神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す   作:あかちゅきぼちゃん

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13話 逃げ道を断つ者

 

 

 雁夜が戻ってきたのは、討伐令が出てからしばらく後だった。

 

 間桐の地下で同じ通達を聞き、臓硯の笑い声を背に受けて、それでも桜のいる場所へ戻ってきた。

 

 そして、その直後。

 

 桜の右手にも、遅れて通達が届いた。

 

 監督役より全マスターへ通達。

 

 キャスター討伐を最優先事項とする。

 

 討伐成功者には、追加の令呪を与える。

 

 その言葉は、桜を確かに“数えた”。

 

 彼女が望んだかどうかではない。

 

 理解しているかどうかでもない。

 

 令呪を持っている。

 

 サーヴァントと繋がっている。

 

 ならば、聖杯戦争は彼女を参加者として扱う。

 

 たったそれだけの理屈で。

 

「……行くのか」

 

 雁夜が低く言った。

 

 隠れ家の空気は重かった。

 

 古い床。

 

 剥がれた壁紙。

 

 曇った窓。

 

 そこに広がる地図代わりの線。

 

 ヒッポリュテは床に膝をつき、木片で埃の上に簡単な図を描いていた。

 

 前回潰したキャスターの巣。

 

 そこから流れていた魔力の筋。

 

 消えた方向。

 

 逃げ道。

 

 そして、次に奴が使うであろう通路。

 

「行く」

 

 ヒッポリュテは短く答えた。

 

 腕には布が巻かれている。

 

 だが、血はまだ完全には止まっていない。

 

 神代の斧を呼び出した反動は、身体の奥に残っていた。

 

 呼吸を深くすると、肺が軋む。

 

 腕を動かすと、傷が熱を持つ。

 

 それでも、行く。

 

 逃げ続けるだけでは守れないと、もう分かっている。

 

「その身体でまた出る気か」

 

 ペンテシレイアが言った。

 

 声は静かだった。

 

 静かすぎた。

 

 怒っている時ほど、彼女は声を抑える。

 

「出る」

 

「姉上」

 

「ただし、正面からではない」

 

 ヒッポリュテは床の線を指した。

 

「キャスターは舞台を作る。恐怖を集める。子どもを使う。怪物を盾にする。そして必ず逃げ道を用意する」

 

「なら、奴を見つけて潰せばいい」

 

「それで前回は逃げられた」

 

 ペンテシレイアが黙る。

 

 悔しそうに眉を寄せた。

 

「次は逃がさない」

 

「だから、先に逃げ道を潰す」

 

 ヒッポリュテはもう一本、線を引いた。

 

「正面から行けば、桜が晒される。教会の討伐令に乗れば、桜は正式な参加者として見られる。報酬の令呪もいらない。手柄もいらない」

 

「では、何を取る」

 

「奴の退路だ」

 

 雁夜が図を見下ろす。

 

「退路を潰して、本戦で逃げられなくする……そういうことか」

 

「ああ」

 

「でも、その間に他の陣営がキャスターとぶつかる」

 

「それでいい」

 

 雁夜が顔を上げる。

 

 ヒッポリュテは淡々と言った。

 

「王たちと騎士たちが正面で騒げば、奴は舞台を広げる。その裏でこちらは舞台裏を壊す」

 

「……本当に、戦場の考え方だな」

 

「戦場だからな」

 

 その言葉に、桜が小さく身じろぎした。

 

 右手を胸元に寄せている。

 

 令呪は今は静かだ。

 

 けれど、その存在は消えない。

 

「あの……」

 

 桜の声。

 

 全員の視線が向く。

 

 桜は少し怯えたように肩を縮めた。

 

 それでも、言葉を飲み込まなかった。

 

「私は、どうすればいいですか」

 

 雁夜が即座に言いかける。

 

「桜ちゃんは――」

 

 だが、ヒッポリュテが手で制した。

 

 桜を見て言う。

 

「前線には出さない」

 

「……はい」

 

「だが、何も知らせずに待たせることもしない」

 

 桜が顔を上げる。

 

「ペンテとの繋がりを通して、必要な時だけ状況を伝える。雁夜は桜のそばで守れ。ペンテは主戦力だが、桜の負荷を見て動く」

 

「つまり、私は姉上と行く」

 

 ペンテシレイアが言う。

 

「そうだ」

 

「桜は?」

 

「雁夜と待機」

 

「不満だ」

 

「だろうな」

 

 ペンテシレイアが睨む。

 

 ヒッポリュテは視線を逸らさない。

 

「だが、桜を守るためにはそれがいい」

 

 桜がぎゅっと手を握った。

 

「何も知らないまま待つのは、嫌です」

 

「なら、知れ」

 

 ヒッポリュテは静かに言った。

 

「ただし、無理はするな。怖ければ怖いと言え。苦しければ苦しいと言え」

 

「……はい」

 

「お前が倒れれば、ペンテも乱れる。だから耐えることだけを選ぶな」

 

 桜は一瞬、言葉の意味を考えるように目を伏せた。

 

 そして、小さく頷いた。

 

「分かりました」

 

 その返事は、まだ弱い。

 

 でも、ただ従うだけの声ではなかった。

 

     ◇

 

 同じ頃。

 

 衛宮切嗣は、各陣営の動きを観測していた。

 

 キャスター討伐令。

 

 監督役からの通達。

 

 全マスターへの一時的な方向統一。

 

 それによって、戦場は分かりやすくなった。

 

 セイバー陣営。

 

 ランサー陣営。

 

 ライダー陣営。

 

 アーチャー陣営。

 

 それぞれがキャスターへ意識を向ける。

 

 問題は、桜を中心とした未登録陣営だった。

 

「動きがありません」

 

 舞弥が言った。

 

 切嗣は双眼鏡から目を離さずに答える。

 

「逃げたわけじゃない」

 

「では」

 

「あの女は正面には出ない」

 

 舞弥が沈黙する。

 

 切嗣は、港で見た動きを思い返していた。

 

 桜を中央に置いた隊列。

 

 宝具の射線を逸らした判断。

 

 キャスターの巣で子どもを優先した動き。

 

 あの女は、勝つことよりも守る形を優先する。

 

 なら、討伐令で全陣営が正面に集まる今、同じ場所には立たない。

 

「舞弥」

 

「はい」

 

「キャスターの残した魔力線を追え」

 

「本体ではなく、経路を?」

 

「ああ」

 

 切嗣の声は冷たかった。

 

「あの女は逃げていない。逃げ道を狙っている」

 

 舞弥がわずかに目を細める。

 

「軍人の思考ですか」

 

「近い。だが違う」

 

 切嗣は短く息を吐く。

 

「戦闘者じゃない。指揮官だ」

 

     ◇

 

 地下水路は、前回よりも静かだった。

 

 静かすぎるほどに。

 

 流れる水の音。

 

 遠くで滴る雫。

 

 古い石壁に染みついた湿気。

 

 そして、その奥に残る、キャスターの濁った魔力。

 

 ヒッポリュテは先頭を進む。

 

 後ろにペンテシレイア。

 

 今回は、桜と雁夜はいない。

 

 前線には連れてこなかった。

 

 それが正しい判断だと分かっている。

 

 それでも、背後に桜の気配がないことに、少しだけ不安を覚えた。

 

 ペンテシレイアが言う。

 

「後ろが気になるなら、戻ればいい」

 

「気にしていない」

 

「嘘だ」

 

「お前は本当に、そこだけよく見るな」

 

「姉上が隠すからだ」

 

 短いやり取り。

 

 湿った通路に、足音だけが響く。

 

 やがて、分岐が見えた。

 

 右は水路。

 

 左は古い倉庫へ繋がる通路。

 

 中央には、魔術陣の残骸。

 

 使い捨ての供給源。

 

 ジルの魔術の癖が残っている。

 

「ここだ」

 

 ヒッポリュテは膝をついた。

 

「ここから逃げた」

 

「匂いが腐っている」

 

「そうだな」

 

 魔術陣に触れる。

 

 指先に濁った魔力が絡みつく。

 

 前回の巣からここへ繋がっている。

 

 そして、この先はさらに別の場所へ抜ける。

 

 おそらく次の舞台。

 

 あるいは、撤退路。

 

「壊すぞ」

 

 ペンテシレイアが前に出る。

 

 ヒッポリュテが止めた。

 

「壊す場所を間違えるな」

 

「全部壊せば済む」

 

「水路が崩れれば、こちらも埋まる」

 

「なら、出てから壊す」

 

「時間がかかる」

 

「面倒だな」

 

「だから戦術がいる」

 

 ペンテシレイアは不満そうに舌打ちした。

 

 だが、止まった。

 

 ヒッポリュテは魔術陣の核を探す。

 

 複数の陣。

 

 偽装された流れ。

 

 壊せば爆ぜるもの。

 

 壊さなければ逃げ道として機能するもの。

 

 ジルは狂人だ。

 

 だが、キャスターとしての術式は侮れない。

 

 狂気の中に、いやなほど丁寧な仕掛けがある。

 

「右の支柱を砕け」

 

「敵ではなく柱か」

 

「そうだ」

 

「戦いに来たのではないのか」

 

「戦場を壊しに来た」

 

 ペンテシレイアはしばらく黙った。

 

 そして、短く笑った。

 

「姉上らしい」

 

 彼女が動く。

 

 槍の一撃。

 

 石の支柱が砕ける。

 

 ただし、完全には崩さない。

 

 ヒッポリュテが指定した部分だけ。

 

 水路の流れが変わる。

 

 床に刻まれていた魔術陣の一部が水に浸され、じゅっと音を立てて消えた。

 

「次、奥の鎖」

 

「見えている」

 

「ならやれ」

 

「命令するな」

 

「頼む」

 

「……調子が狂う」

 

 ペンテシレイアが鎖を断つ。

 

 上から吊るされていた鉄板が落ち、別の通路を塞いだ。

 

 逃げ道が一つ死ぬ。

 

 ヒッポリュテは次へ向かう。

 

 異形が現れたのは、その直後だった。

 

 水面から、黒い触手が伸びる。

 

 壁の奥から、肉の塊のような怪物が這い出す。

 

 ジル本人はいない。

 

 番犬だ。

 

 退路を守るためだけの使い捨て。

 

「来たぞ」

 

 ペンテシレイアが嬉しそうに笑う。

 

「敵を殺せば済む」

 

「敵が逃げる場所を失えば、次は殺せる」

 

「理屈ばかりだな」

 

「お前が力ばかりだからだ」

 

「褒め言葉として受け取る」

 

「半分はな」

 

 ペンテシレイアが飛び出した。

 

 異形を砕く。

 

 ヒッポリュテはその間に、魔術陣の核へ向かう。

 

 斧は出さない。

 

 今はまだ使えない。

 

 身体が保たない。

 

 だから、拳と足と判断で進む。

 

 触手を避ける。

 

 壁を蹴る。

 

 敵を倒し切らず、通路の狭い場所へ誘導する。

 

 ペンテシレイアの一撃でそこを崩す。

 

 異形の群れが瓦礫に呑まれる。

 

 倒すのではない。

 

 閉じ込める。

 

 その方が早い。

 

 その方が目的に合う。

 

「つまらん戦いだ」

 

 ペンテシレイアが言う。

 

「勝てればいい」

 

「姉上はそういうところがつまらない」

 

「お前は派手すぎる」

 

「戦場で派手で何が悪い」

 

「守るものがいる時は悪い」

 

 ペンテシレイアが口を閉じる。

 

 それはもう、彼女にも分かっていることだった。

 

     ◇

 

 隠れ家で、桜は右手を押さえた。

 

 遠くでペンテシレイアが戦っている。

 

 姿は見えない。

 

 声も聞こえない。

 

 けれど、何となく分かる。

 

 令呪の奥で、何かが震えている。

 

「大丈夫かい、桜ちゃん」

 

 雁夜が膝をついて聞く。

 

 桜は頷いた。

 

「はい」

 

 それから、少し考えて言い直す。

 

「……少し、怖いです」

 

 雁夜の顔が歪んだ。

 

 だが、桜は謝らなかった。

 

 怖いと言え。

 

 ヒッポリュテに言われたから。

 

 ペンテシレイアにも、倒れる前に言えと言われたから。

 

「怖いよな」

 

 雁夜が掠れた声で言う。

 

「ごめん。俺がもっと早く――」

 

 その時、床の隙間から虫が這い出した。

 

 雁夜の顔色が変わる。

 

「桜ちゃん、下がって!」

 

 虫は一匹ではなかった。

 

 壁の亀裂から。

 

 窓の隙間から。

 

 床板の下から。

 

 小さな黒い点が、ゆっくりと集まってくる。

 

 臓硯。

 

 桜が息を呑む。

 

 身体が固まる。

 

 雁夜は魔術を使おうとする。

 

 だが、身体が追いつかない。

 

 無理やり回路を回すたび、顔から血の気が引いていく。

 

「くそっ……!」

 

 雁夜が虫を踏み潰す。

 

 それでも数が多い。

 

 桜の右手が熱くなる。

 

 怖い。

 

 怖い。

 

 でも、言わなければ。

 

 呼ばなければ。

 

「ペンテさん……」

 

 小さな声だった。

 

 けれど、令呪を通して届いた。

 

     ◇

 

 地下水路で、ペンテシレイアの動きが止まった。

 

 ヒッポリュテも気づく。

 

 桜の気配が乱れている。

 

 臓硯の虫。

 

 隠れ家が狙われた。

 

 ペンテシレイアが振り返る。

 

「桜が呼んでいる」

 

「ああ」

 

「戻る」

 

「行け」

 

 ペンテシレイアが目を見開いた。

 

「止めないのか」

 

「桜を守れ」

 

 それは命令ではなかった。

 

 押しつけでもなかった。

 

 託す言葉だった。

 

 ペンテシレイアは、一瞬だけ言葉を失う。

 

 守るために後ろへ下げられるのではない。

 

 役目を奪われるのではない。

 

 任された。

 

 桜を守る役割を。

 

 姉から。

 

「任された」

 

 ペンテシレイアは短く答えた。

 

 そして走る。

 

 迷わない。

 

 ヒッポリュテはその背を見送った。

 

 胸の奥が少しだけ痛む。

 

 だが、その痛みは悪くなかった。

 

 初めて、手を離すことが逃げではないと思えた。

 

 ペンテシレイアの気配が遠ざかる。

 

 同時に、地下水路の奥で罠が起動した。

 

 黒い魔力が噴き上がる。

 

 残っていた異形が一斉に動く。

 

 狙いは分かりやすい。

 

 分断。

 

 ヒッポリュテを一人にする。

 

 そして押し潰す。

 

「……なるほど」

 

 ヒッポリュテは息を吐く。

 

「考える力はあるらしい」

 

 斧を呼びたくなる。

 

 だが呼ばない。

 

 呼べば早い。

 

 しかし、その後が続かない。

 

 桜を守る戦いは、この一手だけでは終わらない。

 

 ならば、今は使えない。

 

 ヒッポリュテは拳を握った。

 

 身体の奥に、神代の熱を一瞬だけ通す。

 

 出力を上げる。

 

 骨が軋む。

 

 腕の傷が開く。

 

 血が布に滲む。

 

 それでも、斧よりは軽い。

 

 異形が迫る。

 

 ヒッポリュテは正面から受けない。

 

 横へ動き、壁を蹴り、敵の重さを利用して支柱へぶつける。

 

 一体を倒す。

 

 その影に二体目を誘導する。

 

 足元の魔術陣だけを踏み砕く。

 

 通路の天井に亀裂が入る。

 

 落ちてくる瓦礫が、異形の群れを塞ぐ。

 

 逃走用の水路に飛び込み、流れの中に刻まれた術式の核を掴む。

 

 熱い。

 

 指が焼ける。

 

 握り潰す。

 

 水が黒く染まり、流れが逆巻いた。

 

 逃げ道が死ぬ。

 

 最後の魔術陣へ向かう。

 

 異形が一体、背後から迫る。

 

 ヒッポリュテは振り返らず、落ちていた鉄棒を蹴り上げる。

 

 それを掴み、槍のように投げる。

 

 異形が壁に縫い止められた。

 

 その間に核を潰す。

 

 音がした。

 

 何かが遠くで切れる音。

 

 逃走路が完全に機能を失った。

 

 ヒッポリュテは膝をつきかける。

 

 だが、踏み止まった。

 

 まだ倒れない。

 

 倒れるなら、戻ってからだ。

 

     ◇

 

 隠れ家では、ペンテシレイアが間に合った。

 

 黒い虫が桜へ集まる寸前。

 

 扉が砕け、ペンテシレイアが飛び込む。

 

 一撃。

 

 床ごと虫を潰す。

 

 雁夜が桜を抱えて後ろへ下がる。

 

「ペンテさん……!」

 

「下がれ」

 

 ペンテシレイアは短く言う。

 

 虫はまだ湧く。

 

 だが、彼女はもう迷わなかった。

 

 桜の前に立つ。

 

 守るために。

 

 姉に任されたから。

 

 そして、桜に呼ばれたから。

 

「触るな」

 

 槍が走る。

 

 虫がまとめて潰れる。

 

 壁の奥に潜んでいた使い魔も砕ける。

 

 雁夜は息を荒げながら、それでも桜を庇っていた。

 

「爺さん……!」

 

 怒りに震える声。

 

 ペンテシレイアは振り返らない。

 

「怒るな。守る方が先だ」

 

 それは、姉の言葉に似ていた。

 

 言ってから、ペンテシレイア自身が少しだけ眉を寄せる。

 

 気に入らない。

 

 だが、今は正しい。

 

 虫はやがて動きを止めた。

 

 臓硯の気配が遠ざかる。

 

 桜は震えながら、ペンテシレイアを見上げた。

 

「来て、くれたんですね」

 

「呼ばれた」

 

「……はい」

 

「次も呼べ」

 

 桜が目を丸くする。

 

「いいんですか」

 

「呼ばれなければ分からない時もある」

 

 ペンテシレイアは少しだけ目を逸らす。

 

「だから、呼べ」

 

 桜は、小さく頷いた。

 

「はい」

 

     ◇

 

 遠くで、ジル・ド・レェが笑った。

 

 黒い水面に映る魔術陣の一つが消える。

 

 逃げ道が断たれた。

 

 舞台裏が壊された。

 

 だというのに、彼は怒らなかった。

 

 むしろ、喜んでいた。

 

「おお……舞台裏を壊すとは」

 

 龍之介が首を傾げる。

 

「困るんじゃないの、旦那」

 

「困る? いいえ、龍之介。これは歓迎すべきことです」

 

 ジルは両手を広げる。

 

「隠れた道を断たれたなら、次は表舞台へ出ればよい」

 

「派手に?」

 

「ええ。もっと大きく。もっと美しく。もっと多くの祈りを」

 

 黒い魔力が膨らむ。

 

 水の匂い。

 

 川の気配。

 

 大きな舞台が、冬木の闇の中で形を取り始めていた。

 

     ◇

 

 ヒッポリュテが戻ってきた時、隠れ家の床は抉れ、壁には虫の跡が残っていた。

 

 雁夜はボロボロだった。

 

 桜は疲れ切っていた。

 

 だが、立っていた。

 

 泣いてはいない。

 

 ペンテシレイアは桜の前に立っていた。

 

 それだけで、何があったかは分かった。

 

「助かった」

 

 ヒッポリュテは言った。

 

 ペンテシレイアが固まる。

 

 ほんの一瞬。

 

 姉から向けられた言葉が、予想外だったのだろう。

 

「……当然だ」

 

 そっけなく返す。

 

 だが、その声は少しだけいつもより柔らかかった。

 

 桜がヒッポリュテを見る。

 

「大丈夫、ですか」

 

「大丈夫だ」

 

 ペンテシレイアが即座に言う。

 

「嘘だ」

 

「……少しはもたせろ」

 

「無理だ」

 

 雁夜が疲れた顔で二人を見る。

 

「本当に姉妹なんだな……」

 

 ヒッポリュテは答えなかった。

 

 ペンテシレイアも何も言わない。

 

 ただ、二人とも少しだけ視線を逸らした。

 

 その時、遠くの空気が変わった。

 

 濁った魔力が膨らむ。

 

 今までのように隠れていない。

 

 地下でもない。

 

 倉庫でもない。

 

 もっと広い。

 

 もっと大きい。

 

 街そのものへ見せつけるような、巨大な気配。

 

 ヒッポリュテは窓の外を見る。

 

「来るぞ」

 

 ペンテシレイアが口元を歪める。

 

「今度は正面か」

 

「ああ」

 

 逃げ道は一つ潰した。

 

 だから狂気は、今度こそ表へ出る。

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