、蹴り、叩き落とす。
腕の傷が開く。
血が滲む。
ジルがその様を見て、恍惚とした声を漏らした。
「守る。守る。守る。ああ、その祈りはいつまで続くのでしょう」
ジルの視線が桜へ向く。
「怖いでしょう、幼き器よ」
桜の肩が震える。
「守られるほど、あなたは誰かを傷つける。あなたが怯えるほど、誰かが血を流す。あなたが生きたいと思うほど、誰かが戦う」
「黙れ!」
雁夜が叫ぶ。
だが、桜の顔は青ざめていた。
言葉が刺さっている。
ジルの言葉は正しくない。
だが、桜の中にある罪悪感に、ぴたりと形を与えてしまっている。
「聞くな」
ヒッポリュテが言う。
だが、その声だけでは足りない。
異形が増える。
ペンテシレイアの暴力だけでは守りきれない。
素手では数を制御しきれない。
桜と子どもたちを逃がす道が塞がれていく。
ならば。
ヒッポリュテは、右手を伸ばした。
そこに武器があるから掴むのではない。
そこにあったはずの時代を、無理やり現在へ引きずり出す。
神代の空。
重い風。
戦場の砂。
血の匂い。
王として振るった、あの重み。
思い出す。
いや。
呼び戻す。
空気が沈んだ。
現代の薄い魔力に、異物のような質量が混ざる。
ペンテシレイアが振り向く。
「姉上、それは――」
「長くは持たない」
ヒッポリュテの手の中に、斧が形を取った。
大きすぎる。
重すぎる。
現代の夜には似合わない。
神代の戦場でこそ振るわれるべき武器。
女王の斧。
その刃が、濁った魔力を受けて鈍く光った。
瞬間、腕の傷が裂けた。
血が落ちる。
呼吸が重くなる。
視界の端に、神代の空が混ざる。
現代の壁と、古い戦場が重なって見える。
だが、まだ立てる。
「逃げ道を開く」
ヒッポリュテは斧を構えた。
「殺すのは、その後だ」
踏み込む。
斧を振るう。
大振りではない。
ただ力任せに叩き潰すのではない。
刃を通すべき場所へ通す。
異形の核。
魔力の継ぎ目。
子どもたちの退路を塞ぐ部分だけを断つ。
一体が裂ける。
二体目の足を断つ。
三体目の触手をまとめて落とす。
通路が開く。
「雁夜!」
「分かってる!」
雁夜が子どもたちを立たせる。
桜も震えながら手を貸した。
小さな子どもの手を取る。
「こっち……」
声は小さい。
でも、言った。
ペンテシレイアが前へ出る。
ヒッポリュテの斧が開いた道へ飛び込み、残った異形を叩き潰す。
今度は広げない。
力を一点に絞っている。
ジルへ向かう道ができる。
ヒッポリュテが左側を断つ。
ペンテシレイアが右を砕く。
ペンテシレイアが踏み込みすぎる前に、ヒッポリュテが斧で敵を引き剥がす。
ヒッポリュテの背後に流れた敵は、ペンテシレイアが戻って潰す。
言葉はいらなかった。
喧嘩ばかりしていた。
許していないこともある。
置き去りにされた痛みも消えていない。
それでも、戦場では並べる。
それが姉妹だった。
「左を空ける!」
「言われずとも!」
ペンテシレイアが駆ける。
ジルの目前まで届く。
だが、ジルは笑っていた。
「美しい。怒りが祈りを守り、奇跡が道を開く」
「黙れと言った!」
ペンテシレイアの一撃がジルを捉えかける。
しかし黒い魔術書が光り、異形が盾となる。
ヒッポリュテは斧を振るう。
盾の核を断つ。
ペンテシレイアがその隙間を抜ける。
届く。
そう思った瞬間、ヒッポリュテの膝が揺れた。
視界がぶれる。
現代の壁が遠ざかり、神代の空が近づく。
斧が重い。
重すぎる。
身体が軋む。
今の自分は、完全な生身ではない。
サーヴァントでもない。
現世に縫い止められた、半端な存在。
その身体で神代の武装を引きずり出せば、当然、代償が来る。
「姉上!」
ペンテシレイアの声。
「下がれ!」
「まだだ」
「もういい!」
「まだ、道が閉じていない」
ヒッポリュテは斧を振るう。
また一体、異形が裂ける。
血が落ちる。
斧の柄を握る手が痺れる。
ペンテシレイアが怒鳴る。
「姉上!」
その声には、怒りだけではないものが混じっていた。
恐怖。
失うことへの恐怖。
ヒッポリュテはそれを聞いても、止まれなかった。
止まれば、桜たちの道が閉じる。
その時、桜の令呪が赤く光った。
桜が胸を押さえる。
苦しいのだろう。
だが、それでも顔を上げた。
ペンテシレイアを見る。
ヒッポリュテを見る。
それから、震える声で言った。
「ペンテさん」
ペンテシレイアが振り向く。
「助けて」
命令ではなかった。
ただの願いだった。
でも、令呪が反応した。
赤い光が桜の手から走り、ペンテシレイアの輪郭を安定させる。
乱れていた魔力が一本に通る。
ペンテシレイアの瞳が、強く光った。
彼女は桜を見た。
ほんの一瞬。
そして短く答える。
「応」
次の瞬間、ペンテシレイアが駆けた。
速い。
さっきまでの荒さが消えている。
怒りはある。
だが、ただの暴走ではない。
桜の願いを受けて、守る対象が定まった。
ヒッポリュテは斧を振るう。
ジルの前に重なった異形の壁を断つ。
刃が重い。
腕が悲鳴を上げる。
それでも断つ。
開いた。
ペンテシレイアがそこへ飛び込む。
ジルの目が見開かれる。
「おお――」
言葉の途中で、ペンテシレイアの一撃が届いた。
ジルの身体が裂け、霊基が揺らぐ。
黒い魔力が吹き散る。
広間の異形たちが一斉に崩れ始めた。
「よい」
ジルは笑っていた。
痛みも、敗北も、彼にとっては舞台の一部でしかないように。
「よいのです。今宵は幕開け。祈りはまだ満ちていない」
「逃がすか!」
ペンテシレイアが追う。
だが、ジルの影が水のように床へ沈む。
「次は、もっと大きな祈りを」
声だけが残る。
「また会いましょう。死に損ないの奇跡よ。怒れる女王よ。幼き器よ」
黒い気配が消えた。
同時に、広間の異形も崩れ落ちる。
静寂。
それから、子どもの泣き声。
雁夜が子どもたちを抱える。
「こっちだ! 急げ!」
桜も手伝おうとして、足元がふらつく。
ペンテシレイアが支えた。
「無理をするな」
「でも」
「今は立っていろ。それも役目だ」
桜は小さく頷いた。
ヒッポリュテは斧を支えに立っていた。
呼吸が重い。
視界が揺れる。
斧の輪郭が薄くなっていく。
現代の空気が、神代の質量を拒んでいる。
もう限界だった。
斧が霧のようにほどける。
手の中から重みが消えた瞬間、ヒッポリュテの膝が落ちかけた。
ペンテシレイアが支える。
強く。
怒ったように。
「だから言った」
「聞いていた」
「聞いただけだ」
「……すまない」
「謝るな」
ペンテシレイアの声が震えていた。
「次は止めろ」
ヒッポリュテは、少しだけ笑いかけて、やめた。
ペンテシレイアの顔が本気だったからだ。
「努力する」
「止めろ」
「……分かった」
ペンテシレイアは、ようやく少しだけ力を緩めた。
桜が近づいてくる。
顔色は悪い。
けれど、目は逸らしていなかった。
彼女はヒッポリュテの手を見る。
斧が消えた手。
血の滲む腕。
「今の……何だったんですか」
ヒッポリュテは答えられなかった。
武器だと言えば簡単だ。
だが、それだけではない。
王だった頃のもの。
神代に立っていた頃のもの。
守るために振るい、奪うためにも振るったもの。
今の自分が持つには重すぎるもの。
沈黙の中、ペンテシレイアが代わりに言った。
「姉上が、姉上だった頃のものだ」
桜は意味を理解できなかっただろう。
それでも、その言葉の重さだけは伝わったようだった。
遠くで、子どもたちの泣き声が続いている。
雁夜が必死に誘導している。
キャスターの巣は潰した。
生きている者は救えた。
だが、ジルは逃げた。
主人公は消耗した。
桜の令呪は、確かにペンテシレイアへ願いを通した。
そして。
◇
遠く離れた場所で、衛宮切嗣はスコープ越しにその光景を見ていた。
正体不明の女が、武器を出した。
魔術礼装ではない。
投影でもない。
サーヴァントの宝具でもない。
だが、あれは間違いなく神代級の神秘だった。
現代の空気に合わない質量。
振るうたびに、本人の身体を削る武装。
「サーヴァントではない」
切嗣は低く言う。
舞弥が問い返す。
「では、何です」
切嗣は答えなかった。
少しだけ沈黙した後、言う。
「少なくとも、人間でもない」
スコープの中で、女は膝をつきかけ、バーサーカーに支えられている。
子供のマスター。
不安定なバーサーカー。
間桐雁夜。
そして、神代の武装を引きずり出す女。
危険度を更新する。
利用できる可能性はある。
だが、それ以上に。
「放置できないな」
切嗣の声は、冷たかった。
◇
現代の夜に、神代の残響が消えていく。
だが、その音を聞いた者たちは、もう沈黙してはいなかった。