神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
未遠川の水面を、黒い血管のようなものが走っていた。
水ではない。
魔力だった。
キャスターが生み出した巨大な異形へ流れ込み、そのたびに怪物の肉が膨らみ、裂けた場所が塞がり、切り落とされたはずの触手が再び川面から伸び上がる。
正面では、騎士たちが戦っている。
見えない剣が水飛沫を裂く。
赤い槍が黒い触手を弾く。
雷を纏った戦車が、濁った肉の塊へ突っ込む。
その一つ一つは、確かに強力だった。
だが、怪物は止まらない。
斬られても戻る。
砕かれても膨らむ。
潰されても、水の奥からまた這い上がる。
ならば、斬る場所が違う。
「次はどこだ」
ペンテシレイアが低く問う。
息は乱れていない。
だが、纏う魔力は荒い。
前へ出たがっている。
正面の戦場へ飛び込みたがっている。
それでも今は、こちらの指示を待っていた。
ヒッポリュテは川面を睨む。
水の下にある黒い筋。
魔力の流れ。
その先にある核。
「水面下、橋脚の影」
「敵は」
「お前が引け」
ペンテシレイアの口元が、わずかに上がった。
「ようやく分かってきたな」
「最初から分かっている」
「なら、もっと早く任せろ」
返事はしなかった。
代わりに、ヒッポリュテは走った。
川沿いの影を抜ける。
瓦礫を踏み、崩れた護岸を蹴り、橋脚の下へ滑り込む。
黒い水が跳ねた。
そこから、小型の異形が何体も這い出してくる。
ペンテシレイアが前に出た。
槍が走る。
一体目を砕く。
二体目を蹴り飛ばす。
三体目がヒッポリュテの負傷した腕側へ回ろうとした瞬間、ペンテシレイアが身を入れて潰した。
「右が甘い」
「分かっている」
「分かっているだけだ」
「言うな」
「言う」
短いやり取り。
けれど、足は止まらない。
ペンテシレイアが敵を引きつける。
ヒッポリュテが、その隙に魔力線へ手を伸ばす。
黒い水の中に手を入れると、焼けるような痛みが走った。
キャスターの術式が絡みつく。
拒む。
引きずり込もうとする。
ヒッポリュテは指を食い込ませた。
掴む。
潰す。
黒い筋が一つ、ぶつりと途切れた。
遠くで怪物が身をよじる。
正面の戦場で、ランサーが一瞬だけ顔を上げた。
「再生が鈍った……?」
その声は、風に混じってこちらまでは届かない。
だが、動きで分かる。
気づいた。
セイバーもまた、怪物の傷が戻る速度の変化に反応していた。
ライダーは豪快に笑っている。
こちらの姿は見えていない。
だが、裏で何かが起きていることには気づいている。
それでいい。
名を告げる必要はない。
見られる必要もない。
ただ、道を作ればいい。
「次」
ペンテシレイアが言う。
ヒッポリュテは息を吐き、橋脚の奥を見た。
黒い筋はまだある。
細いものを断っても、大元が残っている。
怪物の下へ流れ込む太い供給線。
その中心核。
そこを潰さなければ、決定打には届かない。
「奥だ」
「近いのか」
「近い。だが、濃い」
「なら私が砕く」
「待て」
ペンテシレイアは、すでに踏み出していた。
川岸の下。
崩れかけた排水口の奥に、黒い魔術核が見える。
肉の膜と術式が絡み合い、周囲を異形が守っている。
ペンテシレイアが槍を振るった。
異形を二体まとめて砕く。
その勢いのまま、魔術核へ突き込む。
だが、弾かれた。
鈍い音。
槍の穂先が黒い膜に阻まれ、火花のような魔力が散る。
「硬い」
ペンテシレイアが眉を寄せる。
「なら、もう一度――」
「無駄だ」
ヒッポリュテは近づく。
核を見る。
幾重にも重ねられた術式。
ただ硬いだけではない。
力を受け流している。
殴れば逃げる。
突けばずれる。
斬ろうとすれば、周囲の水と肉へ力を逃がす。
普通の攻撃では壊せない。
ペンテシレイアも、それに気づいた。
そして、ヒッポリュテを見た。
「出すな」
声が低い。
何を、とは言わなかった。
それでも分かる。
斧だ。
神代の斧。
キャスターの巣を断ち割ったもの。
だが、あれを呼ぶには代償がいる。
今の身体は、まだその代償を払い切っていない。
「必要だ」
「出すな」
「これを断たなければ、正面が保たない」
「また消えるつもりか」
言葉が、刃のように入った。
ヒッポリュテの手が止まる。
ペンテシレイアの瞳には怒りがあった。
同時に、恐怖もあった。
あの日、手を離した瞬間から続いている恐怖。
姉がまた、どこかへ消えるのではないかという恐怖。
「消えない」
「信用できない」
「なら止めろ」
ペンテシレイアが息を止める。
ヒッポリュテは、まっすぐ妹を見た。
「今度は、お前が止めるんだろう」
その言葉に、ペンテシレイアは黙った。
少し前。
あの薄暗い隠れ家で、ペンテは怒っていた。
守るためと言って、自分だけを削る姉が嫌だと。
また消えそうになるなら、止めると。
ならば、今は一人で背負うのではない。
止める役目を渡す。
戻す役目を渡す。
ヒッポリュテは右手を伸ばした。
そこに武器はない。
だが、かつてそこにはあった。
神代の空。
重い風。
血の匂い。
砂を踏む足裏の感触。
王として振るった重み。
思い出すのではない。
引きずり出す。
現代の薄い夜へ、神代の質量を無理やり重ねる。
川の音が遠ざかった。
未遠川の黒い水面が、ふいに遠くなる。
代わりに見える。
乾いた大地。
眩しすぎる太陽。
幼い声。
小さな手。
「姉上」
声がした。
「置いていかないで」
足が止まった。
握っていたはずの手が、空白になる。
伸ばされた手。
届かなかった指先。
泣きそうな顔。
自分が置いてきた妹。
違う。
置いてきたわけではない。
弾かれた。
戻れなかった。
けれど、その違いは残された側には届かない。
胸が冷える。
視界が神代に引きずられる。
現代の夜が薄れていく。
斧の重みが、手に戻る。
同時に、身体が軋む。
腕の傷が裂ける。
血が落ちる。
「姉上!」
遠くで声がする。
だが、過去の声と混ざる。
どちらが今だ。
どちらが昔だ。
分からない。
次の瞬間、ペンテシレイアの怒号が叩きつけられた。
「今を見るな!」
鋭い声。
戦場を裂く声。
「私を見ろ!」
ヒッポリュテは息を吸った。
目の前にいた。
幼い妹ではない。
手を伸ばして泣いていた少女ではない。
怒りを纏い、槍を握り、こちらを睨みつける戦士。
ペンテシレイア。
今ここにいる妹。
置いていかれた子ではなく、並んで戦う者。
「……ああ」
ヒッポリュテは斧を握り直した。
「見ている」
「なら立て」
「立っている」
「嘘だ。少し揺れた」
「細かいな」
「姉上が雑だからだ」
ペンテシレイアの声が、現代へ引き戻してくれる。
ヒッポリュテは斧を構えた。
重い。
前よりも重い。
現代の夜が、この武器を拒んでいる。
身体も限界を訴えている。
それでも、まだ一撃ならいける。
◇
離れた建物の影で、桜は右手を押さえていた。
熱い。
痛い。
ただ熱いだけではない。
何かが遠くで軋んでいる。
ヒッポリュテの気配が揺れている。
ペンテシレイアの魔力も荒れている。
令呪の奥で、二人が遠くへ行きかけているような感覚があった。
「桜ちゃん」
雁夜が膝をつく。
「大丈夫かい」
大丈夫です、と言いかけて、桜は唇を噛んだ。
言わない。
大丈夫じゃない時に大丈夫と言うなと、言われた。
「……怖いです」
桜は言った。
「熱いです」
「そうか」
雁夜は苦しそうに顔を歪める。
それでも、否定しなかった。
「言えてる。大丈夫じゃなくても、言えてる」
桜は令呪を見る。
赤い線が、薄く光っている。
「私がお願いしたら、また誰かが痛い思いをするんですか」
雁夜は答えに詰まった。
答えられるはずがない。
けれど、逃げなかった。
「桜ちゃんが悪いわけじゃない」
「でも」
「でも、言わなきゃ伝わらない時もある」
雁夜の声はかすれていた。
「俺は……言えなかったことが、たくさんある」
桜が顔を上げる。
雁夜は笑おうとして、失敗したような顔をした。
「だから、言っていい。命令じゃなくていい。お願いでも、怖いでも、帰ってきてでも」
桜は右手を胸に寄せた。
令呪が熱い。
怖い。
でも、言わなければ届かない。
桜は目を閉じる。
そして、震える声で言った。
「二人とも」
赤い光が、指の隙間から漏れる。
「帰ってきてください」
命令ではなかった。
戦えでもない。
勝てでもない。
倒せでもない。
ただ、帰ってきて。
それだけの願いだった。
けれど、令呪は応えた。
赤い光が走る。
未遠川の夜を越え、ペンテシレイアへ届く。
そして、ヒッポリュテへも。
◇
光が届いた瞬間、斧の重みが少しだけ安定した。
ペンテシレイアの魔力も整う。
ヒッポリュテは目を見開いた。
「桜か」
ペンテシレイアが呟く。
「帰ってこい、だと」
「そうか」
ヒッポリュテは短く笑いそうになった。
けれど、すぐに表情を引き締める。
「なら、帰らないとな」
「当然だ」
ペンテシレイアが前に出る。
魔術核を守る異形が、黒い水の中から一斉に伸び上がった。
ペンテシレイアが受ける。
槍を横に払い、触手をまとめて押さえ込む。
押し切れない。
敵の数が多い。
だが、ペンテシレイアは退かない。
「行け!」
ヒッポリュテは踏み込んだ。
斧を振り上げる。
腕の傷が裂ける。
血が川辺に落ちる。
神代の空が、また視界の端に混ざる。
だが今度は、呑まれない。
今を見る。
ペンテシレイアを見る。
桜の願いを聞く。
帰る。
そのために振るう。
斧が振り下ろされた。
黒い魔術核に刃が触れる。
硬い。
術式が力を逃がそうとする。
水へ。
肉へ。
川へ。
だが、逃がさない。
斧の刃が、神代の重みを持って食い込む。
ペンテシレイアが異形を押さえ込む。
ヒッポリュテは歯を食いしばった。
「断つ」
刃が沈む。
魔術核が悲鳴のような音を立てる。
黒い線が裂ける。
川面を走っていた魔力の血管が、一瞬で途切れた。
未遠川の怪物が、大きく身を反らす。
咆哮。
水が爆ぜる。
再生が止まったわけではない。
だが、明らかに鈍った。
傷の戻りが遅い。
肉が盛り上がる速度が落ちる。
正面の戦場が変わる。
◇
ランサーが叫んだ。
「再生が落ちた!」
セイバーの目が鋭くなる。
今まで斬っても戻っていた傷が、戻りきらない。
怪物の巨体に、わずかな隙が生まれている。
「今なら――」
ライダーが豪快に笑った。
「誰かは知らんが、見事だ!」
戦車が雷を纏って怪物へ突っ込む。
ランサーが触手を弾く。
セイバーが剣を構える。
その剣に、光が集まり始める。
◇
高所から、金色のアーチャーが目を細めた。
川辺の影。
一瞬だけ立ち上がった神代の気配。
斧。
現代には重すぎる神秘。
「ほう」
退屈そうだった瞳に、わずかな興味が宿る。
「隠れて振るうには惜しい神秘だ」
彼はまだ動かない。
だが、もう忘れない。
その程度には、今の一撃は目に留まった。
◇
斧が霧のようにほどけた。
重みが消える。
同時に、ヒッポリュテの膝が落ちかける。
ペンテシレイアが支えた。
今回は怒鳴らない。
ただ、低く言う。
「帰るぞ」
「まだ終わっていない」
「終わらせるのは、あちらだ」
ペンテシレイアは正面の戦場を見た。
セイバーが剣を構えている。
怪物の再生は鈍っている。
ランサーとライダーが道を作っている。
そこに、光が集まっている。
ヒッポリュテは息を整える。
腕が痛む。
視界が揺れる。
だが、倒れるわけにはいかない。
帰ってきてください。
桜がそう言った。
なら、帰る。
ヒッポリュテは、遠くの騎士王を見る。
剣に光が集まっている。
水面を白く染め、黒い怪物の影を押し返す光。
あれは、自分の斧とは違うものだった。
自分が断ったのは、そこへ届くための道だ。
その先を進むのは、あの王でいい。
「道は開いた」
ヒッポリュテは言う。
ペンテシレイアが、支える腕に力を込めた。
「なら、帰るぞ」
「ああ」
二人は未遠川の影から離れる。
背後で、騎士王の剣に集まる光が、夜を白く染め始めていた。