神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
夜が、白く染まり始めていた。
未遠川の上で、騎士王の剣に光が集まっている。
それは炎ではなかった。
雷でもない。
もっと澄んだもの。
黒く濁った川面を押し返し、怪物の影を薄くしていくような、まっすぐな光だった。
桜は、建物の影からそれを見ていた。
怖い。
怖くないはずがない。
巨大な怪物が川から立ち上がり、街の灯りを呑み込もうとしている。触手が橋脚を叩き、川の水が黒く泡立ち、空気そのものが腐った魔力で重くなっている。
その中心に、光があった。
壊すための光。
それなのに、桜には、その光が夜を少しだけ遠ざけているように見えた。
「桜ちゃん、下がって」
雁夜が前に立つ。
桜は右手を押さえたまま、小さく首を振った。
「見ます」
声は震えていた。
でも、目を閉じなかった。
令呪の奥で、ペンテシレイアの気配が戻ってくるのを感じる。
そのそばに、もう一つ。
ヒッポリュテの気配。
揺れている。
弱っている。
でも、まだ消えていない。
だから、桜は見ていた。
帰ってきてください。
自分がそう言ったから。
言ってしまったから。
その願いの先を、見届けなければならない気がした。
◇
川面では、セイバーが剣を構えていた。
ランサーが触手を弾く。
ライダーの戦車が雷を纏い、怪物の注意を引き剥がす。
怪物の再生は、明らかに遅くなっていた。
先ほどまでなら、斬られたそばから肉が盛り上がっていた。潰された触手が、次の瞬間には水底から新しく伸びていた。
今は違う。
傷が残る。
裂け目が塞がりきらない。
濁った魔力の流れが途切れ、巨大な身体のあちこちで歪みが生まれている。
ヒッポリュテが断った道。
ペンテシレイアが抑えた異形。
桜の願いで繋ぎ止められた一瞬。
それらが、正面の戦場へ届いていた。
「今なら――!」
セイバーの声が、夜を裂く。
集まった光が、剣の輪郭を露わにしていく。
目に見えなかった刃が、今だけは確かな形を持ったように見えた。
怪物が咆哮する。
川が震える。
黒い触手が一斉に騎士王へ向かった。
ランサーが走る。
槍が赤い線を描き、触手を弾き飛ばす。
「行け、セイバー!」
ライダーの戦車が雷鳴を響かせ、怪物の巨体へ突っ込む。
黒い肉が砕ける。
水が跳ねる。
その隙間を、光が貫いた。
夜が割れた。
白い奔流が未遠川を走り、黒い水面を裂き、巨大な異形を正面から呑み込んでいく。
怪物の輪郭が崩れる。
肉の塊がほどけ、触手が焼け落ち、魔力で作られた身体が内側から光に押し潰されていく。
その中心で、キャスターは笑っていた。
ジル・ド・レェは、消えゆく怪物の奥で、光を見上げていた。
その目には、もはや未遠川も、サーヴァントたちも映っていないようだった。
「おお……」
かすれた声。
歓喜とも、懺悔ともつかない響き。
彼は何かを見ていた。
光の向こう。
自分だけの祈りの中にいる誰かを。
「ようやく……」
言葉は光に呑まれていく。
それでも、最後の一瞬、ジルの視線がわずかに川岸の影へ向いた。
ヒッポリュテがいた場所。
ペンテシレイアが支えている場所。
「奇跡よ」
声が届いたのか。
届かなかったのか。
ヒッポリュテにも分からなかった。
「あなたの祈りも、いつか罅割れる」
それは呪いだったのか。
予言だったのか。
ただの狂人の戯言だったのか。
答えは出ない。
次の瞬間、光がすべてを呑み込んだ。
◇
未遠川から、怪物の影が消えていく。
黒かった水面に、夜の色が戻り始める。
だが、完全には戻らない。
川にはまだ濁った匂いが残っている。砕けた護岸、歪んだ橋脚、魔力の残滓。消し飛ばされた怪物の痕は、確かにそこにあった。
勝利はあった。
けれど、何もかも綺麗になったわけではない。
セイバーは剣を下ろし、静かに息を吐いた。
その顔には疲労がある。
だが、それ以上に、疑問があった。
怪物の再生は、途中で急激に鈍った。
ただの消耗ではない。
誰かが裏で供給を断った。
自分たちの攻撃が届くように、見えない場所で道を作った者がいる。
「誰かが……」
セイバーは、川岸の影へ目を向ける。
「道を開いた……?」
ランサーもまた、槍を下ろしていた。
その視線は怪物の消えた場所ではなく、川沿いの暗がりへ向いている。
「姿を見せぬまま、戦場を支えた者がいるか」
それは侮りではなかった。
騎士としての敬意に近い。
正面で名を名乗る戦いもあれば、影で道を作る戦いもある。
ランサーは、それを理解していた。
ライダーは豪快に笑った。
「はっはっは! 影に隠れて働く王もいたか!」
「王? どこに!?」
ウェイバーが慌てて周囲を見る。
ライダーは答えない。
ただ、川岸の暗がりへ目を細める。
「戦場の流れを変える者は、兵ではない。少なくとも、ただの兵ではないわ」
◇
高所で、金色のサーヴァントは退屈そうにしていた。
怪物が消えたことに、深い感慨はない。
騎士王の光にも、感心はしていない。
だが、川岸に残った神代の匂いだけは、まだ鼻についた。
「あの神代の残り香」
金色の瞳が細くなる。
「やはり雑種のものではないな」
時臣は控えたまま、深く頭を下げた。
「調査を続けます」
「好きにしろ」
金色のサーヴァントは杯を揺らす。
「だが、我の前で隠れ続けられると思うなら、不敬だ」
◇
衛宮切嗣は、スコープ越しに光の消えた川を見ていた。
セイバーの一撃。
キャスターの消滅。
討伐令は達成された。
だが、切嗣が見ていたのは、それだけではない。
川岸の影で動いていた二つの気配。
正体不明の女と、バーサーカー。
彼女たちは怪物の正面には立たなかった。
名乗らなかった。
セイバーの光を奪わなかった。
ただ供給線を断ち、再生を鈍らせ、決定打が届く状況を作った。
その動きは、偶然ではない。
判断だ。
戦場を見て、役割を選び、もっとも効果のある場所を潰した。
「接触する」
切嗣は言った。
舞弥が隣でわずかに視線を動かす。
「今ですか」
「今だ」
切嗣はスコープを下ろす。
「キャスターが消えた。各陣営の意識が一度切れる。移動するなら、この直後だ」
「排除ではなく?」
「まずは確認する」
切嗣の声に温度はない。
だが、決めていた。
あの女は放置できない。
桜も同様だ。
未登録のマスター。
不安定なバーサーカー。
神代の武装を扱う、サーヴァントではない何か。
敵か。
駒か。
交渉相手か。
それを見極める必要があった。
◇
ヒッポリュテは、川岸の影から離れようとしていた。
足元が少し沈む。
斧の反動がまだ身体の奥に残っている。
腕の傷は開いていた。
布は赤く染まり、指先には感覚が薄い。
それでも立っている。
立っていなければ、帰れない。
ペンテシレイアが横から支えていた。
「歩けるか」
「歩く」
「聞いていない」
「……少し、支えろ」
ペンテシレイアは一瞬だけ黙った。
それから、ふんと鼻を鳴らす。
「最初からそう言え」
「慣れていない」
「知っている」
支える腕に力が入る。
強すぎるくらいだった。
だが、今はそれでよかった。
ヒッポリュテは、光の消えた未遠川を一度だけ振り返った。
怪物はいない。
キャスターの気配も消えている。
それでも、耳の奥にはまだ声が残っていた。
あなたの祈りも、いつか罅割れる。
ヒッポリュテは目を伏せる。
罅割れるかもしれない。
守りたいものは増える。
守れないものも出る。
選ぶたびに、誰かを傷つけるかもしれない。
だが。
今は、帰る。
桜が待っている。
ペンテシレイアが隣にいる。
なら、まず帰る。
「行くぞ」
「ああ」
二人は川辺を離れた。
◇
桜は、建物の影で待っていた。
光は消えた。
怪物も消えた。
それなのに、胸の鼓動はまだ速い。
令呪の熱は少しずつ引いている。
ペンテシレイアの気配が近づいてくる。
ヒッポリュテの気配も。
弱い。
でも、近づいてくる。
桜は両手を握った。
雁夜が横に立っている。
「桜ちゃん、無理しなくていい」
「……はい」
返事をしながら、桜は前を見ていた。
暗がりの奥から、二つの影が戻ってくる。
ペンテシレイアがヒッポリュテを支えている。
ヒッポリュテの腕には血が滲んでいた。
顔色も悪い。
それでも、歩いている。
戻ってきた。
桜は小さく息を吸った。
何を言えばいいのか、分からなかった。
大丈夫ですか。
怪我は。
怖かったです。
たくさん言葉は浮かんだ。
でも、最初に出たのは違う言葉だった。
「おかえりなさい」
ヒッポリュテの足が止まった。
ペンテシレイアも、わずかに動きを止める。
雁夜も、桜を見た。
その言葉は、ただの挨拶だった。
けれど、この場では違った。
帰ってきてください。
桜はそう願った。
そして二人は帰ってきた。
だから、桜は言った。
おかえりなさい、と。
ヒッポリュテは、しばらく答えなかった。
その目に、ほんの一瞬だけ遠いものが揺れた。
帰る。
その言葉が、どこか遠い時代の奥から戻ってきたような顔だった。
やがて、ヒッポリュテは小さく息を吐いた。
「……ただいま」
桜の目が揺れる。
涙は落ちなかった。
でも、今にも溢れそうだった。
ペンテシレイアは顔を逸らした。
その横顔は不機嫌そうだったが、怒ってはいなかった。
「次に消えそうになったら、殴ってでも止める」
ペンテシレイアが言う。
ヒッポリュテは少しだけ口元を緩めた。
「頼む」
「頼むな。怒りづらい」
「では、怒れ」
「もう怒っている」
「そうか」
「そうだ」
短いやり取りだった。
だが、桜はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
雁夜は複雑な顔をしていた。
桜がヒッポリュテたちに向けた「おかえり」という言葉。
それは雁夜にとって、少し痛かった。
自分が守りたかった。
自分が帰る場所を作りたかった。
それでも、桜が誰かを待ち、帰ってきたことを喜べるなら。
その事実だけは、否定できなかった。
雁夜は視線を落とす。
「……とにかく、ここを離れよう」
声は苦かった。
だが、敵意だけではなかった。
ヒッポリュテは頷いた。
「ああ」
その瞬間。
空気が変わった。
キャスターの濁った魔力ではない。
もっと乾いた気配。
視線。
意図的に整えられた包囲。
ヒッポリュテは桜の前に半歩出た。
ペンテシレイアが即座に槍を構える。
雁夜も桜を庇う。
建物の影から、一人の女が現れた。
黒い服。
無駄のない動き。
手には銃。
魔術師というより、兵士に近い気配だった。
「動かないでください」
冷たい声。
ペンテシレイアの魔力が跳ねる。
「殺すか」
「待て」
ヒッポリュテが止める。
女の銃口は真っ直ぐこちらへ向いている。
だが、撃つためだけの距離ではない。
時間を稼ぐ距離。
誰かの視線が、さらに遠くからこちらを見ている。
ヒッポリュテは理解した。
来たか。
このタイミングで。
女は表情を変えずに言う。
「話があるそうです」
桜が息を呑む。
雁夜が顔を歪める。
ペンテシレイアは今にも踏み込みそうだった。
その時、女が持つ通信機から、男の声が聞こえた。
低く、平坦で、感情を削った声。
『君たちは、何者だ』
ヒッポリュテは、その声の主を知っている。
だが、名は口にしなかった。
今、それを口に出せば、余計なものまで引き寄せる。
だから彼女は、ただ桜を背に庇い、血の滲む腕を下ろしたまま、静かに前を見た。
キャスターは消えた。
だが、夜はまだ終わっていなかった。